個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

【唐】儀鳳の時代

・676年(唐暦儀鳳1.11.壬申) 唐の高宗,李治は「儀鳳」と改元した。(『旧唐書』高宗本紀下)

・679年 1.5 天武天皇は諸皇親に対して、母親が「王」号を持っていない場合、母親に対して拝礼してはならないと詔した。(『日本書紀』)

※この時点で、大友王子と同様に采女を母とする武市皇子や、天智天皇皇子の中では川島皇子志貴皇子などは皇位継承候補からは外れていたと考えられる(倉本一宏『持統女帝と皇位継承』)。

※大友王の自害から既に7年が経過していることから、采女を生母とする大友王を貶める目的ではなかったとも考えられる(寺西貞弘『天武天皇』)。

・679年 5.? 天武天皇は、草壁皇子大津皇子高市皇子、川嶋皇子、忍壁皇子、芝基(志貴)皇子を吉野宮に集めて、「朕が男(わがこ)」たちによる将来の皇位継承争いを防ぐために、母親が違っても鸕野讃良皇女を母として慈しむよう誓わせた。誓詞を述べる順番は、序列に従い草壁皇子大津皇子高市皇子、川嶋皇子、忍壁皇子、芝基(志貴)皇子であった。讚良皇女は皇后に立てられた。(『日本書紀』)

※鸕野讃良皇女を皇子たちの「母」とすることで、鸕野讃良皇女の実子である草壁皇子の優位を明確化させようとしたのだと考えられる。また、それは鸕野讃良皇女を介して、草壁皇子の権威を補強する必要があったことを示している。なお、誓約を行った者には皇女は含まれていないのだが、継承は男子を優先としながら、もし男子がいなければ女子が継承する予定だったと考えられる(義江明子「持統王権の歴史的意義」『日本古代女帝論』所収)。

※次世代の継承者を「コ(子)」と見なす観念は、当時の氏族の系譜意識として存在していた(義江明子「児(子)系譜にみる地位継承」『日本古代系譜様式論』所収)。

大津皇子の母,大田王は故人であって後見人はいなかったのに対して、草壁皇子は生母が皇后であり、より「皇太子」に相応しい立場である。ただ、文武両道で(『懐風藻』)、祖父,天智天皇から寵愛された経験があり(『日本書紀』)、草壁皇子より人望を集める可能性があった。そのため、鸕野讃良皇女は、草壁皇子に筆頭として誓約を行わせることで、その地位を確固たるものにしようとしたとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

※この盟約においては、皇子の上位に鸕野讚良皇女が置かれている。また、天武天皇の皇后として、その同世代かつ、有力な諸皇子にとっての「ミオヤ」と位置づけられた。吉野盟約は立后儀に相当するものであり、彼女が誓詞を述べた諸皇子よりも先に即位することが確定していたとの見解もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。

天武天皇は、草壁皇子を自身の後継者と位置づけ、さらに天智天皇の皇子である川嶋皇子・志貴皇子を自身の子息として扱うことで、簒奪者としての汚名を払拭する意図があったとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

天智天皇の皇子2人を盟約に加えたのは、彼らの異母姉,鸕野讃良皇女であったとも推測される。川嶋皇子は後に天武天皇の皇女,多紀皇女と結婚しており、誓いの通りに自分の子息のように愛したとも考えられる。吉野盟約は、それまで冷遇していた天智天皇の皇子らを積極的に登用するという意思表示でもあり、壬申の乱の処理の決算であったという見解もある(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

・679年 5.? 諸皇子が盟約を結ぶのために吉野に行幸した際、天武天皇は歌を詠んだ。

よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見(『万葉集』巻1 27番歌)

吉野を讃え、皇子たちに吉野を今後も良く見ることを求める歌であり、天武天皇が吉野を重視していたことを窺わせる(瀧浪貞子女性天皇』)。