個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

【日本】平成の時代

・1989年(和暦昭和64) 1.7 明仁親王が即位した。

・1983年(和暦平成1) 1.8 元号が昭和から平成に改められた。

・1990年 8.2 ‘IrāqはKuwaytに侵攻した。

※‘IrāqとしてはKuwaytはGreat Britain-北Irlandの都合で作られた国であると位置づけており、そのため侵攻しても問題はないと思っていたとも考えられる。そうした観念は、現在を神の意志の現れとして重視し、未来への関心が薄いというIslām文化圏の特徴であるとも考えられる(岡田英弘『歴史とはなにか』)。

・1990年 Judith Butlerは『Gender Trouble』を刊行した。

※Jacques Derridaの脱構築的な思想や、精神分析の知識が前提となる書籍である。男性は強く主体的であり、女性は弱く受動的であるという観念のあった社会を見直しを行った。また、同性愛の名誉を回復する原理を述べた書物でもある(千葉雅也『現代思想入門』)。

・1992年 Francis Fukuyamaは『The End of History and the Last Man(歴史の終わり)』を刊行した。

※Francisは、いずれ全世界はliberalな民主主義化されると考えた。世界が民主主義化されると、歴史を動かしていた構造が変化してしまうとし、それを彼は歴史の終わりであると考えた。Jean Lyotardは歴史は多様化するものと考えたのに対して、Francisは歴史を収束するものと考えた。ただ、歴史のtrendを描くことは不可能かつ無意味と考える点において共通している(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』)。

・平成7年(1995) 10.4 庵野秀明が監督・脚本を務める『新世紀エヴァンゲリオン』の放送が開始した。

※厳格な規律への服属を強制するChristos教的父性原理(:使徒)と、あるがままを肯定してくれる母性原理(:エヴァンゲリオン)に惹かれる者との戦いであるとも分析される(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1997年(和暦平成9) 8.30 『ウルトラマンティガ』が放送を終了した。

※最終的に女性隊員は主人公の正体を理解し、孤独に地球を守っていることに対して労りの言葉を述べている。地球人(:日本人)の立場から、ウルトラマン(:沖縄)を思いやることを暗示しているとも考えられる(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1998年(和暦平成10) 東浩紀は『存在論的、郵便的』を刊行した。

※バブル経済の崩壊後に日本は不景気となり、楽観的に外部へと関係性を広げていこうとするGilles Deleuzeの人気は収束した。微細な衝突や二項対立という問題点に注目するというJacques Derrida的な思考が全面化した1990年代を象徴するDerrida論とも考えられる(千葉雅也『現代思想入門』)。

・2006年(和暦平成18) 4.8 円谷プロダクションによる『ウルトラマンメビウス』の放送が開始した。

※最終回を迎える前に、主人公は他の隊員に正体を明かして、共に戦っている。沖縄の人々が、自身を日本人だと思えるようになったことを示しているとも考えられる(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・2006年 8. 冥王星は準惑星に位置づけられた。

※冥王星(Pluto)が惑星から準惑星に降格して以降は、plutoという降格させることを意味する英語の動詞が誕生した(清水建二『教養の語源英単語』)。

・2007年(和暦平成19) 3.31 『ウルトラマンメビウス』の放送が終了した。

※最終回において、防衛隊員たちが新たなウルトラマンに変身し、新兵器で敵を倒している。当時は集団的自衛権の行使容認の検討が話題となっており、在日米軍(:ウルトラマン)と対等な立場で戦いたいという日本人の深層意識が反映されたという見解もある(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・2007年(和暦平成19) 上野千鶴子は『おひとりさまの老後』を刊行した。

※日本の既婚女性は夫や子供に束縛されており、老後は離婚して「おひとりさま」となって公的なサービスを享受し、行政もそれを支援すべきだと主張した。家族は個人の自由を奪うものであるという、家族と公共を対立させる思想と捉えられる(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・2008年(和暦平成20) 2.17 KosovësはSrbijaから独立を宣言した。

・2008年(和暦平成20) 2.23 DeutschのMünchenにおいてSrbija人が集会を行った。

※集会においてSrbija人集団はKosovësがSrbijaのものであることを主張していた。Srbija人のKosovësという地域への拘りとNationalismを示すものであると考えられる(植村和秀『ナショナリズム入門』)。

・平成31年(2019) 4.30 天皇は譲位して称号が上皇となり皇后,美智子は上皇后となった。

【日本】昭和の時代

・1926(和暦昭和1) 12.25 裕仁親王は即位した(昭和天皇)。(『昭和天皇実録』)

・1926~1927年 Michael Rostovtzeffは『The social and economic History of the Roman Empire』を刊行した。

※Michaelは、Romaの経済を担ったのは「bourgeois」であり、imperialismを志向する国家によって「資本主義」が支えられていた、と現代(当時)の用語によってRomaの社会・経済を説明した。古代を称揚する人々からは低く評価されがちなImperator政Romaを歴史学の対象とし、社会経済史という地味だと思われがちな領域においても学問は面白く展開できると示したと考えられる(樺山紘一『世界史への扉』)。

・1927年 Georges Lemaîtreは論文「銀河系外星雲の視線速度を説明する、一定質量で半径が成長する宇宙(仏:Un Univers homogène de masse constante et de rayon croissant rendant compte de la vitesse radiale des nébuleuses extragalactiques)」を発表した。

※Einstein方程式の解であり、宇宙は膨張するという結論を導いた。Albert Einsteinは膨張宇宙という見解を認めることはなかった(佐藤勝彦『宇宙137億年の歴史』)。

・1927年 梁啓超は『儒家哲学』を公刊した。

※中国に西洋哲学が輸入されると、それと同等の「哲学」と呼ばれるべきものが伝統的に存在していたのか否かが問題として扱われることとなった。伝統的な「中国」の思想が西洋「哲学」の範疇に吸収されてしまうのではないかという危惧もある中、啓超は「中国」には「哲学」は存在しないのであって、伝統思想はその中に含まれないという立場を取った(納富信留「哲学の誕生をめぐって」『世界哲学史1』)。

・1927年 Martin Heideggerは『Sein und Zeit』を出版した。

※「存在とは何か」という、PlátōnやAristotélēsの時代から問われてきた問題についての著作である。Schola哲学、René Descartes、Gottfried Leibniz、Immanuel Kant、Georg Hegelらによって考えられ続けた、西洋哲学の根本を貫く問いであるとMartinは考えた(木田元『ハイデガーの思想』)。

※Martinは「存在」と「存在者」を区別し、「存在」とは存在者を存在者たらしめるものだと考えた(木田元『ハイデガーの思想』)。

※Martinと同じEdmund Husserlの門下であったMax Schelerは、動物は特定の環境下に適応した行動様式を備えており、その環境を離れることのできないという在り方を「環境束縛性」と呼んだが、Martinはその影響を受け、そうした人間の在り方を「世界-内-存在(独:In-der-Welt-sein)」と呼んだ。ただ、人間は他の動物とは異なり記憶や予期の働きを持つため、与えられた環境に過去と未来を想定することが可能であり、自身に与えられた現時点における環境構造を一つの「世界」の様態であると考えることが可能であるのだと説いた(木田元『ハイデガーの思想』)。

※「In-der-Welt-sein(世界-内-存在)」という用語における「世界」とは、地球上の地理的なものではなく、天体や宇宙、それをも包摂する「全て」を意味する言葉である(納富信留『世界哲学のすすめ』)。

※MartinはLudwig Wittgensteinと同じ年に産まれ、DeutschとÖsterreich-Magyarが敗戦した当時、29歳であった。『存在と時間』には、Ludwigの『論理哲学論考(独:Logisch-Philosophische Abhandlung)』と同じように、愛国心のある青年が第一次世界大戦の敗戦に衝撃を受けたことによる、終末論的な要素があることが指摘される(木田元『ハイデガーの思想』)。

・1928年(和暦昭和3.) 夏 平泉澄の邸宅に東京大学国史学科の学生,中村吉治らが訪れた。吉治は「農民の歴史」を卒業論文で書くという計画を伝えたところ、澄は「百姓に歴史がありますか」と答え、さらに「豚に歴史がありますか」と畳み掛けた。(「 経済史とともに四十年-中村吉治教授を囲んで」『経済学』86・87合併号『老閑堂追憶記』)

※澄はEskimoや台湾の「生蕃」について「未だ曽て歴史をもたざる人類」であるとし、「山河鳥獣が何かの機縁によって文化人の歴史にあらはるゝと同じ」であると言及しており(「『文化人類学』を読む」)、そのような人々は「歴史」を持たないため人類学の対象にはなっても史学の対象にはならないとして、2つの学問を混同してはならないと述べる。百姓に関する「歴史はありますか」という言及は、民族(人種)差別的、大衆蔑視的であったことからなる発言であるとも考えられる(今谷明「平泉澄の変説について」)。

※当初の澄はasile調査といった人類学的手法を取り入れて『中世に於ける社寺と社会との関係』などの成果を発表しているほか、浜田耕作の講演「考古学より見たる九州古代の住民」(『史学雑誌』31-6)を「近来の痛快なる議論」と紹介しており、人類学への興味を持っていたことが窺える。そこから人格を重視する歴史観へと変化したのは、Africaの黒人を「世界史」の対象に含めないGeorg Hegelや、文字を知らない農民を牛と同等であると考えたEdward Gibbonなどの見解が特異でもなかったEuropa歴史哲学への接近が理由とも考えられる(若井敏明『平泉澄』)。

※澄は百姓であった二宮尊徳のことを高く評価しいることや(日本学叢書『報徳外記』解説)、座右の書としていた『神皇正統記』には「万民をくるしむる事は天もゆるさず、神もさいはひせぬ」とあることから、百姓自体を蔑視していたわけではないとも指摘がある (田中卓「平泉史学における"豚"と"百姓"」『平泉史学と皇国史観』)。

※「豚"に"歴史があるか」という問いかけは、豚自身が自らの歴史を持っているか、豚は歴史への自覚があるかという意味であり、Friedrich Nietzscheの『Unzeitgemäße Betrachtungen(反時代的考察)』第2論文「 Vom Nutzen und Nachteil der Historie für das Leben(生に対する歴史の利害について)」に述べられる、「 動物は過去を忘却するため歴史というものがないのであり、生命あるものは歴史を持つからこそ人間たりうる」という哲学観を踏まえて発言したものとも考えられる。また、澄の発言は百姓を豚と等しいと見なしたというのは誤読であり、「歴史がない」という点で百姓と豚は共通しているという主張であったとも考えられる。また、澄はただ人間が生きているだけ時間を「歴史」とは見なさないのであり、高い精神作用と人格と自覚によって「歴史」が生まれるとした。澄が高く評価した二宮尊徳のような百姓は一般的ではないため、そのような「歴史」のない存在は研究対象になりえないと述べたとも考えられる(田中卓「平泉史学における"豚"と"百姓"」『平泉史学と皇国史観』)。

※吉治は相田二郎からも「けっこうなことですが、史料がありませんよ」と窘められており(歴史科学協議会 編『現代歴史学の青春』)、当時の国史学科をはじめとするacademism史学においては農民の歴史は対象外であるという風潮があったと指摘される(若井敏明『平泉澄』)。

・1929年(和暦昭和4年) 8.1  『マンガ・マン』が創刊された。

※この雑誌はAmericaの最新マンガ紹介などを行い、注目を集めることになる(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1929年(和暦昭和4.) 西田税、陸軍少尉,菅波三郎、海軍少尉,藤井斉らによって、天剣党規約が起草された。

※北一輝は、西田税を通して結成を主導していた。彼は自身の革命理論の実行力は軍部であると考えており、陸海軍の尉佐官級の将校らに対して、その思想を吹き込んだのである(秦郁彦『軍ファシズム運動史』第一章)。

・1929年 Sirbia人-Hrvatska人-Slovenija人 Rex国は国名をJugoslavijaへと変更した。

※それまで、Hrvatska(羅:Croatia)地方はHabsburg家の影響力が強かった一方、Sirbia・Bosnia・Makedoniaは ʿOs̠mān的なIslām化の浸透とSlav文化を保持しようとする運動が拮抗する状況にあった。そうした異なる文化のもとにある地域を1つの国家とするために、同じ南Slav系言語を話す民族として団結するという理念のもとに「Jugoslavija民族」という概念が生まれたのである(小田中直樹『歴史学って何だ?』)。

・1929年 José Ortega y Gassetは『La rebelión de las masas(大衆の反逆)』を刊行した。

※「大衆」が問題にされるようになったのは20世紀初頭からである。Joséは「大衆」のことを、他の人々と同じであることに喜びを感じ、現状に満足し、権利を主張するが責任を取ろうとはしない人のことだと分析した。大衆というのは、自らの意志に基づいて行動することや、それに伴う責任を引き受けるという主体性に欠けた受動的な存在だということになる(小田中直樹『歴史学って何だ?』)。

・1929年 Lucien FebvreとMarc Blochは『Annales d'histoire économique et sociale(社会経済史年報)』を創刊した。

※LucienとMarcら「Annales学派」と呼ばれる人々は実証主義歴史学を批判し、「新しい歴史学」をつくる必要性を説いた。彼らは、歴史家というものは現代を生きる人間として過去に接する者であるため、過去への関わり方は特定の問題関心に基づく主観的な視点になるのだと主張した(小田中直樹『歴史学って何だ?』)。

※研究を行うための資料を選択するのは、「自分」の問題関心であるため、歴史学というものは資料を観察するのではなく解釈する学問領域であると主張した。科学としての歴史学を「問題史」として捉えた点において歴史学界に衝撃を与えることになった(小田中直樹『歴史学のトリセツ』)。

・1929年 Edwin Hubbleは論文「A Relation between Distance and Radial Velocity among Extra-Galactic Nebulae」を発表した。

※Edwinは観測により、宇宙が膨張していることを発見した。Doppler効果は音と同様に波の性質を持つ光にも当てはまり、遠ざかるものは波長が長くなって赤いものとして観測され、近づくものは波長が短くなって青いものとして観測される。彼は様々な銀河を観測した結果、比較的近い銀河を除いて殆どの銀河から来る光は赤みがかったものであることを観測した。つまりは、地球から遠くにある銀河は地球から遠ざかっていっていることになる。また遠くの銀河ほど速い速度で遠ざかっていたため、宇宙は膨張していたことが判明したのである。Albert Einsteinはその結論に納得して膨張宇宙を認め、自身の方程式から「宇宙項」を外した(佐藤勝彦『宇宙138億年の歴史』)。

・昭和5年(1930) 9. 参謀本部ロシア班長,橋本欣五郎、陸軍省調査班長,坂田義朗、東京警備司令部参謀,樋口季一郎を発起人として、桜会が結成された。結成の目的は、陸軍省と参謀本部の将校を中心とした国家改造であった。(「田中清手記」)

※欣五郎は同年にTürkから帰国しており、Mustafa Kemalの行ったような革命と改革を、日本において実現させることを望んでいた。その意志が結成の原動力となっており、彼が事実上の首領として活動することとなる(秦郁彦『軍ファシズム運動史』第二章)。

・1930年(和暦昭和5) 10.1(9.末∪10.3) 桜会の第1回会合が行われた。網領として、国家改造を目的とし、その達成のためならば武力行使も辞さないことや、国軍将校に国家改造のための意識を注入することなどが採択された。

・1930年 Alfred Rosenbergは『Der Mythus des 20. Jahrhunderts. Eine Wertung der seelisch-geistigen Gestaltenkämpfe unserer Zeit. (20世紀の神話)』を刊行した。

※Alfredは"Meister"Eckhart von Hochheimのことを、何者にも屈しない自由で高貴な「German魂の力」の体現者として、もはやChristos教ではない「German民族の宗教」を生み出した民族的な英雄として評価した。Nazisは、「German魂の力」は他民族との混血していない場合において継承されるという、国家・民族と人間の合同を説くものとして「Deutsch神秘主義」を解釈した。こうして、その思想は民族主義・愛国主義的なものへと取り込まれることとなった(阿部義彦『ドイツ哲学入門』コラム ドイツ神秘主義)。

・1931年(和暦昭和6.) 1. 『少年倶楽部』新年号にて、田河水泡(本名:高見澤仲太郎)による「のらくろ」の連載が開始した。

※子どもは犬が好きということで、主人公は犬の野良犬黒吉となった。略して「のらくろ」である。最初は「のらくろ二兵卒」として開始した。野良犬黒吉が、親兄弟もおらず宿もないような境遇を逞しく生きる姿や、よかれと思って行動した結果失敗する愉快さが受け入れられ、人気を博した。のらくろが連隊の中で階級を上げる姿も、人気の理由であった。当時の講談社が、立身出世を称揚する色調であったことも関連していると思われる(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1932年 Robert Ervin Howardは「The Phoenix on the Sword」(『Conan the Barbarian』第1作)を掲載した。

※主人公はCimmeria人という設定であり、その名が「Conan」という古代Celt語の男性名なのは、Celt人の一部族であるCimbri族がCimmeria人の末裔であるという俗説を採用したからである。欧米人にとって、Hun人が「野蛮な黄色人種」と見なされがちであったのに対して、同じ遊牧民でもCimmeria人は「高貴な白色人種」であるという印象があったことが背景にある。Cimmeria人は記録の乏しさから後世の人々の想像力を掻き立てる存在となっていた(青木健『アーリア人』)。

・1932年(和暦昭和7) 柳田國男は『口承文芸史考』を出版した。

※印刷技術の発展に伴い、物語を口承で伝える文芸が衰退したと國男は嘆いた。口承の衰退は、それを伝えていた「常民」の歴史意識をも変容させてしまうものだとされる。また、彼は『不幸なる芸術』においても文化が必ず書かれたものの中に保存されているという考えの批判を試みている。そうした思想の根底には、農村の近代化によって失われつつある常民文化から日本の今後を見据えようとする姿勢があった(野家啓一「「物語る」ということ」『物語の哲学』)。

・1933年 Aldous Huxleyは『Brave New World(すばらしい新世界)』を刊行した。

※この小説の設定では、人間は工場で産まれ、精神状態は薬物で管理可能になっている。また、性的快楽の追及は推奨されるが、それは出産や家族とは切り離されてある(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・1933年 Michael Oakeshottは『Experience and its Modes』を公刊した。

※Michselは、「歴史」というものは歴史家の経験であり、歴史を書くという行為によってのみ作られるのだと述べた。そうした論評は、歴史的事実は純粋な形としては存在せず、記録者の解釈を通して提示されることを示していると考えられる(Edward H. Carr『歴史とは何か』)。

・1933年(和暦昭和8) 3. 中村書店から、大城のぼるによる「愉快な探検隊」が刊行された。

※この作品の出版が、「ナカムラマンガ・ライブラリー」シリーズのはじまりであった。中村書店はその後も、個性的な若手のマンガ家を見出し、育てていった(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1933年(和暦昭和8.) 5. 『少年倶楽部』6月号にて、島田啓三による「冒険ダン吉」の連載が開始した。

※連載のタイトルページでは「痛快漫画物語」と銘打っているが、実際は挿絵を多く付けた物語(絵物語)であった。南洋と島に漂流したダン吉が、島の王になる物語である。人気を博した理由の1つとして、南進論が盛んになった時代背景が考えられている(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1933年 KibaがTenkodogoの君主として即位した。

・1936年(和暦昭和11) 1.25 『東京朝日新聞』にて横山隆一による「江戸ッ子健ちゃん」の連載が開始した。

※『東京朝日新聞』から、世の中を明るくするような連載マンガを求められてのものである。当初は1ヶ月の間連載するとの約束であった(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1936年 Edmund Husserlは『Europa諸学の危機と超越論的現象学(独:Die Krisis der europäischen Wissenschaften und die transzendentale Phänomenologie)』を刊行した。

※Edmundが「危機」だと考えたのは、Europaの「合理性」と「科学性」に基づく政治・経済機構が人間の繁栄を齎すといった考えが、科学技術による殺戮が行われた第一次世界大戦という出来事によって否定されたという当時の状況であった。彼は時代の「危機」への対処のために「合理的・科学的」思考の起源と構造の解明を試みた。自然科学の問題として提示されたのは、それが「生活世界」を基盤としていることを忘却し、はじめから自存自立したものであるような誤解されている、ということである(山口一郎『現象学ことはじめ』)。

※「生活世界」というのは、人々が日常生活を過ごし活動する世界であり、行為の主体である「私」を、動機づける物・事がその周囲を取り囲んでいる、という構造において捉えられる。どれほど現実から乖離しているように思える学問の探究などであっても、全ての行為は生活世界の中において実践されるのである(鈴木崇志『フッサール入門』)。

※EdmundはEuropa文化が歴史的に形成されるにおいて、その過程で生じてきた学問の「危機」を指摘する。Europaにおいては、近代科学の成立以降、客観性を成立させるために自然を数学化して捉えることが一般化したが、客観性と実証性を規範とするそうした学問が、生に関わっていないということである。あらゆる学問は、歴史的・文化的、つまりは時間的に形成されたものであり、「生活世界」において営まれるものである。人間は、自分たちに自明なものとして与えられる世界の一部のみを対象としているものの、そうした生活世界という基盤を忘却し、学問によって生活世界全体を対象にすることが可能だと考えてしまっていることを問題視したのである。そこでEdmundは生に対する学問の意義の回復を主張したのである(本郷均『新しく学ぶ西洋哲学史』第16章 二〇世紀哲学の端緒)。

・1936年 Walter Benjaminは論文「Der Erzähler(物語作者)」を発表した。

※Walterは「物語る」という芸術が失われようとしていることに対する愛惜を表明している。彼の思想の基底には世界大戦に対する喪失感と、その戦争から生じた新たな危機に対処しようとする意志であったとも考えられる。柳田國男とWarterの物語論は、「物語」の終焉という現象を通して「近代」を考察の対象とした点で共通点が指摘される(野家啓一「「物語る」ということ」『物語の哲学』)。

・1936年(和暦昭和11) 平泉澄は『萬物流轉』を刊行した。

※文中において澄は、心を惹かれる人物としてProtestantの神学者,Ernst Troeltschを挙げ、「理想と現実、信仰と学問、教義と歴史、この普通に相反し相容れず、それ故に常人の必ず一面を見て他面に目を閉づる困難なる問題を、そのままに直視して、ここに血路を見出そうとした」態度であったと述べている。祠官の子息として生まれ国史学の教授となった澄としては、信仰と学問の矛盾という問題に関してはErunstと同じように重要であり、そのような矛盾の解消は澄の望んだところであった。日本は歴史自体が信仰の源泉となりえる風土でありながら、神学的な基盤が希薄であったため、 国史学において実証された事実を信仰の内容とする「皇国日本」という理念を確立させ、日本nationを集約化させて日本を興隆させるための原動力に転化させることを考えたのである (植村和秀『丸山眞男と平泉澄』)。

・1936年 JugoslavijaにHrvatska(羅:Croatia)自治州が設置された。

※Hrvatskaの独立を支持する人々は「Jugoslavija民族」よりも「Hrvatska民族」の方が歴史が長いと主張することでHrvatskaの独立を正当化した。国家を正当化するうえでは民族の、民族を正当化するうえでは歴史を利用することが有効だと考えられたのである(小田中直樹『歴史学って何だ?』)。

・1936年 12.11 Great Britain-北IrlandのRex,Edward Ⅷは退位した。

※君主位、権利などを(正式に)放棄することを意味する英語abdicateは、ab(~から(離れて))とdicare(宣言する)によって構成されるLatin語abdicare(放棄する)の変化形abdicat-に由来する。退位することを意味する言葉として使われるようになったのは18世紀初頭以降である(Glynnis Chantrell 編『オックスフォード 英単語由来大辞典』)。

・1938年 Karl Jaspersは『実存哲学(独:Existenzphilosophie)』を出版した。

※「Existenzphilosophie(実存哲学)」という言葉はKarlによって広まり、Martin Hideggerの『Sein unt Zeit(存在と時間)』もそれに含まれると彼は規定したが、Martinは自身の著作の目的が人間存在の分析とは別にあると主張し、自身の思想とKarlのそれが同一視されることを嫌った。(木田元『ハイデガーの思想』)。

・1938年 Benedetto Croceは『思考としての歴史と行動としての歴史(伊:La storia come pensiero e come azione)』を出版した。

※Benedettoは全ての歴史は「現代史」であるという警句を述べた。歴史の本質は過去を現代の諸問題を照らし合わせ現代の視点から見ることであり、歴史家は記録に値する事象を評価することが、記録することよりも重要であると考えたのである(Edward Carr『歴史とは何か』)。

・1939年 8.23 DeutschとSovietは不可侵条約を結んだ。

※Europaを共産主義から守る者を自認しており、日本とも防共協定を結んでいたDeutschがSovietと結んだことは、「権力政治的視野」を欠く日本の政府と国民を狼狽させたことが指摘される(高坂正堯『国際政治』)。

・1941年(和暦昭和16) 12.8 日本はAmericaとGreat Britain-北Irelandに対して宣戦布告を行った。

※日本は「鎖国」を行ったため、同じ「第一地域」と区分されるGreat Britain-IrlandやFranceと異なり、Feudalismの崩壊と植民地経営による富の蓄積が遅れたとも考えられる。もっと早く勃発する可能性があったGreat Britain-Irlandと日本による衝突は、1941年にまで引き伸ばされたという見解もある(梅棹忠夫「文明の生態史観」)。

・1942年(和暦昭和17) 3.15 横山隆一の「フクちゃん」はアニメ化され、「フクちゃん奇襲」が発表された。

※キャラクターが戦争キャンペーンに使われるのは、国民感情の反映である(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1942年(和暦昭和17) 南原繁は『国家と宗教』を刊行した。

※繁はAlfred Rosenbergによる"Meister"Eckhart von Hochheimの思想解釈を批判した。Eckhartが説くところの、神と一体化した人間の魂の神性というものは、民族の血統によって継承されるのではなく"Christos"Yēšúaに繋がる全ての人間に開かれたものであると述べた(阿部義彦『ドイツ哲学入門』コラム ドイツ神秘主義)。

・1942年 Carl Gustav Hempelは論文「The Function of General Laws in History」を発表した。

※Carlは、歴史家は過去の出来事を記述するだけでなく、過去の出来事同士の相互連関を見出して「歴史的説明」を行っており、そうした何らかの出来事によって別の出来事が起こるという叙述は、一般法則を前提としていると指摘した。彼によると、自然科学は初期条件から出来事を予測するのに対して、歴史学は出来事から初期条件を遡及して考えるという、探求が時間的な方向性において異なることを指摘した。つまりCarlに従うのであれば、歴史学を含む「精神科学」は自然科学と構造的には同一であり、Wilhelm Diltheyが主張したような「感情移入」による「理解」のような特有の方法は、「説明」を発見するための方法に過ぎないことになる。また、歴史的出来事から厳密な法則を見出すことは困難であるとして、歴史記述は、経験的探究の方向性の指針となる素描的なものだとCarlは述べている(野家啓一『歴史を哲学する』)。

・1943年(和暦昭和18) 1. 西谷啓治は『日獨文化』に「獨逸神秘主義と獨逸精神」を発表した。

※それまでもWilhelm Windelbandの哲学史を通して「Deutsch神秘主義」と"Meister"Eckhart von Hochheimの思想は知られており、波多野精一『西洋哲学史要』と朝永三十郎『近世における「我」の自覚史』にも、Martin Lutherの宗教改革より始まる精神史の端緒と理解されていた。ただ、本格的にそれらの思想を紹介したのは啓治と上田閑照が最初である。啓治は、Alfred RosenbergはEckhartの思想をNazism的に婉曲していることを指摘しながら、Eckhaltの思想と民族を結びつけて論じている(阿部義彦『ドイツ哲学入門』コラム ドイツ神秘主義)。

・1945年(和暦昭和20) 4.12 長編アニメ「桃太郎 海の神兵」が発表された。作画者は瀬尾光世である。

※手塚治はこの映画を見て、日本において高技術のアニメが作られたことに感動したのだという(NHK『ぼくはアニメの虫』)。

・1945年(和暦昭和20) 10.9 『読売新聞』は天皇制の支持・不支持に関する集計結果を掲載した。

※集計は天皇制支持が95%という結果が出ることとなった。当時の『読売新聞』や『社会評論』では天皇制批判が展開されており、世論を天皇制不支持へと誘導する動きがあったが、一部の知識人の予想とは異なり、国民は軍部への反発を抱いてはいても、怒りの方向が天皇制へと向かうことはなかったのである(今谷明『象徴天皇の発見』)。

・1945年 Karl Popperは『The open society and its enemies(開かれた社会とその敵)』を刊行した。

呪術的、部族的、もしくは集団主義的な社会を「閉ざされた社会」と位置づけ、「開かれた社会」と対立するものだと述べる。「開かれた社会」というのは、個人が個人的な決定を行える世界であり、その誕生の契機はSōkrátēsであるとする。そしてPlátōnは師を裏切り、個人を社会の一部でしかないと考える全体主義的な「閉ざされた社会」に回帰させたのだと説いている(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・1946年(和暦昭和21) 1.4 『少国民新聞』において、手塚治虫(本名治)は「マアチャンの日記帳」を掲載した。デビュー作である。

※一度治は持ち込みに失敗しており、掲載に関して、本人は幸運だったと回想している(手塚治虫『ぼくはマンガ家』)。

・1946年(和暦昭和21) 4.22 『夕刊フクニチ』が創刊され、そこで長谷川町子による「サザエさん」の連載が開始した。

※一般的なサラリーマン家庭の日常生活を捉えた作品で、戦後の日本の世相に、ほのぼのとした笑いをもたらすことになる(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1946年(和暦昭和21) 4. 津田左右吉は『世界』に「建国の事情と万世一系の思想」を掲載した。(『世界』四)

※『世界』編集長,吉野源三郎は、かつて『神代史の研究』などの出版を理由に禁固刑の判決を受けたことのある左右吉に対して天皇制批判の論文を執筆してもらうことを期待して依頼した。しかし、左右吉が源三郎に送った論文は天皇制賛美にも思われるものであったため、源三郎は困惑し、羽仁五郎はそのような論文を載せたら、革命が起きた際にはguillotineだと源三郎を恫喝した。左右吉は天皇のことを「国民統合の中心であり国民精神の生きた象徴」と表現している。左右吉は1月に原稿を書き終えており、憲法草案が国民に知られるようになった3月よりも早い。ただ、2月上旬~中旬までGHQ本部で憲法草案の編成を行っていた民政局のCharles Kades大佐らが、岩手県平泉に籠居していた左右吉の言動を知るはずはなく、各々「象徴」という語句を以て天皇を表現することになったのである(今谷明『象徴天皇の発見』)。

・1946年(和暦昭和21) 11.3 「日本国憲法」が公布された。

※新たな憲法下においても、外交上は日本の元首(英:The Head of Japan)と扱われる。皇居の住所が千代田区千代田1丁目1番地、郵便番号が100-0001となっていることは、天皇の住居は日本国の中心であることを示していると考えられる(所功『「天皇学」入門ゼミナール』)。

・1946年 故Robin Collingwoodの『歴史の理念(英:The Idea of History)』が公刊された。

※Robinは歴史家が研究する「過去」というものは、「過去そのもの」と「過去を巡る歴史家の思考そのもの」の相互関係における両方であると考えた。そうした考えは、「History(歴史)」という言葉が調査・探究という意味と、その対象となる過去の事象という二つの意味が含まれることに基づいている(Edward Carr『歴史とは何か』)。

・1947年 8.14 IndoとPākistānが分離独立した。

※Indoはそれまで何度も外部からの侵入があったもののGreat Britain-北Irelandが退却することぬったのは、同化できなかったことが理由とも考えられる。侵入者がIndo文化に同化してしまう点は、日本やDeutschなどと異なり、自分を中心として文明を展開できたことと相俟って、Indo人の自信と自尊心を生み、文化的優越性を信じる傾向性を強めたとも考えられる(梅棹忠夫「東と西のあいだ」『文明の生態史観』)。

※Punjabは両国に分割された。そのためPunjabで用いられていた巡査の制服は、どちらの国にも残ることとなった。Pākistānの分離は、国民の生活を変えるものではなかったとも考えられる(梅棹忠夫「東と西のあいだ」『文明の生態史観』)。

※Indoの官僚における責任回避や不親切さなどの傾向は、Great Britain-北Irelandの統治下において、自身の決断や努力が報われるという経験がなかったことが理由にあるという分析もある(梅棹忠夫「東と西のあいだ」『文明の生態史観』)。

・1947年 Fred Hoyleは定常宇宙説を提唱した。

※Fredは、物質密度が減少する分だけ新たに物質が創生されるのであり、膨張宇宙の密度は常に一定になると考えた。彼は、高温の「火の玉」が急膨張したことで宇宙が始まったとするGeorge Gamowの説を批判し、それを「Big Bang」理論と名付けた(佐藤勝彦『宇宙論入門』)。

・1948年 映画『The Search(山河遥かなり)』が公開された。

※劇中で、America兵が逃げ回る孤児を担いで運ぶ描写があるが、それがAfghānistānの遊牧民が小さい家畜を運ぶ方法に似ていることが指摘される。Asia西部とEuropaの、古い時代の農牧文化としての共通点とも考えられる(梅棹忠夫「東の文化・西の文化」『文明の生態史観』)。

・1949年 George Orwellは、小説『Nineteen Eighty-Four(1984)』を刊行した。

※この小説の舞台は、全体主義的な監視社会であり、家の中まで監視され、国家に報告されるといったものである。『すばらしい新世界』と同様に、近代の思想が進む先は、公的な空間が私的な空間にまで及び、家族の親愛は否定されるという観点のうえにあり、ディストピアの抵抗の起点として性愛を描く点が共通している(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・1949年 Fernand Braudelは『La Méditerranée et le Monde méditerranéen a l'époque de Philippe Ⅱ(Philippe Ⅱ時代の地中海と地中海時代)』を刊行した。

※Ernest Labrousseと並ぶ、当時のAnnales学派の指導者的立場の人物であった。Fernandは地中海を研究対象とし、その歴史を短期的な「事件」、中期的な「変動」、長期的な「構造」という視点から分析すべきことを主張した。県や地方といった国家内の狭い範囲を研究対象としたErnestとは対象的であるものの、分析対象の空間的な規模に関心を向け、その内部における政治・経済・社会・文化といった全ての側面を把握することの重要性を指摘した点で問題意識が共通している(小田中直樹『歴史学のトリセツ』)。

・1949年 Claude Lévi-Straussは『親族の基本構造(仏:Les structures élémentaires de la parenté)』を刊行した。

※Claudeの構造主義には、人類文明全体に共通する構造を発見するという理念に基づいており、普遍学を目指していた(千葉雅也『現代思想入門』)。

・1951年 Hannah Arendtは『全体主義の起源(英:The Origins ofTotalitarianism)』を出版した。

※Great Britainのpublic schoolから脱落した人々が植民地に向かうこと、Franceにおける「不思議な人種主義」の誕生、Österreich-Majarの崩壊による東Europaの人種の「坩堝」の状態など、20世紀の「全体主義」の起源となった19世紀秩序の崩壊を中心として論じられている(宇野重規『政治とは何か』)。

・1952年(和暦昭和28) 4.28 日本は主権を回復した。

※日本の町の中にある文字は、Roma字も含めて日本語が多く、大衆間における植民地文化的要素の希薄さが指摘される。IndoやPākistānの街に英語が多いことと異なるのは、英語国家による統治の期間の長短に由来するとも考えられる(梅棹忠夫「東と西のあいだ」『文明の生態史観』)。

・1952年 8.29 

・1952年 石母田正は『歴史と民族の発見』を刊行した。

※正は民族に着目して歴史を解釈することを提唱した。彼にとって正しい民族の在り方とは「 人民が権力を握る」ことであって、そのためには社会革命が必要であると考えていた。正の考える歴史というものは社会革命に至る過程なのである(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』)。

・1953年 Ludwig Wittgensteinの遺作『Philosophische Untersuchungen(哲学探求)』が刊行された。

※「後期」に位置づけられるこの書物は、「言語ゲーム」という概念が用いられる。「石版!」という発話は、「石版をもってこい」かもしれないし、石版に対する感嘆の意味かもしれない。発話内容は、発話外の状況によって定まるのであり、発話そのものを分析しても無意味というのがそれである。発話内容を知るのは、「言語ゲーム」を行い、規則を試行錯誤を学ぶほかないというのである(東浩紀『哲学可能性の哲学』)。

※言語ゲームにおいては、明確な規則は定められておらず、規定の内容も変容する。自分が何のゲームを行っているか分からないまま、ただゲームを続けているとされる(東浩紀『哲学可能性の哲学』)。

・1953年 Lucien Febvreは『Combats pour I'hittoire(歴史のための戦い)』を刊行した。

※Lucienは、歴史家は意図や問題意識を持って歴史を見ざるを得ないため歴史は「選択」であると述べている。歴史が「選択」であることを理解しようとしないとして、実証主義歴史学に対して批判を加えた書だといえる。ただ、彼は歴史の「正しい認識」を不可能だと考えたのではなく、認識をどのように組み合わせるべきかという解釈を問題にしていた(小田中直樹『歴史学って何だ?』)。

・1955年(和暦昭和30) 1.22 総理大臣,鳩山一郎は、施政方針演説において、「不良出版物」が青少年に悪影響を与えていると述べた。

※ 「青少年に有害な文化財に関する決議」を受けての発言である。新聞が発言を取り上げたことで、非難が拡大し、小学校の校庭でマンガが燃やされる事件も発生した(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1955年 2.14 Pablo Ruiz Picassoは《Algerの女たち(仏:Les Femmes d'Alger)》第15号を完成させた。

※Ferdinand Victor Eugène Delacroixによる同名の作品に感化されて作成された第1号から15号までの連作の絵画である。第15号の縞模様はFerdinandの配色法を装飾的に強調したものであることが指摘される。また、Ferdinandの絵画では不鮮明にされている水煙管や絨毯の装飾模様といったものは、Pabloの第15号においては詳細にされるなど、Pabloは現実性を強調したとも考えられる(高階秀爾『ピカソ 剽窃の論理』)。

・1955年(和暦昭和30) 遠山茂樹・今井清一・藤原彰は『昭和史』を刊行した。

※はしがきにおいて「戦争をおしすすめた力とこれに抵抗する力との対抗」に注目して叙述されたことが述べられている。茂樹らは歴史の総体的な流れを規定するのは経済の動きであると考え、それに基づきて解釈を行った。こうした「経済的基底還元説」は当時の主流な解釈であった。『昭和史』は、経済の動向の影響力だけを強調しており人間の姿に関心が向けられていないことを批判された(小田中直樹『歴史学って何だ?』)。

・1955年 NewYork近代美術館で『十六人のAmerima人展(英:Sixteen Americans)』展が開催された。

※Robert Rauschenbergは図録に寄稿している。Robertの作品にはCoca-Colaの瓶、自動車の車輪、動物のぬいぐるみなどが用いられており、「芸術は写実性を再現するものである」という既存の考え方が、芸術に実物が持ち込まれることで変容されることとなった(Arthur Danto『アートとは何か』)。

・1957年 Karl Popperは『歴史主義の貧困(英:The Poverty of Historicism)』を出版した。

※Isidore Auguste Comte、John Stuart Mille、Karl Marxの歴史観について、全体論的でEutopia的であることを批判している。人間を超えた先後関係の秩序を設定し、その秩序へと導く「歴史学」は「工学的」であって人間経験の実情に反するものであり、歴史を説明することも、未来を良くすることも不可能であると述べられている(船木亨『現代思想史入門』)。

※Karlは、一般化を行う全ての科学は、自然科学であろうとも社会科学であろうとも、演繹的な因果的説明を提供して、その説明を試すという、同一の方法を用いていると述べた。ただ、彼はMarx主義における唯物史観のような、歴史の予測を可能にする「歴史法則」というものは虚妄であるとし、また科学的説明の前提となる反証可能性を持たないことから、歴史学を自然科学・社会科学から区別されるとした。そのためKarlは、歴史理論というものは科学的に反証不可能なため理論ではなく、「歴史解釈」であるとした。Karlは『The open society and its enemies(開かれた社会とその敵)』において歴史は意味を持たないため人間は歴史に意味を与えることが可能であり、歴史解釈は現実における諸々の困難へと応答であると主張している(野家啓一『歴史を哲学する』)。

・1957年 TigreがTenkodogoの君主として即位した。

・1958年 Hannah Arendtは『Vita activa oder vom tätigen Leben(人間の条件)』を刊行した。

※私的な欲望を満たす人間は動物と変わらず、公的な領域に関わってこそ人間は人間でいられるとHannahは説いた(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

※『創世記』には「神は男と女とに彼らをつくった」とあるが、そこにHannahは、人間は本来複数として存在するのだという、「人間の多数性」という原理を見出した。Hellasでは男女が当初は一つであり、それが半身となったものと考えていたが、『創世記』においては最初から人間個々人は「他者」同士として創造されたものとして語られる(並木浩一 奥泉光『旧約聖書がわかる本』)。

・1960年 1.1 North Carolina大学は『International Nietzsche bibliography(Niezsche文献書誌)』を刊行した。

※Friedrich Nietzscheが死去して60年後には、既に彼の研究書や論文が2000点以上発表されていた。そのことは、世界の思想界に刺激はや興奮を与え続けていたことを示すとも考えられる(西尾幹二 渡邉二郎『ニーチェを知る事典』まえがき)。

・1960年(和暦昭和35) 5.24 丸山眞男は学者文化人集会に登壇して演説を行った。(「選択のとき」『丸山眞男集』8)

※演説において眞男は岸政権を民主主義の敵であると批判した。国民は民主主義の理念に基づき、政府を打倒する主権者であるべきだと主張しており、現実から外れた理念を実現させることが必要であるとの立場をとった(植村和秀『昭和の思想』)。

・1960年(和暦昭和35) 7.19 岸信介政権は総辞職した。

※丸山眞男は「民主主義の原理というものが、とにかくはじめは上からきたものではあるけども、それが十五年の過程を経て国民の間に浸透していった」(丸山眞男「安保闘争の教訓と今後の大衆闘争」『丸山眞男集』8)と語っている。終戦を決定したのは天皇であり、国民主権を憲法で規定したのはAmericaであった。丸山眞男にとっては国民主権を実証したという点において自由民主党政権が続いていたとしても、岸内閣総辞職を意義あるものと捉えていた(植村和秀『昭和の思想』)。

・1961年 Emmanuel Lévinasは『全体性と無限(仏:Totalité et infini)』を刊行した。

※Emmanuelは、自己を中心として全て取り込む「全体性」とは無限に異なるものとして「他者」という概念を提示し、「他者」に向き合うことの倫理を論じた。「他者」は自己から絶対的な遠さがあることが強調されている(千葉雅也『現代思想入門』)。

※『申命記』第5章5節以降に述べられる、神Y(a)h(a)w(e)hからMōšeに与えられた「十戒」の一つには、Y(a)h(a)w(e)hの「顔の前に」他の神があってはならないという形で述べられているものがある。Yehud人の考えでは、「顔」というものはその顔の持ち主の最も深い内容の現れであるとされ、神が「顔」として現れ人間と対峙するという構造になる。 Emmanuelの述べる「顔」は、他者の現れの究極的な表現として顔を捉える『申命記』にその思想の発端があるとも考えられる(並木浩一 奥泉光『旧約聖書がわかる本』)。

・1962年 Karl Popperは『推測と反駁(英:Conjectures and Refutations: The Growth of Scientific Knowledge)』を刊行した。

※序章「知識と無知の根源について」においてKarlは、「無知」という事象を単に知識の欠如ではなく有害な力の働きとして捉えるような、René DescartesやFrancis Bacon以来の考えを批判した(鶴想像人「無知学とは何か」『無知学への招待』)。

・1963年 Michel Henryは『現出の本質(仏:L’Essence de la manifestation)』を刊行した。

※Michelは「Erscheinubg(現出)」の本質を、「自己現出」であると考えた(Bernhart Waldenfels『フランスの現象学』)。

・1963年 Edward Thompsonは『England労働者階級の形成(英:The Making of the English Working Class)』を刊行した。

※産業革命の結果、労働者となった人々が自身を労働者であると意識するようになったかを論じた著作である。社会保障制度が整ったGreat Britain-北Irlandでは、そうした「福祉国家」を担う民衆に対する歴史学の関心を強めることとなった。そのため、どのような経緯で民衆という階層が形成され、政治、経済、社会に関わってきたかといった、労働者の歴史を研究する「労働史学(英:Labor history)」が誕生したのである。Leopold Rankeの学派は公文書を中心として研究を行ったため、労働者のような民衆は、労働組合など集団でしか見出すことが困難であった。そこで労働史学においては、Ranke学派が対象として重んじなかった労働者の日記や労働組合の記録、労働者が好んだ詩などの私文書を活用して当時の労働者の意識に迫ろうとした。民衆の生活や意識も歴史学の研究対象になるという主張は、他の国の歴史学者にも広まってゆくことになった(小田中直樹『歴史学のトリセツ』)。

・1964年  Jean-Paul SartreはNobel文学賞に選出された。

※論理的・概念的一般化を拒絶し、認識ではなく自己表現を通して実存的自己了解を求めるがために文学的表現を行ったのは Søren Kierkegaardにおいて特徴的なことであるが、Jean-Paulもまた文学的業績を有するのである(八木誠一『宗教とは何か』)。

・1965年 Arthur Dantoは『Analytical Philosophy of History(歴史の分析哲学)』を出版した。

※Arthurは、「歴史全体」に関して説明や予言を試みる、Marx主義のような歴史理論を「実体論的歴史哲学」と呼び、その不可能性を指摘した(野家啓一『歴史を哲学する』)。

※Arthurは、歴史的出来事それ自体は意味を持たないのであって、意味を与えるのは「narrative(物語り)」であると考えた。そして、そのような「story(物語)」を語るという行為は、その筋(plot)に関連する複数の出来事を選択して関連づけ、統一的な意味を与えるのであって、それは始め・中間・終わりを持つ述べている。つまりは変化がどのように起こったかを説明する記述となる。Karl Hempelの提唱した自然科学と歴史学に共通する法則は、変化の説明という視点が欠落していると批判される(野家啓一『歴史を哲学する』)。

※歴史的事態というのは、因果の連鎖のような無際限のものではなく、始めと終わりが設定されており、時間が経過という「方向づけ」がなされている。出来事が時間的経過のうえで生成されているという「組織化」が働いていることが、「物語」の機能であると考えられる(河本英夫「物語と時間化の隠喩」『諸科学の解体』)。

※歴史叙述というものは、歴史的事象から事実を選択し、時系列順に接続し、因果関係や動機的説明を付与し、一つの秩序立った物語へと構成することだと述べられている。そうした「物語」の開始と持続と終焉は、歴史的出来事の最中にいる人々は理解していない。歴史的出来事を「物語」の中に位置づけ、その意味を決定するのは、それを語る歴史家ということになる(小林道憲『歴史哲学への招待』)。

※歴史叙述における「narrative(物語り)」は、ある出来事と別の出来事と関連づけるものであるが、その際に他の出来事を重要ではないものとして除外するものとなる(鹿島徹「物語り論的歴史理解の可能性のために」『可能性としての歴史』)。

※Arthurは、少なくとも二つ以上の、時間的に離れた出来事を指示したうえで、その初期の出来事について記述するというのが歴史記述の際の典型的な文の構造であるとし、それを「narrative sentence(物語り文)」と呼んだ。また、そうした文の働きを示すものとして、彼は「理想的年代記」という、あらゆる出来事をそれが発生した時点にといて観察に完全な形で記録する能力を持つ者によって書かれる年代記を想定した。彼は「三十年戦争」を例に挙げ、その戦争が開始した時点においてはそれが三十年続くかは不明であるのであって、複数の出来事を「物語」として構成していない以上は、それは歴史記述たりえないのだと考えた。過去にある出来事が起こったという事実は変わらないとしても、Nicolaus Copernicusが地動説を発見したことによって、Aristarchosの地動説が「Copernicusの理論を先取りした」理論へと変化するように、過去の出来事の意味は事後的に変化するのだと彼は述べている(野家啓一『歴史を哲学する』)。

※Arthurが例に挙げた「三十年戦争」について「三十年戦争は1618年に開始された」と述べる場合には、戦争の開始と集結という二つの時間を関連づけ、より前の時間上の出来事について言及することとなる。開始と終了の二つの時点を決定することで、歴史的出来事の時間的推移を説明することとなる。また、そうした時間の「組織化」は、「農民の反乱」といった個々の出来事に「France革命」の進展が見出されるように、全体的な歴史的事態の一部として部分的出来事が位置づけられることとなる。過去の出来事を可能な限り記録する「理想的編年史」は、二つ以上の時間点の出来事同士の関係性について言及していないため、歴史たりえないと彼は考えた。また、例えばLorenz Okenの「球状体説」が後の時代の「細胞説」が形成されるうちの中途段階にあると評価されたとしても、Lorenz自身はそうした自覚はないように、学説の発展のような事態の進行という形での歴史叙述は、「理想的編年史」とは異なる性質を持つとされる(河本英夫「物語と時間化の隠喩」『諸科学の解体』)。

・1966年(和暦昭和41) 7.17 円谷プロダクションによる『ウルトラマン』の放送が開始した。

※主人公は宇宙人(ウルトラマン)でありながら地球人(防衛隊員)という立場にあり葛藤し、隊員に対しても宇宙人という姿を隠している。そうした描写には、脚本を担当した金城哲夫が沖縄出身であり、沖縄と日本という2つのアイデンティティの間で葛藤していたことが理由にあるとも考えられる(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1969年 Hannah Arendtは『暴力について(英:On Violence)』を刊行した。

※Hannahは、評議会は、革命の伝統や理論の結果としてではなく、まったくなかったものであるかのように出現すると説いた。これは評議会コミュニズムが、「贈与―返礼」という交換様式Aを高次元で回復するものであることを示すとも解釈される(柄谷行人『世界史の構造』)。

・1970年(和暦昭和45) 11.1 平泉澄は時事通信社より『少年日本史』を刊行した。(「刊記」)

※澄の皇国理念に基づいて記述される史実の内容は取捨選択されている。そして吉野時代(南北朝時代)に南朝に仕えた「忠臣」のことを真の日本人であると捉え、その「忠臣」の魂に倣い日本という歴史世界を護持するべきであると主張したのである。歴史上に現出した南朝の「忠臣」のような日本の理念を信じるという信仰のもとに、学問を修め主体的に行動することを個々の日本人に求めたのである(植村和秀『昭和の思想』)。

・1972年(和暦昭和47) 3.31 『帰ってきたウルトラマン』が放送を終了した。

※最終回に主人公は故郷であるM78星雲に帰還する。それを沖縄の本土復帰への動きを連想させるという見解もある(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1972年 Jacques Derridaは『Positions』を刊行した。

※Derridaは「deconstruction(脱構築)」という手法を提示した。二項対立の状況下においては、片方は非本質的と見なされ、否定的に捉えられる。その否定的に捉えられた方に味方するような論理を立てると、対立する二項の優劣が留保された状態が生まれる。そうして本質的とされる価値観の優位性を崩すと、世の中を解放的にするということが可能になるとも考えられる(千葉雅也『現代思想入門』)。

・1972年(和暦昭和47) 5.15 沖縄は再び日本国に帰属した。

・1974年(和暦昭和48) 4.5 『ウルトラマンタロウ』が放送を終了した。

※主人公は最終回で地球に残る道を選択する。地球は日本自体の暗示であるとして、沖縄の本土復帰に連動していると考える見解もある(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1974年 Emmanuel Lévinasは『Autrement qu'être ou Au-delà de l'essence(存在とは別様に、あるいは存在することの彼方へ)』を出版した。

・1975年 America大統領,Ronald Reaganは退任した。

※退任演説においてはJohn Winthropに言及し、「We've done our part(我々は自分の役割を果たした)」と述べている。Robaldの言葉における「自分の役割」に対応するのは「神の役割」である。神に対する約束を果たしたことを述べ、神に対してAmericaを繁栄させるという「契約」の履行を求めたことになる。そうした実利的なAmericaの発想は、Christos教徒の中でも特殊であることが指摘される(森本あんり『反知性主義』)。

・1975年 Edward Osborne Wilsonは『社会生物学(英:Sociobiology: The New Synthesis )』を出版した。

※それまではHerbert Spencerの社会進化論はCharles Darwinの進化論とは異なって科学ではなく、人文社会科学に自然科学的なものを導入するのとは忌避されていたが、『社会生物学』が出版された1970年代以降の「生命科学の時代」ならは、生物学的な観点から人間や文化が積極的に論じられるようになった(横山輝雄「スペンサーと社会進化論」『世界哲学史7-近代Ⅱ 自由と歴史的発展』)。

・1978年 Edward Saidは『Orientalism』を刊行した。

※Edwardは「Orient」という言葉が、西洋(Occident)から見た東洋を意味する言葉でうることを指摘した。西洋による東洋に対する異国趣味や東洋趣味には、東洋を劣等と考える「Orientalism」があると主張された(近藤二郎「古代西アジア」『古代西アジアとギリシア』)。

・1979年 Jean Lyotardは『La condition postmoderne(postmodernの条件)』を刊行した。

※Jeanは、民主化や機械化によって人間は進歩すると信じる近代の「大きな物語」の風潮が失われたと説いた。資本主義の発展の結果、価値観が多様化が共通の理想が失われた時代は、postmodernの段階と捉えられる(千葉雅也『現代思想入門』)。

※人間関係の複雑化と技術の高度化、情報の多様化によって、「歴史のtrend」の共通了解が成り立たなくなったとJeanは考えたのである。そのため、実際の歴史の時流は描き出せなくなり、また無意味なものになったと彼は考えた。つまり、歴史学には解釈をするということが不可能になったということを意味する(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』)。

・1979年 Joseph BeuysはGuggenheim美術館で展覧会を開催した。

※中央大広間に脂肪の塊を展示したことは、何であれ芸術になりうるというJosephの宣言に沿うものであった(Arthur Danto『アートとは何か』)。

・1982年(和暦昭和57) Saul Kripkeは『Wittgenstein on Rules and Private Language』が刊行した。

※1982年の講義をもとにした著作である。この著作においては、思考実験が述べられる。足し算をして、125という答えが出たと思ったら、懐疑論者が現れ、実は計算していた記号「+」はプラスではなく「クワス」であり、125ではなく答えは5になるというのである。Saulはこの懐疑論者の主張は、反論できないものだと述べる。しかし、この懐疑論者のような人は、価値観を共有できず、共同体の「Game」から放逐される。Saulは、先にGameの規則があって共同体が作られるのではなく、共同体を作った人々が、68+57の答えを125と答えられるような、価値観を共有する者を選別することでGameの規則が確定すると考えた(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

※68+57を5と答えるような人は、共同体から排除される。しかし共同体の構成員から、その答えは125であると告げられ、誤りを訂正できる人は、共同体に受け入れられる可能性がある(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・1983年(昭和58) 12.1 尾崎豊は「15の夜」を発表した。(『十七歳の地図』)

※「盗んだバイクで走り出す」という歌詞は、閉塞的な社会秩序の「外」に出るという解放的なものして捉えられた(千葉雅也『現代思想入門』)。

・1985年(和暦昭和60) 8.15 日本の総理大臣,中曽根康弘は靖国神社を参拝した。

※参拝の形式は手水を用いず祓いを浮かず、二礼二拍手を行わず玉串を捧げないといったものであったが、それに靖国神社宮司,松平永芳は反発した(『諸君』平成4年12月号)。康弘の参拝が先例となって祓いを受けずに政治家が参拝するといったことが行われるようになれば、清めという神道の本質的な伝統習俗が、政教分離を優先したことで失われてしまうことを懸念したからである。永芳は平泉澄と同様に神道は国を守るためにあるべきと考えていたのであり、そのため政教分離に反対したのだと思われる(植村和秀『昭和の思想』)

・1987年 12.8『The Amazing Spider-Man #299』において、Venomが初登場した。

※毒液を意味する英語venomや有毒なことを意味する形容詞venimousは、愛欲を意味するLatin語venusから、惚れ薬→魔力→毒、という連想を経て生まれた言葉である(清水建二『教養の語源英単語』)。

【日本】大正の時代

・1912年(和暦明治45) 7.30 嘉仁親王が即位した(大正天皇)。(『大正天皇実録』)

・1913年(和暦大正2) 9. 西田幾多郎は論文「自然科学と歴史学」を発表した。(『哲学雑誌』)

※西南Deutsh学派・新Kant派の歴史哲学を紹介した早い例であり、歴史とは何かということを考える風潮があったことを示すものであると考えられる(若井敏明『平泉澄』)。

・1913年(和暦大正2) "漱石"夏目金之助は『現代日本の開化』を公刊した。

※日本の近代化というものは、Europaが主導して形成される世界状況に適応することによってなされた「外発的」なものであると論じている。世界を模倣することに熱心なあまりに、内面がどのようなものであるかを忘れてしまう形で近代化がなされたことを述べているとも考えられる(西部邁『思想の英雄たち』)。

・1914年(和暦大正3) 高野辰之作詞・岡野貞一作曲による文部省唱歌『故郷』が発表された。

※リズムパターンは賛美歌『風はげしく』に由来する、三拍子の「欧米風」楽曲である。ただ、二拍子のリズムでも歌うことが可能になっていた。二拍子は鍬を用いるリズムに近く農耕民族の感性に親和的であることから、日本の故郷を思わせる歌として定着したとも考えられる(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1915年(和暦大正4) 12.13 Cecil DeMille監督による映画『The Cheat』が上映された。 

※出演した早川雪洲が演じたのは東洋人富豪のCheat(卑劣漢)であった。黄禍論の広まりから、日本人が経済力を強めてAmericaに挑戦しようとしているという風潮が社会にあり、映画にも反映されている(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1916年 Albert Einsteinは論文「Die Grundlage der allgemeinen Relativitätstheorie」を発表した。

※1905年に特殊相対性理論を提唱し、1916年には一般相対性理論を完成させた。一般相対性理論においては、時間と空間が、その上に乗る物質によって変形することを明らかにした。宇宙全体の物質分布がわかっていれば、特定の場所の時空の歪みは、どの場所にどのような質量の物質があり、どのような速さで運動しているかをEinstein方程式(Gμν+Λgμν=8π/光速の4乗×Tμν)に代入することで求めることが可能となる(佐藤勝彦『宇宙論入門』)。

・1916年 Ferdinand de Saussureの『Cours de linguistique générale(一般言語学講義)』が出版された。

・1917年 Great Britain=IrelandのRex,George Vは君主家の家名をSachsen-Coburg und GothaからWindsorへと変更した。

※Deutsch国とÖsterreichを敵国とした連合国は、DeutschというNationに対してのpropagandaを行った。そのためGreat Britain=Irelandの君主家がDeutsch系の家名を変更したほか、Deutsch系住民は自身の出自を否定することとなった。こうしてDeutschというNationはDeutsch国とÖsterreichの外部から変容することとなった(植村和秀『ナショナリズム入門』)。

・1917年 Marcel Duchampは《泉(仏:Fontaine)》を独立芸術家協会主催の展覧会に出品した。

※小便器に偽の署名を殴り書きした作品である。出品料さえ払うならどのような作品でも展示可能という、独立芸術家協会の方針に対する威圧を込めた出品であったとも考えられる。協会委員長は、便器は排水部分であって芸術作品ではないと主張して展示を拒否した(Arthur Danto『アートとは何か』)。

・1918年 America大統領,Thomas Woodrow Wilsonは「Fourteen Points(十四か条の平和原則)」を発表した。

※Thomasの提示した「民族自決」の原則に基づくNationalismの気運が高まったことで、第一次世界大戦の後には植民地主義は悪いものとして扱われるようになった(Krishan Kumar『帝国』)。

・1918年 平泉澄は東京大学の大学院に進んだ。

※黒板勝美からの提案で就職を断ったのであり(平泉澄『悲劇縦走』)、勝美によれば澄を史料編纂掛で採用する案もあったが反対したという(森克己「六十年の思い出」)。その背景には「復古的国史観・王政復古史観」的な三上参次・辻善之助の派閥(史料編纂所派)と、「洋式史観・西洋史学」的な黒板勝美の派閥(国史学派)の対立がらあったと考えられる。勝美としては澄を後継者として国史学を史料編纂事業から独立させることを望んでいたとも推測される(若井敏明『平泉澄』)。

・1918年 Alfons Dopschは『Economic and Social Foundations of Europian Civilization(Europa文化発展の経済的社会的基礎)』の刊行を開始した。

※Roma Impelator国の末期からChristos教Europaにかけて、経済・社会組織・慣習が連続していることを論じたものであった。Alfonsの学説が注目されたのには、第一次世界大戦による殺戮と破壊を経験し、Ozwald SpenglerによるEuropa文明の没落という見解が受容されていた当時、Europa人は彼の学説を慰めとして縋ったからとも考えられる(樺山紘一『世界史への扉』)。

・1918年 Oswart Spenglerは『Der Untergang des Abendlandes(西洋の没落)』を発表した。

※諸文化の興亡の歴史を体系的に捉えようとした先駆であると考えられる。Oswartは文化を生物体のようなものと捉えていたため、彼へ文化同士の境界線は明確にあるものと考えていたと推測される(鈴木薫 岡本隆司『歴史とはなにか』)。

・1919年(和暦大正8) 2. 東京大学の各分科大学が学部に改組された。こうして東京帝国大学が発足した。

・1919年(和暦大正8) 三上参次が東京帝国大学史料編纂掛事務主任を退任し、代わりに黒板勝美が事務主任となった。

※参次と同じく田中義成は史料編纂掛を退き、2人は文学部専任となった。このようにして、国史学科にはじめて専任の教官がつくようになった(若井敏明『平泉澄』)。

※勝美の携わった『大日本古文書』の編纂および出版は『大日本史料』のそれとは完全に別のものとして進められており、古文書部の独自の路線を窺わせる(若井敏明『平泉澄』)。

1919年(和暦大正8) 8.1 北一輝らは、猶存社を結成した。

・1919年(和暦大正8) 12.20 日本エスペラント学会が発足した。

※主宰者には黒板勝美がいた。彼はEuropa・Americaの博物館を巡った経験からEsperantoに興味を持っていた。田口卯吉の文明史の影響とも考えられる(北康弘「国制史からみた聖徳太子」)。

※黒板勝美がEsperantoを評価したのは、母語が外国語からの影響を受けて変化してしまうことを避けることができると考えたからだという(若井敏明『平泉澄』)。

・1919年 Carl Schmittは『Politische Romantik(政治的Roman主義)』を著した。

※Karl Friedrich SchlegelとAdam Müllerを「政治的Roman主義者」として批判した著作である。彼ら初期Roman派は当初France革命に熱狂していたが、その熱狂から冷めたには、政治から遠ざかって精神的な革命を志向して観念的な文学の世界に耽溺していったことを批判している。また、CarlはCatholic教会による秩序の形成と維持に注目し、それを参考にして近代国家の法秩序を構想しており、Roman派がCatholicの儀式などに神秘性や神聖さを見出して評価したことを、Catholicの本質に迫っていないのだと述べている。Carlが自分の生きた時代の100年程前の思想を熱量を持って批判したのは、同時代の「保守主義者」を批判することが本来の目的であったからとも考えられる(仲正昌樹『カール・シュミット入門講義』)。

・1920年(和暦大正9) 黒板勝美は 東京帝国大学史料編纂掛事務主任を退任し、代わりに辻善之助が事務主任となった。

※勝美は編纂業務嘱託として史料編纂掛に留まったが、史料編纂掛からは少し距離を置いたのだと思われる。広汎な仕事を行う彼にとっては、 編纂掛事務主任としての仕事は細々としていると感じ、好んでいなかったとも考えられる(若井敏明『平泉澄』)。

・1922年 Ludwig Wittgenstein『Logisch-Philosophische Abhandlung(論理哲学論考)』が刊行された。

※言葉は世界を記述するための道具であると彼は考えた。命題(詩などを除いた全ての文)の構造を分析し、世界との対応関係を定め、言葉を適切に使用すれば、世界の謎のほとんどは解消されると彼は主張した(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・1922年 Carl Schmittは『現代議会政治の精神史的状況(独:Die geistesgeschichtliche Lage des heutigen Parlamentarismus)』を出版した。

※Carlは、自由主義は多様な意見による討論を本質とし、そのためには一定の閉鎖性と安全性を保つための秘密性が必要であるとした。一方で民主主義は誰が味方で誰が敵かを確認するためにあるもので、そのためには広場における民衆の「喝采」が本質であるとした。民主主義と自由主義を明確に区別するという特徴がある(宇野重規『政治とは何か』)。

・1922年 Aleksándr Frídmanは「Friedmann方程式」を発表した。

※Einstein方程式に対する解である。彼は「宇宙項」を入れずに方程式を解いた。宇宙を永遠不変と考えたAlbert Einsteinの見解とは異なり、宇宙が膨張したり縮小したりするという結論を出した。Arbertはその計算の正しさを認めたが、宇宙は静止しているという当時の科学者の常識的な考えを維持し続けた(佐藤勝彦『宇宙137億年の歴史』)。

・大正13(1924) 4. 大川周明らは行地社を創立した。

※行地社は猶存社の後継とも見なされる。北一輝や周明による運動は、満蒙問題を巡るナショナリストとしての危機意識が背景にあった。彼らは腐敗した政党政治に対する中間層の反発をもとに、富の再分配の実現を企図した。こうした周明らによる国家社会主義的な発想は、中間層や下層出身者の多い、陸軍・海軍尉佐官級将校の精神に対して影響を与えうるものだった(秦郁彦『軍ファシズム運動史』第一章)。

・1924年 1.22 "Lenin"Vladimir Ulyanovは死去した。

※共産主義は無宗教を掲げていたが、Leninの遺体が安置された廟は宗教施設的であった。また、Leninの遺体は防腐諸費を施されて保存されることとなったことも、SovietにはRussia革命以前の宗教的ないし民族的な観念が残っていたことを示すものであり、特定の土地で続いている文化や習慣は、France革命やRussia革命などによる全面的な否定の運動があったとしても絶やすことは困難であり、また重要視された要素は回帰することが指摘される(東浩紀『訂正する力』)。

・1924年 André Bretonは『Manifeste du surréalisme(surréalisme(第一)宣言)』を出版した。

※Andréは、「無意識」というものを、夢などに現れる、接触することの出来ない世界に、筆記や描画によって接近しうることのできるものであると考えた。Automatismeによって、意識されない精神の接触している"現実(real)を"超えた先の世界、「surréal(超現実)」に到達するとされる。Automatismeを芸術と同一視する彼の考えは、抽象芸術主義者が自らを「物質的な力」が流出する巫覡として捉えるようになったことに影響した(Arthur Danto『アートとは何か』)。

・1925年(和暦大正14) 平泉澄は論文「歴史における実と真」を発表した。(『史学雑誌』第36篇5号)

※「実」のみを考証によって追求するだけでは、歴史というものは精神と「真」を失ってしまうと主張される。歴史の分析による研究は歴史の「解体」であり、さらには「死」であるとして、分析だけではなく統合が必要であると考えたのである(若井敏明『平泉澄』)。

※重野安繹は史学会を発会した目的を「西洋歴史ノ法ヲ参用シテ、国家ヲ裨益」することと述べており、歴史は大まかに「攷究ト編修トノ二ナリ」であると(重野安繹「史学ニ従事スル者ハ其心公至平ナラザルベカラズ」)、実証だけで終わってはならないと主張している。澄としては安繹の考えを発展的に継承することを考えたとも推測される(植村和秀『丸山眞男と平泉澄』)。

・1925年(和暦大正14) 5. 平泉澄は論文「我が歴史観」を発表した。

※ 「歴史における実と真」においては、歴史研究は分析するだけではなく統合の必要性が説かれたが、この論文はその統合の内実を述べるものである。統合というのは歴史家が事実の中から採用する必要性のあるものだけを記述するというものであり、歴史家の問題意識と歴史認識に基づくものとされる。澄は、 当時の歴史学における、個々の事象を考証するという研究態度の克服の方法論として、その考証した内容を歴史家が主体的に統合すべきだと述べたのである。そのような彼の考え方は、「内的生活に浸透して国民思想の特質、時代精神の推移を洞察」するべきだという(平泉澄〈書評〉津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究 平民文学の時代・上』)考えに基づいており、社会のありかたを重視する研究姿勢に由来すると考えられる(若井敏明『平泉澄』)。

※澄の問題意識は、日本において歴史観が多種多様に雑居しており、それを整理しなければならないということであった。そのため、そのような状態を整理して、歴史家が自身の人格に基づき主体的に歴史を創造しなければ、歴史を理解することはできないと説いたのである(植村和秀『丸山眞男と平泉澄』)。

※澄はこの論文を発表して以降、自身の思想を「史観」として提示したことはない。しかし、後に彼の思想は「皇国史観」と呼ばれた。これは彼の歴史観というものが、人格主義・伝統主義に基づき、優れた人格を歴史上の「先哲」「忠臣」「義士」の中に見出し、正しい伝統を天皇政治の中に論証しようとするものだったからだと考えられる。澄は「皇国護持」という新たな言葉を提唱していたため、その史観は「皇国護持史観」と称すべきという見解もある(田中卓「皇国史観、何が悪い」『平泉史学と皇国史観』)。

・1926年(和暦大正15) 平泉澄は『中世に於ける社寺と社会との関係』を出版した。

※「中世」という時代を、それ以前の時代を明らかにすることによって研究を進めるという原勝郎が行った手法、を国史学会から提唱したものとなる。「上代より中世を導き出す原動力」というものを「武士武門の興起」であると主張し、中世の最初を保元の乱に位置づける。中世の特徴としては、公家の国家統制が弱まりながらも武家がその支配に成り代わることもできず、儒家も町人も勢力が大きくなかった時代に、僧侶の数の多さを背景に社寺勢力が社会と密接に関わっていたことであるとする。そして、強力な中央政権が不在の時代において社寺は自身の領域を治外法権的に運用したのであり、そこが犯罪者などが逃げ込む場所、いわばAsyl的な状態であったとする。そのような中世の社会像は、Europaの文献におけるAsylの在り方や、対馬の天道山に関する民族学的な研究に基づいて導かれた姿であった。彼はそのようなAsylが、近世において禁じられたことで本来の性質が変化して消滅したのだと考えた。彼の研究は「中世」という全体的な時代の把握からその社会像を提示し、「上代は公家、中世は武家」が勢力を持った時代だとする理解に異を唱えたという点で重要視される(若井敏明『平泉澄』)。

【清】宣統【日本】明治の時代

・1909年(和暦明治42) 5.19 "漱石"夏目金之助の『三四郎』が春陽堂から刊行された。(刊記)

※主人公の三四郎と、汽車で隣に乗り合わせた「紳士」は、日本が世界に自慢できるものが富士山しかないと嘆く。三四郎日露戦争に勝った日本を「段々発展するでしょう」と予想したが、それに対して「紳士」は「亡びるね」と答えている。漱石日露戦争の勝利に沸き立つ当時の風潮に、日本人の驕りを見ていた(水谷千秋『教養の人類史』)。

・1910年(和暦明治43) 3.22 板垣退助が監修し、宇田友猪・和田三郎が編纂した『自由党史』が刊行された。(刊記)

※退助の立場から戊辰戦争が回想されている。かつて板垣退助が対会津藩戦争に参加した際に、会津藩の滅亡に殉じようとする人々が約3000の武士団のみであったことに衝撃を受け、全ての住民が国家と運命を共にするような体制の構築を望み、それが自由民権運動の契機になったという。明治時代の人々の、江戸時代と異なり日本のNationが覚醒するという解放感が指摘される(植村和秀『ナショナリズム入門』)。

・1911年(和暦明治44) 2.6 西田幾多郎は『善の研究』を出版した。

※西洋哲学を導入して以来、日本には哲学の伝統がないという劣等感が生じていたが、幾多郎ら京都学派は日本独自の伝統を組み込んだ思想を展開したことで、日本にも「哲学」たりうる思想が生まれたという考えがなされるようになった。そのため、仏教・儒教導入以来の日本の宗教思想や、歌論・能楽書といった類の思想は、哲学と呼ぶべきではないという考えが広まることとなる(納富信留「哲学の誕生をめぐって」『世界哲学史1』)。

※『善の研究』か目標としたのは、「天地人生の真相」や「真の実在」がどのようなものであるかを明らかにすることであった。幾多郎は儒教や仏教といった東洋の思想に対する造詣が深く、そうした思想も用いながら、西洋哲学に含まれる問題を見出し、対峙しようとした。彼は西洋の哲学から、主観(=私)と客観(=主観が働きかける対象)が独立に存在しており、その二つの間で関係が成立するという、「主客二元論」を取り除かなければならないと考えた(藤田正勝『日本哲学入門』)。

※『善の研究』において最初に成立した第二篇「実在」においては、「真の実在」を知るためには「人工的仮定を去」ることが必要でうると述べている。認識の担い手(主観)と認識される対象(客観)という図式こそがそれであり、そうした枠組みを取り除くことで「真の実在」に迫れるのではないかと考えたのである。京都大学着任後の「哲学概論」の講義noteには、「真のfact of pure experienceは、knowだけである。Iはない。Knowもない、rotならrotだけである」という言葉が遺されている。その言葉は、「私」が私の外にある「何か」を意識するという、「主観」と「客観」という構図を無意識に持ち込む以前の経験そのままの状態(純粋経験)を、「赤なら赤だけである」という言葉で表現したものと考えられる(藤田正勝『西田幾多郎』)。

・1911年(和暦明治44) "鷗外"森林太郎は『妄想』を発表した。

Arthur Schopenhauerの自殺に関する思想を要約したものが述べられている随想である。思想の全体像を伝えるものではなく簡潔に纏められていることから、Arthurの哲学が自殺を論じたものであるという観念が日本で形成される要因になったとも推測される(西尾幹二ショーペンハウアーの思想と人間像」)。

・1912年 1.1 中華民国臨時政府が発足し、孫文が臨時大統領に就任した。

※それまで「中国」において支配を正当化していた儒教的理念とそれを基盤として成立していた封建制は否定され、「天」の原理にEuropa由来の「実証主義」が取って代わることとなった。また「帝国」という言葉は、西洋のImperiumと比較することが可能な、過去の「中国」を指す概念となった(Krishan Kumar『帝国』)。

【清】光緒【日本】明治の時代

・1875年(和暦明治8) 2.13 日本政府は「平民苗字必称義務令」を公布した。(太政官布告第22)

※政府は既に、公文書には姓を除いて苗字を使用することを定めていた。そのため、戸籍に登録した時点で、大江、菅原、藤原といった姓に由来する名乗りであっても苗字になったのである(岡野友彦『源氏長者』)。

・1875~1876年 Edgar Degasは《L'Absinthe》を完成させた。

※それまで画家の多くは自身の視点と机の高さを同じ位置にして描いていたことから、机は垂直線として描かれていた。しかしEdgerは日本の浮世絵版画の構図を応用し、机を斜め上から見下ろす形の構図で、左右非対称を強調した絵画を描いたのである(高階秀爾『ピカソ 剽窃の論理』)。

・1877.1.1 Great Britain-IrelandのRex,VictoriaはIndoのImperatorを兼ねた。

※Great BritainはRegnum(英:Kingdom)でありながら「British Empire(羅:Imperium)」と称されており、実際にIndoのImperatorを兼ねることとなった。この頃のEuropaではImperatorが多い時期になっており、Imperatorの統治する国とRexが治める国との間に対等な国際関係が結ばれるようになった。君主間の対等な関係が成立する点が、唯一の皇帝が天下(=全世界)を治めるという理念のあった「中国」と異なると指摘される(岡本隆司 君塚直隆『帝国で読み解く近現代史』)。

・1877年(和暦明治10)3.14∪24 野村文夫によって、『團團珍聞』が創刊された。

※この雑誌は政治風刺を得意としていた。また、UKの『Punch』紙から表紙やマンガ表現において強い影響を受けていた。その紙面場において活躍した本多錦吉郎は、『Punch』や『Puck』を参考にして、細密な絵を発表した。その画風は以前にはないものであり、マンガ表現の幅を広げた(清水勲『日本近代漫画の誕生』)。

・1878年(和暦明治11) Ernest Fenollosaは東京大学に赴任した。

※Ernestが担当したのは政治学、理財学(経済学)、哲学史であった。講義を受けた三宅雪嶺の『大学今昔譚』によれば、 René Descartes、Immanuel Kant、 Johann Fichte、Friedrich Schelling、Georg Hegelを取り扱ったのだという(藤田正勝『日本哲学入門』)。

・1878年 Friedrich Nietzscheは『人間的、あまりに人間的(独:Menschliches, Allzumenschliches)』を刊行した。

※副題には「自由なる精神たちのための書物(独: Ein Buch für freie Geister)」とあり、「自由なる精神」というものが重視されていることが理解できる。「自由なる精神」とは、真理として掲げられるあらゆる価値観から自由であり、自らの生活を導くための価値を創出する自由であるとされ、真なる価値のためにChristos教を批判するに過ぎないとして、「自由思想家」とは立場を区別している(清水真木『ニーチェ入門』)。

・1879年(和暦明治12) 植木枝盛は『民権自由論』を刊行した。(刊記)

※「自由の権」という概念を日本の人々に伝えることを目的としていた。彼は冒頭において「御百姓様」「御商売人様」「御細工職人様」「士族様」「御医者様」「船頭様」「馬かた様」「猟師様」「飴売様」「お乳母様」「新平民御一統」といった、その概念が最も役に立つ市井の人々に対して呼びかけている(戸田山和久『教養の書』)。

・1881年(和暦明治14) 松島剛によるHarbert Spenser『Social Statics(社会静学)』の日本語訳『社会平等論』が刊行された。

※板垣退助が「民権の教科書」と呼んだものであり、自由民権運動を支持する人々に影響を与えることとなった(藤田正勝『日本哲学入門』)。

・1881年 Charles Dawinは『蚓による腐葉土の形成(英:The Formation of Vegetable Mould, Through the Action of Worms, With Observation on Their Habis)』を発表した。

※本来wormという単語はAnglo-Saxon語で主に爬虫類を意味し、二義的に虫を意味した。しかし、14世紀後半に爬虫類を意味するFrance語reptileがBritainに入ったことで、wormは虫のみを意味するようになった(清水建二『教養の語源英単語』)。

・1881年(和暦明治14)頃 唱歌「蛍の光」が作詞された。

※Scotland民謡に、故事「蛍雪の功」を元に歌詞が付けられている。「あけてぞけさは、別れゆく」という歌詞の「ぞ」は係助詞であり、「ゆく」と、連体形の係り結びとなっている。当時、実際に日常で係り結びが使われていたわけではない(山口仲美『日本語の歴史』)。

・1882年(和暦明治15) 1. 官選正史として『大日本編年史』の編纂が開始した。

※憲法の制定と国会の開設が進展しつつある状況で、その政治構造を伝統の中に位置づけることが求められたのであり、日本の文化的遺産が注目されつつあった時期のことである(Margaret Mehl『歴史と国家』)。

・1882年 Friedrich Ratzelは『Anthropogeographie - Die geographische Verbreitung des Menschen(人類地理学)』の刊行を開始した。

※人間の構成する全ての原始社会集団が、置かれた地理的環境によって様々な形態へと発展するという見解が述べられている(篠田英朗『戦争の地政学』)。

・1882年 Friedrich Nietzscheは『悦ばしき知識(独:Die fröhliche Wissenschaft)』を出版した。

※自分たちが神を殺したと叫ぶ「狂気の人間」を、Martin Heideggerは「神へ向かって叫びつつ神を求めている人」として解釈した(「Nietzscheの言葉「神は死せり」」)。ただ、実際のところは、時代精神に沿わない狂人が、他の人々が見抜けなかった実際の事態を正確に把握したことと、そうした衝撃的な事件を群衆は理解できていないもいうことを意味するとも考えられる。また、Martinはその神を「超感性的世界一般の呼称」であり「死」はその喪失と読み替えたが、それは「Christos教の神が死んだ」という意味を薄れさせてしまうものであるとも指摘される。道徳的な人間はあの世で報われ、悪を行った人間はあの世で罰を受けるといった、それまでChristos教において当然視されていた観念が架空のものであることを意味する。そうして不条理にも、どのように生きても最終的には死ぬと無になってしまうということが、「神の死」として表現されたと考えられる(中島義道『過酷なるニーチェ』)。

・1883年 6. Friedrich Nietzscheは『Also sprach Zarathustra』第一部を出版した。

※「万人のための、そして何人のためのものでもない一冊の書」(吉沢伝三郎訳)という扉の言葉は、超人の候補者のためのみの書なのであって、超人に至った全ての者のための書であるという意味が込められている(中島義道『過酷なるニーチェ』)。

・1883年 Wilhelm Diltheyは『精神科学序説(独:Einleitung in die Geisteswissenschaften)』を出版した。

※Geisteswissenschaften(精神科学)とは、John Stuart Millの『論理学体系(英:A System of Logic)』第6部において考察の対象となった「moral sciences(道徳哲学)」のDeutsch語訳としてWilhelmが採用した言葉であり、彼はそれを「歴史的社会的現実を対象とする諸科学の全体」であると定義した(野家啓一『歴史を哲学する』)。

※Immanuel Kantが『Kritik der Reinen Vernunft(純粋理性批判)』において考察したのは自然科学的な理性であったが、 Wilhelmは「歴史的理性批判」を掲げ、歴史的存在としての人間の考究を行った。彼は精神科学の方法論として、それまで聖書や古典などに書かれた言葉の意味の理解を目的としていた「解釈学(独:Hermeneutik)」を採用し、絵画や彫刻といった芸術作品や人間の行為、道徳や宗教、社会、国家なども共同身体は人間の精神が外化されたものだとして対象に含めた。精神科学において「理解」というものは、自己の体験を起点として「感情移入」や「追体験」によって他者の体験を再構築することであり、人格や作品のみならず過去の歴史的出来事にも適用可能だと彼は考えた。精神科学において人間は「体験・表現・理解」という契機からなるLeben(生)の構造連関において捉えられるべきとされる。精神科学においての方法である「理解」は、自然科学において採用される「説明」という方法と対置される(野家啓一『歴史を哲学する』)。

・1884年 Friedrich Fregeは『算術の基礎(独:Die Grundlagen der Arithmetik)』を刊行した。

※Friedrichは「語は完全な文においてのみ本来意味をもつ」と述べている。彼は、各々語の理解は文、文の理解は節に、節の理解は章に、章の理解はText全体に依存しており、部分の理解のためには文脈全体の意味を「先取り」しなければならないという、文の理解には全体と部分の循環構造があることを指摘した。何について記述すべきかという全体像が必要でありながら、全体像自体は個別事象の探求によって知られなくてはならないという「出来事としての歴史」と「歴史記述」の関係にも、そのような循環構造があることも指摘される(野家啓一『歴史を哲学する』)。

・1884年(和暦明治17)頃 唱歌「あおげば尊し」が作られた。

※歌詞の最後あたりの、「今こそ別れめ(山口仲美訳:今こそお別れしよう)」の「め」は意志を表す助動詞「む」の已然形であり、「別れめ」に呼応して係り結びを作っている。書き言葉として残っていた古語によって作詞されており、当時、日常で使っていたわけではない(山口仲美『日本語の歴史』)。

・1886年 Friedrich Nietzscheは『悲劇の誕生(独:Die Geburt der Tragödie)』の新版を刊行した。

※1886年からはFrirsch書店がFriedrichの著作の版権を買い取り、新刊として出版することとなった。その際に彼は自身の著作に新たな序文を追加することとなった。自身の著作活動を総括するということは、自身の著作を文献学の対象としするような反省的な所作であると指摘される(村井則夫『ニーチェ-ツァラトゥストラの謎』)。

※新版は『 Die Geburt der Tragödie. Oder: Griechenthum und Pessimismus』に改題して刊行された。晩年のFriedrichは、著作としての欠点としてWilhelm Richard Wagner崇拝の書として誤解されたことや、自身の言葉による思想の表現が困難だったためにImmanuel KantとArthur Schopenhauerの(Frriedrichが考えるところでは誤っている)概念を利用せざるを得なかったこと、当時は「Deutsch」の精神・音楽に過度な期待を寄せてしまっていたことを挙げている(清水真木『ニーチェ入門』)。

・1886年 Ernst Machは『感覚の分析のために(英:The Analysis of Sensations)』を刊行した。

※人が長椅子に座り、左目だけで前方を見た場合に視覚される景色を描いた図像が掲載されている。自身の視点から見える光景こそが直接経験なのであり、そのような主観こそが「私が対象を見ている」というような「客観性」を事後的に構成しているのだと考えたのである(谷徹『これが現象学だ』)。

・1886年(和暦明治19) 5.頃 総理大臣,伊藤博文は、井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎に欽定憲法主義・大権内閣制・両院制議会法といった構想と「基本法」の起草方針を話した。(金子堅太郎『憲法制定と欧米人の評論』)

※「基本法」とは、憲政運営のために必要な、議会法・選挙法・貴族院令といった憲法附属法のことである。この際に毅が皇室典範と憲法、巳代治が議員法、堅太郎が選挙法の起草を担当するといった役割分担がなされたと堅太郎は回想しているが、書簡にそうした内容が見られないことから、どこまでが事実かは不明である(大石眞『井上毅』)。

・1887年(和暦明治20) 2.15 Georges Bigotは『トバエ』を創刊した。

※雑誌名は「鳥羽絵」に由来する(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1887年(和暦明治20) 5.? 中江篤介(兆民)は集成者より『三酔人経綸問答』を出版した。(刊記)

※最初は立憲君主制の実現が必要であり、その過程で与えられた「恩寵の民権」を「回復の民権」へと変え、自由、平等、博愛に基づく民主共和制に至るための努力が必要である説かれている(清水正之『日本思想全史』)。

※兆民は当時の国際政治について、それを暴力が支配する無秩序であると考えることを「過慮」であると批判し、国際政治の権力闘争は規則に従ったものであると論じた(高坂正堯『国際政治』)。

・1887年(和暦明治20) 11. 自由民権運動の呼びかけの後、政府が言論人への弾圧を行ったことに対し、Georges Bigotは風刺画を発表した。

・1887年(和暦明治20) Carl Busseが東京大学に赴任した。

※Carlが担当した講義は論理学、審美学(美学)、哲学史であり、彼が演習にImmanuel Kantの『Kritik der Reinen Vernunft(純粋理性批判)』を用いたのは、日本において資料の厳密な解釈による哲学研究が行われるようになったことを示している(藤田正勝『日本哲学入門』)。

・1877年 Arthur Conan Doyleは『Beeton's Christmas Annual』に『緋色の研究(英:Study in Scarlet)』の連載を開始した。

・1888年(和暦明治21) 4. 政教社は機関紙『日本人』を創刊した。

※紙上において政教社の人々は「日本民族(大和民族)」という自認を表明した。それは、政府は特定の藩閥ではなく日本人全体のための政治を行うべきであるという意志表明であった(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1888年(和暦明治21) 東京帝国大学に内閣臨時修史局が移管された。

・1889年 1.3 Freidrich NietzscheはTorinoにおいて発狂した。

※精神錯乱の原因としては、若い頃に罹患した梅毒による進行性麻痺や遺伝性の分裂病質などが考えられ、その複合によって病像は複雑なものになったと推測される。発狂の同日にCosima Wagnerに宛てた手紙からは、Freidrichの人格の同一性が崩壊したことが窺える(村井則夫『ニーチェ-ツァラトゥストラの謎』)。

・1889年(和暦明治22) 2.11 「大日本帝国憲法」が公布された。

※「大日本帝国憲法」がPreißenの憲法を模倣したのは、Deutsch国法学の影響力が強かったことが理由にある。井上毅やKarl RoeslerもまたDeutschの国法学や歴史法学に強い影響を受けており、東京帝国大学の法学部では、Deutschに留学経験のある美濃部達吉と宮沢俊義が憲法第一講座教授を務めており、その弟子が日本全国でDeutsch国法学に基づいて憲法論を教授していた(篠田英朗『戦争の地政学』)。

※「大日本帝国」という国号は、「中国」的な皇帝の統治する国としての名称であると共に、Great Britain-Irlandなどの「Imperium」的国家と同じような存在であることを示す意味を持っていた(Krishan Kumar『帝国』)。

・1889年(和暦明治22) 2.11 「皇室典範」が制定された。

〔要参考〕『皇室典範義解』は、皇室の「家法」を条定したものであるため、臣民に公布するものではないと述べる。

※帝国議会が触れることのできない法律である。何らかの理由で改正する必要があったとしても、帝国議会の審議や協賛は必要ないものであった(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

※皇位は皇統に属する男系男子が継承することが定められた。また、18歳以下である場合は皇族が摂政を担うことが定められた。このことから、天皇は成年であることを原則として定めたことが理解できる(仁藤智子「幼帝の出現と皇位継承」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

※天皇、太皇太后、皇太后、皇后の敬称は「陛下」と定められた。太皇太后を最初に、皇后を最後に記すのは、年齢・世代による長幼の序の序列に従ったからである(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

※複数の君主が存在することは政治的な混乱を生じさせると考え、譲位の規定は記されなかった。こうして天皇譲位という制度は否定されることになった(荒木敏夫「「譲位」の誕生」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

・1889年(和暦明治22) 2.11 日本政府は「衆議院議員選挙法」を制定した。

※武士身分でなくとも政治に携わることが可能となり、多くの人が日本というNationに拘ることが促された(植村和秀『ナショナリズム入門』)。

・1889年(和暦明治22) 東京帝国大学に国史科が創設された。

※前年の修史局移管とともに、日本の過去に関する研究が独立した学問分野になったことを意味している。こうした動きは、日本における発展様相の根幹が自国にあるということを、研究が保証してくれるという考えが背景にある(Margaret Mehl『歴史と国家』)。

・1889年(和暦明治22) 11.29 「大日本帝国憲法」が施行された。

・1889年 Henri-Louis Bergsonは『意識に直接与えられたものについての試論(仏:Essai sur les données immédiates de la conscience)』を刊行した。

・1890年(和暦明治23) 1.  "鷗外"森林太郎は『舞姫』を発表した。

※作中においては「シヨオペンハウエル(Arthur Schopenhauer)」の名が登場している。当時は「世紀末」だったこともあってArthurの著作は熱心に読まれた時期であり、日本でも例外ではなかった(西尾幹二「ショーペンハウアーの現代性」『ショーペンハウアーとドイツ思想』)。

・1890年(和暦明治23) 4.21 日本政府は『民法財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編』を公布した。(法律第28号)

※苗字のことは法律上「氏」と呼ばれることとなった。政府は苗字と姓を混同していたようである(岡野友彦『源氏長者』)。

・1890年(和暦明治23) 10.7 日本政府は『民法財産取得編・人事編』を公布した。(法律第90号)

・1890年(和暦明治23) 10.30 「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」が下された。

※明治政府は、精神・倫理における天皇の伝統的権威を復活させ、国民統合の象徴として、欧州の先進国から植民地にされることを防ごうとした。「大日本帝国憲法」と「教育勅語」によって、その支配体制の内実が規定され、国家・国民の活動は天皇の権威に統合され、同質化が強制された。しかし実際に統治機構を運営したのは各担当者であり、当の天皇は煩雑な手続きと儀式に拘束される機械的で無力な存在であった(秦郁彦『軍ファシズム運動史』第一章)。

・1891年 7. Arthur Conan Doyleは『The Strand Magazine』7月号において『Bohemiaの醜聞(英:A Scandal in Bohemia)』の連載を開始した。

・1893年(和暦明治26) 史誌編纂掛が閉鎖された。

・1894年  Therese Elisabeth Nietzscheは「Nietzsche Archiv(Nietzsche文庫)」を創設した。

・1894年 Wilhelm Windelbandは総長就任演説を行った。

※演説の内容は、自然科学万能主義の風潮が強まった当時において貶められていた、歴史学などの人文系学問の独立性を擁護するものであった。Wilhelmは自然科学は「nomothetisch(法則定立的)」であるのに対し歴史科学は「idiographisch(個性記述的)」であるという方法論に違いがあることを述べ、個性を探求する歴史学が普遍を探求する自然科学に劣らないと主張した(野家啓一『歴史を哲学する』)。

・1899年(和暦明治32) 3.16 国籍法が制定された。(法律第66号)

※この法律による外国人の日本国籍取得は、日本人の妻になった場合と、日本人父母に認知された場合、そして日本人女性戸主と結婚して家に入った場合と、日本人の養子になった場合、内務大臣の許可によって帰化した場合である。「国際法」「血統主義」「家制度」を混合して運営していたことが理解できる(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1900年 Edmund Husserlは『論理学研究(独:Logische Untersuchungen)』を刊行した。

・1901年(和暦明治34) 9.3 中江篤介(兆民)は東京博文館から『一年有半』を出版した。(刊記)

※「我日本古より今に至る迄哲学無し」と述べて、それまでの日本には「哲学」がなかったことを説いている。彼は、世界把握の認識論と、政治変革のための実践的哲学こそが哲学だと考えていた。そのため彼にとって伊藤仁斎や荻生徂徠は古典学者であり、本居宣長や平田篤胤は考古学であった。そのため彼の考える「哲学」は日本になかったのである(清水正之『日本思想全史』)。

※日本に「哲学」がないという言明は、自分が本当の哲学とは何であるかを示すという気概と希望を込めてのものであったとも考えられる(納富信留『世界哲学のすすめ』)。

・1898年 Maria(仏:Marie)・Pierre Curie夫妻は元素radiumを発見した。

※"rad"iumという名称は、放射線を発することからLatin語で光線を意味するradius,radiumに因んで名付けられた(ラテン語さん『ラテン語でわかる英単語』)。

・1900年 Pablo Ruiz Picassoは《Moulin de la galette》を完成させた。

※この時期のPabloは「青の時代」と呼ばれる。Pierre-Auguste Renoirと同じ舞踏場を描きながら、昼下がりの暖かなPierre-Augusteの作品とは対照的に、無気力さや悲哀さを感じさせる風景を描いている。落伍者や不具者、乞食などが題材になっているのは、そうした人々を描くことの多いEspaña絵画史の潮流にあることを示していると考えられる(高階秀爾『ピカソ 剽窃の論理』)。

・1900年頃【現代英語時代】

・1901年(和暦明治34) 黒板勝美は東京大学の史料編纂員になった。

・1902年 John Atkinson Hobsonは『帝国主義論(英:Imperialism)』を刊行した。

※自由主義者であったJohnは、「Imperialism」という言葉を非難の意を含めて用いており、Imperialismが否定的に語られる契機となった(Krishan Kumar『帝国』)。

※Johnの「Imperialism」は古代Romaの「Imperium」概念を同時代の問題として論じている。そのため、「Imperium」には「Imperator(皇帝)の国」という意味と「領土拡張主義」という意味が含まれることとなった(鶴間和幸「帝国と支配-古代の遺産」『帝国と支配 一(二)』)。

・1902年 Pablo Ruiz Picassoは《酒場の女たち》を完成させた。

※奥行きのない単純化された作風であり、色面によって装飾的構図を築く点はNabis派の影響である。また、描かれる女性の後ろ姿はMaurice Denisの《Moũsaたち(仏:Les Muses)》と相似であることが指摘される。ただ、Mauriceの描く女性は無表情であるのに対してPabloの描く女性は顔を見せておらず悲哀さを感じさせるものとなっているなど、画面構成はNabis派に学びながら表現する感情は異なっていたと考えられる(高階秀爾『ピカソ 剽窃の論理』)。

・1903年(和暦明治36) 内田銀蔵は『日本近世史』を刊行した。

・1904年 KomがTenkodogoの君主として即位した。

・1905年 Albert Einsteinは論文「Zur Elektrodynamik bewegter Körper」を発表した。

※それまでの物理学では時間と空間ははじめから存在するものと考えられており、学問の対象ではなかった。しかしAlbertは「特殊相対性理論」を提唱し、物体が光速に近い速度で運動する場合は、時間の進み方と空間の物差が共に変化することを明らかにした。時間と空間が関連しているといい考えは、既存の時間と空間に関する考えを変革することとなった(佐藤勝彦『宇宙論入門』)。

・1905年 Henri Matisseは『帽子の女(仏:La femme au chapeau)』を制作した。

※Henriは自身の妻に対する感嘆を、外観を写実的に描くのではなく、その個性的な特徴を通して描くことを試みた。Leon Battista Alberti的な芸術の基準から逸脱したような、 特徴的な帽子を被り、Paul Cézanne的な荒い斑点を背景とした女性の絵画は、展覧会においてFranceの公衆から嗤われることとなった。そうした反応にHenriは自身の資質を疑うようにもなったが、『帽子の女』を購入したLeo Steinから認められたことで、自信を回復させた。展覧会において絵画の購入されるということは、単に芸術の現金化したのではなく、Modanism初期において、嘲笑に勝利することを意味したとも考えられる(Arthur Danto『アートとは何か』)。

・1906年(和暦明治39) 原勝郎は『日本中世史』を刊行した。

※内田銀蔵の『日本近世史』の刊行とともに、日本の時代区分としての「中世」と「近世」を確立させた書籍として捉えられる。勝郎の研究は「中世史」という歴史時代を、その前の時代の社会体制から解明するという手法が評価された。ただ、元は西洋史家であった彼の研究は、「明治史学の強調した正確なる史料の上に立つ推論と云ふ点からも、多くの缺陥を持ち、従つて当時の国史学会には、殆ど何等の影響も与へることが無かつたのである」(秋山謙三「日本中世史研究の回顧と展望」)とも指摘される(若井敏明『平泉澄』)。

・1906年 孫文は「三民主義」を提示した。

※Daiching Gurunの改革者たちは、儒教的伝統に基づく「封建制度」を打破し、「国民国家」を成立させることの必要性を感じていた。彼らは「国民国家」はEuropaの発展の結果成立したものであると考えたが、当時のEuropa国家はImperium的性格を改める動きを見せていなかったため、改革を説いた人々はEiropaを誤解していたとも考えられる(Kurishan Kumar『帝国』)。

・1907年(和暦明治40) 1.31 『皇室典範』が公布された。(「勅令六号」)

※『皇室典範義解』が「皇室自ら其の家法を条定する者なり。故に、公式に依り、之を臣民に公布する者に非ず」と述べるように、本来は公布する予定はなかった(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

・1907年 Pablo Picassは《Avignonの女たち(仏:Les Demoiselles d'Avignon)》を完成させた。

※1905年以降のPaul Cézanneへの関心や、 古代Ibérica彫刻、Africaの黒人彫刻への興味が一つとなって作品に作用したことが指摘される(高階秀爾『ピカソ 剽窃の論理』)。

※売春街の五人の女性を描いた作品である。Africaの仮面のような顔の女性、Africaの女神のような顔の女性として描かれているのは、実際にそう見えた通りの外観を描いたのではなく、Rialityを重視したからこその描き方であると考えられる。右側のAfrica風で獰猛な女性二人、中央の柳腰の娼婦二人、そして左側のParis人女性、そうした表現は、女性の身体の進化ないし心理的な三段階の階層を示しているとも考えられる。そうしたPabloの表現は、写実的に視覚的なものを厳密に複製したものを芸術と見なし、PolynesiaやAfricaにおける芸術の形式をEuropaの初期の段階の原始的な段階に相当すると考えるような、既存の芸術史に対する闘争であったとも考えられる(Arthur Danto『アートとは何か』)。

・1907年 Henri Bergsonは『想像的進化(仏:L'Évolution créatrice)』を刊行した。

※Henriは人間の本質を、ものを作り自身を形成する創造活動であるとして、人間を「homo faber(作る人)」であると規定した。職人を意味するLatin語faber,fanrumは、France語を経由して織物を意味する英語fabricになったほか、捏造を意味するforge、でっちあげることを意味するfabricateの由来となった(ラテン語さん『ラテン語でわかる英単語』)。

・1908年 Friedrich Meineckeは『世界市民主義と国民国家(独:Weltbürgertum und Nationalstaat)』を出版した。

※Deutcshという拘りが、実際のPreußen国家と理念の関わりの中でどのように展開したかを述べた本である。Nationの成立には土地を前提として文化的ないしは国家的なものが必要であると分析される。また、Nationには、客観的に見てNationであると理解されるが、それに関係する者の意識が弱い「植物的」なものと、それに関係する者が意識を強く持ち人格性を帯びた「人格的」なものに分けられるとする。このNationの分類は、不活発な「植物的」なありようから「人格的」なものへと「目覚める」場合があると指摘される(植村和秀『ナショナリズム入門』)。

・1908年(和暦明治41) "花袋"田山録弥は『妻』を発表した。

※"小栗風葉"加藤磯夫の『青春』と同じくArthur Schopenhauerの恋愛論が題材の1つとなっている。彼の思想は明治の文学界においては、恋愛は宇宙の目的や種を保存しようとする本能に隷属しているものに過ぎないと解釈され、妻帯や家族制度は人間の自由を失わせるものだとする文士の風潮に受け入れられた(西尾幹二「ショーペンハウアーの思想と人間像」)。

【清】同治【日本】明治の時代

・1869年(和暦明治2) 4.4 明治天皇は「修史御沙汰書」を出した。(「明治天皇宸翰御沙汰書」)

※沙汰書の内容は修史が「祖宗ノ盛挙」とされ、正統な支配者の任務と位置づけられている。当時の政府を担っていた人々の権力は磐石ではなく、自身の行動を正当化するために「復古」という言葉をしばしば用いていた事情があった。西洋列強の模倣をしながらも日本のidentityを維持するために「歴史」は重要だと見なされていたのである(Margaret Mehl『歴史と国家』)。

・1869年 5.28 Friedrich NietzscheはBasel大学員外教授就任演説「Hómērosの人間像について」を行った。

※Friedrichは演説において、古典文献学には、古代の歴史や言語を厳密に考証する側面と、古典Hellas(羅:Graecia)を人類の規範と見なす側面の二つがあることを指摘した。そうした二つの側面は矛盾しながらも架橋できるという観測を述べているようにも解釈される内容であった(渡邊二郎「初期の思想」『ニーチェを知る事典』)。

・1870年 Friedrich NietzscheはBasel大学の正教授に選任された。

※24歳という若い時期に高い職位を得たということは、Friedrichの天才性が認知されていたことを示すと考えられがちな一方で、Basel大学は財政危機の状態にあり、職員として求めていたのは薄給で済む若手であったことを考慮すべきであるということが指摘される(Peter Kail『わかる!ニーチェ(英:Simply Nietzsche)』)。

・1870年 西周は私塾,育英舎において「百学連環」講義を行った。

※「百学連環」はという言葉はEncyclopedia(百科全書)を訳したものである。周は「致知学(論理学/Logic)」や「理体学(存在論/Ontology)」などを簡単な内容ながらも教えるなど、哲学の諸領域を概説する講義を行った。また、範囲は哲学の歴史にも及んでいる。哲学の概説および哲学の歴史の概説が日本で行われた最初の例である(藤田正勝『日本哲学入門』)。

・1870年 西周は『百学連環』を出版した。

※西周はphilosophiaを「希哲学」と訳した人物であるが、『百学連環』においては「哲学」と訳している。「愛する、好意を持つ」という意味の動詞「phileō」に相当する「希」という語が欠落したことは、philosophiaにとって重要な、知を「愛する、希む」という要素が不明瞭にしてしまったとも考えられる(松浦和也「古代ギリシアの詩から哲学へ」『世界哲学史1』)。

・1871年 7.1 PreußenのRex,Wilhelm IはDeutschのCaesarを兼ねた。

※Protestantを文化の基盤とするPreußenと、Catholicを基盤とするHabsburg君主国はどちらもCatholicの中心であった神聖Romaに関与していた国であり、またその領域内外に「Deutsch」的な文化・国家が存在した。そのため、それまで不定形であった「Deutsch」というNationの枠組みを確定した統一は、画期であったと考えられる(植村和秀『ナショナリズム入門』)。

※Westfalenの講和は、Deutschが小領主によって分割されている状態を固定化するものであった。しかしPreußenを中心とするEuropa最大の人口を有する、軍事的にも協力な国家が成立したのである。Europa全体がDeutschの勢力圏になりえる状態においては、FranceとRussiaがそれを牽制することとなった(篠田英朗『戦争の地政学』)。

・1871年(和暦明治4) 10.12 日本政府は「姓尸不称令」を公布した。

※これにより、公文書には姓ではなく苗字を用いることが定められた(岡野友彦『源氏長者』)。

・1871年 Fyodor Dostoevskyは『Besy(悪霊)』の連載を開始した。

※若手の少尉が自身の部屋に科学的唯物論者のKarl Vogt、Jacob Moleschott、Karl Büchnerの著作を飾る場面があり、当時の青年間における自然科学万能主義の風潮が窺える。Vogtの思想を脳の分泌物と考える思想は時代思潮と言えるものであった(野家啓一『歴史を哲学する』)。

・1872年 1. Friedrich Nietzscheは『Die Geburt der Tragödie aus dem Geiste der Musik(音楽の精神からの悲劇の誕生)』を刊行した。

※1871年の3月末には、既存の備忘録や短い文章をもとにした原稿の大部が完成していた。しかし、Baselに戻った後にFriedrichは原稿をArthur Schopenhauerの芸術論の枠組みを参考に修正を行った。結局修正は満足するものにはならず、一部分のみを印刷して友人だけに配分しようとしたが、友人からの説得により出版することになったのである。そうした経緯から、加筆と削除の繰り返しによる不自然な論述の著作となった(清水真木『ニーチェ入門』)。

※『悲劇の誕生』においては、荒ぶる逸脱のenergyを「Dionȳsosなるもの」と称して、創造的 なものとして肯定した(千葉雅也『現代思想入門』)。

※Freidrichは、Graecia人は酒と陶酔による狂宴を司る神,Dionȳsosの祭りを生存への意欲を刺激する祝祭にしたと考えた。また、造形芸術と叙事詩のことをApollōn的な芸術であるとし、Apollōn的な芸術とDionȳsos的な芸術を結合することで、Graecia人は健康な人間の知性を発奮させるものとしての「Graecia悲劇」を生み出したのだと述べている。彼の考える芸術は、生存に対して敵対的な仮像を産出し、本能の健康の度合いを試す活動というものであった(清水真木『ニーチェ入門』)。

・1872年(和暦明治5) 2.27 日本は陸軍省と海軍省を設置した。

※陸軍の整備や訓練の方法はFranceを模倣した一方、海軍はGreat Britain-北Irlandを模倣した。当時世界で最も強い海軍を模倣しようとしたからである。また、医学を学ぼうとする者はDeutschに留学する場合が殆どであったなど、文化を有機体・統一体として捉えず、文化の優れた要素を別々に需要しようとした特異性があったことが指摘される(福田恆存「文化とはなにか」『文化なき文化國家』)。

・1872年(和暦明治5) 日本の太政官は「学制」を公布した。

※立身出世のために学問が必要であることが説かれており、功利主義的であった。それまで武士と平民は、別々の教育組織で学んでいたが、それが一元化される形となった。均等化という点で、その進歩性が指摘される。(坂本太郎「日本歴史の特性」)。

・1872年(和暦明治5) 11.15 日本政府は1月29日を神武天皇の即位にあたる日として祭日と定めた。(「太政官布告」第342号)

・1873年(和暦明治6) 1.10 日本政府は「徴兵令」を発布した。

※Franceと同様に、日本というNationのために国民に命を捧げることを要求したのである(植村和秀『ナショナリズム入門』)。

・1873年(和暦明治6) 3.14 日本政府は「内外人民婚姻条規」を発布した。(『太上典類』)

※別々の国籍を持った人物同士が結婚した場合、妻が夫に合わせて国籍を変更するという「父系血統主義」的な法律である。これは欧米諸国に追いつこうとする意図を持って制定されたのであるが、外国人男性が「婿養子」として結婚した場合は、その男性は妻に合わせて日本国籍になることが規定されていた。国際法に日本の「家制度」を組み込んだものであり、父親が誰かよりも入った家がどこかを重視する傾向が窺える(與那覇潤『日本人はなぜ存在するか』)。

・1873年(和暦明治6) 3. 文部省は国語教科書『小学読本』を編纂した。

※これはMarcius Willsonの『First reader』の翻訳である。「上の絵の林檎は幾個ありや。今一つを増せば幾個となるや。猶一つを増せば幾個となるや」というように林檎を例に出すなど、直接的に翻訳したことが理解できる。外国のものを取り入れようとする精神の現れとも考えられる。外来文化を過剰なまでに取り入れる性質は、日本の特性とも考えられる(坂本太郎「日本歴史の特性」)。

・1873年 Deutsche、 Österreich-Majar、Russiaは同盟を結んだ。

・1873年(和暦明治6) 西周は『生性発蘊』の執筆を終えた。

※『生性発蘊』とは、人間の生理と心理の根底にあるものを明らかにするという意味である。周の「百学連環」講義や『生性発蘊』において使われた「幾何学」や「地質学」といった学問の訳語や、「立法権」や「元素」といった学術用語、「命題」、「演繹」と「帰納」といった哲学用語は、後の時代にも学問用語として使われていくこととなる(藤田正勝『日本哲学入門』)。

・1873年 Friedrich Nietzscheは「信仰告白家にして著述家David Strauß」を発表した。

※Davidやその仲間のことを、無教養でありながら教養のある人間としての自負を持っているような「教養俗物」であると批判するものである。FriedrichによるDavidへの批判は、普仏戦争以降の、Deutscheが戦争に勝利したことをDeutscheが文化的に勝利したことと取り違える風潮に対する諷刺でもあった。Davidに対立する立場の文献としてFriedrichの作品の中で生前に最も読まれることとなった一方、下品な中傷としても見なされていたことを著者自身が気にすることとなった(清水真木『ニーチェ入門』)。

・1874年(和暦明治7) 劇作者の仮名垣魯文と、浮世絵師の河鍋暁斎は、横浜にて『繪新聞日本地』を発行した。

※「日本地」とは「日本」と「ポンチ」に由来し、ポンチ絵を売り物にした雑誌であった。(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1874年 Johann Heinrich SchliemannはTrōia発掘報告書を作成した。

※架空と思われていたTrōia戦争が、遺跡や遺品といった「証拠」によって実在が確かめられるという事象は、「存在」が「認識」に従属するという構造を持つ例であると考えられる。一方、過去の遺跡や文書といった「痕跡」は歴史的出来事の証拠とはなりえるが、そうした史料をどれだけ集めたとしても出来事の全体像を知ることは不可能である。歴史的出来事がなければ歴史記述はなされないという「存在論的先行性」と、歴史的出来事の実在は歴史記述がなければ知ることができないという「認識論的先行性」には「解釈学的循環構造」があるとも考えられる(野家啓一『歴史を哲学する』)。

【清】同治【日本】慶応の時代

・1867年(和暦慶応3) 1.9 睦仁親王が践祚した(明治天皇)。(『明治天皇紀』)

・1867年 9.14 Karl Marxは『資本論(独:Das Kapital)』1巻を刊行した。

※第1巻の序文においては「近代社会の経済的運動法則を曝露すること」が目的であると述べられている。Karlは歴史の発展法則が対象の内部に存在すると考えていたのである。歴史の発展法則に従い資本主義は必然的に崩壊すると説いた。そうした予想は、Great Btotain-Irelandの当時の有様の分析に基づくものであり、現状分析を歴史的な考察と組み合わせた点において、同時代を歴史の終末と捉えたGeorg Hegelと異なるとも考えられる(遅塚忠躬『史学概論』)。

※4篇13章においては、資本主義農業の進歩は、一定期間の土地の豊度を高めるものであるが、永続的土地豊度を失わせると主張される(柄谷行人『世界史の構造』)。

・1867年(和暦慶応3) James Hepbornによる和英辞典『和英語林集成』が横浜にて刊行された。

※当時の日本では、英文と日本語文を組み合わせた活字の組版を作ることができなかったため、上海で組版と印刷が行われた。英語で説明された国語辞典といえるものであり、外国人のために作成されたが、日本人にも使用する者は多かった(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。