個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

90~119年

・97年(漢暦永元9) 70歳となった漢の王充は、本を書くことにした。(『後漢書』王充伝)

・〔参考〕『論衡』「儒増篇」には、周が成立していた時代に、倭人が𣈱草を貢いだという記述がある。

・〔参考〕『論衡』「恢国篇」には、周の成王,姫誦の時代、倭人は鬯草を貢したとある。

※実際に日本列島の人々が周を訪れたかは不明である。ただ、『論衡』が書かれた時代には楽浪郡を通して倭人の情報は伝わっていたとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

※鬯草は香草のことである。鬯草の産地は粤地であり、倭人は南方の種族であるような筆致である(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

・100年(漢暦永元12) 漢の許慎は『説文解字』を著した。(『説文解字』叙)

※篆書から漢字の成り立ちを述べるのものであるが、戦国時代の東方で使用された儒学経典の字体の「古文」と、戦国時代の西方で使用された字体の「籀文」も掲載している。籀文は伝説では周の太史籀という人物が作った字体とされる(落合淳思『漢字の成り立ち』)。

※当時は甲骨文字や金文に関する知識のほとんどが失われていたため、古い時代に原型のある文字については誤った説明も多い(落合淳思『漢字の字形』)。

・?年〔参考〕『日本書紀』によれば、倭国日向国にいた五瀬命稲飯命三毛入野命彦火火出見尊兄弟は、饒速日命という神が降り立ったという地が、都を置いて国を治める場所に相応しいという塩土老翁神からの言葉を聞いて、水軍を率いて東を目指して出発したという。

※兄弟らの先祖は、太陽の真下にある場所が稲作に適していると考えて九州に渡ったとも考えられる。しかし、火山灰台地は保水性が低く農耕に適していなかったため、日の出の方角に進んだとも考えられる(岡田登「神武天皇とその御世」『神武天皇論』)。

※早くから稲作を受容した北九州の勢力は、稲作に必須の日を祖先神として仰ぐようになったため、兄弟らの祖先とされる天照大御神は日神であるとも考えられる(田中卓「日本の建国史」『日本建国史邪馬台国』)。

※『日本書紀』には、兄弟らの祖先神,天照大御神の子息,天穂日命高天原より降り立ったが、地上の大国主神に懐いて高天原には報告もしなかったとある。また、次に高天原より派遣された天稚彦大国主命に懐いて高天原に復命しなかったとある。これらの神話伝承は、兄弟らが東を目指して旅立つ以前に、九州より畿内に進出した勢力が、畿内にいた勢力と同化して連合政権を形成していたことを示すとも考えられる。また、兄弟らの高祖父,天押穂耳命は事情があって高天原より地上には降り立たず、その子息の瓊瓊杵尊つまりは兄弟らの曽祖父が降臨したとあり、何度も九州から畿内への移動が行われていたこともを示すとも考えられる(田中卓「私の古代史像」)。

・?年 〔参考〕『日本書紀』によれば、五瀬命稲飯命三毛入野命彦火火出見尊兄弟ら一行は、河内国において饒速日命の妻の兄,長髄彦と交戦したという。

紀伊国の日前国懸神宮の神鏡を奉載していたという天道根彦は饒速日命の従者と伝わることや、丹波国の出雲神社の祭神,三穂津姫や『丹後国風土記』の記述から、紀伊国から丹波国までは饒速日命の勢力圏であったとも考えられる(田中卓「日本国家の成立」『日本国家の成立と諸氏族』)。

長髄彦は河内にまで軍を進めていたのは、河内国に勢力を拡大していた饒速日命と婚姻関係に由来するからとも考えられる(岡田登「神武天皇とその御世」『神武天皇論』)。

※『古事記』には白肩津において長髄彦と交戦したとあり、場所は奈良盆地外山であるとも考えられる(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

※兄弟ら一行の戦闘を示すものは、高地性集落であるとも考えられる(岡田登「神武天皇とその御世」『神武天皇論』)。

・?年 〔参考〕『日本書紀』によれば、饒速日命長髄彦を殺害し、彦火火出見尊に服属したという。

※『日本書紀』には、彦火火出見尊が天香山の土を用いて祭祀を行ったとあり、畿内にとって重視された山の土を盗まれたことで、饒速日命は服属を決めたとも考えられる(岡田登「神武天皇とその御世」『神武天皇論』)。

・?年 〔参考〕『日本書紀』によれば、彦火火出見尊は橿原に都を置いて即位し、初代天皇になったという(神武天皇)。

・1世紀~2世紀の間 とある「 Prajñāpāramitā sūtra(般若経)」が Gandhāra語で書かれた。

※ PākistānとAfghanistanの国境付近で発見された現存最古の大乗仏典となる。Gandhāra語で書かれていたということは、大乗仏典が最初はSaṃskṛt語で書かれていたという観念に疑義を呈させるものである(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。

・105年(漢暦元興1) 蔡倫は蔡候紙を製造した。(『後漢書』宦官列伝)

前漢代にも紙は製造されているが、文章は書かれたものは発見されていない(冨谷至『概説 中国史』総論)。

※漢代に紙が用いられるようになると、筆と墨によって漢字が書かれるようになった(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

※紙に文字が書かれるようになると、文字には筆勢が重視されるようになった(落合淳思『漢字の成り立ち』)。

・107年(漢暦永初1) 倭国王,帥升らが、後漢に使者を派遣した。生口160人を献上し謁見を願った(『後漢書』安帝紀,東夷伝 倭伝)

〔参考〕『翰苑』や『日本書紀纂疏』の引用する『後漢書』には「倭面上国王師升」とある。

〔参考〕『釈日本紀』は『後漢書』を引用して、使者を派遣した国を「倭面国」とする。

〔参考〕北宋版『通典』には「倭面土国王師升」とある。

〔参考〕『唐類函』には「倭国土地王師升」とある。

※『後漢書』を引用する文献から、『後漢書』には帥升のことを「倭面土王」や「倭国土地王」と表記する写本があったようである。しかし、それらの文献は正確に引用しているか疑問が呈されることや、「倭面土」は「ヤマト(=倭)」の音写とも考えられる(西嶋定生倭国の出現』)。

※「倭囬土」(囬は回の俗字)という表記が正しく、「倭奴国」を「倭の奴国」と読む場合、帥升陳寿『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」に記載のある伊都国の王だったことになる(鈴木靖民「倭国ありさまと王権の成り立ち」『纒向発見と邪馬台国の全貌』)。

※「倭面土国王」や「倭国上国王」といった表記は、「倭国王」を「倭国王国王」と重複して誤記し、さらに「王」を「上」や「土」などと誤った可能性も指摘される(若井敏明『謎の九州王権』)。

※『後漢書』には、「倭国帥升等」と表記する写本もある。そのため、「帥升」という王がいたのではなく、「主帥」という官名を持つ倭国からの使者が、漢を訪れたという説もある(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

※『漢書』『三国志』『後漢書』には、「師」を姓とする人物か見られる。そのため「帥」は「師」の誤写の可能性がある。「升」という名も「中国」名として不自然ではない。当時は「中国」の姓制度を受容した国はなく、新しい姓が創始されることもなかった。そのため帥升には朝鮮半島に移住した渡来人、もしくは漢人を模倣して姓を名乗った朝鮮半島の人の子孫の可能性が指摘される。帥升が古くから日本列島に住んでいた者の子孫であるならば、当時の倭国内において、漢人のような姓を名乗ることに政治的な意味があったとも考えられる(吉田孝『日本の誕生』)。

帥升とは、漢語に翻訳された名前であり、帥升漢人であったわけではないという見解もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※伊都(イト)国の王であった帥升が盟主となり、連合国家としての「倭国」を形成していたとも考えられる(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※『筑前国風土記』には、筑紫国の伊覩県主の祖,五十迹手は、天から「高麗の国の意呂山」に降りた日桙(ヒボコ)の末裔とある。この記述から、伊都国王(伊都県主)は朝鮮半島から渡来した者の子孫とも推測される(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。

※伊都国は福岡平野の三雲・井原を中心としており、連合の盟主になっていたと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※祭具である広形銅矛と銅戈の鋳型は奴国の領域から出土する。そのため、倭国の盟主が伊都国王であっても伊都国と奴国はほとんど対等であったと推測される。政治・外交を通して台頭した伊都国と、青銅器・鉄器の生産および交易を通して台頭した奴国が結託し、「倭国」を形成したとも考えられる。漢委奴国王印は、2つの部族国家が連合して新たな国家を誕生させた証として、奴国王の墓ではなく志賀島に埋納されたという仮説もある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※米三雲・井原遺跡からは硯片が発見されており、楽浪郡と文書外交を行っていたことが窺える(石野博信「倭人は文字を使っていた」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

〔参考〕『後漢書』「鮮卑条」には、「生口・牛羊・財物」とある。

〔参考〕陳寿魏志』「濊条」には、「生口・牛馬」とある。

※遺跡などから当時の日本列島には階級社会が形成されていたことが窺われ、「生口」とは、牛馬や財産などと同じ扱いを受ける奴隷的身分であったと考えられる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

帥升としては、多くの生口を献上することで、多くの共同体を服属させていることを示そうとしたのだと考えられる。またそれは、戦争に勝利し、捕虜を獲得できるような、軍事的資質が倭国王に必要とされたのだと推測できる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※生口が朝貢の品として用いられたのは、珍しい特産品がなかったため、奴隷の価値が相対的に高かったからだと推測される(吉田孝『日本の誕生』)。

※北部九州の倭国連合は、漢を中心とした政治秩序に参入することと引き換えに、鉄資源のほか鏡や剣などの威信を示す物を下賜され、それを倭国内の「国」に与えることで、国内を支配していたと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※『後漢書』の原文に「帥升等」とあることや、漢に送った生口の数が後の倭国朝貢と比較して多いことから、それらの生口は倭の諸国から集められて送られたと思われる。また、このことから帥升は倭にある複数の国の君主として上に立っていたとも推測される(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※「中国」との外交を通して、国々が集まって、漢の人々から「倭」として認識されるような政治組織・社会が形成されたと考えられる。(鈴木靖民「倭国ありさまと王権の成り立ち」『纒向発見と邪馬台国の全貌』)。

倭国が使者を派遣したのは安帝,劉祜の即位した年であり、先年と前々年には和帝,劉肇と殤帝,劉隆が崩御していた。そのため両帝の葬儀と新帝の即位に参列する使者であったと考えられる(水野正好「卑弥呼・台与女王から崇神天皇の時代へ」『邪馬台国』)。

※『山海経』における「倭」は、東北平原、朝鮮半島南部、日本列島北部九州、淮河・長江下流域のことを指していた。ただ、『後漢書』の用例からして、2世紀以降の「倭」は日本列島を中心とした領域だと認識されたようである(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

建武中元2年と永初元年という、2度に渡って朝貢した記述が残されていることから、「東夷」の中でも倭は特別な存在だったと理解されていたことが伺える(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

帥升は複数の部族国家から推戴された倭国の君主とみられ、経験を積んだ老練な人物であったと考えられる。そのため漢に朝貢した後に長く生きたとは思われず、 薨去後は2世紀第1四半期に作られたと考えられる井原鑓溝遺跡の甕棺に埋葬されたとも推測される(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※北部九州の首長墓の副葬品は、南部朝鮮由来の青銅武器から、漢から下賜された鏡や硝子璧などが中心になっていった。楽浪郡との交流が契機になったと考えられる。ただ、その後も青銅武器は副葬され続けていることから、政治的権威の源流を「中国」に求めながら、政治権力の源流を南部朝鮮に求めるという二重の構造を有していたと考えられる(広瀬和雄『前方後円墳国家』)。

30~59

・40年(漢暦建武16) 3. 南越の諸領主は、徴税権を漢から南越の領主に戻すことを望んだ。(『後漢書』馬援列伝,南蛮西南夷列伝,『越史略』)

・40年(漢暦建武16) 3. 南越の徴側は女王を称し、徴税を行った。漢は軍を派遣し、徴側を滅ぼした。(『後漢書』南蛮西南夷列伝)

※漢は高句麗倭国などの首長に王の地位を与えて、直接支配していない地域との繋がりを保とうとはしたものの、直接の支配地域が独立することは容認しなかったといえる(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・44年 韓の廉斯の首長,蘇馬諟は楽浪郡朝貢を行い、漢より「漢の廉斯の邑君」という称号を授けられた。(『後漢書』韓伝)

・57年(漢暦建武中元2) 春 倭の奴国(もしくは倭奴国)が後漢に朝賀使を送った。倭人の使者は自らを大夫と名乗った。奴国は漢光武帝,劉秀より印綬を賜った。(『後漢書光武帝紀,東夷伝 倭)

〔要参考〕『後漢紀』-光武帝紀は正月と記す。

※日本列島内での水田耕作の発展によって農耕共同体は拡大したことで、集団内外の利害関係が生じ、それらの調停を行ったのが、奴国の王である大首長と首長集団であったと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※韓の廉斯の朝貢を起点として、倭の首長は朝貢したとも考えられる(鈴木靖民「倭国ありさまと王権の成り立ち」『纒向発見と邪馬台国の全貌』)。

朝貢関係の構築は、「中華」の支配下に入ってその支配を承認されることである。このような関係を築くことで、競合する他国に対して国力を誇示することが可能であった(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※劉秀は漢帝国の継続を喧伝する立場であり、「漢」の字を刻んだ金印を与えることは、その正当性を喧伝するうえで意味があった。「漢の国」と表記された印は、匈奴や倭などに限って贈られた金印は、最上位の官位と爵位の格に相当する者に贈られた(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

※印は皇帝の中央集権の支配秩序の下で、官人や官署が職務を遂行するために必要なものであり、役人は職位相当の印を与えられた。皇帝から授かった印は、封緘の役割を持っていた。封検という木の札の窪みに粘土を敷き詰め、その上から刻印の形で印を押すのである。ただ、当時の倭が、上表文を漢字で書くほどの識字環境が整っていたとは思えず、印文の意味や、正確な用途を理解出来なかったとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

後漢としては、新が滅亡した後の国家再編のために、他国を繋ぎとめる方策として「国王」の地位をばらまいたとも考えられる(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※どの地域から来たか尋ねられた使者が「私は」という意味で「ワ(倭)」と答えたとすれば、日本語の祖先は既に存在していたかもしれない(沖森卓也『日本語全史』)。

〔要参考〕天明7年(1784)3月16日付の口上書によれば、志賀島の百姓,甚兵衛が「漢委奴国王」と刻まれた金印を発見したのだという。

※「漢委奴国王印」は109g、金95%と銀4.5%、その他銅が含まれている。(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

※それこそが奴国王に贈られた金印だと考えられる。偽造説も唱えられたが、「廣陵王璽」と刻まれた金印や「滇王之印」と刻まれた金印などの兄弟印が発見されたことや、金属組成の分析、後漢時代当時の篆刻技術の研究により、偽造説は否定的な見解が強い(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※異民族に与えた印でありながら、蛇を象ったものであることも贋物説の根拠とされたが、「滇王之印」も蛇を象っていることから実際に後漢から与えられたものだと考えられている(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※上奏文や朝貢品の封泥に用いられたとも考えられるが、文字の内容の理解や、上表文を書くほどの識字環境が整っているとは考えられないとの疑問が呈されている。そのため、金印は後漢支配下に組み込まれることを認めるものであり、威信の象徴であるとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※三宅米吉は、「漢委奴国王」の読み方を「かんのわのなのこくおう」という読み方の推測を発表した(『史学雑誌』1892年)。

※「かんのわのなのこくおう」という読み方については、「漢に服属する、倭に属する奴国の王」という回りくどい読みであることや、当時「奴」という国が存在していたのか、また、「国王」という称号があるのかという疑問が呈されている(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※「倭奴国王」の「倭奴」は、『北史』や『旧唐書』および『新唐書』にも見られる表記である。また、『後漢書』では「倭奴国」と「倭国」の両方が使われており、表記揺れと見られる。これらのことから、「倭奴」の「奴」とは「匈奴」のように卑下の接尾辞とも考えられる。また、当時の「中国」の皇帝が民族の首長に与えた称号は「国王」ではなく「王」であることから、「漢委奴国王」は「漢の倭奴国(の)王」と読むのが適切だという説もある(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

陳寿の『魏志』「東夷伝 倭人条」には「奴国」という国名が見えることから、「倭奴国」、つまり倭国全体の王ではなく倭の中の1つの国「奴国」の王が正しいという見解もある(若井敏明『謎の九州王権』)。

※極東の島国を漢が認知したとしても、「奴国」が倭国を構成する1つの国家であるであると、理解できたかは疑わしいとも考えられている(遠山美都男『新版 大化改新』)。

・59年 5.?〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅は倭と通好したという。

紀元後1~29年

・8年 漢の皇太子,劉嬰からの禅譲を受け、王莽は皇帝となり、国号を新とした。その後、「東夷」の王から朝貢があった。(『漢書』王莽列伝)

※新に朝貢を行ったのは、伊都国か奴国の王と推測される(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※新において発行された貨幣,貨泉は日本列島から出土していることから、倭人は「中国」との交渉を続けていたようである(若井敏明『謎の九州王権』)。

・13年 匈奴の烏珠留若鞮単于,攣鞮嚢知牙斯は崩御した。

※Noyon Uulという地は「殿の山」という意味を持っており、そこの古墳群には神聖な人物が埋葬されていると考えられていた。そのため、嚢知牙斯を埋葬したと推測される。古墳群からは漢の紀年「建平二年」が書かれた杯やGrüpsを描いたfeltなどが発見されており、彼は漢とPersiaの文物を愛好していたと考えられる(楊海英『逆転の大中国史』)。

・28年 〔参考〕Romaの,Tiberiusの治世15年目(『ルカによる福音書』1.3)、洗礼者ヨハネは荒野にいて、悔い改めの洗礼(バプテスマ)の教えを伝えていた。彼はラクダの毛を着て、皮の帯をしめてイナゴと野蜜を食べていた。(『マルコによる福音書』1.4~6)

※洗礼者ヨハネは、穢れを罪として清める「ユダヤ教沐浴運動」の流れを組む者だと思われる。ただ、ヨハネの洗礼は、1度受ければ罪の赦しを与えるものであった。彼は、本来の禁欲的なユダヤ教の伝統に従って、世俗化したユダヤ教を批判していたのだと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)

※洗礼者ヨハネの身なりの叙述は『列王記』1章8節のエリヤを意識しており、実際そうであったかはわからない(大貫隆『マルコによる福音書』)。

・28年 30歳頃のナザレのイェシュアは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた。(『ルカによる福音書』3.21~23)

ヨハネによる、洗礼により全ての罪が許されるという教えに、イェシュアは家族を捨ててまで馳せ参じ、ヨハネの力になりたかったのだと思われる(佐藤研『最後のイエス』)。

〔参考〕洗礼者ヨハネは、「私の後から私より力ある方がお出でになる。私は、その方の履物の紐をかがんで解くほどの資格もない。わたしはあなた方に聖霊で洗礼をほどこすであろう(田川建三訳)」と、イェシュアについて言及したという。(『マルコによる福音書』1.7~8)

※本来、ヨハネが語った「私より力ある方」とは、神のことであり、洗礼をうけて罪のゆるしをもらわなければ、その怒りを買うと述べていたと考えられる。しかし原始キリスト教会は、イェシュアのことだと解釈した(大貫隆『マルコによる福音書』)。

※イェシュアを救世主と信じる原始キリスト教会は、イェシュアが罪の赦しを得るために洗礼を受けたことに困惑した。そこで、「私は、その方の履物の紐をかがんで解くほどの資格もない」とヨハネに卑下させることで、困惑を解消しようと考えたのだと思われる。つまり、イェシュアは本来、ヨハネの弟子だったと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

※洗礼において水に浸されることを、君主が即位式において油を注がれることに繋げて、イェシュアの弟子として洗礼を受けた事実を、君主として即位するための儀式として改変したとも考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年前後〔参考〕ナザレのイェシュアは40日間荒野にいて、その間に、サタンにより試されたのだという。(『マルコによる福音書』1.13)

※この節は、イェシュアが洗礼者ヨハネのもとに弟子として留まらなかったことを示唆しているとも考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年 洗礼者ヨハネが捕らえられると、ナザレのイェシュアはガラリヤに赴き、「神の福音」を伝えた。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音において信ぜよ(田川建三訳)」(『マルコによる福音書』1.14~15)  

神の国が近づいたというのは、洗礼者ヨハネを処刑した、ヘロデ アンティパスのような悪人による支配の終焉を意味するとも考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年以降? ガラリヤの海(湖)にて、漁師シモン、アンドレアスの兄弟と出会い、弟子とした。(『マルコによる福音書』1.16~18)

※洗礼者ヨハネが荒野に人を呼んだのに対して、イェシュアは自ら人々のもとに赴いた。しかし形態を変えたとしてもヨハネと同様に、当時のユダヤ教の救済から溢れた人々に向けた活動を行ったといえる(佐藤研『最後のイエス』)。

※当時のガラリヤはヘロデ アンティパスとその上にローマがいるという、二重の支配体制の下にあった。また、ユダヤ人の地方はそもそも蔑視されていることに加え、イェルサレムの神殿体制下においてもユダヤ社会からも蔑まれていた。イェシュアがガラリヤで活動を行ったのは、故郷である以上にイスラエルの地で最も負担を蒙り絶望する民衆に、神の国が完成しつつあることを伝え、鼓舞しようとしたのだと考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年以降?ナザレのイェシュアはイェルサレムの神殿に赴き、「私の父の家」を「商売の家」にしてはならないと言い、そこで商売する人々を追い出した。(『ルカによる福音書』19.45~48)

※イェシュアの念頭には『ゼカリヤ書』14章21節があったと思われる。また、祭儀により商人に不当な利益を与える、神殿機構そのものを転覆させようとしたのだと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

※この行為は、ユダヤ教神殿体制への怒りの表明とともに、その体制の終焉を行動として告知したとも考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年前後 新春.15 過越祭の日、NatzratのYeshuaは仔ロバに乗って、Yerushaláyim城内に入った。(『マタイによる福音書』21.6~10)

※ロバに乗って来たのは、『Zəḵaryāh書』9章9節にて示唆される、Yerushaláyimの君主の行為を意識したものと思われる。ユダヤ人の重要な祭典において、『Zəḵaryāh書』の描写を思われる行動をして、自分の説教に注目させようとしたのだと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

※彼はユダヤ民族の選民思想と深く関わるYerushaláyimにて、多くの人に、「神の国」というメッセージを伝えたかったのだと考えられる。彼は、選民を自認するユダヤ人よりも先に異邦人が先に「神の国」に入ると考えたようである(『マタイによる福音書』8.11『ルカによる福音書』13.28~29)。Yeshuaは、神の国の中心がYerushaláyimでないことを示すために、あえてYerushaláyimにて神の国について語ったと考えられる。ただ、『マタイによる福音書』13章34~35節などからして、その後のYerushaláyimの活動は好調ではなかったらしい(大貫隆『イエスという経験』)。

・28年前後 NatzratのYeshuaは恐れを抱き、Abba(=父)たるYHVHに対して祈り、「杯」を自分の前から取り除いてくれるよう訴えた。(『マルコによる福音書』14.33~36)

※Yeshuaの祈りは、自身の思い描く「神の国」の像が不透明となり、神に意志を尋ねる祈りでたったと思われる。彼はこれから「神の国」が到来すると確信していた。しかし、自身に迫る死は、「神の国」の到来を告知する、自身の苦難の人生が無意味であると告げるようにYeshuaには思えたとも推測される(大貫隆『イエスという経験』)。

・28年以降?NatzratのYeshuaは逮捕され、ユダヤ人を裁く最高法院にて、総督のPontius Pilatusにより審問された。しかし、Yeshuaは何も答えなかった。(『マルコによる福音書』14.46~60)

※当時、ユダヤ人の最高法院は、Mōshéの律法に従って死刑判決を下すことができた。ただ、刑を執行する権限はRomaのImperatorの代理人である総督に委ねられた(大貫隆『イエスという経験』)。

※Yeshuaが沈黙したのは、ユダヤ教の支配層と、同じ論理の位置で答えるのを拒否したとの説がある(荒井献『イエスとその時代』)。

・28年以降? ローマ総督ピラトゥスの前に、ナザレのイェシュアは引き渡された。ピラトゥスはイェシュアに対して、彼がユダヤ人の君主であるか否かを尋ねた。しかしイェシュアは回答を拒否した。(『マルコによる福音書』15.1~5)

※イェシュアの沈黙は、神の国の到来という確信していた観念が不透明となり、自分に適用される罰に関心が持てないほど、苦悩していたことを示すとも考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

・28年以降? ローマ総督ピラトゥスが、群衆に対して、イェシュアをどうすべきか問うと、群衆は磔刑にするよう言った。(『マルコによる福音書』15.12~16)

・28年以降? ナザレのイェシュアは磔刑にされた。彼はアラム語で「エロイ エロイ レマ サバクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか)」と言い、最後に大声を発した後に絶命したという。(『マルコによる福音書』)

※「神の国」の到来を見ることなく、残虐に処刑される。自分の思い描いた「神の国」の像が無化し、人生の意味が分からなくなったこと対する絶叫であったと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

※ここにおいて、彼は生前に語っていた、敵に真心を尽くし、虐待する者らのために祈る(『マタイによる福音書』5.44)という行為を実演してしまった。生前イェシュアに近しかった者たちに対して、その言葉は多大な説得力を持ち、直弟子たちは彼に仮託した言葉を述べるようになったのだろう(佐藤研『最後のイエス』)。

紀元前49~1年

・紀元前47年 Antípatrosはユダヤ総督となった。その子息הורדוסはガラリヤ知事に任じられた。

・紀元前45年 1.1 RomaにおいてIulius暦が成立した。

・紀元前44年 2. Gaius Iulius CaesarはRomaの終身独裁官に就任した。

※Gaiusがそれまで対立したのは、Roma属州の支配権を持つ者たちであった。それらの勢力に勝利したことで、国家体制はそのままにローマの独裁者になれたとも考えられる。自身の地位や名誉を守るという私的な目的による闘争が、ローマにおける、専制支配の確立という必然的な帰結を成就させたとも評される(Georg Hegel『世界史の哲学』1830~1831〔冬学期〕)。

・紀元前44年 Marcus Tullius Ciceroは、『De Officiis (義務について)』を著した。

※最高権力者になろうとする将軍たちがあらわれる時勢において、Marcusは指導者の「virtūs/希:Arete(徳)」の重要性を説いた。彼は「徳」の構成要素を、深慮、正義、勇気、節制であるとし、徳を備えた人物が指導者になるべきだと主張した。また、指導者は国民の利益を念頭に置き、一派閥の利益のために他の国民を蔑ろにしてはならないと説いた(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・紀元前44年 Gaius Iulius Caesarは新貨幣を発行した。

※それまでの地中海で流通していた貨幣にはGraeciaの神々の姿が描かれていたが、Gaiusは自身の横顔の彫られた貨幣を発行した。その貨幣の流通する領域がRomaであり、貨幣の真性を保障する者が自分であることを示す意図があったとも考えられる(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・紀元前40年 ガラリヤ知事ヘロデは、Romaからユダヤの君主と認められた。

・紀元前30年 AigyptosはRomaの属州となった。

※Romaの支配下となったAigyptosでは、次第にヒエログリフが用いられなくなり、書き手も読み手もいなくなった(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・紀元前30年春 Iudaea君主, Herwidēsは、Gaius(Octavius)に忠誠を誓った。(Titus Flavius Josephus『Antiquitates Judaicae』)

※当初は HerwidēsはMarcus  Antoniusの部下であったが、Gaiusは HerwidēsをPalestina支配に有用と考え、その地位を保証した(佐藤研『聖書時代史』)。

・紀元前30年秋 Iudaea君主,Herwidēsは、Gaius(Octavius)よりガダラやサマリアを与えられた。(Titus Flavius Josephus『Antiquitates Judaicae(Iudaea古代誌)』)

・紀元前29年 Romaの執政官,Gaius(Octavius)は、元老院よりImperatorを個人名の一部として使用することが認められた。

※Gaiusは独裁制を確立させ、自身の神格化も行った。しかしRomaにおいてはrexは忌避されていたため、その領土はregnumではなく大権を意味するimperiumと呼ばれることになる。これは「帝国」とも訳される(小林標ラテン語の世界』)。

・紀元前29年 Romaの執政官,Gaius(Octavius)は、元老院より「Princeps(第一人者,元首)」の称号を与えられた。

・紀元前28年 RomaのPrinceps,Gaiusは戸口調査を行った。(「Res Gestae Divi Augusti」,Gaius Suetonius『De vita Caesarum』)

・紀元前27年 RomaのPrinceps,Gaius(Octavius)は、Roma元老院より「Augustus(尊厳ある者)」の称号を与えられた。

・紀元前27年 Gaius(Octavius)が「Augustus」の称号を与えられたことを記念して、Iudaea君主ヘロデは、Samariaを、AugustusのGraecia語読み(sebastos)に因むSebasteに改名し、Augustus神殿を建立した。また、Sebasteを要塞化して、少数のユダヤ人を含む退役軍人など約6000人を入植させた。(Titus Flavius Josephus『Antiquitates Judaicae』)

・紀元前27年 Augustus,Gaiusは、元老院よりRomaの属州の内半分の管轄を任され、総督としての「Proconsul命令権」を得た。

・紀元前25年 パレスティナで大飢饉が起きると、ユダヤ君主Herwidēsは自費で食料を購入し、Aigyptosから運ばせた。(Titus Flavius Josephus『Antiquitates Judaicae(ユダヤ古代誌)』)

・紀元前25年 ユダヤ君主,Herwidēsを暗殺する計画があったが、事前に防がれた。(Titus Flavius Josephus『Antiquitates Judaicae(ユダヤ古代誌)』)

※Herwidēsはユダヤ人の中でもイドマヤ人であり、ユダヤ人からは「半ユダヤ人」と見なされた。秘密警察を使って反対派を封じ込めるHerwidēsは、ユダヤ人からは抑圧者と見なされたのである(佐藤研『聖書時代史 新約篇』)。

・紀元前24年 ユダヤ君主,Herwidēsは、イェルサレムに宮殿を建て、1つを「Caesareion」もう1つを「Agrippeion」と名付けた。(Titus Flavius Josephus『ユダヤ古代誌』)

※Herwidēsが建設したRoma的な都市では、非ユダヤ的生活が行われるため、敬虔なユダヤ教徒から反感を買うことになった(佐藤研『聖書時代史 新約篇』)。

・紀元前23年 Marcus Vipsanius Agrippaは、シリア総督となった。

・紀元前23年 ユダヤ君主,Herwidēsは、Augustus,Gaiusより北トランスヨルダンのトラコニティス、バタネア、アウラニティスを与えられた。(Titus Flavius Josephus『ユダヤ戦記』)

※Augustusの威光を背景に、 Herwidēsは領土を拡大したのである(佐藤研『聖書時代史 新訳篇』)。

・紀元前21年 Augustus,Gaiusの娘,Juliaは、Marcus Vipsanius Agrippaと結婚した。

・紀元前19年 Augustus,Gaiusは、「consul命令権」を得た。

※これによりGaiusは全Italiaを掌握し、名目上は共和制ながら実質的な君主となった(佐藤研『聖書時代史 新約篇』)。

・紀元前15年 ユダヤ君主ヘロデの勧めに応えて、Marcus Vipsanius Agrippaはイェルサレムを訪問した。

・紀元前14年 Marcus Vipsanius Agrippaはユダヤ君主ヘロデを伴って、小Asiaを訪問した。(ティトス ヨセフス『ユダヤ古代誌』)

・紀元前12年 Augustus,Gaiusは、「最高司祭長(Pontifex Maximus)」となった。

・紀元前12年 Marcus Vipsanius Agrippaは死去した。

・紀元前11年 RomaのAugstus,Gaiusは、妻Liviaの連れ子Tiberiusに命じて妻と離婚させ、娘のJuliaと結婚させた。

・紀元前8年 RomaのAugstus,Gaiusは戸口調査を行わせた。4233000人の市民が登録された。(「Res Gestae Divi Augusti」)

※100万人を超える市民を戸籍に登録することは、調査を行えるほどに安定した治世であったことを示すものであり、業績として記されるものであった(小林登志子『文明の誕生』)。

・紀元前6年(漢暦建平1) 4.丙戌 劉歆は自身が校訂した『山海経』を漢の哀帝,劉欣に献上した。(『山海経』款識)

・〔参考〕『山海経』「海内北経」には、倭は蓋国の南にあり、燕に属するという記述がある。

※「海内北経」の部分は、劉歆が校訂した際に加えられた記述と考えられ、『山海経』が「中国」における倭(=日本)の最も古い記述だという説には疑問符が付く。『山海経』は神話集であり、実際の地域名を記したわけではないが、朝鮮半島の南にあるという認識を示している(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※「蓋国」は朝鮮半島南部の「濊」であり、「海内北経」の「倭」は燕の東北にあるという見解など、様々な解釈がある(上田正昭『私の日本古代史』)。

※燕に属するというのは天空の区画のことであり、倭が燕の支配下にあったというわけではない(若井敏明『謎の九州王権』)。

・紀元前5年前後 ユダヤ人の家庭に、1人の男子が産まれた。(『共観福音書』)

※古代Graecia語では「Iēsoûs」、Aram語で「Yēšúa」。Hebraiの人名「Yĕhōšúa」が訛ったものである(田川建三『イエスという男』)。以下、彼の母語であろうアラム語に従い「Yēšúa」と呼ぶ。

〔参考〕『マタイによる福音書』2章1節と『ルカによる福音書』2章4節~7節は、出生地をユダヤベツレヘムとする。

※出生地をベツレヘムとする記述は、Davidの子孫である救世主は、Davidゆかりの土地に生まれるはずだという、原始キリスト教会における観念から生じたものであり、史実ではないと考えられる。『マルコによる福音書』1章24節などによる「ナザレの」という言及から、Yēšúaはガラリヤのナザレで生まれたものと思われる(大貫隆『イエスという経験』)。

・紀元前4年 ユダヤ君主ヘロデは死去した。(ティトス ヨセフス『ユダヤ戦記』)

・ヘロデの領地は、3人の子息に分割された。RomaのAugustus,Gaiusは、ヘロデ アンティパスとフィリッポスには君主(エッサイ)としての地位を認めたが、残る1人のアルケラオスは「民族統治者(ethnarches)」としてユダヤサマリアを支配させた。(ティトス ヨセフス『ユダヤ戦記』)

・紀元前2年 Augustus,Gaiusは「祖国の父(Pater Patriae)」の名誉称号を贈られた。

・起源前後 大月氏に仕えていた翕侯のうち、貴霜翕侯が勢力を拡大した(榎一雄邪馬台国(改訂増補版)』)。

※「貴霜」とは「Kushan」の漢字による音写である。総卒者である翕侯は、大月氏と同一の部族か否かは不明である。「中国」からは引き続き大月氏と呼ばれている(榎一雄邪馬台国(改訂増補版)』)。

紀元前99~50年

・紀元前97年 漢の定遠侯,班超は、漢とRomaの同盟を画策し、部下の甘英を派遣した。しかしRomaに至る途中で通るはずだったArshak朝Parthiaは、Romaと対立していたため、甘英はRomaにたどり着けず、Sūrīyahと思われる地域で引き返した。

※同盟は実現しなかったが、オアシスの道の西半の情報を漢にもたらすことができた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※Arshak朝は、建国者Arshakの名から、漢においては「安息」と音写された(宮崎市定『アジア史概説』)。

・紀元前90年頃 司馬遷は『史記』を完成させた。

※遷は荒唐無稽な出来事を排除した。そのため「三皇五帝」の「三皇」には本紀が立てられていない。しかし当時の歴史研究の資料分析は未発達であったため、説話を完全に排除はできなかった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※顓頊や、夏王朝の祖,禹、殷王の祖先,契、周王の祖先,稷、秦王の祖先,費といった人物は、黄帝の子孫として記された。「中国」が中国たりえるのは、徳の体現者である黄帝の子孫による統治が行われるからだと遷は考えていた。そのため、本紀の最初は黄帝から始まる(伊藤道治「伝説の帝王」『古代中国』)。

※殷の紂王,受が肉の林と酒で満たした池を作ったという「酒池肉林」の逸話は、『韓非子』「喩老篇」を脚色したものである。受が妲己を、周の幽王,宮涅が褒姒を寵愛して国を衰退させたという逸話は、女性の参政を歓迎しない当時の男尊女卑思想の反映である(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前60年 匈奴の日逐王は単于と対立し、漢に降った。漢は西域都護を設置して、日逐に統治させた。

※漢はこうして、タリム盆地における支配を確立した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前60年 匈奴にて屠耆堂が新たな単于となった(握衍朐鞮単于)。

※屠耆堂は漢との関係修復を望んだが、その残忍さから匈奴の内部の離反者が多く出た(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前58年 匈奴の先代単于の子息,稽侯狦が単于として擁立された。稽侯狦は握衍朐鞮単于,屠耆堂を攻め、自害に追い込んだ。

※その後、稽侯狦は一族と匈奴の地位を争うこととなった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前57年頃 日本列島でクスの木が伐採され、環濠集落の建物の柱に使用された。(都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』)

※池上曽根遺跡の柱の年代は、年輪から紀元前57年のものと判明した。弥生時代中期より集落の人口が増えたことで、巨大な環濠集落が形成されたと考えられる。畿内では周辺には2~3ha程の集落が約5km間隔で分布しており、池上曽根遺跡のような更に巨大な集落が総括していたと推測される。建物の軸線は南北に設定されており、「中国」の建築思想に基づく建築がなされていたと推測される。渡来人が城郭都市の知識を伝えたのかもしれない(都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』)。

・紀元前54年 呼韓邪単于,稽侯狦は、兄の郅支単于,呼屠吾斯に破れ、漢の臣下になることを決めた。

・紀元前53年 匈奴の呼韓邪単于,稽侯狦は、子息の右賢王を漢に仕えさせた。

・紀元前50年 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人が兵を率いて秦韓に侵攻したが、赫居世の徳に感化されたのだという。

※この時期に関する『三国史記』の倭人の記述が、どれだけ事実を反映しているかは不明である(若井敏明『謎の九州王権』)。

〔参考〕『三国遺事』「塔事 皇竜寺条」には、新羅は北方で靺鞨に繋がり、南方で「倭人」に繋がるとある。

〔参考〕『後漢書』「鮮卑条」は、濊国の1つに「倭人国」があるとする。

※『三国史記』に登場する「倭人」の全てが、日本列島内にいる人々とは限らない(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

紀元前149~100年

・紀元前149年 殲滅を目的として、Romaは Carthāgōを攻めた(第3次Puni戦争)。

・紀元前149年 Makedonia君主の子息を僭称するAndrikosがMakedoniaを占領した。Romaはそれを破って、Makedoniaを属州とした。

・紀元前147年 Aršak朝Parthiaは、 Mādāya地方を獲得した。

・紀元前146年 RomaはGraeciaのAchaea連邦を破った。RomaはKorinthosを破壊し、Graecia本土を属州Achaeaと定めた。

・紀元前146年 RomaはCarthāgōの都市を破壊した。 Carthāgōの町は火に包まれて戦争は集結した。Carthāgōの総人口約50万人の内、生き残った約5万5000人は奴隷として売られた。

※RomaはCarthāgōの支配していた地中海を掌握し Phoiníkē人やCarthāgō人が開拓したルートを用いて政治的影響力を拡大させた(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・紀元前141年 この年以降、 Aršak朝Parthiaは、Mesopotamiaを支配下に収めた。

※Aršak朝が西Asiaにおいて力を持ち、Seleukos朝の領土はSyriaに限られた(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前140年頃 ユダ(マカベア)の後継者たちによる、ハスモン朝が立てられた。

・紀元前139年 月氏からの求めに応じて、漢の武帝,劉徹は月氏と同盟を結び、匈奴を挟撃することにした。そこで張騫を使者として派遣した。騫は匈奴に捉え拘留されたが、匈奴単于から妻を与えられた。

・紀元前135年 匈奴から漢に使者が訪れ、和親を求めた。王恢は、匈奴は和議を結んでも数年もせずに約束を破って攻め込んでくるとして、匈奴を討つべきと主張した。対して韓安国は匈奴は捕らえることが困難であり、戦争で疲弊してしまうとして、和親に応じるべきと述べた。それには多くの群臣が賛同した。結果として、武帝,劉徹は和親を受け入れた。

※恢は辺境の役人として活動しており、匈奴のことを熟知していた。しかし当時の徹は若く、多くの群臣に反対して戦争を決めることが困難であったと考えられる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前134年 馬邑の豪族,聶壱は漢の武帝,劉徹に言上し、和親を結んで安心している匈奴を誘い出し、伏兵で攻撃すれば勝てるだろうと伝えた。

・紀元前133年 ティベリウス グラックスは、中小の農民に対して公有地を分配しようとした。

※これは、農民が窮乏することで、ローマの国防力が弱まるのを防ぐためである。しかし、この改革は元老院の反対により挫折した(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前133年 聶壱は匈奴に至って、馬邑の上層部の者を殺し、城ごと匈奴に降伏すると伝えた。匈奴軍は略奪をしながら馬邑の手前まで来たが、家畜がいるのに牧人が居ないことを怪しんだ。そこで尉史を捕らえて漢の作戦を白状させた。そして匈奴軍は引き返した。

・紀元前133年 ローマはヌマンティアを降伏させた。

・紀元前123年 ティベリウス グラックスの弟、ガイウスは、護民官となった。

※ガイウスは元老院勢力と対立し、その勢力を抑えるために、騎士身分を登用した(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前129年 張騫は部下を連れて匈奴の下から脱出し、大苑に至った。

・紀元前129年 漢の武帝,劉徹は、兵を派遣して匈奴を攻撃したが、破れた。匈奴の数千人は漢の漁陽に侵入した。

・紀元前129年 漢軍と匈奴軍が交戦した。

・紀元前128年 張騫は大苑に月氏に至る道案内をしてもらい、大月氏の君主に会って、同盟を持ちかけたが、それは拒否された。

※このころ大月氏大夏(トハラ)を支配しており(『史記』大宛伝)、新たに手に入れた土地は豊かであった。移り住んだ先の領土は漢からも遠く、既に匈奴に復讐したいという気もなくなっていたのである(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前127年 漢軍は隴西にて匈奴を破った。漢は黄河の南側を獲得し、造陽を匈奴に与えた。

・紀元前127年 張騫は大月氏の土地から帰還することになった。しかし、羌の領内を通過する際に、再び匈奴に捕らえられ、拘留された。

※羌は匈奴と密接に連絡をしていたとも考えられる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前126年 匈奴の軍臣単于は死去した。その弟伊稚斜は、軍臣の子息於単を破り、自ら単于になった。於単は漢に亡命した。

・紀元前126年 匈奴の後継者争いに乗じて、張騫は匈奴の領内から脱出して漢に帰還した。

※同盟はならなかったものの、漢の西方(「中華」にとっての西域)たるオアシス地帯の事情を知ることができた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※張騫がもたらした、大苑にいるという、血のような汗をかく良馬,汗血馬の情報は、匈奴に勝つための馬を欲していた武帝,劉徹に、大苑への遠征を決定させることになる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前125年 匈奴は漢を攻め、代、定襄、上郡にて殺戮を行った。

・紀元前124年 漢は100000の兵を率いて匈奴を攻撃し、多くの捕虜と家畜を得た。

・紀元前121年 漢は匈奴を攻め、祁連山を奪った。

・紀元前121年 漢との戦いで多くの匈奴兵を失ったことで、単于は怒り、それを率いていた渾邪王と休屠王を処刑しようとした。それを恐れた2人は、多くの匈奴人と共に漢に投降した。

※これは匈奴にとって大きな打撃を被った(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前119年 漢は匈奴を攻め、単于を敗走させた。

単于の生死が不明となり、右谷蠡王が単于を称したが、単于が生きていたことが分かったので単于位を返上した。それほどまでに混乱があった。漢も多くの犠牲を出し、それ以上侵攻はしなかったが、黄河の北にまで領土を拡大させた(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前119年 漢は烏孫との同盟のために、張騫を烏孫に派遣した。

※直接匈奴を攻撃するよりも、匈奴に従属している烏孫を離反を画策したのである(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前119年 漢において、塩と鉄は国家の専売制となった。

※これは大規模な匈奴への遠征により、多額の出費があり、財政破綻寸前だったことによる。そのため専売制を導入して、収益を財政に宛てたのである(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前115年 張騫は、烏孫との同盟には良い返事を貰えなかったが、烏孫からの使者とともに漢に帰還した。

※これ以降、オアシスの道を通して、西方よりブドウ、ウマゴヤシ、ナツメなどが入ってくるようになる(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前115年 漢は禁輸法を施行した。

・紀元前111年 漢は匈奴から奪った甘粛地方に、敦煌郡などを置いた。

※甘粛地方に植民を行って税収を増やし、遠征軍や駐屯軍に食糧を供給する起点になることを期待されてのものである(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

匈奴は北方に追いやられたことで、オアシスの道を手放すことになり衰退した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前111年 漢は越南を滅ぼし、広東地方に南海郡、ヴェトナム北部に交趾郡、中部に日南郡などを設置した。

※こうして漢は南海交易の利益の独占を図った。漢の南海交易は東南アジア現地の人々のネットワークに依存していたが、自らの力でインドまで到達する商人もいた。(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前111年 ローマにおいて、土地法が制定された。これにより、有力者が所有する土地の多くは私有地として認められた。

※これにより、土地を再分配して中小農民に与えるというガイウス グラックスの提案は不可能になった(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前110年 漢は平準法を施行した。

※漢は大商人の利潤を抑え、その分を財政に宛てた。増税も行って民の生活は苦しくなったが、再び大規模な遠征を行うことができるようになった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前108年 桜蘭は漢に降伏した。匈奴が桜蘭を攻めると、桜蘭は2人の君主子を、それぞれ匈奴と漢に差し出した。

・紀元前108年 漢の武帝,劉徹は、衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪郡を設置した。その後、倭の内の30国程が漢に使者と通訳を遣わした。倭の首長は各々「王」を名乗り、世襲制であった。(『後漢書東夷伝 倭伝)

〔参考〕『説文解字』によれば、「倭」は柔順という意味を持つ。

※「倭」とは、「中国」から見て朝鮮半島の南の、海を隔てた地域(ないしは国)を差して、従順の意で呼んだと考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

〔参考〕昔、「倭傀」という名の醜女がいたとして、「倭」は醜いという意味だという説もある。しかし、『文選』巻51「漢・王襃「四子講徳論」」の李善の注には、所見が明らかでないとして、疑義を呈する。

〔参考〕『釈日本紀』と『日本書紀纂疏』は、「倭」は「吾」「我」が転じたものと考証する。

〔参考〕『異称日本伝』は、「倭」は人・女性に従うという意味を持っており、女性が統治するという伝聞から用いられたと考証する。

※「吾」「我」が転じたという説や、女性に従うという意味という説は、全くの憶測とされる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

楽浪郡を置いたのは、東部の匈奴を攻撃するための、拠点を確保するためである。楽浪郡朝鮮半島の韓人、日本列島の倭人の窓口にもなった。(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前105年 烏孫の君主は漢の公主を娶った。

※漢より帰還した使者から、漢の裕福さを聞いたことが、同盟のきっかけとなった。こうして次第に、匈奴から服属国は離れていった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前104年 漢は大苑に遠征軍を派遣した。