・622年 2.21 膳大郎女は死去した。(「釈迦三尊像」)
・622年 2.22夜半 厩戸王は薨去した。その後恵慈は菩提を弔うために経を講じて願を立てた。(『上宮聖徳法王帝説』)
・?年 厩戸王の妻の1人であった橘大娘(推古天皇の孫)は王子を追悼するために、帰化系工人の下絵を元に宮中の采女に刺繍を施させ、「天寿国繍帳」を制作した(『上宮聖徳法王帝説』)。
※そこに描かれた「天寿国」というのは、当時は漠然と思い描かれていた極楽浄土のことと思われる(末木文美士『日本仏教史』)。
※『上宮聖徳法王帝説』における「なお天と言うがごときのみ」という注釈からして、天寿国とは弥勒菩薩の住む兜率天であるとの説もある(『東野治之『聖徳太子』)。
〔要参考〕釈迦三尊像の光背の銘文は、膳氏の者たちが厩戸王と「彼岸」を共にしたいと願う文言がある。
※厩戸王は、兜率天に登った後に、いずれ六道の輪廻を離れ、『妙法蓮華経』の説く阿弥陀如来の浄土に往生することを願ったという説もある(東野治之『聖徳太子』)。
※銘文には厩戸王の言葉として、「世間虚仮、唯仏是真実」というものが記されており、世俗の無常と仏のみが真実であるという厩戸王子の思想が現れている。(末木文美士『日本仏教史』)。
※「世間虚仮、唯仏是真実」について、日本における現実を超越した真理の探求は、厩戸王からはじまったという見解もある(家永三郎『日本思想史に於ける否定の論理の発達』)。
※繍帳の銘文において、「天皇」が欽明天皇と推古天皇に用いられていることから、君主号というよりは王統の始祖の尊称として「天皇」を用いることがあった可能性も考えられている(義江明子『女帝の古代王権史』)。
※「天寿国繍帳」は橘大娘が亡き夫を偲ぶために作成されたのであり、本来の用途からして繍帳そのものに製作意図や系譜を文字として縫い付ける必要はないという見解もある。そのため、橘大娘が薨去した後に銘文は書かれ、刺繍として縫い付けられたとも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。
※銘文の刺繍は図像の一部であり、「天寿国繍帳」の製作と同時に銘文が成立したとも考えられる(義江明子『推古天皇』)。
※「天寿国繍帳」の銘文は推古天皇を、崩御後に贈られるはずの和風諡号「豊御食炊屋比弥(姫)」で呼んでいる。また、織るまでに時間のかかる「羅」と呼ばれる織物である。このことから、繍帳は厩戸王の薨去後かなりの年月が経って後の作品であり、以前に制作された繍帳を、時間をかけてより贅沢な刺繍にして、呼称もより敬意の籠ったものに改めた豪華版であるとの見解もある(東野治之『聖徳太子 』)。
※後世に銘文の号まで改めたのだとしたら、「天皇」に合わせて「大后」は「皇后」に統一するはずであり、「天皇」と「大后」が併存していることは、後世の作為によって「天皇」号が追加されたわけではない証左だという説もある(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。
・622年 預言者ムハンマドとその支持者は、迫害を逃れるために、メッカを脱出してヤスリブに移った。(イブン=イスハーク『預言者ムハンマド伝』)
・623年 新羅の使者から、仏像一具や金製の塔がもらたされたとともに、学問僧の恵済・恵光と留学生の薬師恵日・倭漢福因が倭に帰国した。
※留学生と学問僧を無事に帰国させることで、唐は隋を継承する正統な王朝であることを伝え、隋と同じような日本との関係を継続することをアピールしたものと思われる(河上麻由子『古代日中関係史』)。
・623年 ?.? 厩戸王の子供たちの願いにより、鞍作止利(鳥)の手で釈迦三尊像が制作された。その由来は光背に銘文として刻まれている。(「釈迦三尊像銘文」)
※銘文については、事実に基づくとは限らない由来を説明する、後の時代に刻まれた、像の「縁起」ではないかという説もある。当時、天皇号が未成立だという立場から、厩戸王を指し示す「法皇」という呼称が後の時代のものである、との主張である(福山敏男「法隆寺の金石文に関する二十三の問題」『夢殿』13号所収)。
※釈迦三尊像は土で作った型に蝋を貼り付け、そこに文様を刻んで、その後で銅を流し込んで制作されている。光背には凹凸が残っており、銘文は蝋に下書きをしたような柔らかい書体である。このことから、光背の銘文は後世のものではなく、像が関係してすぐに刻まれたものだと考えられる(東野治之『聖徳太子』)。
※光背銘の由緒が仏像と一体で制作されているとみられることから、「法皇(のりのきみ)」という「仏法に優れた王」を意味する称号も、生前のものと考えられる。薨去後すぐの厩戸王の評価には政治に関する事績への言及は見られず、仏教への造詣の深さを窺わせるものになっている(義江明子『推古天皇』)。
※当時は「皇」と「王」は特に区別されておらず、画数の多い「皇」を厩戸王に対して敬意を表すために用いたのだと考えられる(東野治之『聖徳太子』)。
※銘文には膳部菩岐々美郎女の名前が見えるが、他の妃の名前はない。このことから、釈迦三尊像の制作は、膳氏の主導で進められたのだと考えられる(東野治之『聖徳太子』)。
※銘文は1行14文字で14行の196文字で掘られている。これは『無量寿経』の「不但此十四仏国中、諸菩薩等当往也(ただ、この十四の仏国中の、もろもろの菩薩らのみ、まさに往生すべきにあらず)」に由来すると推測される(今野真二『ことばでたどる日本の歴史』)。
・624年 10.? 蘇我馬子は、自身の「本居」であり、当時大王領となっていた、葛城県の割譲を求めた。しかし推古天皇は、それだけは聞き入れられないと拒否した。(『日本書紀』)
※推古天皇が自らの子孫に王統を伝える計画が潰える中、馬子は娘の法提郎女を田村王(押坂彦人大兄王と糠手姫王の子息)に嫁がせていた。両者の大王位継承計画に齟齬が生じ、仲に亀裂が生まれていた可能性も指摘される(義江明子『推古天皇』)。
※蘇我氏の血縁という立場を離れて、大王としての矜恃を示したとも考えられる(瀧浪貞子『女性天皇』)。
※馬子は推古天皇に従って要求を取り下げており、天皇の命令に必ず従うことを命じる十七条憲法の第3条を順守したとも考えられる(所功『「天皇学」入門ゼミナール』)。
・625年 1.7 高麗王は倭に僧侶の恵灌を送った。これにより『三論宗』が倭に伝わった。(『日本書紀』)
・626年 ?.? 田村王とその姪(茅渟王と吉備姫王の娘)宝王との間に葛城王(後の中大兄王)が誕生した。(『日本書紀』)
※田村王と宝王の婚姻は、田村王にとっての父、宝王にとっての祖父である、押坂彦人王の資産の分散を防ぐ狙いがあったと考えられる(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。
※田村王と宝王の婚姻は、敏達天皇の子孫による財と勢威を結集しながら、宝王の曾祖母(堅塩媛)に由来する蘇我氏の財を取り込む意図があったと考えられる(義江明子『日本古代女帝論』)。
※傍系王族が増加する中で、直系意識が芽生えたとも考えられる。田村王は自身の系譜を父,押坂彦人王に連なると考え、他の大王候補者よりも優位に立つために、押坂彦人王の「王統」を築くことを望み、姪の宝王と婚姻関係を結んだとも考えられる(大平聡「女帝・皇后・近親婚」『日本古代の王権と東アジア』)。
※宝王と結婚する以前、田村王の妻には王族出身者がいなかった。天皇に即位するに際して、妻を共に政務を担う「大后」に立てる必要があった。ただ、政治的な混乱を防ぐために、大后は一般豪族でなく王族でなくてはならなかった。そのため宝王と婚姻関係を結んだとも考えられる(遠山美都男『天智天皇』)。
※「葛城」という名前は、葛城氏に養育されたからだと考えられる。ただ、当時は葛城氏は没落していたため、その地盤を継承した蘇我氏に養育されたのかもしれない。異母兄の古人王も同母兄弟間の長子すなわち「大兄」であったことから、葛城王は2番目の大兄として「中大兄」という通称で呼ばれたとも考えられる(遠山美都男『天智天皇』)。