個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

【唐】総章の時代

・668年(唐暦総章1.1.丙寅) 唐の高宗,李治は「総章」と改元した。(『旧唐書』高宗本紀下)

・668年 1.3 長らく事実上の天皇であった葛城王は、大津宮にて、正式に天皇として即位した(天智天皇)。(『日本書紀』)

※20年以上「皇太子」であり続けたことで、自身を直系だとする認識が形成されたとも推測される。そして王統を担う「正統」であると見なされた時点を見計らって、即位したとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

※大友王は王子となったわけであるが、その母伊賀宅子娘は「采女」である。『日本書紀』に記載が少ないことから、采女天皇のキサキだったとは考えられない。しかし、采女が王子女の母であった場合には「キサキ」相当として扱われたのだと考えられる(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。

天皇の独占物であった采女との姦通は、時に死罪となった。しかし、次第に罪の重さが軽くなり、采女に対しては、身分が単なる宮人(女官)に落とされることに変化した。こうした采女に対する婚姻の規制緩和は、大友王の母が采女であることに由来すると考えられる(吉川真司「律令国家の女官」『律令官僚制の研究』所収)。

・668年 ?.? 〔参考〕『日本書紀』によれば、天智天皇の即位の年、大海人王は立太子したという。

※『日本書紀』は668年以前の大海人王について「大皇弟」と記しており、既に皇太子の立場にあったとも考えられる。『日本書紀』は伝承上の皇太子は天皇の即位に際して立てられるものとして記しており、その規則を適用する形で記されたとも考えられる。倭国において皇太子はまだ成立していなかったとも考えられることから、大海人王に対する「太子」という表現は、天智天皇の跡継ぎを意味するとも考えられる(寺西貞弘『天武天皇』)。

※政治能力を評価され、官僚からの人望を集めていた大海人王を無下にすることはできず、跡継ぎとして処遇せざるを得なかったとも考えられる(寺西貞弘『天武天皇』)。

・668年 1.17 天智天皇近江国崇福寺を建立した。(『扶桑略記』)

・668年 1.17 近江国から、5尺8寸の銅鐸が出土した。(『扶桑略記』)

・668年 2.23 天智天皇は、異母兄,古人王の娘である倭姫王を大后に立てた。また、遠智娘・姪娘姉妹(蘇我倉山田石川麻呂娘)、常陸娘(蘇我赤兄娘)、阿部橘娘をキサキとした。(『日本書紀』)

・668年 4.6 百済使が日本に朝貢した。(『日本書紀』)

・668年 百済使が百済に帰国した。(『日本書紀』)

・668年 5.5 天智天皇は大海人王や群臣を率いて蒲生野で狩猟を行った。

〔参考〕『藤氏家伝』によれば、狩猟の後、琵琶湖の楼閣にて、天智天皇が群臣と共に酒宴を行っていた際、突如大海人王は槍で地面を突き刺したという話がある。天智天皇は大海人王を殺そうとしたが、中臣鎌足によって止められたのだという。

※『藤氏家伝』は鎌足の功績を称揚する意図を持って編纂された史書であるが、実際に兄弟間に行き違いはあったとも考えられる。兄帝も弟王子も支持勢力を持っていたことから、疑心暗鬼なままに共同統治を行っていたとも考えられる(寺西貞弘『天武天皇』)。

・668年 9. 唐と新羅の連合軍が高句麗を滅ぼした。唐は高句麗のあった土地には安東郡護府を設置した。

・668年 新羅からの使者が倭国を訪れた。(『日本書紀』)

※唐は朝鮮半島に都督府と都護府を設置することを考えた。しかし新羅は、唐の軍を排斥し、また、旧百済・旧高句麗の遺民の助力を得て朝鮮半島内における統一国家の建設を試みるようになった。こうして、唐と新羅は対立するようになった(河上麻由子『古代日中関係史』)。

※唐と険悪な関係になっていた新羅は、倭国との友好関係の構築を望んだとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・669年 8.3 天智天皇は、民情への配慮を理由として高安城の修築を中止した。(『日本書紀』)

※緊張関係の緩和により、唐からの侵攻に備えるための城が不要になったと考えられる(寺西貞弘『天武天皇』)。

・669年 ?.?〔参考〕中臣鎌足は危篤となった。そのため、鎌足の妻,鏡王女は、夫の病気の回復を願って山階寺を建立したとされる。(『興福寺縁起』)

※「鏡王女」というのは、「鏡」という名の王女なのか、「鏡王」という王族の娘かで見解が別れる。当時、臣下と王女の婚姻は不可能であるとして、婚姻自体を疑う説がある(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。

・669年 10.15天智天皇中臣鎌足に大織冠を授けた。そして大臣位を授け、最後に藤原氏を与えた。(『藤氏家伝』)

※最高位の大織冠に相応しい大臣位が授けられ、その後新たな氏が与えられた形である。中臣氏の姓は「臣」の下位の「連」であり、大臣にはなれなかった。先例を破ったものであり、天智天皇からの格別の待遇である。大臣となれば、地名に由来する氏が必要となり、そこで高市郡明日香村小原の地「藤原」が贈られたと考えられる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

・669年 10.16 鎌足は死去し(『日本書紀』)、正一位太政大臣を追尊された。(『藤氏家伝』) 

鎌足は大友王に娘を嫁がせていたが(『懐風藻』)、大海人王にも娘の氷上娘を嫁がせていた。鎌足の死は大友王と大海人王の対立を深めたという見解もある(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

・669年 ?.? 河内鯨を遣唐使として派遣した。(『日本書紀』)

・669年 ?.? 大友王は、大海人王の娘,十市王との間に葛野王を儲けた。(『懐風藻』)

・670年 2.? 初の全国的戸籍の庚午年籍を作成し、徴税と徴兵を行いやすくした。この戸籍は50戸(後に里)を単位として、戸主・戸口の名前と

 ※「律」と「令」の内、近江令は「令」に当たり、独自に編纂されたが、「律」は唐のものをそのまま使用したと思われる(西山良平・勝山清次 編著『日本の歴史 古代・中世編』)。