・紀元前110年 漢は平準法を施行した。
※漢は大商人の利潤を抑え、その分を財政に宛てた。増税も行って民の生活は苦しくなったが、再び大規模な遠征を行うことができるようになった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。
・紀元前108年 桜蘭は漢に降伏した。匈奴が桜蘭を攻めると、桜蘭は2人の君主子を、それぞれ匈奴と漢に差し出した。
・紀元前108年 漢の武帝,劉徹は、衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪郡を設置した。その後、倭の内の30国程が漢に使者と通訳を遣わした。倭の首長は各々「王」を名乗り、世襲制であった。(『後漢書』東夷伝 倭伝)
〔参考〕『説文解字』によれば、「倭」は柔順という意味を持つ。
※「倭」とは、「中国」から見て朝鮮半島の南の、海を隔てた地域(ないしは国)を差して、従順の意で呼んだと考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。
〔参考〕昔、「倭傀」という名の醜女がいたとして、「倭」は醜いという意味だという説もある。しかし、『文選』巻51「漢・王襃「四子講徳論」」の李善の注には、所見が明らかでないとして、疑義を呈する。
〔参考〕『釈日本紀』と『日本書紀纂疏』は、「倭」は「吾」「我」が転じたものと考証する。
〔参考〕『異称日本伝』は、「倭」は人・女性に従うという意味を持っており、女性が統治するという伝聞から用いられたと考証する。
※「吾」「我」が転じたという説や、女性に従うという意味という説は、全くの憶測とされる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
※楽浪郡を置いたのは、東部の匈奴を攻撃するための、拠点を確保するためである。楽浪郡は朝鮮半島の韓人、日本列島の倭人の窓口にもなった。(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。
・紀元前105年 烏孫の君主は漢の公主を娶った。
※漢より帰還した使者から、漢の裕福さを聞いたことが、同盟のきっかけとなった。こうして次第に、匈奴から服属国は離れていった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。