個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

2024-03-01から1ヶ月間の記事一覧

300~329年

・3世紀末~4世紀初頭? 〔参考〕崇神天皇は、宮内で祀っていた豊鍬入姫に託して天照大神を笠縫村に、日本大国御魂を渟名城入姫に託して宮の外で祀らせたという。(『日本書紀』) ※纒向遺跡にある建物Dの他、『日本書紀』にあるように君主の宮の中であれば天照…

270~299年

・275年(晋暦咸寧1)以降 咸寧年の初期、荀勗と石苞は功臣となった。(『晋書』荀勗列伝) ※勗は目録『中経新簿』を作成し、書物を甲(経書)・乙(諸子)・丙(歴史書)・丁(詩賦書)と分類した。この分類により、それまで儒教の教義書の一部であった歴史書は独立した…

240~269年

・240年(魏暦正始1) 2.1 魏は元号を元号を景初から正始に改めた。(陳寿『魏書』少帝本紀) ・240年(魏暦正始1) ?.? 帯方太守の弓遵の命により、建忠校尉の梯儁らは魏の詔書と印綬を伴って倭に至り、卑弥呼を親魏倭王に拝仮し、金、絹、錦、毛織物、刀、鏡、菜…

210~239

・210年頃 大和に突出部付円丘墓が営まれた(纒向石塚古墳)。 ※突出部は1つだけであり、同じく1つの突出部を持つ、立坂古墳や宮山古墳といった吉備の墳丘墓の情報が伝わっていたのかもしれない(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国…

180~209年

・170~180年頃? 〔參考〕『太平御覧』の引用する陳寿『魏志』によれば、光和年間の間(178~183)、倭では各国が争っており君主がいなかったという。 〔参考〕 百納本-陳寿『魏書』は、70~80年間を倭国が乱れた時期だとする。 〔参考〕『後漢書』は、倭国が…

150~179

・150年頃 象鼻山の山頂に方壇が築かれた(象鼻山三号墳)。 ・158年 3.?〔参考〕 『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅の竹嶺が開かれると倭人が訪れたという。 ※竹嶺が開かれたことで、倭人が陸路で楽浪郡に至ることが可能になったとも考えられる(若井敏…

120~149

・121年 4.? 〔参考〕『三国史記』-新羅本紀によれば、倭人が秦韓の東辺に侵攻したという。 ・122年 4.? 〔参考〕『三国史記』-新羅本紀によれば、新羅に台風が来て、木々を倒して瓦を飛ばしたという。都人は倭の兵が来るのではないかと考えて山谷に逃げたが…

90~119年

・91年(漢暦永元3) 12. 漢の和帝,劉肇は班超を西域都護に任じた。 ※後漢は冊封により諸王に支配を委ねたように、既存の領土の外への拡大には消極的であった。そのため、Oasisにおける後漢の影響力は低下し、北匈奴が勢力を盛り返すこととなった。それに対し…

60~89年

・建初年間(76~83年) 『漢書』が完成した。 ・87年 北匈奴の単于,優留は鮮卑に殺害された。 ※鮮卑が外Monγolを占領すると、北匈奴の人々は鮮卑を自称するようになった(岡田英弘『世界史の誕生』)。 ・89年 南匈奴と漢は北匈奴を攻めた。 ※北匈奴の単于の殺…

30~59

・40年(漢暦建武16) 3. 南越の諸領主は、徴税権を漢から南越の領主に戻すことを望んだ。(『後漢書』馬援列伝,南蛮西南夷列伝,『越史略』) ・40年(漢暦建武16) 3. 南越の徴側は女王を称し、徴税を行った。漢は軍を派遣し、徴側を滅ぼした。(『後漢書』南蛮西…

紀元後1~29年

・8年 漢の皇太子,劉嬰からの禅譲を受け、王莽は皇帝となり、国号を新とした。その後、「東夷」の王から朝貢があった。(『漢書』王莽列伝) ※新に朝貢を行ったのは、伊都国か奴国の王と推測される(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。 ※新において発行された貨幣…

紀元前49~1年

・紀元前47年 AntípatrosはYehud総督となった。その子息,HōrəḏōsはhagGālīl(羅:Galilaea)知事に任じられた。 ・紀元前45年 1.1 RomaにおいてIulius暦が成立した。 ・紀元前44年 2. Gaius Iulius CaesarはRomaの終身独裁官に就任した。 ※Gaiusがそれまで対立し…

紀元前99~50年

・紀元前97年 漢の定遠侯,班超は、漢とRomaの同盟を画策し、部下の甘英を派遣した。しかしRomaに至る途中で通るはずだったArshak朝Parthiaは、Romaと対立していたため、甘英はRomaにたどり着けず、Sūrīyahと思われる地域で引き返した。 ※同盟は実現しなかっ…

紀元前149~100年

・紀元前149年 殲滅を目的として、Romaは Carthāgōを攻めた(第3次Puni戦争)。 ・紀元前149年 Makedonia君主の子息を僭称するAndrikosがMakedoniaを占領した。Romaはそれを破って、Makedoniaを属州とした。 ・紀元前147年 Aršak朝Parthiaは、 Mādāya地方を獲…

紀元前199年~150年

・紀元前199年 Mārcus Porcius Catōは監察官に任じられた。(Plutarchus『Vitae Parallelae(英雄伝)』) ※MārcusがRomaの政界に進出する際には貴族のLucius Valerius Flaccusからの取り立てがあったとされることや、監察官に立候補した際には家柄の低さから反…

紀元前299~200年

・紀元前289年 孟軻は死去した。 ※軻の教えを記した『孟子』は、死後すぐに弟子によって纏められたと考えられる。彼の教えは、善政を敷けば隣国から慕われることや(公孫丑上篇)、徳によって統治を行う王者であれば大国である必要がないこと(公孫丑上篇)、周…

紀元前349~300年

・紀元前3世紀半ば このころ、Sarmataiという勢力に圧迫され衰退していたSkythai勢力は、完全に解体したと思われる。 ※文献がないため、解体に至る経緯は不明である。Sarmataiは南Russia高原を支配した。遺跡や遺物からして、Skythaiに似た国家構造を形成し…

紀元前399~350年

・紀元前399年 Ánytos、Meletos、Lykonの3人は、国家の認める神を認めず、daimōnの祭りを導入して若者を堕落させているという罪状で、Sōkrátēsを告発した。(『Apologia Sōkrátēs(Sōkrátēsの弁明)』) ・紀元前399年 裁判の結果、Sōkrátēsは死刑判決を受けた。…

紀元前499~400年

・紀元前499年 Haxāmaniš朝の遠征が失敗し、負債を抱えたAristagorasは、返済を断念してHaxāmaniš朝に反乱を起こした。(Hēródotos『Historiai』) ※Skytai遠征の失敗によるHaxāmaniš朝の威信の低下や、強制移住政策に対する恐怖感も影響していた(橋場弦「ギリ…

紀元前600~500年

・紀元前6世紀頃 『Bṛhadāraṇyaka-upaniṣad』が成立した。 ※聖典「upaniṣad」内において、最古層に位置するものである。その中では、人間個々人は最高の真理Brahman(梵)を知ることで、宇宙の最高原理と一体化する(梵我一如)ことが可能であると説いてある。Br…

紀元前700~600年頃

・紀元前7世紀 Graecia人傭兵は、AigyptosのDelta地帯に定住させられた。 ※Sais朝の成立に伴うものである。Graecia人の定住によって、GraeciaとAiguptosの交流は以前よりも綿密なものとなった。交易拠点となったNaukratisでは、Graeciaの央莉舞と葡萄酒がAig…

紀元前800~700年頃

・紀元前8世紀頃 Graecia人はEgé海周辺に都市国家「polis」の建設を開始した。 ※polisは25~100平方km程度、人口3000人程度の規模が標準的であり、市街地とその周りに農地が置かれる構造をしていた。それは農民を主体とする都市だったことに起因する。polis…

紀元前999~800年頃

・紀元前?年 〔参考〕周王は南公を曾公に封じたという。(「曾公求鐘」『考古』2020-7) ※『春秋左氏伝』には、曾国は「隨」と記される。銘文において言及される、周の文王,姫昌・武王,姫発を補佐したという「伯括」は、伝世文献に見られる南宮括のことだと考…

紀元前1100年~1000年頃

・?年 癸巳 商王,武乙は、祖甲に対して羊と豚を犠牲として捧げるべきかを占った。(『甲骨文合集』27336) ※「祖」は二世代以上前の男性に対して用いられる呼称であるため、祭祀を行った商王は、祖甲の孫である武乙であると考えられる(落合淳思『殷』)。 ※康…

紀元前1299~1100年

・紀元前1295年頃 RamessesがAigyptosの君主として即位した。 ・紀元前1281年頃 Kadashman-TurguがGalzu(Kaššu)の君主として即位した。 ・紀元前1279年 Ramesses ⅡがAigyptosの君主として即位した。 ・紀元前1274年 AigyptosとHattiはQadeshにて交戦した。 ※…

紀元前1399年~1300年頃

・紀元前14世紀 商は文化圏を拡大させた。 ※商は北と南に向けて大きく拡大した。北方は商王朝の建国以前に商の人々が居住していたため支配領域に組み込むことが行いやすかったと考えられる。南方に対しては長江中流域にある銅鉱山の獲得と、貴重品であった子…

紀元前1499年~1400年頃

・紀元前1492年頃 Thutmose ⅡがAigyptosの君主となった。 ・紀元前1479年頃 Aiguptosの君主としてDjehutimes(Thutmose)Ⅲが即位した。 ※Aigyptosを統治する君主は巨大な王宮に住んで人々を指導したため、Aigyptosの言葉で「大きな家」を意味する「Per-aa」と…

紀元前1600年~1500年頃

・紀元前1600年頃 〔参考〕『史記』-殷本紀によれば、子履(天乙)は夏王朝を滅ぼして王になり(湯王)、王朝「殷」を立てたという。 ※甲骨文字において、湯王,履は「大乙」や「唐」と呼ばれている。『史記』では「湯王」が諡号、「天乙」が実名となっているが、…

紀元前1799~1600年頃

・紀元前1794年頃 LarsaはIsiinを滅ぼした。 ※こうしてLarsaはBabylōnía南部を統一した(小林登志子『古代オリエント全史』)。 ・紀元前1792年 Babilの君主,Sin-Muballitより、子息のHammu-rapi(Hammurabi)は君主位を継承した。 ・紀元前1786年頃 Aigyptosの…

紀元前1999~1800年頃

・紀元前2000年紀 Krētē島に宮殿文明(Mīnōa文明)が成立した。 ※Amen em hatによって王朝の守護神に位置づけられたImn(Amen)は、既存の国家神Raと習合して「Amen-Ra」となった。その信仰を背景に、神官集団は権力を強めることとなった(小林登志子『古代オリエ…