・170~180年頃? 〔參考〕『太平御覧』の引用する陳寿『魏志』によれば、光和年間の間(178~183)、倭では各国が争っており君主がいなかったという。
〔参考〕 百納本-陳寿『魏書』は、70~80年間を倭国が乱れた時期だとする。
〔参考〕『後漢書』は、倭国が乱れた時期を桓帝,劉志から霊帝,劉宏の時代(146~189)の間とする。
〔参考〕『梁書』は、倭国が乱れた時期を霊帝,劉宏の光和年間(168年~184年)とする。
※『梁書』などの『魏書』以降の史書にある「倭国乱」の年代は、『魏書』から案出された年代であり、別の史料に基づく記述ではないと考えられる(田中俊明「『魏志』倭人伝を読む」『古代史研究の最前線 邪馬台国』)。
※陳寿が『魏書』を執筆した280年代を起点とした場合、それより70~80年前となると3世紀初頭から倭国が乱れていたことになる。また、かつて帥升が倭国の男性王だった時期から70~80年経過していた時代となると、180年前後までの時代となる。また、『梁書』の「光和」年中という年代は、独自の原史料を踏まえたものではなく、『魏書』を参考にした記述であるとも考えられる(田中俊明「『魏志』倭人伝を読む」『古代史研究の最前線 邪馬台国』)。
※『後漢書』における「桓霊の間」という言葉は、不徳の皇帝を引き合いに出して暗い時代を表現するための常套句的なものであり、実際の志と宏の統治期間を意味するものではないという説もある(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※漢の衰退により、鉄資源や威信を示す下賜品を供給するため交通網が混乱した。そのため政治秩序が崩壊し、倭国王の権威が弱まって戦乱が発生したと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。
※青谷上寺地遺跡には、溝の中に90体以上の人骨が放り込まれた形跡がある。遺骨には刀傷のような跡もあるが、当時の倭国には死者を丁重に埋葬する文化があったにもかかわらず溝に放り込まれていた。村が外部から襲撃を受けたとも考えられるが、その後も村は存続していたようである。「倭国乱」の範囲が因幡国を含んでいる可能性があるが、詳細は不明である(石野博信「卑弥呼を「共立」した国々」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。
※「倭国乱」の実態は、奴国や伊都国などの玄界灘沿岸地域と勢力と、瀬戸内海沿岸地域・中央部の勢力による鉄資源・先進文物の入手経路を巡る争奪戦であったとも考えられる。中国鏡の分布が北部九州から変化する時期が「倭国乱」の指標となりえるが、そうした場合、「倭国乱」の時期は『後漢書』から推測される2世紀後半ではなく、3世紀初頭であったことになる(白石太一郎『古墳とその時代』)。
※「倭国乱」のあった場所は、高地性集落の発達する淀川水系から北陸にかけての場合とも考えられ、その場合は西日本・瀬戸内までの広い範囲ではにったとも考えられる(森岡秀人 寺沢薫「原倭国の形成と纒向遺跡」『纒向学からの発信』)。
※考古学的には、日本列島で大規模な戦乱があった形跡はない。「倭国乱」とは倭国が混乱したことを意味するのであって、東方勢力と伊都国を中心とする勢力による鉄資源の争奪のような戦争を考えるべきではないとの見解もある。漢の衰退に伴って伊都国も権威を低下したとは考えられるが、部族国家連合としての権力や外交能力が早期に失われることはなかったと思われる。倭国が混乱状態となったのは、伊都国中心の政治体勢を変革させようとする意識が形成されたことが理由と考えられる。『後漢書』-倭伝における「歴年無主」という記載は、倭国を代表して漢との外交を行うことのできない状況を指すとも考えられる。その後、伊都国が領域を拡大させた形成は見あたらない。(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。