個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

【唐】咸亨の時代

・670年(唐暦咸亨1.3.丁丑) 唐の高宗,李治は「咸亨」と改元した。(『旧唐書』高宗本紀下)

・670年 4.30 法隆寺が火災で焼失した。(『日本書紀』)

・670年 ?.? 天智天皇は使者を派遣し、鹿島神宮の造営を行った。(『常陸国風土記』)

・671年 1.5 〔参考〕天智天皇は大友王を太政大臣に任じ、蘇我赤兄左大臣に、中臣金を右大臣に任じたとされる。(『日本書紀』)

※大友王が任じられたという新設の職「太政大臣」は皇太子に近しい地位であり、大海人王ではなく大友王に皇位を継承させる意図があったとも考えられる(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

※既に大海人王は「皇太弟」であった以上、大友王を皇太子にはできなかったため、太政大臣という職を設けたとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

※大友王は大海人王よりも年少、かつ身分の低い母を持つ。大友王を要職に付けたことは、父母両系の血統と年長であることを重視する継承からの転換を模索していたとも考えられる。しかしそれは群臣間の亀裂を生んだとも推測できる(義江明子『日本古代女帝論』)。

天智天皇律令制的な父系継承を望んで、大友王子の男系子孫に継承させようとしており、大海人王子との齟齬が生じたという説もある。(森公章天智天皇』)。

太政大臣は知太政官事と同義と思われるが、後の時代にも知太政官事を経験した人物で天皇になった人物はいない。そのため、既に天智天皇の後継者は大海人王と決まっており、大友王が太政大臣に任じられたというのは跡継ぎに指名されたわけではなく、政治的に高い地位を与えることで皇位を諦めさせたとも考えられる。また、天智天皇はこの時点で重病を患っているわけでもなかったため、天智天皇と大海人王との合意のうえでの任命とも考えられる。また、諸豪族から任じられた議政官天皇を中心として統括するという律令的な体制を構築するために任じられたとも推測される(寺西貞弘『天武天皇』)。

天智天皇は、自身の血統を受け継ぐ敏達天皇王統の「正嫡」が大王に相応しいと考えていたとの見解がある。その場合、生母の身分が低い自身の王子、大友王、河嶋王、志貴王はその候補から除外される。そして自身の同母弟の大海人王も次男であるため除外される。そこで、自身の王女である大田王・鸕野讚良王姉妹が、大海人王との間に儲けた大津王と草壁王が候補となる。大津王と草壁王が成長するまで、大友王を太政大臣に任じて「中継ぎの天皇」の候補者として、大海人王とともに後見人をさせるつもりであったとの説がある(遠山美都男『新版 大化改新』)。

天智天皇は大海人王を後継者に考えており、その後に、大海人王の娘,十市王と大友王との間に産まれた葛野王、もしくは自身の王女,大田王・鸕野讃良王姉妹と、大海人王との間に産まれた大津王か草壁王を想定していたとも考えられる。大海人王の後にはもう1代中継ぎとして鸕野讃良王を考えていたかもしれない(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※当時は太政大臣という職官は存在していなかったとの説もある(倉本一宏『蘇我氏』)。

・671年 1.6 大海人王は冠位法度を施行した。(『日本書紀』)

〔要参考〕『日本書紀』の引く「或本」によれば大友王によって施行されたという。

天智天皇・大海人王兄弟の共同統治体制下において、太政大臣である大友王が政令発布を行ったのであり、『日本書紀』の本文と引用される「或本」の記述には矛盾はないとも考えられる(寺西貞弘『天武天皇』)。

・671年 10.17 〔参考〕天智天皇は危篤となり蘇我安麻呂を使者として大海人王子を呼んだという。安麻呂は大海人王に対して、注意して発言するよう忠告したという。(『日本書紀』)

・671年 10.17 〔参考〕天智天皇は大海人王に対して皇位を託そうとしたという。大海人王は、倭姫王の即位と大友王子に「諸政を奉宣」させることを提案したうえで、天智天皇の回復を祈るため出家したという。(『日本書紀天智天皇紀)

〔異伝〕『日本書紀』-天武天皇即位前紀には、大海人王は天智天皇に対して、大友王を「儲君」にすることを勧めたとある。

蘇我安麻呂の忠告は、大友王に皇位を継がせたいという天智天皇の意志に逆らい、自身が天皇になろうとする野心を露わにしてはならないという意味だったとも考えられる(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

※大海人王子が即位を辞退したのは、蘇我倉山田石川麻呂の弟,安麻呂の助言によって決断したこととされる。ただ、それは安麻呂の功績を強調する話を『日本書紀』編纂の際に挿入したからだという見解もある(倉本一宏『蘇我氏』)。

※実際に天智天皇が弟に望んだのは、大友王の補佐であり、安麻呂による忠告の内容は、大友王を次期天皇にしたいという意向に逆らって野心を見せてはならないことだったとも推測される(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

※大海人王の助言は、大友王への即位の前に、女性天皇を立てることを提案するものである。その逸話が事実かは別として、次期大王が決定されないままに大王が崩御した際には、女性王族が即位した後に「立太子」がなされたとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

※大海人王が提案したのは、大友王が「諸政を奉宣」することである。その役割は、天皇詔勅宣命するという太政大臣職掌と共通している。そのため、大海人王が提案したのは、引き続き大友王を太政大臣として任用することだったとも考えられる(寺西貞弘『天武天皇』)。

・671年 10.19 大海人王は近江宮から隠遁先の吉野に向けて出発した。(『日本書紀』)

・671年 11.2 唐からの使者,郭務悰が倭国を訪れた。(『日本書紀』)

※唐側は倭人捕虜の返還と引き換えに、軍事援助として出兵を要請したと考えられる。ただ、天智天皇の病が重篤であったため朝廷は使者をだざいふで待機させたと考えられる(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

・671年 唐の僧侶,義浄は、Indoを目指して旅立った。(『南海寄帰内法伝』)

・672年 1. 唐の百済鎮将が倭国に使者を派遣した。(『日本書紀』)

新羅との戦争が不利な状況下にあったため、倭国に対して軍事援助を求めたとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

新羅と連携されることを防ぐために、倭国と接近しようとしたとも考えられる(河上麻由子『古代日中関係史』)。

新羅と唐からの使者が倭国を訪れたことで、天智天皇が煽った対外危機は、中央集権のための虚偽であることが支配者層に知られた。百済救援のために犠牲を出し、山城の築造を請け負っていた豪族層は、天智天皇に対する恨みを抱いたとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・672年 3.18 朝廷は阿曇稲敷を筑紫に派遣し、唐からの使者と面会した。(『日本書紀』)

※唐からの出兵要請は拒否し、代わりに軍需を贈ったとも考えられる(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

・672年 11. 唐からの使者が、倭国の捕虜400人を伴って倭国に派遣さらた。(『日本書紀』)

倭国は唐に協力的な外交に転換することとなった。唐に協力して新羅を倒せば、かつての朝鮮半島における倭国の権益を取り戻せることを見込んだとも考えられる。また、朝鮮半島全土が唐に支配されたのなら、唐と敵対することは倭国にとつて不利になると思ったとも推測される。外交を主導していたのは、新羅に祖国を滅ぼされた亡命百済人であったとも思われ、大友王に対して、仇敵新羅を攻めることを提案したとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・672年 11.23 大友王は、左大臣,蘇我赤兄、右大臣,中臣金、蘇我果安、巨勢人、紀大人とともに、天智天皇に対して、天皇の詔を奉じることを誓った。(『日本書紀』)

天智天皇は大友王を後継に定め、重臣たちはその意思を尊重したことを示すとも考えられる(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

天智天皇は、それまで皇位の兄弟継承が争いの原因になったこともあるのを鑑みて、親から子への直系継承を望ましく考えたとも考えられる(所功『「天皇学」入門ゼミナール』)。

皇嗣議政官の地位を超越した立場にあるが、『日本書紀』の記述では「六人心を同じくして」と表記してある。そのため、大友王は太政大臣ではあっても、天智天皇の後継者には指名されていなかったとも考えられる(寺西貞弘『天武天皇』)。

・672年 12.3 天智天皇崩御した。(『日本書紀』)

天智天皇崩御後にも大海人王は近江国には戻っていないことから、身の危険を感じていたからだと思われる(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

・672年 5.? 〔参考〕大友王は山稜造営のために人夫を摘発していたが、人夫には武器を持たせていたという。(『日本書紀』)

※これは対新羅戦争のための徴兵であり、尾張国美濃国の拠点に兵士が集結していたとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・672年 6.22 大海人王は村国男依などを美濃国

派遣して、大友王打倒のために挙兵を命じた。(『日本書紀』)

天智天皇が大海人王を後継者に考えていた場合、大海人王に積極的な挙兵理由はない。そのため、鸕野讚良王が主体的に行動し、大海人王子の後に、自身の子息である草壁王に大王位を継承させようとして、大友王子を排除を狙って挙兵を促したとの説もある(倉本一宏『持統女帝と皇位継承』)。

※大海人王を長年支援してきた諸豪族が、大海人王が大王になることを望み、その動きを抑えられず、決起したとの説もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※大友王が大海人王を滅ぼそうとしているという情報は、大海人王に挙兵を促すために伝えられた虚偽の情報だったとも考えられる(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

※対新羅の戦争を計画する大友王を倒すことで、百済救援で多くの犠牲を払った諸豪族の恨みが自分に向くことを回避する意図があったとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

〔参考〕『古事記』序によれば、大海人王の軍は赤い旗を掲げていたという。

※かつて劉邦が赤い幟を使用していたことに由来すると思われる。大海人王は大友王と同じ父系集団に属するが、大友王の打倒は、大海人の認識としては「革命」であったとも考えられる(吉田孝『日本の誕生』)。

・672年 6.24 大海人王は、鸕野讚良王・草壁王母子、忍壁王らを率いて吉野を脱出し、東方に向かった。(『日本書紀』)

※『日本書紀』には大海人王は「皇太子」だったとあるが、美濃国の壬生部,安八磨評は皇太子に対して食封「温淋」を支給する役割があった。伊勢国にもあったと考えられる。この時期の温淋が律令的に整備されていたから不明であるものの、壬生部を拠点として軍事戦略を立てていたと考えられる(吉村武彦「ヤマト王権と「東国の調」」『日本古代国家形成史の研究』)。

 ・672年 6.25 大海人王は伊賀国から伊勢国に移り、長男,高市王と合流した。(『日本書紀』)

・672年 6.26 大海人王は伊勢国朝明郡にて、天照大御神を拝した。大海人王の元に、子息の大津王が合流し、桑名の郡家に宿泊した。(『日本書紀』)

天照大御神天皇の守護神として現れている(上田正昭『私の日本古代史』)。

※『日本書紀』には、高市王と大津王は、大分恵尺の手引きで近江国を脱出したとある。ただ、恵尺が挙兵後すぐに両王の元を訪れて父王子の挙兵を告げたとしても信じることは不自然であるとの指摘がある。また、両王には豪族が付き従う形で父と合流しており、事前に挙兵は計画されていたことを示すとも考えられる(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

・672年 6.26 大友王は「群臣」たちに大海人王軍への対処方針の意見を聞いたところ、1人は騎馬兵を集結させて急いで攻撃することを提案した。しかし大友王は飛鳥、吉備、筑紫に使者を派遣して、兵を摘発することにした。(『日本書紀』)

※1人の臣が提案したのは、大海人をすぐにでも滅ぼすことであった。対して大友王は、吉備や九州までも巻き込んだ長期戦を見越していたと思われる(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

※大海人王の挙兵を知って、近江朝廷の群臣は混乱状態になったと『日本書紀』にあることや、対応が遅れていることなどから、大友王は将来の衝突を見越していたとしても、相手側の挙兵は予想以上に早かったとも考えられる(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

・672年 鸕野讚良王は伊勢国桑名に留まった。(『日本書紀』)

※軍需物資揚陸地から夫,大海人王を後方から支援するために、桑名に留まったとも考えられる(瀧浪貞子持統天皇』)。

※軍需物資が桑名を経由して大海人王に届けられたことや、それが鸕野讚良王の差配だということを示す史料はない。また、軍需物資は美濃国東宮油淋から届けられたと考える方が自然という見解もある。彼女や子息たちが桑名にいたのは、襲撃を受けたとしても海から逃げることが可能だったからとも考えられる(寺西貞弘『天武天皇』)。

・672年 7.2 大海人王は美濃国から大和国近江国に向けて進軍した。(『日本書紀』)

・672年 7. 高市許梅に憑依したという事代主神の託宣に従い、大海人王は神武天皇陵に兵器を供えて祭拝した。(『日本書紀』)

事代主神を奉斎する人々の間では、神武天皇の陵墓が伝承されていたと考えられる(平林章仁「神武天皇東遷伝承形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

・672年 7.22 大海人王軍は、大友王軍を破り、大津宮を陥落させた。(『日本書紀』)

〔参考〕『懐風藻』には、戦乱の結果、大津宮は焼失したとある。

大津宮の発掘調査からは、建造物が焼けた跡が見つかっていないことから焼失を疑問視する見解もあるが、調査された遺構は一部であることから断定できないという見解もある(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

 ・672年 7.23 大友王は自害した。(『日本書紀』)

天智天皇のキサキであった倭姫王、蘇我遠智娘・姪娘姉妹らが世を去った時期は『日本書紀』に記録がなく、『延喜式』も陵墓の場所を記さない。そのため、かつての山背王の妻や蘇我倉山田石川麻呂の妻のように、自害したとも推測される(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

・672年 8.25 大海人王の命で、右大臣,中臣金は処刑され、左大臣,蘇我赤兄、大納言,巨勢比等らは流罪となった。(『日本書紀』)

・672年 冬 大海人王は、岡本宮の南に造営した、飛鳥浄御原宮に移った。(『日本書紀』)

・?年 大海人王と大友王との争いが終結した後、大伴御行は歌を詠んだ。

大君は 神にしいませば 赤駒の 腹這う田居を 都と成しつ(『万葉集』4260番歌)

※作者不明の歌てして「大君は 神にしいませば 水鳥の すだく水沼を都となしつ」という歌も、『万葉集』に収録されている(4261番歌)。大海人王は戦争に勝利し「神」として崇められるようになったのである(吉村武彦「律令制国家の形成」『日本古代国家形成史の研究』)。

・673年 2.27 大海人王は飛鳥浄御原宮にて即位した(天武天皇)。(『日本書紀』)

天武天皇皇位の簒奪者ではなく正当な後継者であることを示すために即位礼は荘厳になることを望んだと推測される。そのための壇場の完成には時間が必要だったため、飛鳥浄御原宮への遷都は末年にまで遅れたとも考えられる(寺西貞弘『天武天皇』)。

※軍にも守られていない状況から挙兵し勝利した天武天皇は神と称えられることになった。「大王は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 皇都となしつ」(『万葉集』巻19 4261番歌)。

※「中国」の皇帝と対置し、新羅の王を従えるような新たな君主号として、「天皇」を制定したのは天武天皇とも考えられる。彼は道教や卜占に傾倒していたことから、道教最高神である「天皇」を採用したとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※初期の道教では「天皇」は最高神でないという見解もある(下出積與説)。

※「大王」という称号の「大」と「王」の画数を増やして「天」と「皇」にしたのであり、字義として大きな違いはないという見解もある(大津透「「日本」の成立と天皇の役割」『古代天皇制を考える』)。

・673年 2.27 〔参考〕天武天皇は、鸕野讚良王を皇后に立てたという。(『日本書紀』)

※『日本書紀』では、立后記述の後に天武天皇の皇妃と間に産まれた皇子女を列記している。しかし、当時まだ産まれていない皇子も記されていることから、後に付加された記事であり、立后もこの時点では行われていなかったとも考えられる(寺西貞弘『天武天皇』)。

・673年 4.14 天武天皇大来皇女を「斎王」とした。

・673年 義浄はシュリーヴィジャヤを経由して、インドに至った。彼はナーランダー寺院にて仏教を学んだ。(『南海寄帰内法伝』)

※当時の北インドヒンドゥー教を奉じるプラティパーラ朝、パーラ朝、ラーシュトラクータ朝が争っており、仏教は衰退期にあった。そのため後に義浄は引き返すことになる。南インドではデカン高原のチャールキヤ朝、東海岸パッラヴァ朝、南部のチョーラ朝がインドと東南アジア間の交易で栄えながら覇権を争っていた。(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・674年2. 新羅高句麗の反乱衆を支援し、百済の土地を奪った。このことに唐の高宗,李治は憤慨し、新羅の文武王金法敏の官爵を剥奪した。李治は法敏の弟仁問を新たな新羅王と定め、翌年に新羅を攻めた。これに対して法敏は謝罪し、官爵は元の通りとなった。

新羅への対応に追われる間、今度は東突厥が唐を圧迫し始めたため、その後、唐は東方への軍事行動を控えるようになる(河上麻由子『古代日中関係史』)。

・674年 3.7 対馬国から銀が産出した。(『日本書紀』)

※『日本書紀』は、倭国(=日本)のことを、時代に関わらず「日本」と記す。しかしこの3月7日条には「倭国」とある。原史料に「倭国」とあったものをそのまま記したのであり、974年時点では、まだ国号は「倭国」であったようである(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

・674年 4.14 小錦下,久努臣麻呂は勅使に逆らったことを理由に官職・官位を剥奪された。(『日本書紀』)