個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

【唐】大暦【日本】神護景雲の時代

・767年(和暦神護景雲1.8.16) 日本の孝謙孝謙皇帝は「神護景雲」と改元した。(『続日本紀』)

・768年(和暦神護景雲2.1.1) 孝謙称徳皇帝は、80歳という長寿に感嘆して大和長岡に正四位の位階を与えた。(『続日本紀』)

※『日本書紀』には、倭吾子籠という人物は住吉王と親しく、住吉王の反乱鎮圧後に捕らえられたとある。しかし同じ倭(大和)氏の長岡は、冷遇されるどころか厚遇されている。『日本書紀』は氏族が天皇に服属する過程を重視しており、反逆者として糾弾する意図はなかったと考えられる。また、履中天皇の時代の物語は遠い過去の時代の出来事であり、それを根拠にして冷遇されることはなかったと考えられる(古市晃『倭国』)。

・769年(和暦神護景雲3.5.25) 不破内親王は、称徳孝謙皇帝を呪詛して寿命を縮め、子息の氷上志計志麻呂を天皇に即位させることを計画したとして逮捕された。不破内親王内親王位を剥奪され、厨真人の姓を与えられて臣籍降下して厨女と改名させられた。志計志麻呂は土佐国に配流と決定した。(『続日本紀』)

※こうした処罰は和気王の処罰と同様に、道鏡天皇に即位させるための、称徳孝謙皇帝の意図との関係が指摘される(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

・769年(和暦神護景雲3.5) 大宰主神は、道鏡皇位に就けるべきという宇佐八幡神の信託を伝えた。(『続日本紀』)

・769年(和暦神護景雲3.9.25) 称徳孝謙皇帝は、和気清麻呂が伝えた八幡神の神託を、清麻呂が創作したものであると述べた。(『続日本紀』)

※神託であろうとも、神託に従うか否かを決定するのは天皇である。称徳孝謙皇帝は、神託は偽証であると決めつけていることからも、道鏡天皇即位は、彼女が望んだこととも考えられる。易姓革命を受容していなかった貴族層は、君主と臣下は別であるという論理によって、称徳孝謙皇帝の構想を阻んだとも考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

・770年(和暦神護景雲4.8.4)〔参考〕称徳孝謙皇帝は、異母姉,井上内親王の夫である白壁王を後継者に指名して、崩御したという。(『続日本紀』)

〔異伝〕『日本紀略』所引の「百川伝」によれば、称徳孝謙皇帝は後継者を定めずに崩御したという。

太上天皇、皇后、皇太后、皇太子といった王権を補完する立場の者が不在であったため、称徳孝謙皇帝が崩御により、王権を担う者が一時的に誰もいなくなった。当時の王権の脆弱さを示すものである(荒木敏夫「「譲位」の誕生」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

・770年(和暦神護景雲4.8.4) 群臣は、称徳孝謙皇帝の遺詔を根拠として、白壁王を皇太子に立てた。(『続日本紀』)

〔参考〕『日本紀略』所引の「百川伝」によれば、左大臣,藤原永手、右大臣,吉備真備、参議,藤原宿奈麻呂・雄田麻呂・近衛大将・蔵下麻呂兄弟、藤原縄麻呂、石上宅嗣らによって合議が行われたのだという。吉備真備文室浄三文室大市を推薦したが、結果として称徳孝謙皇帝の遺詔を根拠として白壁王に決定したとされる。その遺詔は雄田麻呂らによって偽作されたものだという。

※真備の娘,由利は、称徳孝謙皇帝が崩御するまでの100日ほどの間、臥内に1人だけ出入りしていた。そのため真備は娘を通して称徳孝謙皇帝の意向を知っており、その意志の通りに天武天皇系の人物を後継者に推薦した可能性が指摘される(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※雄田麻呂の職掌は、偽りの遺言を作るような工作が可能であることから、実際に彼らによる陰謀が巡らされたとも考えられる(木本好信「百川」『図説 藤原氏』)。

※白壁王は、聖武天皇の皇女,井上内親王を妻として間に他戸王を儲けていた。他戸王は聖武天皇の血を引いていたものの、両親のどちらも天皇でなかったためすぐには即位できず、父親の白壁王が中継ぎとして次期天皇に選ばれたとも考えられる。臣籍降下した浄三や大市よりは、支配者層は中継ぎとしての白壁王の即位に納得しやすかったものと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※遺詔の内容が事実であったかは別として、長年君主であった称徳孝謙皇帝の言葉は重みを持ち、白壁王の擁立を貴族支配層に納得させたのだと考えられる(義江明子『日本古代女帝論』)。

※白壁王の擁立は、「大王は神にしませば」と称された天武天皇の子孫の天皇に見られる、神格化された専制君主としての路線から、豪族・近臣が執政者が天皇の代わりに統治を行うという方針へと転換する志向を意味するとも考えられる(今谷明『象徴天皇の源流』)。

立太子の段階において固関使の発遣と近江騎兵の差発が行われていることから、当時は宮中の白壁王の許に鈴印と符節があったと考えられる。宮中に置かれていたのは、藤原恵美押勝が反乱を起こした際に鈴印の所在が戦局を左右することになったという経験を踏まえたからとも考えられる(今谷明『象徴天皇の源流』)。

・770年(和暦神護景雲4.8.21) 皇太子,白壁王は道鏡の追放を命じた。(『続日本紀』)

・770年(和暦宝亀1.10.1) 白壁王は、「倭根子天皇(称徳孝謙皇帝)」より授かったとして、天皇に即位した(光仁天皇)。(『続日本紀』)

光仁天皇の即位に伴い、藤原宿奈麻呂は良継に、異母弟,雄田麻呂は百川に諱を改めた。