・713年(唐暦開元1.12.庚寅) 唐の玄宗,李隆基は「開元」と改元した。(『資治通鑑』)
・和銅6年(713) 日向国から大隅国が分立した。(『続日本紀』)
※日向国からの分立が薩摩国よりも遅かったのは、大隅が日向国と密接であったことが理由と考えられる(平林章仁「神武天皇伝承東遷形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。
・713年(唐暦開元1) 唐の玄宗,李隆基は「開元神武皇帝」の号を称した。
※「中国」においては皇帝は唯一の支配者であるため、在位中に個人の称号を名乗る必要はない。隆基が個人号を称したのは、匈奴や突厥のような遊牧国家の文化が影響したものと考えられる(杉山清彦「ハン・・ハーン・皇帝」『君主号と歴史世界』)。
・714年(和暦和銅7.2.10) 元明天皇は、紀清人と三宅藤麻呂に国史の編纂を命じた。(『続日本紀』)
※後に『日本書紀』と呼ばれる国史の編纂に、2人が加わったことが理解できる(吉田一彦『『日本書紀』の呪縛』)。
※現代史としての「国史」に関する職務は図書頭のものであり、清人に命じる必要はない。そのため、ここにおける「国史」は、国の歴史を意味するものとしての初の用例である(坂本太郎『六国史』)。
・714年(和暦和銅7.6.25) 首親王は皇太子となった。(『続日本紀』)
・714年(和暦和銅7.?.?) 藤原房前は、美努王の娘である牟漏女王との間に子息,永手を儲けた。(『続日本紀』)
※牟漏女王は敏達天皇の曾孫、つまりは四世王である(『新撰姓氏録』)。房前との婚姻は、五世王以上の女性皇親の、臣下との婚姻を禁じる『養老令』「継嗣令」第4条に反するものである。ただ、このような事例は少なく、空文化しているわけではないようである(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。
・714年(和暦和銅7.7.10) 紀清人は従五位下に昇った。(『続日本紀』)
※当時国史編纂において残っていた仕事は、『日本書紀』巻30の撰述と完成していた諸巻への加筆と潤色であった。国史の術作担当者は、大外記・儒士から選ばれた(『新儀式』)。外外記は正六位上であるため、当時従八位下であった三宅藤麻呂は、『日本書紀』の諸巻の加筆や潤色を担当したと考えられる。朝鮮関係記事の準引用文に3つ、潤色文に3つ、巻25の詔勅に2つの、接続詞「縦」の誤用が見られる。それは藤麻呂による加筆部分だと考えられる(森博達『日本書紀の謎を解く』)。
・715年(和暦和銅8.9.2) 元明天皇の譲位により、娘で文武天皇の姉にあたる氷高内親王が即位した(元正天皇)。(『続日本紀』)
※元明太上天皇は譲位において、気力が衰えたことを理由に述べているが、本来の目的は太上天皇として娘の元正天皇と孫の首親王を支えるためとも考えられる(荒木敏夫「「譲位」の誕生」『天皇はいかに受け継がれたか』)。
※元正天皇は生涯を独身で過ごした。
※元正天皇は、即位以前から婚姻した形跡もない。在位中の天皇の皇子は有力な皇位継承候補者、更には皇太子になりえる。すると、将来的な首親王に皇位を継承させるという予定が崩れる可能性が生じるため、独身でいることを即位前から強いられていたとも考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。
※元正天皇は父が皇族、母が天皇であり、藤原氏を母に持つ首親王よりも尊貴な血統であった。文武天皇の嫡系皇親の地位を維持するためにも、独身であったとも考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。
※首親王の妻に、藤原不比等の娘,安宿媛を迎えることの合意を形成する必要があったため、妻候補になりえる元正天皇を即位させて、独身のままでいさせたという説もある(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。
※「草壁皇子嫡系という概念は、当時確立していなかった」という観点からは、宮廷に使える女性が生涯独身であることも多く、そのような生き方を元正天皇が受容できない環境ではなかったという説が出されている。(渡辺育子『元明天皇・元正天皇』)
※元正天皇が文武天皇の「皇后格」であったがために、配偶者を持つことをはばかったとの見解もある(仁藤敦史『女帝の世紀』)。