個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

390~419

・394年以降? 〔参考〕応神天皇崩御後、その王子,大鷦鷯命が即位したという(仁徳天皇)。(『古事記』)

・396年 〔参考〕倭は、高句麗の属国であった百済新羅を攻撃して、「臣民」として服属させたのだという。その後高句麗の永楽太王,高談徳(国罡上広開土境平安好太王)は百済を攻めて再び高句麗に服属させたのだという。(『好太王碑文』)

※『好太王碑文』は永楽太王高談徳の子息である長寿王,高巨連が建てたものであり、父の功績を讃えるために百済高句麗の属民と書いて誇張していると見られるほか、倭国を実態よりも強大にしていると考えられるものの、倭が朝鮮半島に出兵したことは事実であると思われる(倉本一宏『戦争の日本古代史』)。

※碑文の中の「百残(済)○○新羅」の文字を欠く場所が加耶であると考えれば、倭国はそれらを服属させたというのが事実でないとしても、軍事顧問的な立場として、時には指導者的立場として百済加耶と協力し、高句麗に対抗していたとも推測される(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※『好太王碑文』は、新羅百済を従属させることを正当化するために、2国は高句麗の属国であったという、実際とは違う歴史を述べる。倭国百済高句麗を服属させたということも、実際とは異なる(河内春人『倭の五王』)。

・397年 5.? 百済は太子の腆支を人質として倭に派遣した。(『三国史記』「百済本紀 阿莘王」)

〔参考〕『日本書紀』「応神紀8年3月条 分注」が引用する『百済記』には、百済王の阿花王(阿莘王か)は王子の直支(腆支か)を派遣したことが記されている。

応神天皇8年は修正紀年において397年となり、『三国史記』と一致する(森公章倭の五王』)。

・399年 晋の僧侶,法顕は、インドを目指して旅立った。

・399年 倭は百済と「和通」した。(『好太王碑文』)

・400年 永楽太王,高談徳は、歩兵と騎兵50000を派遣して新羅を救援し、「倭賊」を撃退した。(『好太王碑文』)

※支配体制も未確立なまま倭国が軍を派遣したのは、百済からの要請で無謀ながらも戦争を行ったとも推測される。倭国内の外交担当者に百済出身者がいたのかもしれない(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※安岳3号墳の壁画から、高句麗の歩兵は長距離の射程を持つ弓を装備していたことが推測される。対して倭国軍は短甲と大刀という重装備であり、接近戦を得意としていた。矛を装備した騎兵によって、高句麗軍は倭国軍を破ったと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※馬を駆使する高句麗軍に敗れたことが、倭国が馬を導入する契機になったのだと考えられる(河内春人『倭の五王』)。

倭国の軍隊が撤退する際に朝鮮半島から倭国に渡る者もおり、漢字漢文を本格的に倭国に伝えたとも考えられる(沖森卓也『日本語全史』)。

・404年 倭人が帯方方面に侵入し、永楽太王,高談徳によって斬殺された。(『好太王碑文』)

倭国側は騎兵を恐れたために、船による戦闘を選んだのだと考えられる(河内春人『倭の五王』)。

・405年 法顕はグプタ朝に到着した。彼はパータリプトラにて仏典や戒律について学んだ。

※これはベンガル湾を渡ることのできる季節風航海術が実現できたことを意味している(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・413年 〔参考〕倭、高句麗、銅頭太師は晋に対して朝貢を行ったという。(『晋書』安帝本紀)

〔参考〕『太平御覧』巻981香部1麝条に引用される『義𤋮起居注』には、倭は貂皮と人参を献上し、晋からは細笙と麝香を下賜されたとある。

※倭が献上したとする貂皮と人参は朝鮮半島の特産品であることから、高句麗の誤りであるとも考えられる。また、倭と高句麗が共同で入貢したか否かについては見解が分かれる。高句麗が捕虜にした倭人とともに入貢したという説もある(森公章倭の五王』)。

高句麗はかつて、前秦への使者を新羅人を伴って派遣することで、外交を有利に進めたことがある。413年の入貢も、同様の理由で倭人を同伴したとも考えられる(河内春人『倭の五王』)。

〔参考〕『梁書』によれば、その当時の倭王は讃である。

※『梁書』は、編者の姚思廉が原史料の文章を書き改めている場合が多く、413年の倭国の君主を讃だと決めつけている可能性がある(河内春人『倭の五王』)。

・413年 永楽太王,高談徳は死去した。諡の国罡上広開土境平安好太王から、好太王や広開土王とも呼ばれる。

360~389

・364年 百済からの使者が卓淳国に至った。(『日本書紀』)

・365年 1.壬午 ヤマト王権軍は筑紫国に侵攻した。岡県主の祖,熊鰐はヤマト王権に恭順した。(『日本書紀』修正紀年)

※熊鰐の勢力は、不弥国の末裔であり、宗像三女神を信仰していたとも推測される。また、九州王権の統一が乱れていたことが窺える(若井敏明『謎の九州王権』)。

・365年 〔参考〕筑紫国の伊覩県主の祖,五十迹手はヤマト王権に恭順したという。(『日本書紀』修正紀年)

※五十迹手は伊都国王の末裔とも考えられる。邪馬台国が九州にあると考える立場から、狗奴国は邪馬台国を滅ぼした後に伊都国を支配下に置いていたという見解もある(田中卓「日本国家の成立」『日本国家の成立と諸氏族』)。

・365年 1. 己亥 ヤマト王権軍は筑紫国の儺県に至った。(『日本書紀』修正紀年)

※ 伊覩県主の恭順によって、かつての奴国の地に入ることができたことになる。そのため、奴国の地は既に伊都国が支配していたとも推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。

※『古事記』によれば、神功皇后の母方の祖先は天日槍(日桙)である。伊都国の首長の末裔であったことから、伊都国を中心とした北九州の勢力の協力を得ることができたとも推測される(田中卓邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)

・365年 9.己卯 仲哀天皇は九州に出兵し、熊襲と交戦した。ヤマト王権軍は勝つことができず、撤退した。(『日本書紀』修正紀年)

・366年 3.乙亥 ヤマト王権は卓淳国に斯摩宿禰を派遣した。(『日本書紀』修正紀年)

神功皇后の称制46年は西暦246年だとしている。ただ実際は干支を2回繰り下げた120年後の366年とも考えられる(若井敏明『「神話」から読み解く古代天皇史』)。

・366年 2.丁未〔参考〕『日本書紀』「一云」によれば、仲哀天皇は敵軍の矢が命中して崩御したという。

仲哀天皇は、戦死したか戦争の直後に崩御したとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

・366年 〔参考〕『日本書紀』によれば、仲哀天皇崩御後、キサキの気長足姫が政務を執り行ったという。

※気長足姫は開化天皇の玄孫であるのに対して、仲哀天皇のキサキの1人,大中姫は景行天皇の孫である。大中姫のほうが有力であり、彼女の産んだ香坂王・忍熊王仲哀天皇の後継者と考えられていたと推測される。気長足姫は仲哀天皇に同行した先の九州において、自身の産んだ誉田別王を擁立する形でヤマト王権の掌握を図ったとも考えられる(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

・366年 百済王はヤマト王権に五色の絹、弓箭、鉄鋌を送った。(『日本書紀』修正紀年)

・367年 百済からの使者が倭国を訪れた。(『日本書紀』修正紀年)

百済からの使者は「先王の望し国の人」と表現されていることから、仲哀天皇の時代から百済との接触が行われていたと推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。

・367年 〔参考〕ヤマト王権軍は山門県に至り、田油津媛を滅ぼした。田油津媛の兄,夏羽は援軍を率いたが、妹が滅ぼされたと知ると逃げたという。(『日本書紀』修正紀年)

※卓淳国への使者の派遣を通して百済との外交関係を構築し、鉄資源や軍事物資の援助を得たことで勝利できたとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

※田油津媛は卑弥呼の王権の後継であったとも考えられる(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

※夏羽は狗奴国に庇護を求めて逃亡したとも推測される(岡田登「神武天皇とその御代」『神武天皇論』)。

・369年 〔参考〕ヤマト王権軍は朝鮮半島南部に出兵した。卓淳国に駐屯し、新羅を攻撃した。獲得した枕弥多礼の地は百済に与えたという。(『日本書紀』修正紀年)

※最初に卓淳国に集結していることや、百済に土地を与えていることから、卓淳国と百済の要請だったとも推測される(若井敏明『「神話」から読み解く古代天皇史』)。

神功皇后は祖先に天日槍がいたことで(『古事記』)、伊都国の勢力の協力を得ることができ、玄界灘朝鮮海峡を渡ることが可能であったとも推測される(田中卓「古代天皇の系譜と年代」『日本国家の成立と諸氏族』)。

朝鮮半島との軍事的な関わりは、軍事指導者の地位を高めることになり、上流・中流階級は男性化が進んだと考えられる(清家章『卑弥呼と女性首長』)。

・372年 百済ヤマト王権に七支刀を贈った。(『日本書紀』修正紀年)

〔参考〕『日本書紀』には、百済朝貢して来たときに献上したものとある。

※七支刀に関する『日本書紀』の記述は、『百済記』に依拠すると考えられる。『日本書紀』の編纂過程で、日本に亡命した百済人が作製・提出したものと考えられ、内容は日本に迎合するものに改変されている可能性が指摘される(熊谷公男『大王から天皇へ』)。

石上神宮の七支刀には泰○4年5○(月)16日、丙午(太和4年(369)か)に倭王のために制作されたと記されている。

※七支刀の銘文の解釈としては、晋が百済を仲介として倭国に授けたという説(栗原朋信説)、百済倭国に献上した説(福山敏男、榧本杜人説)、百済倭国に下賜した説(金錫亨説)、対等な立場から百済から倭国に贈った説(吉田晶、鈴木靖民説)がある(河内春人『倭の五王』)。

※晋は倭国に七支刀を下賜する必要性はない。高句麗からの侵攻に対して百済倭国から援助を受けた形跡はないため、百済からの献上説には批判がある。また、倭国の鉄資源依存は加耶地域に対してであり、百済に臣従する必要はない(河内春人『倭の五王』)。

百済は、領土拡大のために南下する高句麗に対抗するために倭国と同盟することを求め、その証として七支刀を送ったと考えられる(倉本一宏『戦争の日本古代史』)。

・389年? 〔参考〕『古事記』『日本書紀』によれば、気長足姫の崩御後、誉田別尊が即位したという。

応神天皇の即位は、389年とも考えられる(橋本増吉『日本上古史研究』)。

・394年? 〔参考〕甲午の年、応神天皇崩御した。(『古事記』)

※『古事記』の記す最後の干支「戊子」から遡った最初の「甲午」の年は394年となる(末松保和「古事記崩年干支考」『日本上代管見』)。

※誉田御廟山古墳は、応神天皇が葬られた陵墓であるとされている。同じ古市古墳群の中でも他の古墳よりも大きく、他の豪族とは隔絶した権威を主張する意図が見て取れる(佐藤信 編『古代史講義』)。

応神天皇の時代の記述は、神功皇后の物語の神話的要素を引き継ぐものであり、応神天皇神功皇后の分身的な存在として叙述されており、実在性が薄いとも考えられる(新谷尚樹『伊勢神宮出雲大社』)。

 

 

330~359年

・341年西ゴート人のウルフィラはエウセビオスから司教に任じられた。

ゲルマン人キリスト教を通して「人間は人間として自由(der Mensch als Mensch frey)」であり、人間の本性を成すのは精神の自由であるという認識に達したとも分析される(ゲオルク ヘーゲル『世界史の哲学』1830~1831〔冬学期〕序論)。

・355年? 3.15 〔参考〕乙卯の年、成務天皇崩御したという。(『古事記』)

※『古事記』の記す最後の干支「戊子」より遡り、最初の「乙卯」の年は355年となる(末松保和「古事記崩年干支考」)。

・355年? 〔参考〕成務天皇崩御後、甥である日本武尊の子息が即位したという(仲哀天皇)。(『古事記』)

仲哀天皇の和風諡号は「足仲彦」である。これは追号であって、実名は不明とも考えられる。実名を忌避する風習の結果忘れられたとも推測される。実名を後世に創作されなかったことから、実在する天皇として伝承されたとも考えられる(小林敏男邪馬台国再考』)。

 

300~329年

・300年 1.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅倭国は友好関係を結んだという。

※『日本書紀』には該当記事がないことから、この「倭国」はヤマト王権ではなく九州の王権であるとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

・311年? 〔参考〕辛未の年、垂仁天皇崩御した。(『住吉大社神代記』)

※『住吉大社神代記』は、崇神天皇崩御年を「戌寅」、垂仁天皇崩御年を「辛未」と記す。「戌寅」が318年だとすると、垂仁天皇との崩御年が逆転してしまう。そのため、垂仁天皇崩御年は311年、崇神天皇崩御年はそれより前の258年だと推測される。『古事記』は垂仁天皇崩御年を153歳、『日本書紀』は140歳とする。これは古くから垂仁天皇が長寿であると伝承されてきたことを示しており、『住吉大社神代記』から考証される53年という在位もありうるという見解もある(田中卓「八代系譜の信憑性」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

・311年?〔参考〕垂仁天皇崩御後、その子息が即位した(景行天皇)。(『古事記』『住吉大社神代記』)

景行天皇の和風諡号は「大足彦忍代別(オオタラシヒコオシロワケ)」という。「大足彦」は尊称「別」は追号であり、実名は「忍代」とも考えられる。「ワケ」という名号は後代にもあるため、信頼性が置けるという見解もある(小林敏男邪馬台国再考』)。

景行天皇の兄弟には「五十日足彦(イカタラシリコ)」や「胆香足姫(イカタラシヒメ)」がいることや、自身も「オオタラシヒコ」という尊称を持っていることなどから、当時は「タラシヒコ」という呼称が流行していたとも考えられる(田中卓「古代天皇の実在」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

・312年 3.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、「倭国王」が使者を派遣し、自身の子息の婚姻を望んだという。そこで新羅から阿飡,急利の娘が倭国に送られたという。

※『日本書紀』には記述がないため、「倭国王」は九州の君主であったとも推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。

・313年(晋暦永嘉7) 高句麗楽浪郡を陥落させた。(『三国史記高句麗本紀)

・314年(晋暦建興2) 高句麗帯方郡を陥落させた。(『三国史記高句麗本紀)

楽浪郡帯方郡の陥落により、女王国は「中国」に朝貢することが不可能になったと考えられる(小林敏男邪馬台国再考』)。

※その後、邪馬台国の記録は途絶える。魏からの後援を失った後、敵対する狗奴国に滅ぼされたとも推測される(田中卓邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

・317年 司馬睿は江南にて、晋の皇帝として即位した(元帝)。これを東晋という。

※非漢人の支配を嫌った華北漢人は江南に移動した。そのため、「中国」における人口分布が変化した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

東晋は伝統的な「中国」の中心地区を領していなかったが、胡族による北朝は「索虜(髪を縄で結んだ野蛮人)」であると位置づけ、東晋こそが晋の後継たる「中国」であると自称した。対する北朝は、自分たちは伝統的な「中国」の地域を支配しており、東晋はもはや、その地域を失った「島夷(海に浮かぶ島の野蛮人)」であり「中国」を自称する資格を失ったと考えていた(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

東晋により、中原で奏でられていた宮廷音楽は南方によって保存されることになる。(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

270~299年

・289年 5.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵が新羅に侵攻するとの情報があったため、甲兵を配備したという。

・292年 6.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵は新羅の沙道城を陥落させたという。

・294年 夏〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵は新羅の長峯城を攻めたという。

・295年 春〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅王,昔儒礼は百済と結託して倭国を攻めようとしたが、臣下が反対したため中止したという。

240~269年

・240年(魏暦正始1) ?.?  帯方太守の弓遵の命により、建忠校尉の梯儁らは魏の詔書印綬を伴って倭に至り、卑弥呼親魏倭王に拝仮し、金、絹、錦、毛織物、刀、鏡、菜物を贈った。(『三国志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」)

・240年? 「景初4年」という年号の刻まれた鏡が製作された。(広峯十五号墳出土鏡銘,辰馬考古資料館所蔵鏡銘)

※魏は240年に景初から正始に改元している。そのため景初4年という年号は存在しない。だが、帳天錫のように改元を知らずに「升平」の年号を使い続けた者もいる。そのため、魏の臣下が倭に至り、帰国することなく死去して埋葬されたとも推測される(石野博信「丹・但・摂の紀年銘鏡」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

・243年(魏暦正始4) 倭は使者として伊声耆、掖邪狗ら8人を魏に派遣し、生口、倭錦、玉虫織の絹織物、真綿の服、白絹の織物、赤い木で作った弓、矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を賜った。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

〔参考〕『冊府元亀』巻968「外臣部 朝貢1」には、正始4年12月に倭国の女王,俾弥呼(卑弥呼か)が朝貢を行ったとある。

・245年(魏暦正始6) 魏は難升米に与えるための黄幢(黄色の旗)を帯方郡に預からせた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

※世界を支配する「中国」の皇帝は、朝貢をしてきた「夷狄」を王と認めることで形成した秩序を、守る義務があった。そのため魏は倭を支援しようとしたと考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

※黄色は陰陽五行説に基づく、魏を象徴する色であり、魏の支援を受けていることを誇示することが可能である。しかし、黄幢は中国文化を知っている勢力との戦いでしか効力を示さない(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

※魏が黄幢を贈ろうとしたのは、倭が狗奴国との戦いを有利に進めさせるためでなく、中国文化を十分に知っている高句麗ほか朝鮮半島の国々との戦いに協力させるためという説がある。(武田幸男「三韓社会における辰王と臣智」)。

・246年(魏暦正始7) 5.?頃 辰韓楽浪郡編入するという方針に反対した韓人は、帯方郡の崎離宮を攻撃した。帯方郡太守,弓遵と楽浪郡太守,劉茂は韓人を攻撃した。遵は戦死した。(陳寿魏志』韓伝)

帯方郡太守が戦死したことで、難升米に与えられるはずであった黄幢は倭国に渡らなかったとも考えられる(小林敏男邪馬台国再考』)。

・247年(魏暦正始8) 王頎が新たな楽浪郡太守となった。倭王,卑弥呼は、魏に使いを遣わし、狗奴国の王,卑弥弓呼と争っていることを伝えさせた。魏は卑弥呼を支援するために、張政に詔書と黄幢を持たせて難升米に授けた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

〔参考〕狗奴国は、男王が治め、狗古智卑狗がおり、女王に服属してはいなかったという。(陳寿魏志東夷伝 倭人条)

※『魏志』に立てられた項目が「倭国」ではなく「倭人」なのは、狗奴国が独自に成立していたように、卑弥呼が全ての倭人を支配できていなかったからだと考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

247年頃? このころ、卑弥呼は死去したと推測される。

・2??年 「其の国」(邪馬台国?)は、また男性王が立てられたが、国中が従わず争いが勃発し1000人ほどが亡くなった。そこで卑弥呼の一族である13歳の女性,台与(壱与)が女王となると、再び倭は安定したという。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

※この男性王というのは、卑弥呼の「男弟」であるという仮説も立てられる。ただ、その後国中が従わなかったということから、服属していた諸国の首長は男性王の即位を容認しなかったとも考えられる(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

卑弥呼の死後、「男弟」が残されたと推測されるが、国中が従わなかったとすると、宗教的な背景がなければ到着が不可能であったことが窺える(若井敏明『謎の九州王権』)。

・2??年 倭国において、卑弥呼の親族である13歳の少女,台与/壱与が新たな王となり、争いが収束した。(陳寿『魏書』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

・247年(魏暦正始8) 倭国は魏に対して朝貢のための使者を派遣した。(『冊府元亀』巻968 外臣部 朝貢1)

〔要参考〕台与/壱与は、張政の帰国に随行させる形で魏に使者20人を派遣し、男女の生口30人、白珠5000、青い大勾玉2個、雑錦20匹を献上したとある。(陳寿魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

※このようにして、倭は秩序を回復させたことを魏に伝えたのである(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

箸墓古墳卑弥呼の墓であると考えると、その次に作られた西殿塚古墳が台与/壱与の墓であるとも推測される(白石太一郎「考古学からみた邪馬台国と初期ヤマト王権」『邪馬台国からヤマト王権へ』)。

・250年頃? 〔参考〕『古事記』『日本書紀』によれば、開化天皇崩御後、その子息が即位したという(崇神天皇)。

250年頃 箸墓古墳が造営された。

〔参考〕陳寿『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」には、卑弥呼は直径100余歩(約145m)の墓に埋葬され、100人ほどの奴隷が共に埋葬されたとある。(陳寿魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

※『魏志』には「大いに冢を作る」とある。これは大きな冢を造営したのではなく、壮大な葬送儀礼を行ったとも解釈される(小林敏男邪馬台国再考』)。

※『魏志』によれば卑弥呼が埋葬された墓の直系は約145mである。対して箸墓古墳は前方部124m、後円部156mである。箸墓古墳前方後円墳であるのに対して、『魏志』からは円墳であると考えられる。また、箸墓古墳には殉葬者が発見されていないことから、卑弥呼の墓を箸墓古墳とする見解には疑問も呈される(小林敏男邪馬台国再考』)。

吉野ヶ里遺跡の甕棺墓の周辺には、赤く塗った土器を埋められている。そのことから、拝殿を作って墳丘墓を祀るといった葬送儀礼があったとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

〔参考〕死者を埋葬し終えると、その一家は沐浴を行った。その様は中国の練沐に似ているという。(陳寿魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

※この部分もまた、倭は中国の礼を継承している国であることを主張する記述である(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

※当時の倭国では、女性優位の伝統が強かったとも考えられる(水谷千秋『教養の人類史』)。

崇神天皇の和風諡号は「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)」という。「入彦」は「彦」を更に尊厳的に呼んだものであると考えられる。また、『日本書紀』「継体天皇24年2月条」から崇神天皇の実名はイニエであると伝承されてきたと推測される(小林敏男邪馬台国再考』)。

事代主神の別名として「玉櫛入彦(タマクシイリヒコ)」があることから(『日本書紀神功皇后紀)「イリ」とは、穀霊に由来するとも考えられる(上田正昭『私の日本古代史』)。

※沖縄方言では「イリ」は「西」を表すことから、初期天皇は西から来たとも考えられる。また、纒向遺跡辻地区の王宮が東西に一直線に並んでいることからも、日の復活ふる入口としての西方(イリ)が意識されていたとも考えられる(石野博信「纒向王宮から磯城・磐余の大王宮へ」)。

・258年? 〔参考〕崇神天皇崩御した。(『古事記』『住吉大社神代記』)

※『古事記』と『住吉大社神代記』の崩年干支からの推定である(田中卓邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

箸墓古墳の造作跡から出土した甕(布留0式)に付着した煤や焦げを対象にAMS放射線年代測定を行ったところ、古墳の造営は240~260年頃と想定された。その年代は崇神天皇の崩年と考えられる258年と矛盾しない。そのため、纒向遺跡の建物群を崇神天皇磯城瑞垣宮に比定する見解もある(岡田登「神武天皇とその御代」『神武天皇論』)。

崇神天皇の陵墓は、行燈山古墳であるとも考えられる(白石太一郎「考古学からみた邪馬台国と初期ヤマト王権」『邪馬台国から初期ヤマト王権へ』)。

・266年(晋暦泰始2)11. 乙卯 倭人が晋を訪れて朝貢を行って貢物を献上した。また、それぞれ天地を祀る場所であった圜丘・方丘を、南郊・北郊に変更したことを伝えている。(『晋書』武帝紀)

〔参考〕『日本書紀』「神功皇后紀」分注の引く晋の起居注には、266年の10月に倭国より晋に使者を送ったとある。

※天地を祀る場所を南郊・北郊だと定めたのは、時の晋の皇帝、武帝司馬炎の母方の祖父、王粛である。晋が祭祀を改革したという記述の後に倭からの朝貢を記すのは、祭祀を改めた判断が正しかったという主張を裏付けるためである(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

〔参考〕『日本書紀』の引用する晋の起居注によれば、泰始2年の10月、倭の女王が晋に朝貢をおこなったのだという。

※『魏志』には台与の最初の朝貢の年次が記されていないため、張政が魏に帰国したのは、この年であったとも考えられる。政は、倭国からの使者を引率する立場にあると考えられる。しかし『魏志』の記述は倭国から送られたような筆致である。自身の仕える魏が滅んで晋が建国されたことにより、政は困難な立場となったと推測される。そのような状況下で倭国から亡国,魏への朝貢のために帯方郡を訪れた使者がいたので、政は倭国からの使者に晋への朝貢を行わせ、それまでの立場を維持できたとも推測される(村井康彦『出雲と大和』)。

倭国内において、魏の滅亡を最も早く知ったのは伊都国であると思われる。台与(トヨ)もしくは壱与(イヨ)という倭国王の名前から、実際は台与/壱与は伊都国王であり、「中国」の新王朝に朝貢したという見解もある(村井康彦『出雲と大和』)。

・260~270年頃? 〔参考〕『日本書紀』「垂仁天皇3年条」によれば、天日槍という人物が倭国に至ったという。

※『筑前国風土記』には、日桙(天日槍)は高麗国の意呂山に「天降り」した神とある。また、『古事記』『日本書紀』『新撰姓氏録』には、天日槍は新羅の王子とある。当時はまだ新羅や高麗といった国はなかったため、朝鮮半島からの帰化人を出自とすることを意味すると推測される。『筑前国風土記』では、天日槍は伊都県主の祖先と語られる。邪馬台国が狗奴国に滅ぼされた後に、邪馬台国支配下にあった伊都国の集団が、邪馬台国と祖を同じくするヤマト王権に、同族の誼から亡命を望んだとも推測される(田中卓「日本国家の成立」『日本国家の成立と諸氏族』)。

・260~270年頃?  〔参考〕天日槍が播磨国に至ったとき、ヤマト王権は三輪君の祖,大友主と、倭直の祖,長尾市を派遣したという。(『日本書紀』)

〔参考〕『播磨国風土記』には、天日槍は伊和大神(大国主命)と争ったとある。

※三輪君と倭直は、どちらも大国主命を奉ずる氏族である。そのため、『日本書紀』と『風土記』は同一の出来事を語ったとも考えられる。ヤマト王権としては、畿内を統一した矢先に亡命者一団が来たため、秩序が乱れることを恐れて畿内まで

進入することを防ごうとしたとも考えられる(田中卓「日本国家の成立」『日本国家の成立と諸氏族』)。

・260~270年頃?〔参考〕『日本書紀』によれば、ヤマト王権は天日槍に播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑を居住として与えようとした。しかし天日槍はそれを辞退して、近江国若狭国と移動し、但馬国の出石に留まったという。

※『播磨国風土記』における伊和大神(大国主命)と争ったという記述からして、ヤマト王権が派遣した者たちと争いに及んで畿内への進出に失敗したとも考えられる。ヤマト王権としては、畿外の地を与えることはできても、畿内への進出は容認しなかったとも考えられる(田中卓「日本国家の成立」『日本国家の成立と諸氏族』)。

210~239

・210年頃 大和に突出部付円丘墓が営まれた(纒向石塚古墳)。(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。

※突出部は1つだけであり、同じく1つの突出部を持つ、立坂古墳や宮山古墳といった吉備の墳丘墓の情報が伝わっていたのかもしれない(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。

・220年 魏王,曹丕は、漢の献帝,劉協からの禅譲を受けて即位し(文帝)、魏を建てた。これにより漢は終焉した。

※なるべく社会を動揺させない形での皇帝即位を望んだため、禅譲という形で即位した(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

226年 アルシャク朝パルティアは、サーサーン朝によって滅ぼされた。

※サーサーン朝ではパフレヴィー語(いわば中世ペルシア語)が話され、アラム文字を元にするパフレヴィー文字で綴られた(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・230年 12. 癸卯 大月氏の王,波調は、魏から親魏大月氏王と認められた。(陳寿『魏書』明帝本紀)

※この波調は、Kushan君主,Vasudevaことだと考えられる。Indoの神格を名前としていることから、このころにはIndoに溶け込んだようである。Vasideva以降、Brāhmī文字が記されるようになった(宮本亮一「カニシュカ一世」『アジア人物史 1』)。

※この時期、実際にKushan朝が滅びていなかったかは明らかでない。もし滅びていなければSāsān朝ērānšahrからの攻撃を防ぐために、魏との同盟を目的として使者を派遣したとも考えられる。また、既にKushan朝は滅びており、商人が魏からの品物を多く獲得することを目的として使者を偽ったとも推測される(榎一雄邪馬台国(改訂増補版)』)。

※魏としては、西域の諸国から河西に侵攻されることを防ぐことを目的として、大月氏王に認めたとも考えられる(榎一雄邪馬台国(改訂増補版)』)。

・230年 呉の皇帝を称する孫権は、不老不死の仙薬を求めて、将軍と10000の兵を夷州と亶州に遣わした。

※呉としては、倭を海上ユートピア的地域と認識していたようである(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

・232年 4.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人新羅に侵攻して金城を包囲したという。新羅王,昔助賁が自ら兵を率いて交戦すると、倭人は逃げたという。

・233年 5.?〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵が新羅の東辺に侵攻したという。

・233年 7.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅の王族,昔于老は沙道において倭人と交戦したという。

・233年(魏暦青龍1) 12.? 公孫淵は、呉の皇帝,孫権からの使者2人の首を跳ね、魏に送った。(陳寿『魏書』明帝本紀)

※権としては宝物を贈って通交を望んでいた。しかし公孫氏の領域から呉は離れており、脅威ではないと感じた淵は贈り物だけを獲得して呉を裏切る形になった(榎一雄邪馬台国』)。

・233年(呉暦黄武2) 呉の皇帝,孫権公孫淵の討伐を望んだが、諌められて中止した。(陳寿『呉書』呉主伝)

・235年(魏暦青龍3) ?.? とある鏡に銘文が刻まれた(西谷大田南五号墳紀年銘鏡,安満宮山古墳紀年銘鏡)。

※青龍は魏の年号である。しかし、公孫氏は倭との外交を行っており、魏の年号を鏡に記して倭との交渉に用いた可能性も指摘される(石野博信「丹・但・摂の紀年銘鏡」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

・236年(呉暦嘉禾5) 7. 高句麗王,位宮は、呉の皇帝,孫権からの使者を処刑し、その首を幽州にさらした。(陳寿『魏書』明帝本紀)

・238年 1.? 魏は公孫氏勢力を攻め、公孫淵を処刑した。

・238年(魏暦景初2) 3.? 公孫氏の勢力は魏に滅ぼされ、その勢力圏には帯方郡とその太守が置かれた。(『三国志』)

・239年(魏暦景初3) 6.? 卑弥呼は魏に使者を遣わし、男性奴隷4人と女性奴隷6人斑織りの布2匹2丈を献上した。倭の使者難升米(なしめ/なとめ)は魏の皇帝に謁見し、朝貢することを望んだ。(陳寿魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」)

〔要参考〕南宋版以降の『三国志』は倭の朝貢を景初2年6月と記す。対して『日本書紀』が引用する倭人条は景初3年とする。

〔要参考〕『三国志集解』は景初2年6月当時には使者を仲介する帯方太守がいなかったため誤りであるとする。

卑弥呼が公孫氏との交流を持っていたのだとすれば、公孫氏に代わる魏という帯方郡の支配者に、一刻も早く庇護を求める必要に迫られていたとも考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※使者の派遣が景初3年であれば、魏の先代の皇帝曹叡(明帝)は崩御しており、時の皇帝は曹芳(少帝)である。そのため、先帝崩御への弔意と新帝即位および改元への祝意を伝える意図があったと考えられる(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※使者の派遣には、航路権を掌握し、鉄資源と先進的な文物を手に入れる意図があったとも推測される(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

〔要参考〕『晋書』「四夷伝 倭人条」は、倭からの使者の派遣の理由を、司馬懿が魏の将として公孫氏を平定したことに求めている。

※『晋書』の原史料である晋代の記録は、倭の朝貢をもたらした功績を、晋の初代皇帝,司馬炎の祖父である司馬懿に求めている(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

〔参考〕倭より「中国」に使節を送る際には、その内の1人を「持衰」として、身なりが汚いようにして肉を食べさせず女性も近づけさせない。その使節が無事であれば、持衰に生口や金品を与え、途中使節間に病気が流行ったり暴風雨に逢えば、その者を殺したという。(陳寿魏志東夷伝 倭人条)

※「持衰」とは、航海が良好に行われることを願う呪術者であったとも考えられる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

〔参考〕陳寿魏志』「東夷伝 倭人条」は、倭からは真珠、青玉が産出し、山には丹砂、赤砂があった。木の種類にはクスノキ、ボケ、クヌギ、スギ、カシ、ヤマグワ、カエデがあり、竹には篠竹、箭竹、桃支竹があったとする。

※倭は特産物が豊富で、朝貢に適した地であるとしているのである(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

〔参考〕倭は気候温暖で、イネやカラムシを植え、カイコを飼育し、麻糸や綿織物も作っていたとされる。また、冬も夏も生野菜を食べていたとある。ただ、ショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガの調理法を知らなかった。(陳寿魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

陳寿は倭の位置を会稽郡東治県の東方だと勘違いしていたため、倭が温暖な気候であると考えた可能性がある(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

卑弥呼倭国の王に擁立されたのは180年頃だとすると、当時の卑弥呼は老齢であったと推測される。そのため、卑弥呼を見る者が少なかったというのは、高齢であることが原因とも考えられる(小林敏男邪馬台国再考』)。

〔参考〕陳寿魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」によれば、倭人の男性は木綿の鉢巻をしており、服は布を結んで繋げていたものだった。針で縫わなかったようである。女性は髪を束ね、服は布の中心に穴を開けてそこから頭を通すものであった。また、皆裸足であったという。

〔参考〕『漢書』「地理志 下 粤地条」には、そこに住む人々の衣服は、布の中央に穴を開けて頭を通すものとしている。

※『魏志』の記す倭人の装束は、実際の倭の風習であったかもしれないが、陳寿は「中国」の「南方」にある粤地の記述を参考にして、「東南」にあると考えた倭の服装を描いたとも推測される(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

〔参考〕陳寿魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」には、倭人の男性は大人も子供も、顔と体に入れ墨をしていたという。入れ墨は位によって違いがあったという。

〔参考〕『礼記』「王制篇」には、東方の「夷」は体に入れ墨をしており、南方の「蛮」は顔に入れ墨をしている、とある。

※『魏略』にも同じような入れ墨に関する記述が見られる。『魏略』を著した魚豢は、倭を「中国」の東南にあると考えていたため、「東南」に住む人々を、東方と南方の習俗を持ち合わせた異民族として描いたと考えられる。『魏略』を参考にして『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」を著した陳寿は、推敲の結果その記述をそのまま採用したと思われる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

※日本列島で出土した土器には入れ墨を表現すると考えられる絵画が描かれていることや、『日本書紀』には顔面に入れ墨を施す刑罰(黥刑)が記されていることから、実際に倭人が入れ墨を行っていた可能性が排除されるわけではない(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

〔参考〕中国での白粉の化粧のように、倭人は赤い顔料を用いていたという。(陳寿魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

・239年?(魏暦景初3?)12.? 魏の皇帝は詔書を下し、卑弥呼に金印と紫綬を授けて正式に倭王(親魏倭王)と認め、黄金、白絹、鏡100枚などを与えるとし、種人(自国民)を綏撫(撫で慈しむ)ように命じた。また、遠方より来訪した難升米と都市牛利を労い、難升米を率善中郎将とし、都市牛利を率善校尉とし、銀印青綬を与えた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

※魏の皇帝から、公や侯でなく「親魏〇王」の称号を与えられたのは、卑弥呼の他には親魏大月氏王となったヴァースデーヴァ(波調)のみである。(西嶋定生邪馬台国倭国』)

※魏は東西の絶域の首長に「親魏〇王」の称号を与えることで、異民族の首長が「中華」としての魏に帰属していることを宣伝し、後漢の後継者であることを宣伝しようとしたとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※倭は中国の遠く東方海上、つまりは呉の背後にあると考えられていたため、魏は呉を牽制するために卑弥呼倭王と認めて厚遇したのだと考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※金印紫綬を与えることは「仮す」と表現されている。これは授ける資格があるか分からない者に仮に与えることだと推測される。卑弥呼が信頼に足るか否か、不安であったことが窺える(吉田孝『日本の誕生』)。

※『魏略』が記す、倭人が太伯の子孫を自称したという記述を採用すれば、太伯の子孫を称する呉人と近しいように思われてしまう。そうすれば、倭が呉にとっての脅威という設定が崩れてしまうため、陳寿は『三国志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」を著すにあたって『魏略』における、倭は太伯の子孫を自称したという記述を省いたとも考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

※鏡が贈られたことから、卑弥呼の行う「鬼道」というものは、鏡を用いた呪術ではないかとも推測される(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※「種人」を「綏撫」するようにとの命令は、倭国王に任じたため、国外の倭人の領域まで勢力を伸ばし、倭人を統一せよとの意味合いが込められていたと考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※黄金や絹などは、当時の倭国にはなかった。鏡などとともに、国内の人々に見せたり分け与えることによって権威を高めたとも推測される(吉田孝『日本の誕生』)。

※呉の元号が刻まれた鏡が日本から出土していることからも、呉は倭人の一部と接触していたと考えられる。呉人と倭人の祖先が共通という説を採用した場合、倭が呉の一部と認めてしまう恐れがあったことも、『魏略』をそのまま採用しなかった理由であると考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

卑弥呼に与えられた銅鏡は、倭のために制作された特別な品とも考えられている(岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』)。

※『魏志』において、魏への朝貢以前の卑弥呼は「女王」、朝貢以後は「倭王」と表記が変化する。邪馬台国を中心とする倭の連合政権の君主であった卑弥呼が、倭国倭人を統べる王として承認されたことを意味する(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※近畿各地から出土する景初3年銘の三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏より与えられたものだという説もあるが、日本列島で作られたものだという説もあり見解は別れる(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

卑弥呼に贈られた銅鏡は帯方郡太守の弓遵が派遣した梯儁からの手渡しであることから、帯方郡で製造されたものだという説もある (宮崎市定『古代大和朝廷』)。

三角縁神獣鏡は中国から出土しておらず、また古墳に副葬された状況からして権威の象徴ではなく儀礼のための呪器と思われることから、三角縁神獣鏡は倭で製造されたものであり、魏から贈られた銅鏡は連弧文鏡、方格規矩鏡、画文帯神獣鏡などに近い形をしているのではないかという説がある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※平原遺跡からは女性が頭部を飾ったと考えられる管玉などが出土している。伊都国の首長は卑弥呼の代役としての役割を持っており、管玉のような当時最新の装飾は、伊都国を起点として他地域に広まったと推測される(村井康彦『出雲と大和』)。

〔参考〕『十鐘山房印挙』には「都市」と刻まれた印鑑がある。

※「都市牛利」という名の「都市」は、市を総括する大官「都市」を意味すると考えられる。倭国内の市を監督するという「大倭」を漢訳したと推測される(吉田孝『日本の誕生』)。

纒向遺跡からは「市」と墨で書かれた土器が出土している。また『和名類聚抄』が大市郷として示す範囲内にある。「大市」に葬られた倭迹迹日百襲媛命の墳墓とされる箸墓古墳は、纒向遺跡の南方にある。内陸部である纒向遺跡からは、海水魚が見つかっており、海に面する地域から献上されたと推測される。纒向遺跡の場所は物流の盛んな地域であったことを窺わせる。その地域が「大市」と呼ばれていたことから、邪馬台国は交易によって経済が支えられており、市の監督者である牛利が外交副使になったとも推測される(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

〔参考〕女王になって以降の卑弥呼は、直接人に会うことが少なかったという。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

卑弥呼の居館は城柵や楼観で守られ、民衆とは別に住んでいたとも考えられる(都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』)。

卑弥呼が直接会わなかった人というのは魏からの使節に対してであり、自国民に対しては姿を見せていた可能性も指摘されている。後の時代の倭=日本の君主も、長らく外国からの使節に直接姿を見せなかった(義江明子『つくられた卑弥呼』)。