・712年(唐暦先天1.8.甲辰) 唐の玄宗,李隆基は「先天」と改元した。(『資治通鑑』)
・712年(和暦和銅5.9.?) 太安万侶と稗田阿礼による歴史書『古事記』が完成した。元明天皇は、天武天皇以降の史書編纂が滞っており、それまでの歴史書に誤りが多いことから、安万侶に編纂を詔したのだという。(『古事記』序)
※『古事記』においては、天と地が分かれた最初の地上世界は、水に油が浮かんだようなものであったと語られる。海岸に打ち寄せられたクラゲ群から連想されたとも推測される(稲垣諭『「くぐり抜け」の哲学』)。
※天照大御神と素戔嗚尊が誓約によって互いに神を産んだ際には、互いの剣と勾玉を砕いて息を吹きかけている。Graeciaと同じように、人の生死を息によって示していることが指摘される(稲垣諭『「くぐり抜け」の哲学』)。
※血縁による皇位継承を正当化するために、それまで群臣が選定していた継体天皇以前の天皇を、1つの系譜として繋いで王統を創作したとも考えられる(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。
※天皇の偉大さを表現する意図や、伝承の過程で神仙思想の影響を受けたことで、過去の天皇は長寿として伝承され、『古事記』に採用されたとも考えられる(小林敏男『邪馬台国再考』)。
※諸豪族の祖先についての話も記されており、諸豪族の祖先を天皇が従えたという話にすることで、君臣の別を強調する意図があったとも考えられる。(末木文美士『日本思想史』)。
※諸豪族たちが公共の場において述べていた、自分の祖先が天皇に貢献したという伝承などから、『古事記』の氏族伝承の基礎が成立したと考えられる(水谷千秋『日本の古代豪族 100』)。
※『古事記』に出来事の年月日が記されてないのは、年月日の伝わらない古い伝承をそのまま残したのとが理由とも考えられる(清水潔「天武天皇の修史事業と『古事記』『日本書紀』」『神武天皇論』)。
※瓊瓊杵尊が降臨したという日向国は、「朝日の直刺す国、夕日の日照国」とあることや、稲作ではなく海幸と山幸の物語の舞台であること、また熊襲や隼人のいる土地として語られる。水田耕作に不向きで自然災害が多いことを反映しているとも考えられる(岡田登「神武天皇とその御代」『神武天皇論』)。
※天皇の祖先よりも先に畿内に進出した、出雲氏、物部氏、尾張氏といった日神を奉斎する氏族(ヒ神系氏族)は、天皇を本流とする系譜に組み込まれたとも考えられる(田中卓「私の古代史像」「神統譜」『日本建国史と邪馬台国』)。
※天皇の称号としては、「天皇」「命」「王」「御子」が見られる。しかし「オホキミ」という言葉は『古事記』内の歌謡に見られるが、「大王」という語は1つも見られない。「大王」を称号だとは捉える考え方がなかったことを示すと思われる(吉村武彦「古代の王・王妃称号と尊称」『日本古代国家形成史の研究』)。
※『古事記』は欽明天皇と彼の配偶者との間に産まれた王子女について、「娶生御子(みあいて生む御子)」と表現しており、双系的な系譜の表記様式を受け継いでいることが窺える(義江明子『推古天皇』)。
※狭穂姫命が、兄,狭穂彦王から夫,垂仁天皇の暗殺を持ちかけるが失敗するという記事がある。これは、同母兄妹によるヒメ・ヒコ制の統治形態が衰退したことを示す説話が伝えられていたことを示すとも考えられる(小林敏男『邪馬台国再考』)。
※小唯命(後の日本武尊)が、叔母,倭姫命から服を借りて女装し、油断した熊襲の兄建と弟建を殺害するという記事がある。これは血縁関係のある女性の霊力が付与されるという点において、ヲナリ神信仰との共通性が指摘される(小林敏男『邪馬台国再考』)。
※『古事記』に「日本」という言葉が登場しないのは、その言葉が「中国」から見て東という意味であり、神代は「中国」を知らないころの世界を描いており、「日本」を定義する必要がなかったからとも考えられる(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。
※仲哀天皇記には「上通下通(おやこたわけ)、馬婚(うまたわけ)、牛婚(うしたわけ)、鶏婚(とりたわけ)、犬婚(いぬたわけ)」とあり、「たわけ」という罵倒語は、元は淫らな性行為を意味する言葉であったことが理解できる(清水克行『室町は今日もハードボイルド』)。
※序文において、日本の言葉を漢字で書けば、心に思っていることが十分に表現できないと述べられている。そのため、『古事記』は表意文字として漢字を用いながら、音だけ借りた漢字を交えて記される。漢字の持つ中国音と、漢字の持つ意味をどちらも受け入れたのである。こうして日本語においては、漢字1字に対して複数の読みが与えられることとなった。こうして日本語は、漢字の意味はわかるものの、読むことが出来ないという現象を生むこととなった(今野真二『日本語の歴史』)。
※「蚊」に「加安(カア)」と注があることや、「紀伊(キイ)」「宝飫(ホオ)」といった地名の記述から、近畿方言に見られるように、当時は単音節語に母音をそえて、長めに発音していたと考えられる(土井忠生・森田武『新訂 国語史要説』)。
※国史の編纂によって、壬申の乱によって生じた国民間の対立は解消し、唐からの圧迫に対する国民的自覚が形成されたとも考えられる(田中卓『教養 日本史』)。
・712年 Umawiyya朝はSindh州を征服した。
※Hindu教徒は「啓典の民に似た者」と宣言され、Christos教徒やYehud教徒に認められていた権利が同様に与えられることとなった。その土地で多数派であったHindu教徒を支配するための方針であったと考えられる(Krishan Kumar『帝国』)。
・713年(和暦和銅6.5.2) 日本の元明天皇は、地方の風土や歴史に関する、古老による旧聞や異事を史籍にまとめることを命じた。(『続日本紀』)
※国土という意識を明確化し、各地の資源を開発して律令国家の基盤を強める意図があっての編纂とも考えられる(田中卓『教養 日本史』)。
※後に『風土記』と呼ばれる史籍の編纂は、「中国」の正史のうちの「志」、つまりは『日本書』の地理志の構想の実現のために行われたのだと考えられる(三浦佑之『神話と歴史叙述』)。
※『風土記』における天皇は、伝えられる出来事がいつ起きたかを説明するために語られる。それは、時代の変化を天皇の代替わりによって認識されていたことを示している(関根淳『六国史以前』)。
※『釈日本紀』巻11述義7「立大三輪以奉刀矛」に引かれる『筑前国風土記』には、気長足姫が大三輪の神を祀ったことが述べられている。これは地方で気長足姫の伝承が語られていたことを示すのものであり、当時の人々はその実在性を疑っていなかった根拠として挙げられる(遠藤慶太『六国史』)。
・和銅6年(713) 7.6 大倭国宇太郡から5尺5寸の銅鐸が出土したため、日本の朝廷に献上された。(『続日本紀』)
※当時、銅鐸は地中から出土する珍しいものであり、宝物として献上されていたことが理解できる(小林敏男『邪馬台国再考』)。
・和銅6年(713) 11. 石川氏と紀氏出身の、文武天皇の2人のキサキは、嬪の地位を剥奪された。(『続日本紀』)
※藤原不比等・県犬養橘三千代が黒幕であり、蘇我氏の血を引く石川刀子娘を嬪から外して彼女の産んだ広成から皇籍を剥奪し、首皇子を皇太子にしようとしたという説もある(角田文衞「首皇子の立太子」)。