・紀元前468年 越と魯は同盟を結んだ。
・紀元前465年 越王,勾践は薨去した。
※勾践が世を去ったことにより、越は衰退していくことになる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前462年 AthēnaiにおいてPeriklesが実権を握った。
※Perikresの政体は、自由人であれば誰もが国政参加できる直接民主制であった。立身出世を望む市民は民衆に対して説得力のある弁論を行う能力を求めた。その結果、弁論術(rhetorike)を習得しようとする機運が高まり、Sophistēsが活躍するようになった。「知恵ある者」というその名の通り、彼らは天文学や幾何学にも明るく、諸国を巡りながら青年に教育を施しては報酬を貰っていた(桑原直己『哲学理論の歴史』第1章)。
・紀元前458年頃 29歳になったGotama Siddhatthaは、善を求めて、妻子を残して出家したという。(『大般涅槃経』『長部経典』16)
※出家というのは世を捨てることではなく、俗世から離れて森で生活する修行者の集団の一員となることである(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
・紀元前458年頃? Gotama Siddhatthaは、行者,Ālāra Kālāmaの下で瞑想修行を行った。(『聖求教』)
※輪廻転生の原因である、karman(行為、業)を引き起こすのは欲望と考えられていた。karmanを引き起こす感情や思考を停止すれば、解脱できると考えたのである。しかしSiddhatthaは師の説いた境地に達したが、満足することは出来なかった(今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』)。
・紀元前457年頃? Gotama Siddhatthaは、Uddaka-Rāmaputtaの下で瞑想を学んだ。しかしそれに満足せず、5人の修行者と共に苦行を行った。
※瞑想を行えば、感情や思考を停止し、欲望が起こることはない。しかし、瞑想を止めれば元の状態に戻ってしまう。そこでSiddhatthaは、体を虐待して心を鍛え、欲望を抑える方法として苦行を選んだのである(今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』)。
・紀元前454年 AthēnaiのPerikresはDelos島にあったDelos同盟の金庫をAthēnaiに移した。
※金庫をHaxāmaniš朝に奪われることを恐れたことが理由である。貢租金の60分の1はAthēnaiの国庫に納められるうになった(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
※Athēnaiはさらなる財力を手に入れ、それを元手にParthenon神殿が建てられている(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
・紀元前451年 Athēnaiでは市民権法が成立し、両親がAthēnai市民でなければAthēnai市民になれないことが規定された。
※これにより、Athēnaiの身分は閉鎖的となった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
・紀元前451年頃? Gotama Siddhatthaは、苦行で悟ることは出来ないと理解し、Magadha国のセーナー村にある、菩提樹の下で瞑想した。その結果、buddha(目覚めた者)になったという。
※buddhaというのは人を指す場合は固有名詞であるが、その他では「覚った」という形容詞として用いられる。budhという「覚る、気づく、知る」ことを意味する語幹に、過去分詞を標示する接辞taが付いた過去分詞形である。Saṃskṛt文法においては、有声有気音(budh)にtが接続されることで、有声無気音(bud)にdh(有声有気音)へと変化する。この規則はbuddhaが代表的であるため、「buddhaの規則」とも称される(赤松明彦『サンスクリット入門』)。
※実際はある時点で突然悟りに至ったのではなく、人々に自分の考えを話している過程で「仏教」的世界観を形成したとも考えられる(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
※「 Māra samyutta」においては、苦行の実行を止めたことを、清浄に達する道を逸脱したと悪魔から揶揄されるが、Siddhatthaは苦行は無益だと反論したと語る。悪魔の主張は苦行を重視するJaina教の批判を代弁するようなものになっている(佐々木閑『ごまかさない仏教』)。
〔参考〕律蔵「Mahā-vagga(大品)」によれば、悟ったSiddhatthaは、全ての存在に原因があることを理解し、煩悩が断たれたた旨を述べたという。
〔参考〕『Dhammapada』153・154偈によれば、Siddhatthaは、輪廻の原因は渇望であると理解し、一切智者となって輪廻する渇望を捨てた旨を述べたという。
※Siddhatthaは、「有る」と「無い」という両極端を離れ、「中」によって法を説いた。無知(無明)を原因として意思的作用(行)が、行を原因として認識(識)が、識を原因として名称と形態(名色)が、名色を原因として認識器官(六処)が、六処を原因として接触(触)が、触を原因として感受(受)が、受を原因として渇愛(愛)が、愛を原因として執著(取)を原因として生存(有)が、有を原因として誕生(生)が、生を原因として老い、死、愁い、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みが生じると説いた(『相応部経典』12章15経)。そうした「縁起」という原因と結果の繰り返しが輪廻を生んで苦しみの原因となると主張し、恒常不変のアートマンが輪廻していることを否定したのである(清水俊史『ブッダという男』)。
※Khuddaka Nikāya(小部)経典「Udāna(漢:自説教)」やSaṃyutta Nikāya(相応部)経典「大釈迦牟尼瞿曇」では「縁起」の支部は 『Dhammapada』が述べるものと同じく12である。他の経では支部の数が異なることもあるが、観想による悟りの過程は確実だと思われる。『Sutta Nipāta』862~877偈は縁起説の一つではあるが、他の縁起説との関連性は不明である。また、十二支縁起は後の時代に整理されたものであって、それ以前は様々な縁起説があったと考えられる(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
〔参考〕『相応部経典』22章59によれば、Siddhatthaによる最初の説法は、「無我」を説くものであったという。
〔参考〕『相応部経典』56章11によれば、Siddhatthaによる最初の説法は、「四諦」についてのものであったという。
・紀元前451年頃 Buddha,Gotama Siddhatthaは SāriputtaとMoggallānaを弟子にした。(『律蔵』「Mahā-vagga (漢:大品)」)
※「Mahā-vagga」は悟りを得たところから始まり、250人が弟子になったところで終わる。この最古の仏伝は仏教の成立までを述べるために書かれたのであり、Siddhatthaの生涯を語るものではなかった(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
※Siddhatthaは悟りを開いた直後は自分が悟ったことで十分であると考えていたが、その後他人に自分の経験を伝えて生の苦しみに苛まれる人々を救おうとしたのである。利己主義者から「慈悲」の人になったと考えられる(佐々木閑『「律」に学ぶ生き方の智慧』)。
・仏教徒を意味するSaṃskṛtのbauddhaは、buddhaの母音がuからauに変化したものである。このような母音交替は、印欧語の特徴である(赤松明彦『サンスクリット入門』)。
・紀元前451年以降? Buddha,Gotama Siddhatthaは出家集団saṃghaを結成した。
※ saṃghaとは4人以上が修行のために集まって集団生活を送る組織のことである。男性出家者Bhikkhu(漢:比丘)と女性出家者 Bhikkhunī(漢:比丘尼)がいたが男女が混ざって生活することは容認されない。saṃghaの漢訳である「僧伽」から、Bhikkhu個人のことを「僧/僧侶」とも呼ぶようになる。 saṃghaにおける規則を規定する法体系がVinaya(律)である。Vinayaは男女どちからか出家者4人以上によって形成が可能となり、特定の領域(sīmā/漢:界)を決定( sīmābandha/結界)し、その範囲内で適用される。 saṃghaから saṃghaへの移動の際には単独行動が可能となるが、単独行動時の規定にも従う必要がある(佐々木閑『「律」に学ぶ生き方の智慧』)。
※ saṃghaにおいて集団生活が規定されるのは、師から弟子へ効率良く教えを伝えることができることや、老化なので弱った構成員を他の者が扶助し、健康を損ねても修行を継続可能にするという利点があったことが理由と考えられる。また、掃除や選択といった雑務を分担することで、修行に専念できるということも利点として挙げられる。心の改良は精神集中によって行われるため、労力を可能な限り排除する必要がある(佐々木閑『「律」に学ぶ生き方の智慧』)。
※「Mūlasarvāstivāda vinaya(根本説一切有部律)」では出家者個人が資産を持つことは禁じられるが、saṃghaが基金を保有することは認めており、在家に貸し付けて利息を取ることが推奨されている。saṃghaは質素倹約を目的とするのではなく、修行に専念するために生活を効率化することを目的としていたことを示すと考えられる(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
※saṃghaにおいては一切の生産活動が禁じられる。そのため生活するにおいては大樹の下や洞窟などに住み、衣服は捨てられた端切れなどを拾い集めて布にして纏うこととなる。また、食事に関しては一般社会に生きる人々から余り物をもらう托鉢という行為を行うこととなる。つまり、一般社会に完全に依存する集団である。そのため、出家者としては一般人から食料を恵んでもらえるような尊敬される姿が求められる。僧侶的な振る舞いの分からない新参者が集団にいても集団全体が一般社会からの不評を買わないためにも、守るべきものとしてVinayaが必要となる。Vinayaには禁止事項を列挙したPātimokkha(漢:波羅提木叉)とその説明を述べたSutta-vibhanga(漢:経分別)があり、集団構成員は先に前者を学ぶこととなる(佐々木閑『「律」に学ぶ生き方の智慧』)。
※仏教出家者から在家への説法は布施を行い戒律を守れば来世は「天」に生まれ変われるということであり、縁起といった教義ではなかった。古層の仏典では布施による果報が説かれている。布施を行う対象が立派であるほうが見返りが大きいという「福田思想」を踏まえて、衆人の欲望を引き受けるように集団を形成したとも考えられる(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
・紀元前451年以降? 〔参考〕Buddha,Gotama Siddhatthaの弟子のSuddinahは、両親から跡継ぎを残すことを求められ、出家前に結婚していた女性と性交渉を行い、子供を儲けたという。Siddhatthaは、出家集団内で同様の事案の発生を防ぐために、性行為の禁止をSaṃghaにおいて規定したという。(『経分別』波羅夷第1条)
※出家者の性行為が禁じられるのは、性に関わることで精神の力が失われるというIndo社会の観念の元に成立したことが理由の一つにある。また、性的に潔白であることが尊敬される一要因である出家集団としては、社会に依存する生活を送る以上は性行為を容認できないのである。また、出家な年齢は15歳以上と決められており、自分の意志によって集団に属することとなる。集団内で生まれる子供は生き方を選べない立場にあり、人に一つの生き方を提示する組織としては、その内部に子供がいるのは不適当となる。そうした背景は、仏教に自分自身の価値観を選びとることを重んじる寛容さを生じさせたとも考えられる(佐々木閑『「律」に学ぶ生き方の智慧』)。
・紀元前450年~426年頃 Pazyrykに古墳が造営された(Pazyryk二号墳)。
※Pazyryk二号墳から出土した人骨にはMongoloidとCaucasoidの人骨が出土しており、人種の違いに関わらず同じSkythaiとして、遊牧民の価値観を共有していたとも考えられる(楊海英『逆転の大中国史』)。
・紀元前449年 Haxāmaniš朝とAthēnaiは和約を結んだ。
・紀元前445年 Yehud総督,Nəḥemyāhの監督下でYehud人はYerushaláyim神殿を再建した。(『Nəḥemyāh記』)
※Haxāmaniš朝のYehud人官僚,Ezraは、神殿完成後「Mōšeの律法の書」を朗読しており(『Nəḥemyāh記』8章)、Haxāmaniš朝がYehud人共同体への強い関与が窺える。Yehud人が他の民族と親しく関わることは禁じられながらも、伝統的生活を整えることを援助している。Haxāmaniš朝はYehud共同体の掟を知り、その拘束力を強めるためにその内容を文書として提出をEzraに求めたとも想像される。そうして、「Torah(掟の意)/Mōše五書」と総称される『Bərēʾšīṯ(創世記)』、『Šəmōṯ(出Aigyptus記)』、『Wayyīqrā(Lēwī記)』、『Bəmīḏbar(民数記)』、『Worte‘(申命記)』が成立したとも考えられる(加藤隆『キリスト教の本質』)。
※『Bərēʾšīṯ(創世記)』には、最初の人間であるʾAdamとḤavaが知恵と善悪を知ったことで、神の怒りを買って楽園Edenを追放されたとある。このような神話は、石器や農耕・牧畜・機織りといった技術を身につけてしまったことで、人間には忙しく働く必要が生じたという、新石器時代における変容が反映されているのとも推測される(樺山紘一『世界史への扉』)。
・紀元前441年 Lakedaimōn軍がAttikaに侵攻した。
・紀元前441年 Lakedaimōn軍はAttikaから撤退し、Athēnaiと和平を結んだ。
※AthēnaiとLakedaimōnは相互の勢力圏を承認し、AthēnaiはLakedaimōnの支配圏域外へと進出を企図するようになった(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。