・1926(和暦昭和1) 12.25 裕仁親王は即位した(昭和天皇)。(『昭和天皇実録』)
・1926~1927年 Michael Rostovtzeffは『The social and economic History of the Roman Empire』を刊行した。
※Michaelは、Romaの経済を担ったのは「bourgeois」であり、imperialismを志向する国家によって「資本主義」が支えられていた、と現代(当時)の用語によってRomaの社会・経済を説明した。古代を称揚する人々からは低く評価されがちなImperator政Romaを歴史学の対象とし、社会経済史という地味だと思われがちな領域においても学問は面白く展開できると示したと考えられる(樺山紘一『世界史への扉』)。
・1927年 Georges Lemaîtreは論文「銀河系外星雲の視線速度を説明する、一定質量で半径が成長する宇宙(仏:Un Univers homogène de masse constante et de rayon croissant rendant compte de la vitesse radiale des nébuleuses extragalactiques)」を発表した。
※Einstein方程式の解であり、宇宙は膨張するという結論を導いた。Albert Einsteinは膨張宇宙という見解を認めることはなかった(佐藤勝彦『宇宙137億年の歴史』)。
・1927年 梁啓超は『儒家哲学』を公刊した。
※中国に西洋哲学が輸入されると、それと同等の「哲学」と呼ばれるべきものが伝統的に存在していたのか否かが問題として扱われることとなった。伝統的な「中国」の思想が西洋「哲学」の範疇に吸収されてしまうのではないかという危惧もある中、啓超は「中国」には「哲学」は存在しないのであって、伝統思想はその中に含まれないという立場を取った(納富信留「哲学の誕生をめぐって」『世界哲学史1』)。
・1927年 Martin Heideggerは『Sein und Zeit』を出版した。
※「存在とは何か」という、PlátōnやAristotélēsの時代から問われてきた問題についての著作である。Schola哲学、René Descartes、Gottfried Leibniz、Immanuel Kant、Georg Hegelらによって考えられ続けた、西洋哲学の根本を貫く問いであるとMartinは考えた(木田元『ハイデガーの思想』)。
※Martinは「存在」と「存在者」を区別し、「存在」とは存在者を存在者たらしめるものだと考えた(木田元『ハイデガーの思想』)。
※Martinと同じEdmund Husserlの門下であったMax Schelerは、動物は特定の環境下に適応した行動様式を備えており、その環境を離れることのできないという在り方を「環境束縛性」と呼んだが、Martinはその影響を受け、そうした人間の在り方を「世界-内-存在(独:In-der-Welt-sein)」と呼んだ。ただ、人間は他の動物とは異なり記憶や予期の働きを持つため、与えられた環境に過去と未来を想定することが可能であり、自身に与えられた現時点における環境構造を一つの「世界」の様態であると考えることが可能であるのだと説いた(木田元『ハイデガーの思想』)。
※「In-der-Welt-sein(世界-内-存在)」という用語における「世界」とは、地球上の地理的なものではなく、天体や宇宙、それをも包摂する「全て」を意味する言葉である(納富信留『世界哲学のすすめ』)。
※MartinはLudwig Wittgensteinと同じ年に産まれ、DeutschとÖsterreich-Magyarが敗戦した当時、29歳であった。『存在と時間』には、Ludwigの『論理哲学論考(独:Logisch-Philosophische Abhandlung)』と同じように、愛国心のある青年が第一次世界大戦の敗戦に衝撃を受けたことによる、終末論的な要素があることが指摘される(木田元『ハイデガーの思想』)。
・1928年(和暦昭和3.) 夏 平泉澄の邸宅に東京大学国史学科の学生,中村吉治らが訪れた。吉治は「農民の歴史」を卒業論文で書くという計画を伝えたところ、澄は「百姓に歴史がありますか」と答え、さらに「豚に歴史がありますか」と畳み掛けた。(「 経済史とともに四十年-中村吉治教授を囲んで」『経済学』86・87合併号『老閑堂追憶記』)
※澄はEskimoや台湾の「生蕃」について「未だ曽て歴史をもたざる人類」であるとし、「山河鳥獣が何かの機縁によって文化人の歴史にあらはるゝと同じ」であると言及しており(「『文化人類学』を読む」)、そのような人々は「歴史」を持たないため人類学の対象にはなっても史学の対象にはならないとして、2つの学問を混同してはならないと述べる。百姓に関する「歴史はありますか」という言及は、民族(人種)差別的、大衆蔑視的であったことからなる発言であるとも考えられる(今谷明「平泉澄の変説について」)。
※当初の澄はasile調査といった人類学的手法を取り入れて『中世に於ける社寺と社会との関係』などの成果を発表しているほか、浜田耕作の講演「考古学より見たる九州古代の住民」(『史学雑誌』31-6)を「近来の痛快なる議論」と紹介しており、人類学への興味を持っていたことが窺える。そこから人格を重視する歴史観へと変化したのは、Africaの黒人を「世界史」の対象に含めないGeorg Hegelや、文字を知らない農民を牛と同等であると考えたEdward Gibbonなどの見解が特異でもなかったEuropa歴史哲学への接近が理由とも考えられる(若井敏明『平泉澄』)。
※澄は百姓であった二宮尊徳のことを高く評価しいることや(日本学叢書『報徳外記』解説)、座右の書としていた『神皇正統記』には「万民をくるしむる事は天もゆるさず、神もさいはひせぬ」とあることから、百姓自体を蔑視していたわけではないとも指摘がある (田中卓「平泉史学における"豚"と"百姓"」『平泉史学と皇国史観』)。
※「豚"に"歴史があるか」という問いかけは、豚自身が自らの歴史を持っているか、豚は歴史への自覚があるかという意味であり、Friedrich Nietzscheの『Unzeitgemäße Betrachtungen(反時代的考察)』第2論文「 Vom Nutzen und Nachteil der Historie für das Leben(生に対する歴史の利害について)」に述べられる、「 動物は過去を忘却するため歴史というものがないのであり、生命あるものは歴史を持つからこそ人間たりうる」という哲学観を踏まえて発言したものとも考えられる。また、澄の発言は百姓を豚と等しいと見なしたというのは誤読であり、「歴史がない」という点で百姓と豚は共通しているという主張であったとも考えられる。また、澄はただ人間が生きているだけ時間を「歴史」とは見なさないのであり、高い精神作用と人格と自覚によって「歴史」が生まれるとした。澄が高く評価した二宮尊徳のような百姓は一般的ではないため、そのような「歴史」のない存在は研究対象になりえないと述べたとも考えられる(田中卓「平泉史学における"豚"と"百姓"」『平泉史学と皇国史観』)。
※吉治は相田二郎からも「けっこうなことですが、史料がありませんよ」と窘められており(歴史科学協議会 編『現代歴史学の青春』)、当時の国史学科をはじめとするacademism史学においては農民の歴史は対象外であるという風潮があったと指摘される(若井敏明『平泉澄』)。
・1929年(和暦昭和4年) 8.1 『マンガ・マン』が創刊された。
※この雑誌はAmericaの最新マンガ紹介などを行い、注目を集めることになる(澤村修治『日本マンガ全史』)。
・1929年(和暦昭和4.) 西田税、陸軍少尉,菅波三郎、海軍少尉,藤井斉らによって、天剣党規約が起草された。
※北一輝は、西田税を通して結成を主導していた。彼は自身の革命理論の実行力は軍部であると考えており、陸海軍の尉佐官級の将校らに対して、その思想を吹き込んだのである(秦郁彦『軍ファシズム運動史』第一章)。
・1929年 Sirbia人-Hrvatska人-Slovenija人 Rex国は国名をJugoslavijaへと変更した。
※それまで、Hrvatska(羅:Croatia)地方はHabsburg家の影響力が強かった一方、Sirbia・Bosnia・Makedoniaは ʿOs̠mān的なIslām化の浸透とSlav文化を保持しようとする運動が拮抗する状況にあった。そうした異なる文化のもとにある地域を1つの国家とするために、同じ南Slav系言語を話す民族として団結するという理念のもとに「Jugoslavija民族」という概念が生まれたのである(小田中直樹『歴史学って何だ?』)。
・1929年 José Ortega y Gassetは『La rebelión de las masas(大衆の反逆)』を刊行した。
※「大衆」が問題にされるようになったのは20世紀初頭からである。Joséは「大衆」のことを、他の人々と同じであることに喜びを感じ、現状に満足し、権利を主張するが責任を取ろうとはしない人のことだと分析した。大衆というのは、自らの意志に基づいて行動することや、それに伴う責任を引き受けるという主体性に欠けた受動的な存在だということになる(小田中直樹『歴史学って何だ?』)。
・1929年 Lucien FebvreとMarc Blochは『Annales d'histoire économique et sociale(社会経済史年報)』を創刊した。
※LucienとMarcら「Annales学派」と呼ばれる人々は実証主義歴史学を批判し、「新しい歴史学」をつくる必要性を説いた。彼らは、歴史家というものは現代を生きる人間として過去に接する者であるため、過去への関わり方は特定の問題関心に基づく主観的な視点になるのだと主張した(小田中直樹『歴史学って何だ?』)。
※研究を行うための資料を選択するのは、「自分」の問題関心であるため、歴史学というものは資料を観察するのではなく解釈する学問領域であると主張した。科学としての歴史学を「問題史」として捉えた点において歴史学界に衝撃を与えることになった(小田中直樹『歴史学のトリセツ』)。
・1929年 Edwin Hubbleは論文「A Relation between Distance and Radial Velocity among Extra-Galactic Nebulae」を発表した。
※Edwinは観測により、宇宙が膨張していることを発見した。Doppler効果は音と同様に波の性質を持つ光にも当てはまり、遠ざかるものは波長が長くなって赤いものとして観測され、近づくものは波長が短くなって青いものとして観測される。彼は様々な銀河を観測した結果、比較的近い銀河を除いて殆どの銀河から来る光は赤みがかったものであることを観測した。つまりは、地球から遠くにある銀河は地球から遠ざかっていっていることになる。また遠くの銀河ほど速い速度で遠ざかっていたため、宇宙は膨張していたことが判明したのである。Albert Einsteinはその結論に納得して膨張宇宙を認め、自身の方程式から「宇宙項」を外した(佐藤勝彦『宇宙138億年の歴史』)。
・昭和5年(1930) 9. 参謀本部ロシア班長,橋本欣五郎、陸軍省調査班長,坂田義朗、東京警備司令部参謀,樋口季一郎を発起人として、桜会が結成された。結成の目的は、陸軍省と参謀本部の将校を中心とした国家改造であった。(「田中清手記」)
※欣五郎は同年にTürkから帰国しており、Mustafa Kemalの行ったような革命と改革を、日本において実現させることを望んでいた。その意志が結成の原動力となっており、彼が事実上の首領として活動することとなる(秦郁彦『軍ファシズム運動史』第二章)。
・1930年(和暦昭和5) 10.1(9.末∪10.3) 桜会の第1回会合が行われた。網領として、国家改造を目的とし、その達成のためならば武力行使も辞さないことや、国軍将校に国家改造のための意識を注入することなどが採択された。
・1930年 Alfred Rosenbergは『Der Mythus des 20. Jahrhunderts. Eine Wertung der seelisch-geistigen Gestaltenkämpfe unserer Zeit. (20世紀の神話)』を刊行した。
※Alfredは"Meister"Eckhart von Hochheimのことを、何者にも屈しない自由で高貴な「German魂の力」の体現者として、もはやChristos教ではない「German民族の宗教」を生み出した民族的な英雄として評価した。Nazisは、「German魂の力」は他民族との混血していない場合において継承されるという、国家・民族と人間の合同を説くものとして「Deutsch神秘主義」を解釈した。こうして、その思想は民族主義・愛国主義的なものへと取り込まれることとなった(阿部義彦『ドイツ哲学入門』コラム ドイツ神秘主義)。
・1931年(和暦昭和6.) 1. 『少年倶楽部』新年号にて、田河水泡(本名:高見澤仲太郎)による「のらくろ」の連載が開始した。
※子どもは犬が好きということで、主人公は犬の野良犬黒吉となった。略して「のらくろ」である。最初は「のらくろ二兵卒」として開始した。野良犬黒吉が、親兄弟もおらず宿もないような境遇を逞しく生きる姿や、よかれと思って行動した結果失敗する愉快さが受け入れられ、人気を博した。のらくろが連隊の中で階級を上げる姿も、人気の理由であった。当時の講談社が、立身出世を称揚する色調であったことも関連していると思われる(澤村修治『日本マンガ全史』)。
・1932年 Robert Ervin Howardは「The Phoenix on the Sword」(『Conan the Barbarian』第1作)を掲載した。
※主人公はCimmeria人という設定であり、その名が「Conan」という古代Celt語の男性名なのは、Celt人の一部族であるCimbri族がCimmeria人の末裔であるという俗説を採用したからである。欧米人にとって、Hun人が「野蛮な黄色人種」と見なされがちであったのに対して、同じ遊牧民でもCimmeria人は「高貴な白色人種」であるという印象があったことが背景にある。Cimmeria人は記録の乏しさから後世の人々の想像力を掻き立てる存在となっていた(青木健『アーリア人』)。
・1932年(和暦昭和7) 柳田國男は『口承文芸史考』を出版した。
※印刷技術の発展に伴い、物語を口承で伝える文芸が衰退したと國男は嘆いた。口承の衰退は、それを伝えていた「常民」の歴史意識をも変容させてしまうものだとされる。また、彼は『不幸なる芸術』においても文化が必ず書かれたものの中に保存されているという考えの批判を試みている。そうした思想の根底には、農村の近代化によって失われつつある常民文化から日本の今後を見据えようとする姿勢があった(野家啓一「「物語る」ということ」『物語の哲学』)。
・1933年 Aldous Huxleyは『Brave New World(すばらしい新世界)』を刊行した。
※この小説の設定では、人間は工場で産まれ、精神状態は薬物で管理可能になっている。また、性的快楽の追及は推奨されるが、それは出産や家族とは切り離されてある(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。
・1933年 Michael Oakeshottは『Experience and its Modes』を公刊した。
※Michselは、「歴史」というものは歴史家の経験であり、歴史を書くという行為によってのみ作られるのだと述べた。そうした論評は、歴史的事実は純粋な形としては存在せず、記録者の解釈を通して提示されることを示していると考えられる(Edward H. Carr『歴史とは何か』)。
・1933年(和暦昭和8) 3. 中村書店から、大城のぼるによる「愉快な探検隊」が刊行された。
※この作品の出版が、「ナカムラマンガ・ライブラリー」シリーズのはじまりであった。中村書店はその後も、個性的な若手のマンガ家を見出し、育てていった(澤村修治『日本マンガ全史』)。
・1933年(和暦昭和8.) 5. 『少年倶楽部』6月号にて、島田啓三による「冒険ダン吉」の連載が開始した。
※連載のタイトルページでは「痛快漫画物語」と銘打っているが、実際は挿絵を多く付けた物語(絵物語)であった。南洋と島に漂流したダン吉が、島の王になる物語である。人気を博した理由の1つとして、南進論が盛んになった時代背景が考えられている(澤村修治『日本マンガ全史』)。
・1933年 KibaがTenkodogoの君主として即位した。
・1936年(和暦昭和11) 1.25 『東京朝日新聞』にて横山隆一による「江戸ッ子健ちゃん」の連載が開始した。
※『東京朝日新聞』から、世の中を明るくするような連載マンガを求められてのものである。当初は1ヶ月の間連載するとの約束であった(澤村修治『日本マンガ全史』)。
・1936年 Edmund Husserlは『Europa諸学の危機と超越論的現象学(独:Die Krisis der europäischen Wissenschaften und die transzendentale Phänomenologie)』を刊行した。
※Edmundが「危機」だと考えたのは、Europaの「合理性」と「科学性」に基づく政治・経済機構が人間の繁栄を齎すといった考えが、科学技術による殺戮が行われた第一次世界大戦という出来事によって否定されたという当時の状況であった。彼は時代の「危機」への対処のために「合理的・科学的」思考の起源と構造の解明を試みた。自然科学の問題として提示されたのは、それが「生活世界」を基盤としていることを忘却し、はじめから自存自立したものであるような誤解されている、ということである(山口一郎『現象学ことはじめ』)。
※「生活世界」というのは、人々が日常生活を過ごし活動する世界であり、行為の主体である「私」を、動機づける物・事がその周囲を取り囲んでいる、という構造において捉えられる。どれほど現実から乖離しているように思える学問の探究などであっても、全ての行為は生活世界の中において実践されるのである(鈴木崇志『フッサール入門』)。
※EdmundはEuropa文化が歴史的に形成されるにおいて、その過程で生じてきた学問の「危機」を指摘する。Europaにおいては、近代科学の成立以降、客観性を成立させるために自然を数学化して捉えることが一般化したが、客観性と実証性を規範とするそうした学問が、生に関わっていないということである。あらゆる学問は、歴史的・文化的、つまりは時間的に形成されたものであり、「生活世界」において営まれるものである。人間は、自分たちに自明なものとして与えられる世界の一部のみを対象としているものの、そうした生活世界という基盤を忘却し、学問によって生活世界全体を対象にすることが可能だと考えてしまっていることを問題視したのである。そこでEdmundは生に対する学問の意義の回復を主張したのである(本郷均『新しく学ぶ西洋哲学史』第16章 二〇世紀哲学の端緒)。
・1936年 Walter Benjaminは論文「Der Erzähler(物語作者)」を発表した。
※Walterは「物語る」という芸術が失われようとしていることに対する愛惜を表明している。彼の思想の基底には世界大戦に対する喪失感と、その戦争から生じた新たな危機に対処しようとする意志であったとも考えられる。柳田國男とWarterの物語論は、「物語」の終焉という現象を通して「近代」を考察の対象とした点で共通点が指摘される(野家啓一「「物語る」ということ」『物語の哲学』)。
・1936年(和暦昭和11) 平泉澄は『萬物流轉』を刊行した。
※文中において澄は、心を惹かれる人物としてProtestantの神学者,Ernst Troeltschを挙げ、「理想と現実、信仰と学問、教義と歴史、この普通に相反し相容れず、それ故に常人の必ず一面を見て他面に目を閉づる困難なる問題を、そのままに直視して、ここに血路を見出そうとした」態度であったと述べている。祠官の子息として生まれ国史学の教授となった澄としては、信仰と学問の矛盾という問題に関してはErunstと同じように重要であり、そのような矛盾の解消は澄の望んだところであった。日本は歴史自体が信仰の源泉となりえる風土でありながら、神学的な基盤が希薄であったため、 国史学において実証された事実を信仰の内容とする「皇国日本」という理念を確立させ、日本nationを集約化させて日本を興隆させるための原動力に転化させることを考えたのである (植村和秀『丸山眞男と平泉澄』)。
・1936年 JugoslavijaにHrvatska(羅:Croatia)自治州が設置された。
※Hrvatskaの独立を支持する人々は「Jugoslavija民族」よりも「Hrvatska民族」の方が歴史が長いと主張することでHrvatskaの独立を正当化した。国家を正当化するうえでは民族の、民族を正当化するうえでは歴史を利用することが有効だと考えられたのである(小田中直樹『歴史学って何だ?』)。
・1936年 12.11 Great Britain-北IrlandのRex,Edward Ⅷは退位した。
※君主位、権利などを(正式に)放棄することを意味する英語abdicateは、ab(~から(離れて))とdicare(宣言する)によって構成されるLatin語abdicare(放棄する)の変化形abdicat-に由来する。退位することを意味する言葉として使われるようになったのは18世紀初頭以降である(Glynnis Chantrell 編『オックスフォード 英単語由来大辞典』)。
・1938年 Karl Jaspersは『実存哲学(独:Existenzphilosophie)』を出版した。
※「Existenzphilosophie(実存哲学)」という言葉はKarlによって広まり、Martin Hideggerの『Sein unt Zeit(存在と時間)』もそれに含まれると彼は規定したが、Martinは自身の著作の目的が人間存在の分析とは別にあると主張し、自身の思想とKarlのそれが同一視されることを嫌った。(木田元『ハイデガーの思想』)。
・1938年 Benedetto Croceは『思考としての歴史と行動としての歴史(伊:La storia come pensiero e come azione)』を出版した。
※Benedettoは全ての歴史は「現代史」であるという警句を述べた。歴史の本質は過去を現代の諸問題を照らし合わせ現代の視点から見ることであり、歴史家は記録に値する事象を評価することが、記録することよりも重要であると考えたのである(Edward Carr『歴史とは何か』)。
・1939年 8.23 DeutschとSovietは不可侵条約を結んだ。
※Europaを共産主義から守る者を自認しており、日本とも防共協定を結んでいたDeutschがSovietと結んだことは、「権力政治的視野」を欠く日本の政府と国民を狼狽させたことが指摘される(高坂正堯『国際政治』)。
・1941年(和暦昭和16) 12.8 日本はAmericaとGreat Britain-北Irelandに対して宣戦布告を行った。
※日本は「鎖国」を行ったため、同じ「第一地域」と区分されるGreat Britain-IrlandやFranceと異なり、Feudalismの崩壊と植民地経営による富の蓄積が遅れたとも考えられる。もっと早く勃発する可能性があったGreat Britain-Irlandと日本による衝突は、1941年にまで引き伸ばされたという見解もある(梅棹忠夫「文明の生態史観」)。
・1942年(和暦昭和17) 3.15 横山隆一の「フクちゃん」はアニメ化され、「フクちゃん奇襲」が発表された。
※キャラクターが戦争キャンペーンに使われるのは、国民感情の反映である(澤村修治『日本マンガ全史』)。
・1942年(和暦昭和17) 南原繁は『国家と宗教』を刊行した。
※繁はAlfred Rosenbergによる"Meister"Eckhart von Hochheimの思想解釈を批判した。Eckhartが説くところの、神と一体化した人間の魂の神性というものは、民族の血統によって継承されるのではなく"Christos"Yēšúaに繋がる全ての人間に開かれたものであると述べた(阿部義彦『ドイツ哲学入門』コラム ドイツ神秘主義)。
・1942年 Carl Gustav Hempelは論文「The Function of General Laws in History」を発表した。
※Carlは、歴史家は過去の出来事を記述するだけでなく、過去の出来事同士の相互連関を見出して「歴史的説明」を行っており、そうした何らかの出来事によって別の出来事が起こるという叙述は、一般法則を前提としていると指摘した。彼によると、自然科学は初期条件から出来事を予測するのに対して、歴史学は出来事から初期条件を遡及して考えるという、探求が時間的な方向性において異なることを指摘した。つまりCarlに従うのであれば、歴史学を含む「精神科学」は自然科学と構造的には同一であり、Wilhelm Diltheyが主張したような「感情移入」による「理解」のような特有の方法は、「説明」を発見するための方法に過ぎないことになる。また、歴史的出来事から厳密な法則を見出すことは困難であるとして、歴史記述は、経験的探究の方向性の指針となる素描的なものだとCarlは述べている(野家啓一『歴史を哲学する』)。
・1943年(和暦昭和18) 1. 西谷啓治は『日獨文化』に「獨逸神秘主義と獨逸精神」を発表した。
※それまでもWilhelm Windelbandの哲学史を通して「Deutsch神秘主義」と"Meister"Eckhart von Hochheimの思想は知られており、波多野精一『西洋哲学史要』と朝永三十郎『近世における「我」の自覚史』にも、Martin Lutherの宗教改革より始まる精神史の端緒と理解されていた。ただ、本格的にそれらの思想を紹介したのは啓治と上田閑照が最初である。啓治は、Alfred RosenbergはEckhartの思想をNazism的に婉曲していることを指摘しながら、Eckhaltの思想と民族を結びつけて論じている(阿部義彦『ドイツ哲学入門』コラム ドイツ神秘主義)。
・1945年(和暦昭和20) 4.12 長編アニメ「桃太郎 海の神兵」が発表された。作画者は瀬尾光世である。
※手塚治はこの映画を見て、日本において高技術のアニメが作られたことに感動したのだという(NHK『ぼくはアニメの虫』)。
・1945年(和暦昭和20) 10.9 『読売新聞』は天皇制の支持・不支持に関する集計結果を掲載した。
※集計は天皇制支持が95%という結果が出ることとなった。当時の『読売新聞』や『社会評論』では天皇制批判が展開されており、世論を天皇制不支持へと誘導する動きがあったが、一部の知識人の予想とは異なり、国民は軍部への反発を抱いてはいても、怒りの方向が天皇制へと向かうことはなかったのである(今谷明『象徴天皇の発見』)。
・1945年 Karl Popperは『The open society and its enemies(開かれた社会とその敵)』を刊行した。
呪術的、部族的、もしくは集団主義的な社会を「閉ざされた社会」と位置づけ、「開かれた社会」と対立するものだと述べる。「開かれた社会」というのは、個人が個人的な決定を行える世界であり、その誕生の契機はSōkrátēsであるとする。そしてPlátōnは師を裏切り、個人を社会の一部でしかないと考える全体主義的な「閉ざされた社会」に回帰させたのだと説いている(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。
・1946年(和暦昭和21) 1.4 『少国民新聞』において、手塚治虫(本名治)は「マアチャンの日記帳」を掲載した。デビュー作である。
※一度治は持ち込みに失敗しており、掲載に関して、本人は幸運だったと回想している(手塚治虫『ぼくはマンガ家』)。
・1946年(和暦昭和21) 4.22 『夕刊フクニチ』が創刊され、そこで長谷川町子による「サザエさん」の連載が開始した。
※一般的なサラリーマン家庭の日常生活を捉えた作品で、戦後の日本の世相に、ほのぼのとした笑いをもたらすことになる(澤村修治『日本マンガ全史』)。
・1946年(和暦昭和21) 4. 津田左右吉は『世界』に「建国の事情と万世一系の思想」を掲載した。(『世界』四)
※『世界』編集長,吉野源三郎は、かつて『神代史の研究』などの出版を理由に禁固刑の判決を受けたことのある左右吉に対して天皇制批判の論文を執筆してもらうことを期待して依頼した。しかし、左右吉が源三郎に送った論文は天皇制賛美にも思われるものであったため、源三郎は困惑し、羽仁五郎はそのような論文を載せたら、革命が起きた際にはguillotineだと源三郎を恫喝した。左右吉は天皇のことを「国民統合の中心であり国民精神の生きた象徴」と表現している。左右吉は1月に原稿を書き終えており、憲法草案が国民に知られるようになった3月よりも早い。ただ、2月上旬~中旬までGHQ本部で憲法草案の編成を行っていた民政局のCharles Kades大佐らが、岩手県平泉に籠居していた左右吉の言動を知るはずはなく、各々「象徴」という語句を以て天皇を表現することになったのである(今谷明『象徴天皇の発見』)。
・1946年(和暦昭和21) 11.3 「日本国憲法」が公布された。
※新たな憲法下においても、外交上は日本の元首(英:The Head of Japan)と扱われる。皇居の住所が千代田区千代田1丁目1番地、郵便番号が100-0001となっていることは、天皇の住居は日本国の中心であることを示していると考えられる(所功『「天皇学」入門ゼミナール』)。
・1946年 故Robin Collingwoodの『歴史の理念(英:The Idea of History)』が公刊された。
※Robinは歴史家が研究する「過去」というものは、「過去そのもの」と「過去を巡る歴史家の思考そのもの」の相互関係における両方であると考えた。そうした考えは、「History(歴史)」という言葉が調査・探究という意味と、その対象となる過去の事象という二つの意味が含まれることに基づいている(Edward Carr『歴史とは何か』)。
・1947年 8.14 IndoとPākistānが分離独立した。
※Indoはそれまで何度も外部からの侵入があったもののGreat Britain-北Irelandが退却することぬったのは、同化できなかったことが理由とも考えられる。侵入者がIndo文化に同化してしまう点は、日本やDeutschなどと異なり、自分を中心として文明を展開できたことと相俟って、Indo人の自信と自尊心を生み、文化的優越性を信じる傾向性を強めたとも考えられる(梅棹忠夫「東と西のあいだ」『文明の生態史観』)。
※Punjabは両国に分割された。そのためPunjabで用いられていた巡査の制服は、どちらの国にも残ることとなった。Pākistānの分離は、国民の生活を変えるものではなかったとも考えられる(梅棹忠夫「東と西のあいだ」『文明の生態史観』)。
※Indoの官僚における責任回避や不親切さなどの傾向は、Great Britain-北Irelandの統治下において、自身の決断や努力が報われるという経験がなかったことが理由にあるという分析もある(梅棹忠夫「東と西のあいだ」『文明の生態史観』)。
・1947年 Fred Hoyleは定常宇宙説を提唱した。
※Fredは、物質密度が減少する分だけ新たに物質が創生されるのであり、膨張宇宙の密度は常に一定になると考えた。彼は、高温の「火の玉」が急膨張したことで宇宙が始まったとするGeorge Gamowの説を批判し、それを「Big Bang」理論と名付けた(佐藤勝彦『宇宙論入門』)。
・1948年 映画『The Search(山河遥かなり)』が公開された。
※劇中で、America兵が逃げ回る孤児を担いで運ぶ描写があるが、それがAfghānistānの遊牧民が小さい家畜を運ぶ方法に似ていることが指摘される。Asia西部とEuropaの、古い時代の農牧文化としての共通点とも考えられる(梅棹忠夫「東の文化・西の文化」『文明の生態史観』)。
・1949年 George Orwellは、小説『Nineteen Eighty-Four(1984)』を刊行した。
※この小説の舞台は、全体主義的な監視社会であり、家の中まで監視され、国家に報告されるといったものである。『すばらしい新世界』と同様に、近代の思想が進む先は、公的な空間が私的な空間にまで及び、家族の親愛は否定されるという観点のうえにあり、ディストピアの抵抗の起点として性愛を描く点が共通している(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。
・1949年 Fernand Braudelは『La Méditerranée et le Monde méditerranéen a l'époque de Philippe Ⅱ(Philippe Ⅱ時代の地中海と地中海時代)』を刊行した。
※Ernest Labrousseと並ぶ、当時のAnnales学派の指導者的立場の人物であった。Fernandは地中海を研究対象とし、その歴史を短期的な「事件」、中期的な「変動」、長期的な「構造」という視点から分析すべきことを主張した。県や地方といった国家内の狭い範囲を研究対象としたErnestとは対象的であるものの、分析対象の空間的な規模に関心を向け、その内部における政治・経済・社会・文化といった全ての側面を把握することの重要性を指摘した点で問題意識が共通している(小田中直樹『歴史学のトリセツ』)。
・1949年 Claude Lévi-Straussは『親族の基本構造(仏:Les structures élémentaires de la parenté)』を刊行した。
※Claudeの構造主義には、人類文明全体に共通する構造を発見するという理念に基づいており、普遍学を目指していた(千葉雅也『現代思想入門』)。
・1951年 Hannah Arendtは『全体主義の起源(英:The Origins ofTotalitarianism)』を出版した。
※Great Britainのpublic schoolから脱落した人々が植民地に向かうこと、Franceにおける「不思議な人種主義」の誕生、Österreich-Majarの崩壊による東Europaの人種の「坩堝」の状態など、20世紀の「全体主義」の起源となった19世紀秩序の崩壊を中心として論じられている(宇野重規『政治とは何か』)。
・1952年(和暦昭和28) 4.28 日本は主権を回復した。
※日本の町の中にある文字は、Roma字も含めて日本語が多く、大衆間における植民地文化的要素の希薄さが指摘される。IndoやPākistānの街に英語が多いことと異なるのは、英語国家による統治の期間の長短に由来するとも考えられる(梅棹忠夫「東と西のあいだ」『文明の生態史観』)。
・1952年 8.29
・1952年 石母田正は『歴史と民族の発見』を刊行した。
※正は民族に着目して歴史を解釈することを提唱した。彼にとって正しい民族の在り方とは「 人民が権力を握る」ことであって、そのためには社会革命が必要であると考えていた。正の考える歴史というものは社会革命に至る過程なのである(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』)。
・1953年 Ludwig Wittgensteinの遺作『Philosophische Untersuchungen(哲学探求)』が刊行された。
※「後期」に位置づけられるこの書物は、「言語ゲーム」という概念が用いられる。「石版!」という発話は、「石版をもってこい」かもしれないし、石版に対する感嘆の意味かもしれない。発話内容は、発話外の状況によって定まるのであり、発話そのものを分析しても無意味というのがそれである。発話内容を知るのは、「言語ゲーム」を行い、規則を試行錯誤を学ぶほかないというのである(東浩紀『哲学可能性の哲学』)。
※言語ゲームにおいては、明確な規則は定められておらず、規定の内容も変容する。自分が何のゲームを行っているか分からないまま、ただゲームを続けているとされる(東浩紀『哲学可能性の哲学』)。
・1953年 Lucien Febvreは『Combats pour I'hittoire(歴史のための戦い)』を刊行した。
※Lucienは、歴史家は意図や問題意識を持って歴史を見ざるを得ないため歴史は「選択」であると述べている。歴史が「選択」であることを理解しようとしないとして、実証主義歴史学に対して批判を加えた書だといえる。ただ、彼は歴史の「正しい認識」を不可能だと考えたのではなく、認識をどのように組み合わせるべきかという解釈を問題にしていた(小田中直樹『歴史学って何だ?』)。
・1955年(和暦昭和30) 1.22 総理大臣,鳩山一郎は、施政方針演説において、「不良出版物」が青少年に悪影響を与えていると述べた。
※ 「青少年に有害な文化財に関する決議」を受けての発言である。新聞が発言を取り上げたことで、非難が拡大し、小学校の校庭でマンガが燃やされる事件も発生した(澤村修治『日本マンガ全史』)。
・1955年 2.14 Pablo Ruiz Picassoは《Algerの女たち(仏:Les Femmes d'Alger)》第15号を完成させた。
※Ferdinand Victor Eugène Delacroixによる同名の作品に感化されて作成された第1号から15号までの連作の絵画である。第15号の縞模様はFerdinandの配色法を装飾的に強調したものであることが指摘される。また、Ferdinandの絵画では不鮮明にされている水煙管や絨毯の装飾模様といったものは、Pabloの第15号においては詳細にされるなど、Pabloは現実性を強調したとも考えられる(高階秀爾『ピカソ 剽窃の論理』)。
・1955年(和暦昭和30) 遠山茂樹・今井清一・藤原彰は『昭和史』を刊行した。
※はしがきにおいて「戦争をおしすすめた力とこれに抵抗する力との対抗」に注目して叙述されたことが述べられている。茂樹らは歴史の総体的な流れを規定するのは経済の動きであると考え、それに基づきて解釈を行った。こうした「経済的基底還元説」は当時の主流な解釈であった。『昭和史』は、経済の動向の影響力だけを強調しており人間の姿に関心が向けられていないことを批判された(小田中直樹『歴史学って何だ?』)。
・1955年 NewYork近代美術館で『十六人のAmerima人展(英:Sixteen Americans)』展が開催された。
※Robert Rauschenbergは図録に寄稿している。Robertの作品にはCoca-Colaの瓶、自動車の車輪、動物のぬいぐるみなどが用いられており、「芸術は写実性を再現するものである」という既存の考え方が、芸術に実物が持ち込まれることで変容されることとなった(Arthur Danto『アートとは何か』)。
・1957年 Karl Popperは『歴史主義の貧困(英:The Poverty of Historicism)』を出版した。
※Isidore Auguste Comte、John Stuart Mille、Karl Marxの歴史観について、全体論的でEutopia的であることを批判している。人間を超えた先後関係の秩序を設定し、その秩序へと導く「歴史学」は「工学的」であって人間経験の実情に反するものであり、歴史を説明することも、未来を良くすることも不可能であると述べられている(船木亨『現代思想史入門』)。
※Karlは、一般化を行う全ての科学は、自然科学であろうとも社会科学であろうとも、演繹的な因果的説明を提供して、その説明を試すという、同一の方法を用いていると述べた。ただ、彼はMarx主義における唯物史観のような、歴史の予測を可能にする「歴史法則」というものは虚妄であるとし、また科学的説明の前提となる反証可能性を持たないことから、歴史学を自然科学・社会科学から区別されるとした。そのためKarlは、歴史理論というものは科学的に反証不可能なため理論ではなく、「歴史解釈」であるとした。Karlは『The open society and its enemies(開かれた社会とその敵)』において歴史は意味を持たないため人間は歴史に意味を与えることが可能であり、歴史解釈は現実における諸々の困難へと応答であると主張している(野家啓一『歴史を哲学する』)。
・1957年 TigreがTenkodogoの君主として即位した。
・1958年 Hannah Arendtは『Vita activa oder vom tätigen Leben(人間の条件)』を刊行した。
※私的な欲望を満たす人間は動物と変わらず、公的な領域に関わってこそ人間は人間でいられるとHannahは説いた(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。
※『創世記』には「神は男と女とに彼らをつくった」とあるが、そこにHannahは、人間は本来複数として存在するのだという、「人間の多数性」という原理を見出した。Hellasでは男女が当初は一つであり、それが半身となったものと考えていたが、『創世記』においては最初から人間個々人は「他者」同士として創造されたものとして語られる(並木浩一 奥泉光『旧約聖書がわかる本』)。
・1960年 1.1 North Carolina大学は『International Nietzsche bibliography(Niezsche文献書誌)』を刊行した。
※Friedrich Nietzscheが死去して60年後には、既に彼の研究書や論文が2000点以上発表されていた。そのことは、世界の思想界に刺激はや興奮を与え続けていたことを示すとも考えられる(西尾幹二 渡邉二郎『ニーチェを知る事典』まえがき)。
・1960年(和暦昭和35) 5.24 丸山眞男は学者文化人集会に登壇して演説を行った。(「選択のとき」『丸山眞男集』8)
※演説において眞男は岸政権を民主主義の敵であると批判した。国民は民主主義の理念に基づき、政府を打倒する主権者であるべきだと主張しており、現実から外れた理念を実現させることが必要であるとの立場をとった(植村和秀『昭和の思想』)。
・1960年(和暦昭和35) 7.19 岸信介政権は総辞職した。
※丸山眞男は「民主主義の原理というものが、とにかくはじめは上からきたものではあるけども、それが十五年の過程を経て国民の間に浸透していった」(丸山眞男「安保闘争の教訓と今後の大衆闘争」『丸山眞男集』8)と語っている。終戦を決定したのは天皇であり、国民主権を憲法で規定したのはAmericaであった。丸山眞男にとっては国民主権を実証したという点において自由民主党政権が続いていたとしても、岸内閣総辞職を意義あるものと捉えていた(植村和秀『昭和の思想』)。
・1961年 Emmanuel Lévinasは『全体性と無限(仏:Totalité et infini)』を刊行した。
※Emmanuelは、自己を中心として全て取り込む「全体性」とは無限に異なるものとして「他者」という概念を提示し、「他者」に向き合うことの倫理を論じた。「他者」は自己から絶対的な遠さがあることが強調されている(千葉雅也『現代思想入門』)。
※『申命記』第5章5節以降に述べられる、神Y(a)h(a)w(e)hからMōšeに与えられた「十戒」の一つには、Y(a)h(a)w(e)hの「顔の前に」他の神があってはならないという形で述べられているものがある。Yehud人の考えでは、「顔」というものはその顔の持ち主の最も深い内容の現れであるとされ、神が「顔」として現れ人間と対峙するという構造になる。 Emmanuelの述べる「顔」は、他者の現れの究極的な表現として顔を捉える『申命記』にその思想の発端があるとも考えられる(並木浩一 奥泉光『旧約聖書がわかる本』)。
・1962年 Karl Popperは『推測と反駁(英:Conjectures and Refutations: The Growth of Scientific Knowledge)』を刊行した。
※序章「知識と無知の根源について」においてKarlは、「無知」という事象を単に知識の欠如ではなく有害な力の働きとして捉えるような、René DescartesやFrancis Bacon以来の考えを批判した(鶴想像人「無知学とは何か」『無知学への招待』)。
・1963年 Michel Henryは『現出の本質(仏:L’Essence de la manifestation)』を刊行した。
※Michelは「Erscheinubg(現出)」の本質を、「自己現出」であると考えた(Bernhart Waldenfels『フランスの現象学』)。
・1963年 Edward Thompsonは『England労働者階級の形成(英:The Making of the English Working Class)』を刊行した。
※産業革命の結果、労働者となった人々が自身を労働者であると意識するようになったかを論じた著作である。社会保障制度が整ったGreat Britain-北Irlandでは、そうした「福祉国家」を担う民衆に対する歴史学の関心を強めることとなった。そのため、どのような経緯で民衆という階層が形成され、政治、経済、社会に関わってきたかといった、労働者の歴史を研究する「労働史学(英:Labor history)」が誕生したのである。Leopold Rankeの学派は公文書を中心として研究を行ったため、労働者のような民衆は、労働組合など集団でしか見出すことが困難であった。そこで労働史学においては、Ranke学派が対象として重んじなかった労働者の日記や労働組合の記録、労働者が好んだ詩などの私文書を活用して当時の労働者の意識に迫ろうとした。民衆の生活や意識も歴史学の研究対象になるという主張は、他の国の歴史学者にも広まってゆくことになった(小田中直樹『歴史学のトリセツ』)。
・1964年 Jean-Paul SartreはNobel文学賞に選出された。
※論理的・概念的一般化を拒絶し、認識ではなく自己表現を通して実存的自己了解を求めるがために文学的表現を行ったのは Søren Kierkegaardにおいて特徴的なことであるが、Jean-Paulもまた文学的業績を有するのである(八木誠一『宗教とは何か』)。
・1965年 Arthur Dantoは『Analytical Philosophy of History(歴史の分析哲学)』を出版した。
※Arthurは、「歴史全体」に関して説明や予言を試みる、Marx主義のような歴史理論を「実体論的歴史哲学」と呼び、その不可能性を指摘した(野家啓一『歴史を哲学する』)。
※Arthurは、歴史的出来事それ自体は意味を持たないのであって、意味を与えるのは「narrative(物語り)」であると考えた。そして、そのような「story(物語)」を語るという行為は、その筋(plot)に関連する複数の出来事を選択して関連づけ、統一的な意味を与えるのであって、それは始め・中間・終わりを持つ述べている。つまりは変化がどのように起こったかを説明する記述となる。Karl Hempelの提唱した自然科学と歴史学に共通する法則は、変化の説明という視点が欠落していると批判される(野家啓一『歴史を哲学する』)。
※歴史的事態というのは、因果の連鎖のような無際限のものではなく、始めと終わりが設定されており、時間が経過という「方向づけ」がなされている。出来事が時間的経過のうえで生成されているという「組織化」が働いていることが、「物語」の機能であると考えられる(河本英夫「物語と時間化の隠喩」『諸科学の解体』)。
※歴史叙述というものは、歴史的事象から事実を選択し、時系列順に接続し、因果関係や動機的説明を付与し、一つの秩序立った物語へと構成することだと述べられている。そうした「物語」の開始と持続と終焉は、歴史的出来事の最中にいる人々は理解していない。歴史的出来事を「物語」の中に位置づけ、その意味を決定するのは、それを語る歴史家ということになる(小林道憲『歴史哲学への招待』)。
※歴史叙述における「narrative(物語り)」は、ある出来事と別の出来事と関連づけるものであるが、その際に他の出来事を重要ではないものとして除外するものとなる(鹿島徹「物語り論的歴史理解の可能性のために」『可能性としての歴史』)。
※Arthurは、少なくとも二つ以上の、時間的に離れた出来事を指示したうえで、その初期の出来事について記述するというのが歴史記述の際の典型的な文の構造であるとし、それを「narrative sentence(物語り文)」と呼んだ。また、そうした文の働きを示すものとして、彼は「理想的年代記」という、あらゆる出来事をそれが発生した時点にといて観察に完全な形で記録する能力を持つ者によって書かれる年代記を想定した。彼は「三十年戦争」を例に挙げ、その戦争が開始した時点においてはそれが三十年続くかは不明であるのであって、複数の出来事を「物語」として構成していない以上は、それは歴史記述たりえないのだと考えた。過去にある出来事が起こったという事実は変わらないとしても、Nicolaus Copernicusが地動説を発見したことによって、Aristarchosの地動説が「Copernicusの理論を先取りした」理論へと変化するように、過去の出来事の意味は事後的に変化するのだと彼は述べている(野家啓一『歴史を哲学する』)。
※Arthurが例に挙げた「三十年戦争」について「三十年戦争は1618年に開始された」と述べる場合には、戦争の開始と集結という二つの時間を関連づけ、より前の時間上の出来事について言及することとなる。開始と終了の二つの時点を決定することで、歴史的出来事の時間的推移を説明することとなる。また、そうした時間の「組織化」は、「農民の反乱」といった個々の出来事に「France革命」の進展が見出されるように、全体的な歴史的事態の一部として部分的出来事が位置づけられることとなる。過去の出来事を可能な限り記録する「理想的編年史」は、二つ以上の時間点の出来事同士の関係性について言及していないため、歴史たりえないと彼は考えた。また、例えばLorenz Okenの「球状体説」が後の時代の「細胞説」が形成されるうちの中途段階にあると評価されたとしても、Lorenz自身はそうした自覚はないように、学説の発展のような事態の進行という形での歴史叙述は、「理想的編年史」とは異なる性質を持つとされる(河本英夫「物語と時間化の隠喩」『諸科学の解体』)。
・1966年(和暦昭和41) 7.17 円谷プロダクションによる『ウルトラマン』の放送が開始した。
※主人公は宇宙人(ウルトラマン)でありながら地球人(防衛隊員)という立場にあり葛藤し、隊員に対しても宇宙人という姿を隠している。そうした描写には、脚本を担当した金城哲夫が沖縄出身であり、沖縄と日本という2つのアイデンティティの間で葛藤していたことが理由にあるとも考えられる(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。
・1969年 Hannah Arendtは『暴力について(英:On Violence)』を刊行した。
※Hannahは、評議会は、革命の伝統や理論の結果としてではなく、まったくなかったものであるかのように出現すると説いた。これは評議会コミュニズムが、「贈与―返礼」という交換様式Aを高次元で回復するものであることを示すとも解釈される(柄谷行人『世界史の構造』)。
・1970年(和暦昭和45) 11.1 平泉澄は時事通信社より『少年日本史』を刊行した。(「刊記」)
※澄の皇国理念に基づいて記述される史実の内容は取捨選択されている。そして吉野時代(南北朝時代)に南朝に仕えた「忠臣」のことを真の日本人であると捉え、その「忠臣」の魂に倣い日本という歴史世界を護持するべきであると主張したのである。歴史上に現出した南朝の「忠臣」のような日本の理念を信じるという信仰のもとに、学問を修め主体的に行動することを個々の日本人に求めたのである(植村和秀『昭和の思想』)。
・1972年(和暦昭和47) 3.31 『帰ってきたウルトラマン』が放送を終了した。
※最終回に主人公は故郷であるM78星雲に帰還する。それを沖縄の本土復帰への動きを連想させるという見解もある(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。
・1972年 Jacques Derridaは『Positions』を刊行した。
※Derridaは「deconstruction(脱構築)」という手法を提示した。二項対立の状況下においては、片方は非本質的と見なされ、否定的に捉えられる。その否定的に捉えられた方に味方するような論理を立てると、対立する二項の優劣が留保された状態が生まれる。そうして本質的とされる価値観の優位性を崩すと、世の中を解放的にするということが可能になるとも考えられる(千葉雅也『現代思想入門』)。
・1972年(和暦昭和47) 5.15 沖縄は再び日本国に帰属した。
・1974年(和暦昭和48) 4.5 『ウルトラマンタロウ』が放送を終了した。
※主人公は最終回で地球に残る道を選択する。地球は日本自体の暗示であるとして、沖縄の本土復帰に連動していると考える見解もある(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。
・1974年 Emmanuel Lévinasは『Autrement qu'être ou Au-delà de l'essence(存在とは別様に、あるいは存在することの彼方へ)』を出版した。
・1975年 America大統領,Ronald Reaganは退任した。
※退任演説においてはJohn Winthropに言及し、「We've done our part(我々は自分の役割を果たした)」と述べている。Robaldの言葉における「自分の役割」に対応するのは「神の役割」である。神に対する約束を果たしたことを述べ、神に対してAmericaを繁栄させるという「契約」の履行を求めたことになる。そうした実利的なAmericaの発想は、Christos教徒の中でも特殊であることが指摘される(森本あんり『反知性主義』)。
・1975年 Edward Osborne Wilsonは『社会生物学(英:Sociobiology: The New Synthesis )』を出版した。
※それまではHerbert Spencerの社会進化論はCharles Darwinの進化論とは異なって科学ではなく、人文社会科学に自然科学的なものを導入するのとは忌避されていたが、『社会生物学』が出版された1970年代以降の「生命科学の時代」ならは、生物学的な観点から人間や文化が積極的に論じられるようになった(横山輝雄「スペンサーと社会進化論」『世界哲学史7-近代Ⅱ 自由と歴史的発展』)。
・1978年 Edward Saidは『Orientalism』を刊行した。
※Edwardは「Orient」という言葉が、西洋(Occident)から見た東洋を意味する言葉でうることを指摘した。西洋による東洋に対する異国趣味や東洋趣味には、東洋を劣等と考える「Orientalism」があると主張された(近藤二郎「古代西アジア」『古代西アジアとギリシア』)。
・1979年 Jean Lyotardは『La condition postmoderne(postmodernの条件)』を刊行した。
※Jeanは、民主化や機械化によって人間は進歩すると信じる近代の「大きな物語」の風潮が失われたと説いた。資本主義の発展の結果、価値観が多様化が共通の理想が失われた時代は、postmodernの段階と捉えられる(千葉雅也『現代思想入門』)。
※人間関係の複雑化と技術の高度化、情報の多様化によって、「歴史のtrend」の共通了解が成り立たなくなったとJeanは考えたのである。そのため、実際の歴史の時流は描き出せなくなり、また無意味なものになったと彼は考えた。つまり、歴史学には解釈をするということが不可能になったということを意味する(小田中直樹『歴史学ってなんだ?』)。
・1979年 Joseph BeuysはGuggenheim美術館で展覧会を開催した。
※中央大広間に脂肪の塊を展示したことは、何であれ芸術になりうるというJosephの宣言に沿うものであった(Arthur Danto『アートとは何か』)。
・1982年(和暦昭和57) Saul Kripkeは『Wittgenstein on Rules and Private Language』が刊行した。
※1982年の講義をもとにした著作である。この著作においては、思考実験が述べられる。足し算をして、125という答えが出たと思ったら、懐疑論者が現れ、実は計算していた記号「+」はプラスではなく「クワス」であり、125ではなく答えは5になるというのである。Saulはこの懐疑論者の主張は、反論できないものだと述べる。しかし、この懐疑論者のような人は、価値観を共有できず、共同体の「Game」から放逐される。Saulは、先にGameの規則があって共同体が作られるのではなく、共同体を作った人々が、68+57の答えを125と答えられるような、価値観を共有する者を選別することでGameの規則が確定すると考えた(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。
※68+57を5と答えるような人は、共同体から排除される。しかし共同体の構成員から、その答えは125であると告げられ、誤りを訂正できる人は、共同体に受け入れられる可能性がある(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。
・1983年(昭和58) 12.1 尾崎豊は「15の夜」を発表した。(『十七歳の地図』)
※「盗んだバイクで走り出す」という歌詞は、閉塞的な社会秩序の「外」に出るという解放的なものして捉えられた(千葉雅也『現代思想入門』)。
・1985年(和暦昭和60) 8.15 日本の総理大臣,中曽根康弘は靖国神社を参拝した。
※参拝の形式は手水を用いず祓いを浮かず、二礼二拍手を行わず玉串を捧げないといったものであったが、それに靖国神社宮司,松平永芳は反発した(『諸君』平成4年12月号)。康弘の参拝が先例となって祓いを受けずに政治家が参拝するといったことが行われるようになれば、清めという神道の本質的な伝統習俗が、政教分離を優先したことで失われてしまうことを懸念したからである。永芳は平泉澄と同様に神道は国を守るためにあるべきと考えていたのであり、そのため政教分離に反対したのだと思われる(植村和秀『昭和の思想』)
・1987年 12.8『The Amazing Spider-Man #299』において、Venomが初登場した。
※毒液を意味する英語venomや有毒なことを意味する形容詞venimousは、愛欲を意味するLatin語venusから、惚れ薬→魔力→毒、という連想を経て生まれた言葉である(清水建二『教養の語源英単語』)。