個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

2024-01-01から1年間の記事一覧

390~419

・394年以降? 〔参考〕応神天皇の崩御後、その王子,大鷦鷯命が即位したという(仁徳天皇)。(『古事記』) ・396年 〔参考〕倭は、高句麗の属国であった百済と新羅を攻撃して、「臣民」として服属させたのだという。その後高句麗の永楽太王,高談徳(国罡上広開土…

360~389

・364年 百済からの使者が卓淳国に至った。(『日本書紀』) ・365年 1.壬午 ヤマト王権軍は筑紫国に侵攻した。岡県主の祖,熊鰐はヤマト王権に恭順した。(『日本書紀』修正紀年) ※熊鰐の勢力は、不弥国の末裔であり、宗像三女神を信仰していたとも推測される。…

330~359年

・341年西ゴート人のウルフィラはエウセビオスから司教に任じられた。 ※ゲルマン人はキリスト教を通して「人間は人間として自由(der Mensch als Mensch frey)」であり、人間の本性を成すのは精神の自由であるという認識に達したとも分析される(ゲオルク ヘー…

300~329年

・300年 1.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅と倭国は友好関係を結んだという。 ※『日本書紀』には該当記事がないことから、この「倭国」はヤマト王権ではなく九州の王権であるとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。 ・311年? 〔参考…

270~299年

・275年(晋暦咸寧1)以降 咸寧年の初期、荀勗と石苞は功臣となった。 ※勗は目録『中経新簿』を作成し、書物を甲(経書)・乙(諸子)・丙(歴史書)・丁(詩賦書)と分類した。この分類により、それまで儒教の教義書の一部であった歴史書は独立した。そのため、歴史書…

240~269年

・240年(魏暦正始1) ?.? 帯方太守の弓遵の命により、建忠校尉の梯儁らは魏の詔書と印綬を伴って倭に至り、卑弥呼を親魏倭王に拝仮し、金、絹、錦、毛織物、刀、鏡、菜物を贈った。(『三国志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」) ・240年? 「景初4年」という年号の刻…

210~239

・210年頃 大和に突出部付円丘墓が営まれた(纒向石塚古墳)。(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。 ※突出部は1つだけであり、同じく1つの突出部を持つ、立坂古墳や宮山古墳といった吉備の墳丘墓の情報が伝わって…

180~209年

・170~180年頃? 〔參考〕『太平御覧』の引用する『魏志』によれば、光和年間の間(178~183)、倭では各國が爭っており君主がいなかったという。 〔參考〕『後漢書』は、倭國內の戦亂の時期を桓帝,劉志から霊帝,劉宏の時代(146~189)の間とする。 〔参考〕『…

150~179

・150年頃 象鼻山の山頂に方壇が築かれた(象鼻山三号墳)。(石野博信「二世紀の東海の祭祀」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。 ・158年 3.?〔参考〕 『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅の竹嶺が開かれると倭人が訪れたという。 ※竹嶺が開かれたこと…

120~149

・121年 4.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人が秦韓の東辺に侵攻したという。 ・122年 4.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅に台風が来て、木々を倒して瓦を飛ばしたという。都人は倭の兵が来るのではないかと考えて山谷に逃…

90~119年

・97年(漢暦永元9) 70歳となった漢の王充は、本を書くことにした。(『後漢書』王充伝) ・〔参考〕『論衡』「儒増篇」には、周が成立していた時代に、倭人が𣈱草を貢いだという記述がある。 ・〔参考〕『論衡』「恢国篇」には、周の成王,姫誦の時代、倭人は鬯…

60~89年

・73年 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人は木出島に侵攻したという。新羅王,昔脱解(脱解尼師今)は角干羽烏を派遣して防衛にあたらせたが、角干羽烏は戦死したという。

30~59

・40年(漢暦建武16) 3. 南越の諸領主は、徴税権を漢から南越の領主に戻すことを望んだ。(『後漢書』馬援列伝,南蛮西南夷列伝,『越史略』) ・40年(漢暦建武16) 3. 南越の徴側は女王を称し、徴税を行った。(『後漢書』南蛮西南夷列伝) ※漢は高句麗や倭国などの…

紀元後1~29年

・8年 漢の皇太子,劉嬰からの禅譲を受け、王莽は皇帝となり、国号を新とした。その後、「東夷」の王から朝貢があった。 ※新に朝貢を行ったのは、伊都国か奴国の王と推測される(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。 ※新において発行された貨幣,貨泉は日本列島か…

紀元前49~1年

・紀元前47年 Antípatrosはユダヤ総督となった。その子息הורדוסはガラリヤ知事に任じられた。 ・紀元前45年 1.1 RomaにおいてIulius暦が成立した。 ・紀元前44年 2. Gaius Iulius CaesarはRomaの終身独裁官に就任した。 ※Gaiusがそれまで対立したのは、Roma属…

紀元前99~50年

・紀元前97年 漢の定遠侯,班超は、漢とRomaの同盟を画策し、部下の甘英を派遣した。しかしRomaに至る途中で通るはずだったArshak朝Parthiaは、Romaと対立していたため、甘英はRomaにたどり着けず、Sūrīyahと思われる地域で引き返した。 ※同盟は実現しなかっ…

紀元前149~100年

・紀元前149年 殲滅を目的として、ローマはカルタゴを攻めた(第3次ポエニ戦争)。3年後、カルタゴが破壊され、町は火に包まれて戦争は集結した。カルタゴの総人口約50万人の内、生き残った約5万5000人は奴隷として売られた。 ・紀元前149年 マケドニア君主の…

紀元前199年~150年

・紀元前2世紀以降 『マヌ法典』が成立した。 ※『マヌ法典』はインドにおいて歴史形成の要因の一つとして求められた法典でありながら、インド自体は「どんな歴史ももたない」とも評される(ゲオルク ヘーゲル『世界史の哲学』1830~1831序論)。 ・紀元前198年…

紀元前299~200年

・紀元前288年 秦の昭王,嬴稷は2か月間「西帝」を称した。 ※これは王号に代わる権威を、帝に求めたものである(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。 ・紀元前272年 Roma人は、南イタリアのGraecia人都市タレントゥムを陥落させ、イタリア半島を統一し…

紀元前349~300年

・紀元前3世紀半ば このころ、サルマタイという勢力に圧迫され衰退していたスキュタイ勢力は、完全に解体したと思われる。 ※文献がないため、解体に至る経緯は不明である。サルマタイは南ラスィーヤ高原を支配した。遺跡や遺物からして、スキュタイに似た国…

紀元前400~350年

・紀元前399年 アニュトス、メレトス、リュコンの3人は、国家の認める神を認めず、ダイモーンの祭りを導入して若者を堕落させているという罪状で、ソクラテスを告発した。(『ソクラテスの弁明』) ・紀元前399年 裁判の結果、ソクラテスは死刑判決を受けた。(…

紀元前500~400年

・紀元前497年頃 孔丘は官を辭して、魯を去った。(『史記』孔子世家) ・紀元前495年 孔丘は衛に招かれた。(『史記』孔子世家) ・紀元前492年 孔丘は衛の霊公,姫元に失望して去った。(『史記』孔子世家) ・紀元前492年 孔丘は宋にて禮を実習していたが、司馬…

紀元前600~500年

・紀元前597年 新バビロニアの君主,ナブー・クドゥリ・ウツウル(ネブカドネツァル)Ⅱは、ユダ君主国を滅ぼし、ヘブライ人をバビロンに連行した(バビロン捕囚)。 ※ヘブライ人は「ユダヤ人」となり、バビロンでの苦難のなかで教義を整え聖典を成立させた。聖典は…

紀元前700~600年頃

・紀元前700年以降 archaïque期のGraecia美術が成立した。 ※Gracia 美術は、エジプトの影響を受けて成立した。しかし壁と一体化した人物像を作ったエジプトとは違って、人間をかたどった青銅像は自分の足で自立しているという特徴がある。また、片足に重心を…

紀元前800~700年頃

・紀元前774年 周の幽王,姫宮涅は、寵愛する褒姒との間に儲けた伯盤を太子とした。伯盤の異母兄,宜𦥑は太子を廃され、申に亡命した。(『繋年』) ・紀元前774年 周の幽王,姫宮涅は、弟である鄭の桓公,姫友を司徒とした。(『史記』鄭世家) ※鄭の君主は、卿士を…

紀元前1000~800年頃

・紀元前980年? 〔参考〕周の昭王,姫瑕は、即位16年に楚を攻めたという。(『竹書紀年』) 〔要参考〕「24京師畯尊」「29胡応姫鼎」「50史墻盤」には瑕が漢を渡って楚を征伐したとある。従軍した過伯は銅を手に入れた。(24過伯簋) ※「24過伯簋」から、遠征の…

紀元前1100年~1000年頃

・紀元前1046年? 甲子の日、周王,発は殷軍と交戦して勝利し、晩には殷の都商を占領した。(利簋銘文) 〔参考〕殷の紂王,受(帝丁)は70万人の軍勢を動員したが戦意がなく受に逆らった。受は財宝を貯めた鹿台に登り、焼身自殺したという。(『史記』周本紀) 〔参…

紀元前1299~1100年

・紀元前1250年? 商王として武丁が即位した。(『史記』殷本紀,夏商周断代工程) ※甲骨文から、商王の后は「帚(婦)」と称されていたと考えられる。また、甲骨文に見える「亜」「尹」「史」などの家臣が、職能集団を従えて政権に仕えていたようである(吉本道雅…

紀元前1400年~1300年頃

・紀元前1350年頃 Amen hetep IVは、自身の名アメンホテプ(Amen神は満たされた)をAkh-en-Aten(Aten神にとって好ましい)に改名した。 ・紀元前1347年頃 Akh-en-Atenは、Wo'se(希:Thebai)から、Aten神の世界を意味する、Akhetatenと名付けた都に遷都した。 ※神…

紀元前1500年~1400年頃

・ヒクソクのエジプト侵略から100年以上後、エジプト土着勢力はヒクソクの馬と戦車を用いた戦術を吸収し、増大した軍事力によりヒクソクを攻撃し、後にエジプトから放逐、新王国時代を迎える(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。 ・ヒッタイトの君…