個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

太康の時代

・280~289年(晋暦太康某)  晋の太康年間、陳寿は『三国志』を著した。

※季漢の昭烈帝,劉備の伝記は「先主伝」、呉の大帝,孫権の伝記は「呉主伝」として魏の皇帝の臣下扱いになっている。皇帝は唯一という理念に反する事態は、『史記』の語るような武帝の時代の理想の天下に沿わないものである。理想と乖離した現実の事態に関しては、可能な限り言及を避け、叙述せざるを得ない場合は抑制的な記述をするというのが「中国」的な歴史の扱い方であると考えられる(岡田英弘『歴史とはなにか』)。

・280~290年頃? 〔参考〕箸墓古墳が造営されたか。

※円丘部から出土した壺型土器・特殊器台や、方形部の特殊器台などから、280~290年頃に造営されたとも考えられる。台与が被葬者の候補の一人としても挙げられる(石野博信『邪馬台国の候補地 纒向遺跡』)。

箸墓古墳卑弥呼の墓として240年~260年頃の造営と考え、台与の墓は西殿塚古墳であると考える見解もある(白石太一郎『古墳の被葬者を推理する』)。

※蒲生秀実(君平)は、前方後円墳には「車塚」という名称が多いことや、貴人の乗り物であることから、「宮車」を模した形であると考えた。方丘は車を引く牛に繋げる轅と軛、円丘は笠の付く座席、方丘と円丘の接合部に着く左右の造出は車輪であると考えたのである。そのため、方丘部が前方、円丘部が後方であるとされるのである(蒲生秀実『山陵志』)。

前方後円墳が築造された時代には車が存在しないことから、蒲生秀実の仮説は否定されている(廣瀬和雄『知識ゼロからの古墳入門』)。

前方後円墳は壺の形状を模しているのであり、壺の中に永遠の楽園があるという「壺中天」という神仙思想に基づいて築造されたとも考えられる(辰巳和弘「[シンポジウム]邪馬台国纒向遺跡をめぐって」『邪馬台国纒向遺跡』)。

※瓢形の墳丘が存在しないなど、前方後円墳は現実の壺の形とは異なることから、壺を模した形であるという説には疑問が呈される(寺沢薫『王権誕生』)。

※ホケノ山古墳や高松茶臼山古墳のような、方形部と円形部を持つ墳丘が箸墓古墳以前に築造されていると考えられる。そのため、箸墓古墳はそれらの形状を発展させる形で成立したとも推測される。初期の前方後円墳は方形部の形状が様々であることから、壺などの器物に模したのではなく、円丘部に取り付ける形で成立したと考えられる(松本武彦『古墳とはなにか』)。

前方後円墳は、円丘部とその反対側の方形部の端が高い位置になっていることから、その間の位置の低い部分は、円丘部と方形部先端を往来するためのslopeであるとの説もある。円丘部に埋葬された人物を高く祭り上げ、方形部の広がった前端は、それを背景にして周囲を睥睨するという理念のもとに築造されたとも考えられる。また、slopeと思われる場所には急斜面と円筒埴輪によって囲まれているため、その通路を歩むのは神のような存在か、神と人間の媒介者のような特殊な人格であると見なされていたとも考えられる(松本武彦『古墳とはなにか』)。

前方後円墳の方形部は、時代とともに拡大していったわけではないことから、円・方形周濠墓の通路が発達して形成されたものであるという見解には疑問が呈される。また、方形部を盛土まで行って円丘部と繋げるという発想は、 円・方形周濠墓に突出部を付けるものから発展する形では生まれ得ないとも考えられる(寺沢薫『王権誕生』)。

※「中国」においては天子が天神を円丘で、地祇を方丘で祀る郊祀が行われていたため、前方後円墳の形状も天円地方の観念に基づいて形作られたとも考えられる(寺沢薫『王権誕生』)。

※円丘部で首長霊の継承の儀式を行った後にslope部を渡って方形部の端に至り、参列者を見下ろす位置で君主に即位したことを認知させるという意図があったため、方形部が大きく高くなったとも考えられる。晋へ派遣された使者は、天を円丘で地を方丘で祀る郊祀儀礼を目撃したはずであり、刺激を受け、それが前方後円墳をより巨大なものに整備したとも考えられる。そうした推測からも、箸墓古墳の造営年代を266年以降と考えられる理由とされる(寺沢薫『王権誕生』)。