・97年(漢暦永元9) 70歳となった漢の王充は、本を書くことにした。(『後漢書』王充伝)
・〔参考〕『論衡』「儒増篇」には、周が成立していた時代に、倭人が𣈱草を貢いだという記述がある。
・〔参考〕『論衡』「恢国篇」には、周の成王,姫誦の時代、倭人は鬯草を貢したとある。
※実際に日本列島の人々が周を訪れたかは不明である。ただ、『論衡』が書かれた時代には楽浪郡を通して倭人の情報は伝わっていたとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。
※鬯草は香草のことである。鬯草の産地は粤地であり、倭人は南方の種族であるような筆致である(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
・100年(漢暦永元12) 漢の許慎は『説文解字』を著した。(『説文解字』叙)
※篆書から漢字の成り立ちを述べるのものであるが、戦国時代の東方で使用された儒学経典の字体の「古文」と、戦国時代の西方で使用された字体の「籀文」も掲載している。籀文は伝説では周の太史籀という人物が作った字体とされる(落合淳思『漢字の成り立ち』)。
※当時は甲骨文字や金文に関する知識のほとんどが失われていたため、古い時代に原型のある文字については誤った説明も多い(落合淳思『漢字の字形』)。
・?年〔参考〕『日本書紀』によれば、倭国の日向国にいた五瀬命・稲飯命・三毛入野命・彦火火出見尊兄弟は、饒速日命という神が降り立ったという地が、都を置いて国を治める場所に相応しいという塩土老翁神からの言葉を聞いて、水軍を率いて東を目指して出発したという。
※兄弟らの先祖は、太陽の真下にある場所が稲作に適していると考えて九州に渡ったとも考えられる。しかし、火山灰台地は保水性が低く農耕に適していなかったため、日の出の方角に進んだとも考えられる(岡田登「神武天皇とその御世」『神武天皇論』)。
※早くから稲作を受容した北九州の勢力は、稲作に必須の日を祖先神として仰ぐようになったため、兄弟らの祖先とされる天照大御神は日神であるとも考えられる(田中卓「日本の建国史」『日本建国史と邪馬台国』)。
※『日本書紀』には、兄弟らの祖先神,天照大御神の子息,天穂日命が高天原より降り立ったが、地上の大国主神に懐いて高天原には報告もしなかったとある。また、次に高天原より派遣された天稚彦も大国主命に懐いて高天原に復命しなかったとある。これらの神話伝承は、兄弟らが東を目指して旅立つ以前に、九州より畿内に進出した勢力が、畿内にいた勢力と同化して連合政権を形成していたことを示すとも考えられる。また、兄弟らの高祖父,天押穂耳命は事情があって高天原より地上には降り立たず、その子息の瓊瓊杵尊つまりは兄弟らの曽祖父が降臨したとあり、何度も九州から畿内への移動が行われていたこともを示すとも考えられる(田中卓「私の古代史像」)。
・?年 〔参考〕『日本書紀』によれば、五瀬命・稲飯命・三毛入野命・彦火火出見尊兄弟ら一行は、河内国において饒速日命の妻の兄,長髄彦と交戦したという。
※紀伊国の日前国懸神宮の神鏡を奉載していたという天道根彦は饒速日命の従者と伝わることや、丹波国の出雲神社の祭神,三穂津姫や『丹後国風土記』の記述から、紀伊国から丹波国までは饒速日命の勢力圏であったとも考えられる(田中卓「日本国家の成立」『日本国家の成立と諸氏族』)。
※長髄彦は河内にまで軍を進めていたのは、河内国に勢力を拡大していた饒速日命と婚姻関係に由来するからとも考えられる(岡田登「神武天皇とその御世」『神武天皇論』)。
※『古事記』には白肩津において長髄彦と交戦したとあり、場所は奈良盆地外山であるとも考えられる(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。
※兄弟ら一行の戦闘を示すものは、高地性集落であるとも考えられる(岡田登「神武天皇とその御世」『神武天皇論』)。
・?年 〔参考〕『日本書紀』によれば、饒速日命は長髄彦を殺害し、彦火火出見尊に服属したという。
※『日本書紀』には、彦火火出見尊が天香山の土を用いて祭祀を行ったとあり、畿内にとって重視された山の土を盗まれたことで、饒速日命は服属を決めたとも考えられる(岡田登「神武天皇とその御世」『神武天皇論』)。
・?年 〔参考〕『日本書紀』によれば、彦火火出見尊は橿原に都を置いて即位し、初代天皇になったという(神武天皇)。
・1世紀~2世紀の間 とある「 Prajñāpāramitā sūtra(般若経)」が Gandhāra語で書かれた。
※ PākistānとAfghanistanの国境付近で発見された現存最古の大乗仏典となる。Gandhāra語で書かれていたということは、大乗仏典が最初はSaṃskṛt語で書かれていたという観念に疑義を呈させるものである(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
・105年(漢暦元興1) 蔡倫は蔡候紙を製造した。(『後漢書』宦官列伝)
※前漢代にも紙は製造されているが、文章は書かれたものは発見されていない(冨谷至『概説 中国史』総論)。
※漢代に紙が用いられるようになると、筆と墨によって漢字が書かれるようになった(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。
※紙に文字が書かれるようになると、文字には筆勢が重視されるようになった(落合淳思『漢字の成り立ち』)。
・107年(漢暦永初1) 倭国王,帥升らが、後漢に使者を派遣した。生口160人を献上し謁見を願った(『後漢書』安帝紀,東夷伝 倭伝)
〔参考〕『翰苑』や『日本書紀纂疏』の引用する『後漢書』には「倭面上国王師升」とある。
〔参考〕『釈日本紀』は『後漢書』を引用して、使者を派遣した国を「倭面国」とする。
〔参考〕北宋版『通典』には「倭面土国王師升」とある。
〔参考〕『唐類函』には「倭国土地王師升」とある。
※『後漢書』を引用する文献から、『後漢書』には帥升のことを「倭面土王」や「倭国土地王」と表記する写本があったようである。しかし、それらの文献は正確に引用しているか疑問が呈されることや、「倭面土」は「ヤマト(=倭)」の音写とも考えられる(西嶋定生『倭国の出現』)。
※「倭囬土」(囬は回の俗字)という表記が正しく、「倭奴国」を「倭の奴国」と読む場合、帥升は陳寿『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」に記載のある伊都国の王だったことになる(鈴木靖民「倭国のありさまと王権の成り立ち」『纒向発見と邪馬台国の全貌』)。
※「倭面土国王」や「倭国上国王」といった表記は、「倭国王」を「倭国王国王」と重複して誤記し、さらに「王」を「上」や「土」などと誤った可能性も指摘される(若井敏明『謎の九州王権』)。
※『後漢書』には、「倭国主帥升等」と表記する写本もある。そのため、「帥升」という王がいたのではなく、「主帥」という官名を持つ倭国からの使者が、漢を訪れたという説もある(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
※『漢書』『三国志』『後漢書』には、「師」を姓とする人物か見られる。そのため「帥」は「師」の誤写の可能性がある。「升」という名も「中国」名として不自然ではない。当時は「中国」の姓制度を受容した国はなく、新しい姓が創始されることもなかった。そのため帥升には朝鮮半島に移住した渡来人、もしくは漢人を模倣して姓を名乗った朝鮮半島の人の子孫の可能性が指摘される。帥升が古くから日本列島に住んでいた者の子孫であるならば、当時の倭国内において、漢人のような姓を名乗ることに政治的な意味があったとも考えられる(吉田孝『日本の誕生』)。
※帥升とは、漢語に翻訳された名前であり、帥升が漢人であったわけではないという見解もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。
※伊都(イト)国の王であった帥升が盟主となり、連合国家としての「倭国」を形成していたとも考えられる(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※『筑前国風土記』には、筑紫国の伊覩県主の祖,五十迹手は、天から「高麗の国の意呂山」に降りた日桙(ヒボコ)の末裔とある。この記述から、伊都国王(伊都県主)は朝鮮半島から渡来した者の子孫とも推測される(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。
※伊都国は福岡平野の三雲・井原を中心としており、連合の盟主になっていたと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。
※祭具である広形銅矛と銅戈の鋳型は奴国の領域から出土する。そのため、倭国の盟主が伊都国王であっても伊都国と奴国はほとんど対等であったと推測される。政治・外交を通して台頭した伊都国と、青銅器・鉄器の生産および交易を通して台頭した奴国が結託し、「倭国」を形成したとも考えられる。漢委奴国王印は、2つの部族国家が連合して新たな国家を誕生させた証として、奴国王の墓ではなく志賀島に埋納されたという仮説もある(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※米三雲・井原遺跡からは硯片が発見されており、楽浪郡と文書外交を行っていたことが窺える(石野博信「倭人は文字を使っていた」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。
〔参考〕『後漢書』「鮮卑条」には、「生口・牛羊・財物」とある。
※遺跡などから当時の日本列島には階級社会が形成されていたことが窺われ、「生口」とは、牛馬や財産などと同じ扱いを受ける奴隷的身分であったと考えられる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
※帥升としては、多くの生口を献上することで、多くの共同体を服属させていることを示そうとしたのだと考えられる。またそれは、戦争に勝利し、捕虜を獲得できるような、軍事的資質が倭国王に必要とされたのだと推測できる(遠山美都男『新版 大化改新』)。
※生口が朝貢の品として用いられたのは、珍しい特産品がなかったため、奴隷の価値が相対的に高かったからだと推測される(吉田孝『日本の誕生』)。
※北部九州の倭国連合は、漢を中心とした政治秩序に参入することと引き換えに、鉄資源のほか鏡や剣などの威信を示す物を下賜され、それを倭国内の「国」に与えることで、国内を支配していたと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。
※『後漢書』の原文に「帥升等」とあることや、漢に送った生口の数が後の倭国の朝貢と比較して多いことから、それらの生口は倭の諸国から集められて送られたと思われる。また、このことから帥升は倭にある複数の国の君主として上に立っていたとも推測される(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。
※「中国」との外交を通して、国々が集まって、漢の人々から「倭」として認識されるような政治組織・社会が形成されたと考えられる。(鈴木靖民「倭国のありさまと王権の成り立ち」『纒向発見と邪馬台国の全貌』)。
※倭国が使者を派遣したのは安帝,劉祜の即位した年であり、先年と前々年には和帝,劉肇と殤帝,劉隆が崩御していた。そのため両帝の葬儀と新帝の即位に参列する使者であったと考えられる(水野正好「卑弥呼・台与女王から崇神天皇の時代へ」『邪馬台国』)。
※『山海経』における「倭」は、東北平原、朝鮮半島南部、日本列島北部九州、淮河・長江下流域のことを指していた。ただ、『後漢書』の用例からして、2世紀以降の「倭」は日本列島を中心とした領域だと認識されたようである(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※建武中元2年と永初元年という、2度に渡って朝貢した記述が残されていることから、「東夷」の中でも倭は特別な存在だったと理解されていたことが伺える(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。
※帥升は複数の部族国家から推戴された倭国の君主とみられ、経験を積んだ老練な人物であったと考えられる。そのため漢に朝貢した後に長く生きたとは思われず、 薨去後は2世紀第1四半期に作られたと考えられる井原鑓溝遺跡の甕棺に埋葬されたとも推測される(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※北部九州の首長墓の副葬品は、南部朝鮮由来の青銅武器から、漢から下賜された鏡や硝子璧などが中心になっていった。楽浪郡との交流が契機になったと考えられる。ただ、その後も青銅武器は副葬され続けていることから、政治的権威の源流を「中国」に求めながら、政治権力の源流を南部朝鮮に求めるという二重の構造を有していたと考えられる(広瀬和雄『前方後円墳国家』)。