・345年 2.?〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、「倭王」は新羅と断交したという。
・346年 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵が新羅の風島に来襲して略奪をはたらき、金城を包囲して攻めたという。
※陳寿『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」には対馬国や一支国は食糧に乏しく交易を行っていたとある。海商は海賊的行為を行うこともあるため、新羅に来襲したのは対馬国や一支国の人々だったとも推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。
・4世紀中頃? 〔参考〕景行天皇は近江国志賀高穴穂宮に遷都したという。(『日本書紀』)
※纒向王宮の消滅する4世紀中頃が、景行天皇の在位末期の遷都が行われた時期に相当するとも考えられる(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。
・4世紀中頃? 〔参考〕景行天皇が崩御すると、その皇子,稚足彦が即位したという(成務天皇)。(『日本書紀』)
・350年頃 SamudraguptaがGupta朝の君主として即位した。(「Allahabad碑文」)
※Samudraguptaは北Indo中心部のĀryāvartaを征服した (「Allahabad碑文」)。彼は北Indoを獲得すると、南Indoへ遠征を行っており、碑文によれば中央Indoの林住部族・東Baṅga(英:Bengal)、西北Indo・西Indo・Sri Lankāの勢力と外交関係を結んだとされ、広範囲に勢力を拡大させたと考えられる。また、Aśvamedha(馬祀祭)を挙行したとされ、征服とVeda祭式によって権威を示したと考えられる(古井龍介「サムドラグプタ」『神話世界と古代帝国』)。
・353年(晋暦永和3) 3.3 晋の蘭亭にて宴会が行われ、作詩がなされた。その場で王羲之は詩の序文を記した。(「蘭亭序」)
※筆勢を重視されるようになった漢字は、次第に芸術性が高まり楷書となった。その基礎を築いたのが羲之である(落合淳思『漢字の成り立ち』)。
・355年? 3.15 〔参考〕乙卯の年、成務天皇は崩御したという。(『古事記』)
※『古事記』の記す最後の干支「戊子」より遡り、最初の「乙卯」の年は355年となる(末松保和「古事記崩年干支考」)。
・355年? 〔参考〕成務天皇の崩御後、甥である日本武尊の子息が即位したという(仲哀天皇)。(『古事記』)
※仲哀天皇の和風諡号は「足仲彦」である。これは追号であって、実名は不明とも考えられる。実名を忌避する風習の結果忘れられたとも推測される。実名を後世に創作されなかったことから、実在する天皇として伝承されたとも考えられる(小林敏男『邪馬台国再考』)。