個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

Aigyptos第20王朝の時代

・紀元前1186年頃 Meli-Šipak IIがGalzu(Kaššu)の君主として即位した。

※Meli-Šipak IIの時代には、記号としての神々の表現が体系化された。天空神Anuと大気神Enlilが角冠として表されたのは、天空や空気を記号として表現することが困難であったため、神々一般の特徴とされた角冠を以て象徴としたとも推測される(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1180年頃 「海の民」はAigyptosに侵入を図るが、撃退された。

※Aiguotosは遊牧民からの侵攻を防衛するために、「海の民」の一部であったP'lishtī人とTjeker人をPalestina南部沿岸地域に植民した。Palestinaという地名は、『Sefer Shoftim(士師記)』や『Sefer Shmuel(Shmuel記)』において「Plišt'īm」と呼ばれる人々に由来するのである(小林登志子古代オリエント全史』)。

※エジプトは「海の民」を撃退したものの、Syria・Palestinaからは撤退せざるを得なくなる(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前1180年頃 Hatti国は滅亡した。

※「海の民」から攻撃されたことによって滅亡したとされてきた。気候変動の影響なども考えられるが、実際の理由は不明である(近藤二郎「展望 古代西アジア」『古代西アジアギリシア』)。

※Hattiが崩壊したころ、製鉄技術が地中海に広まった。これには諸説あり、Hattiが独占していた製鉄技術が、その滅亡とともに広まったという説もあれば、それ以前から製鉄は行われていたという説もある。また、青銅の原料錫が不足したために鉄器の需要が高まり、製鉄技術の改良が進んだという説もある(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※「海の民」と接触する中で、中央Asia遊牧民の子孫であるKənā‘an人の一部は海洋民となり、船を用いて海に出向くようになる。それがPhoiníkē人である(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。

※Phoiníkē人はSidon、Tyrusといった都市国家を築き、Lebanon杉を使った船により地中海交易を行っていた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※海は高次の力として崇拝・祭祀の対象であったが、Phoiníkē人は海に対する奴隷的な神事からの解放を望み、知性を用いて自然を支配することに成功したとも評される(Georg Hegel『東洋の歴史について』)。

※Phoiníkē人は東地中海にある根拠地に首都Tyrusを築き、ˈky.pros島、Graeciaから、西地中海へと進出。北AfricaのCarthāgōやIbérica半島に植民市を築いた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。 

※Sardigna島にある、ziqquratに似た建造物は、Phoiníkē人の影響によるものと考えられる。各地の建築様式が混入したSardignaでは、円柱状に石を積み上げた、nuragheを建てる巨石文化が形成された(池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。

※Phoiníkē人が、神聖文字を簡略・表音文字化したSinai文字を参考にして生み出した、右から左への横書き文字alphabetは、Phoiníkē人の交易とともに地中海世界に広まった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・紀元前1165年頃 Shutruk-NakhunteがElamの君主となった。

※Shutruk-NakhunteはGalzu(Kassit)王朝の治めるBabyloniaの都市の多くを占領し、貢納を要求した(小林登志子古代オリエント全史』)。

・紀元前1157年頃 Marduk-kabit-ahheshuはIsinで君主となった。

※Isinで創始されたため「Isin第二王朝」と呼ばれる(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1155年頃 ElamはGalzu(Kassit)王朝を滅ぼした。

※Hammu-rapi法典碑やBabilの主神,Mardukの像、kudurruがElamに持ち去られた(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

※Elamの盛期にはSumerの諸都市は荒廃し、既存の政治・経済的な基盤を失うこととなった(前田徹『都市国家の誕生』)。

・紀元前1353年頃 BabyloniaにIssin第二王朝が成立した。

※それまでのGalzu(Kassit)王朝と同じくkudurruが作成されるなど、社会・文化的に断絶はなかった(小林登志子古代オリエント全史』)。

・紀元前12世紀後半(推定) 肥沃なイズレエル平野を巡って、争いが起き、Iḇr(Hebrai)人部族連合がKənā‘an北部の都市国家連合を破った。

※この時点で、Iḇr(Hebrai)人は「Yisrā'el」という部族連合としての纏まりを持っていたようである。『創世記』32章29節からは、「Yisrā'el」とは「el戦い給う」「el支配し給う」という意味だと分かる。「el」とはSem系言語における神を意味する言葉である。Phoiníkē・Kənā‘an神話の最高神の固有名詞でもある。都市国家との対立という困難な状況下で、部族連合の結束力を高めるため、elよりも強い神が望まれた。こうして、elと同一視される形で、敵を打ち負かしIḇr(Hebrai)人を解放する神、YHVHの信仰がはじまったとも推測される(山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』)。

※Yisrā'elはJacobの別名とされており(『Bereshit(創世記)』)、当初はKənā‘an先住の北10部族を指す名称であったが、12部族全体の名称になったとも考えられる(加藤隆『キリスト教の本質』)。

・紀元前1125年頃 Isinの君主としてNebuchadnezzar Iが即位した。

※Nebuchadnezzar IはBabilからElam勢力を排除して支配を確立させ、Babilの主神,Mardukの像をElamからBabilに戻している。以降、Mardukの神としての地位は高められた。

・紀元前12世紀後半 Hattiは滅亡した。

・紀元前1114年頃 Tiglath Pileser ⅠがAššurの君主の君主として即位した。

※Tiglath Pileser Ⅰの時代には「中期Aššur法典」が編纂された。既存のMesopotamiaの法典を参考にしているが、男性の家に2年間同居していた寡婦は契約を交わしてなくとも妻と見なされると規定されるなど、女性の権利保護の傾向が窺える(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

※Tiglath Pileser Ⅰの時代にはAnatoria東部や西方のAram系諸国への遠征、Babilに侵攻するなど衰退した勢力を回復させる動きを見せた。しかし、飢饉や西方からのAram人の侵入などにより支配領域拡大に失敗した(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。

・紀元前1100年頃 殷において青銅器に文字が鋳出されることとなった。

※金属に刻まれているため「金文」と呼ばれる。装飾的で複雑な文字ではあるものの、当時は筆も使用されていたため、金文よりも簡単な字体の文字も使用されていたと推測される(伊藤道治『古代中国』はじめに)。

・紀元前1100年頃 Mesopotamia北部において山岳交通に双峰駱駝が利用されるようになった。

※駱駝はMesopotamia北部のようなsteppe地帯における輸送に適した動物であった。一方、南部では駱駝は普及せず驢馬が用いられた(小林登志子古代オリエント全史』)。

・?年 癸巳 商王,武乙は、祖甲に対して羊と豚を犠牲として捧げるべきかを占った。(『甲骨文合集』27336)

※「祖」は二世代以上前の男性に対して用いられる呼称であるため、祭祀を行った商王は、祖甲の孫である武乙であると考えられる(落合淳思『殷』)。

※康丁と武乙の時代の甲骨文字は戦争に関する記録が多く、羌との戦闘において商王が味方の戦死を危惧している形跡があることから(『甲骨文合集』27990)、羌が敵対勢力として強大化したと考えられる。『史記』-殷本紀では、武乙は「天」を侮辱する王として語られるが、当時の「天」は主神ではなく自然神の一種であることから、支配体制の動揺から形成された伝承ではあっても、内容自体は創作である(落合淳思『殷』)。

・紀元前1078年頃? 武乙の王子,文武丁(太丁)が商王に即位した。(『史記』殷本紀)

※文武丁の時代には狩猟の日程が増やされている。その際の狩猟では獲物に関する記述がほとんどないため、軍事訓練に特価したものであったと考えられる。軍事訓練を通して、王都近くの都市の支配を強固にすることを企図したと考えられる(落合淳思『殷』)。

・紀元前1075年頃?(商暦太丁4) 〔参考〕商王,文武丁は、周の君主,季歴を牧師に任じたという。(『竹書紀年』)

※『詩経』-大雅・大明には、季歴の妻,大任が商の出身であったと述べていることから、周は商王に女性を嫁がせるだけでなく、商から女性を妻として迎え入れたこともあったと推測される(佐藤信弥『周』)。