個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

300~329年

・300年 1.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅と倭国は友好関係を結んだという。 ※『日本書紀』には該当記事がないことから、この「倭国」はヤマト王権ではなく九州の王権であるとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。 ・311年? 〔参考…

270~299年

・275年(晋暦咸寧1)以降 咸寧年の初期、荀勗と石苞は功臣となった。(『晋書』荀勗列伝) ※勗は目録『中経新簿』を作成し、書物を甲(経書)・乙(諸子)・丙(歴史書)・丁(詩賦書)と分類した。この分類により、それまで儒教の教義書の一部であった歴史書は独立した…

240~269年

・240年(魏暦正始1) 2.1 魏は元号を元号を景初から正始に改めた。(陳寿『魏書』少帝本紀) ・240年(魏暦正始1) ?.? 帯方太守の弓遵の命により、建忠校尉の梯儁らは魏の詔書と印綬を伴って倭に至り、卑弥呼を親魏倭王に拝仮し、金、絹、錦、毛織物、刀、鏡、菜…

210~239

・210年頃 大和に突出部付円丘墓が営まれた(纒向石塚古墳)。 ※突出部は1つだけであり、同じく1つの突出部を持つ、立坂古墳や宮山古墳といった吉備の墳丘墓の情報が伝わっていたのかもしれない(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国…

180~209年

・170~180年頃? 〔參考〕『太平御覧』の引用する陳寿『魏志』によれば、光和年間の間(178~183)、倭では各国が争っており君主がいなかったという。 〔參考〕『後漢書』は、倭国内の戦乱の時期を桓帝,劉志から霊帝,劉宏の時代(146~189)の間とする。 〔参考…

150~179

・150年頃 象鼻山の山頂に方壇が築かれた(象鼻山三号墳)。 ・158年 3.?〔参考〕 『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅の竹嶺が開かれると倭人が訪れたという。 ※竹嶺が開かれたことで、倭人が陸路で楽浪郡に至ることが可能になったとも考えられる(若井敏…

120~149

・121年 4.? 〔参考〕『三国史記』-新羅本紀によれば、倭人が秦韓の東辺に侵攻したという。 ・122年 4.? 〔参考〕『三国史記』-新羅本紀によれば、新羅に台風が来て、木々を倒して瓦を飛ばしたという。都人は倭の兵が来るのではないかと考えて山谷に逃げたが…

90~119年

・97年(漢暦永元9) 70歳となった漢の王充は、本を書くことにした。(『後漢書』王充伝) ・〔参考〕『論衡』「儒増篇」には、周が成立していた時代に、倭人が𣈱草を貢いだという記述がある。 ・〔参考〕『論衡』「恢国篇」には、周の成王,姫誦の時代、倭人は鬯…

60~89年

30~59

・40年(漢暦建武16) 3. 南越の諸領主は、徴税権を漢から南越の領主に戻すことを望んだ。(『後漢書』馬援列伝,南蛮西南夷列伝,『越史略』) ・40年(漢暦建武16) 3. 南越の徴側は女王を称し、徴税を行った。漢は軍を派遣し、徴側を滅ぼした。(『後漢書』南蛮西…

紀元後1~29年

・8年 漢の皇太子,劉嬰からの禅譲を受け、王莽は皇帝となり、国号を新とした。その後、「東夷」の王から朝貢があった。(『漢書』王莽列伝) ※新に朝貢を行ったのは、伊都国か奴国の王と推測される(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。 ※新において発行された貨幣…

紀元前49~1年

・紀元前47年 Antípatrosはユダヤ総督となった。その子息הורדוסはガラリヤ知事に任じられた。 ・紀元前45年 1.1 RomaにおいてIulius暦が成立した。 ・紀元前44年 2. Gaius Iulius CaesarはRomaの終身独裁官に就任した。 ※Gaiusがそれまで対立したのは、Roma属…

紀元前99~50年

・紀元前97年 漢の定遠侯,班超は、漢とRomaの同盟を画策し、部下の甘英を派遣した。しかしRomaに至る途中で通るはずだったArshak朝Parthiaは、Romaと対立していたため、甘英はRomaにたどり着けず、Sūrīyahと思われる地域で引き返した。 ※同盟は実現しなかっ…

紀元前149~100年

・紀元前149年 殲滅を目的として、Romaは Carthāgōを攻めた(第3次Puni戦争)。 ・紀元前149年 Makedonia君主の子息を僭称するAndrikosがMakedoniaを占領した。Romaはそれを破って、Makedoniaを属州とした。 ・紀元前147年 Aršak朝Parthiaは、 Mādāya地方を獲…

紀元前199年~150年

・紀元前199年 Mārcus Porcius Catōは監察官に任じられた。(Plutarchus『Vitae Parallelae(英雄伝)』) ※MārcusがRomaの政界に進出する際には貴族のLucius Valerius Flaccusからの取り立てがあったとされることや、監察官に立候補した際には家柄の低さから反…

紀元前299~200年

・紀元前289年 孟軻は死去した。 ※軻の教えを記した『孟子』は、死後すぐに弟子によって纏められたと考えられる。彼の教えは、善政を敷けば隣国から慕われることや(公孫丑上篇)、徳によって統治を行う王者であれば大国である必要がないこと(公孫丑上篇)、周…

紀元前349~300年

・紀元前3世紀半ば このころ、Sarmataiという勢力に圧迫され衰退していたSkythai勢力は、完全に解体したと思われる。 ※文献がないため、解体に至る経緯は不明である。Sarmataiは南Russia高原を支配した。遺跡や遺物からして、Skythaiに似た国家構造を形成し…

紀元前399~350年

・紀元前399年 Ánytos、Meletos、Lykonの3人は、国家の認める神を認めず、daimōnの祭りを導入して若者を堕落させているという罪状で、Sōkrátēsを告発した。(『Apologia Sōkrátēs(Sōkrátēsの弁明)』) ・紀元前399年 裁判の結果、Sōkrátēsは死刑判決を受けた。…

紀元前499~400年

・紀元前497年 晋において、正卿の趙氏に対して范氏と中行氏は反乱を起こした。晋の定公,姫午および知氏、韓氏、魏氏といった卿は趙氏を支持したため、趙氏は、自領に逃亡した。(『春秋左氏伝』) ・紀元前497年頃 孔丘は官を辞して、魯を去った。(『史記』孔…

紀元前600~500年

・紀元前6世紀頃 『Bṛhadāraṇyaka-upaniṣad』が成立した。 ※聖典「upaniṣad」内において、最古層に位置するものである。その中では、人間個々人は最高の真理Brahman(梵)を知ることで、宇宙の最高原理と一体化する(梵我一如)ことが可能であると説いてある。Br…

紀元前700~600年頃

・紀元前700年以降 archaïque期のGraecia美術が成立した。 ※Gracia 美術は、Aigyptosの影響を受けて成立した。しかし壁と一体化した人物像を作ったAigyptosとは違って、人間をかたどった青銅像は自分の足で自立しているという特徴がある。また、片足に重心を…

紀元前800~700年頃

・紀元前774年 周の幽王,姫宮涅は、寵愛する褒姒との間に儲けた伯盤を太子とした。伯盤の異母兄,宜𦥑は太子を廃され、申に亡命した。(『繋年』) ・紀元前774年 周の幽王,姫宮涅は、弟である鄭の桓公,姫友を司徒とした。(『史記』鄭世家) ※鄭の君主は、卿士を…

紀元前1000~800年頃

・紀元前1000年頃 Egé海の四周にIndo-Europa語族の人々が居住する区域が形成された。 ※彼らは小さな共同体を形成した。こうしてGraecia人が誕生した(手嶋兼輔『ギリシア文明とはなにか』)。 ・紀元前?年 〔参考〕周王は南公を曾公に封じたという。(「曾公求…

紀元前1100年~1000年頃

・?年 癸巳 商王は、祖甲に対して羊と豚を犠牲として捧げるべきかを占った。(『甲骨文合集』27336) ※「祖」は二世代以上前の男性に対して用いられる呼称であるため、祭祀を行った商王は、祖甲の孫である武乙であると考えられる(落合淳思『殷』)。 ※康丁と武…

紀元前1299~1100年

・紀元前1250年? 商王として武丁が即位した。(『史記』殷本紀,夏商周断代工程) ※甲骨文から、商王の后は「帚(婦)」と称されていたと考えられる。また、甲骨文に見える「亜」「尹」「史」などの家臣が、職能集団を従えて政権に仕えていたようである(吉本道雅…

紀元前1400年~1300年頃

・紀元前1350年頃 Amen hetep IVは、自身の名Amen hetep(Amen神は満たされた)をAkh-en-Aten(Aten神にとって好ましい)に改名した。 ・紀元前1347年頃 Akh-en-Atenは、Wo'se(希:Thebai)から、Aten神の世界を意味する、Akhetatenと名付けた都に遷都した。 ※神官…

紀元前1500年~1400年頃

・紀元前1425年頃 Aigyptos第18王朝の君主としてDjehutimes(Thutmose)Ⅲが即位した。 ※Aigyptosを統治する君主は巨大な王宮に住んで人々を指導したため、Aigyptosの言葉で「大きな家」を意味する「Per-aa」と呼ばれるようになった(君塚直隆『君主制とはなんだ…

紀元前1600年~1500年頃

・紀元前1600年頃 〔参考〕『史記』-殷本紀によれば、子履(天乙)は夏王朝を滅ぼして王になり(湯王)、王朝「殷」を立てたという。 ※甲骨文字において、湯王,履は「大乙」や「唐」と呼ばれている。『史記』では「湯王」が諡号、「天乙」が実名となっているが、…

紀元前1800~1700年頃

・紀元前1792年 Babylōníaの君主,Sin-Muballitより、子息のHammu-rapi(Hammurabi)は君主位を継承した。 ・紀元前1783年 Babylōnía君主Hammu-rapiは、Ekallātum君主,Ishme Daganと協力し、Buranun(Euphrátēs)川の中下流域の都市、ラピクムを攻めた。しかしEsh…

紀元前2000~1800年頃

・紀元前200年頃 黄河中流域に二里頭文化が形成された。 ※二里頭文化の支配領域は新石器時代の都市よりも広く、宮殿も建てられていた。宮殿を建てるだけの人々を動員できることもまた、支配圏の大きさを示している(落合淳思『殷』)。 ※伝世文献に見られる「…