・紀元前97年 漢の定遠侯,班超は、漢とRomaの同盟を画策し、部下の甘英を派遣した。しかしRomaに至る途中で通るはずだったArshak朝Parthiaは、Romaと対立していたため、甘英はRomaにたどり着けず、Sūrīyahと思われる地域で引き返した。
※同盟は実現しなかったが、Oasisの道の西半の情報を漢にもたらすことができた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。
※Arshak朝は、建国者とされるArshakの名から、漢においては「安息」と音写された(宮崎市定『アジア史概説』)。