・紀元前1985年頃 Amenemhat ⅠがAigyptosの君主となった。
※第十一王朝の宰相であったが、それを打倒して第十二王朝を創始した人物と思われる。第十一王朝は急速な中央集権化を推進したため、それまでの特権を奪われた地方豪族は不満を持ち、Amenemhatを支持し、短期間の内に新王朝が成り代わったと考えられる。Amenemhatは豪族の「大首長」号を復活させるなど旧来の権益を認めた一方、州の境界線を規定し、増長を抑制した(屋形禎亮ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
※Mentuhotep Ⅳに後継者がいなかったため、宰相であったAmenemhatが君主になったという説もある。簒奪であれ平和的な継承であれ正統性が弱いことには変わりがない。そのため、『Nefertiの予言』という文学作品が作られ、作中において「Ameni(Amenemhatの通称)」という人物によってAigyptosの混乱が収束するという予言が物語られるなどした(河合望『古代エジプト全史』)。
※灌漑水路の権力に関する規定は明文化され、裁判官の任命権は君主のものとなった。第十一王朝の中央集権化の失敗は急速に進めたことが原因であったため、第十二王朝においては、長期的な計画によってそれを実現させることを狙った(屋形禎亮ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1984年頃 Shu Ilishu(Ishubi Erraの子息)がIshinの君主として即位した。
※碑文には「国土の神、強き君主、Urの君主」という名乗った称号が記されている。Ishinの君主ではなくUrの君主を名乗り、Urの復興を進めたのは、Ur王朝を継ぐ立場であることを意識していたからだと考えられる(前川和也ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・1981年頃(埃及暦Amenemhat Ⅰ 5) Aigyptosの君主,Amenemhatはpyramidの造営を開始した。
※かつてAigyptosの君主であったKhuhuの建造したpyramidの葬祭神殿や高官のMastaba墓の石材を再利用する形で建造されており、かつて繁栄した「古王国」時代との結びつきを持つことを重視したと考えられる。pyramidを建設した場所は「Amenemhat-itj-tawy(Amenemhatは一国を掌握する者の意)」と名付けられた新たな都であり、かつて首都が建設されたAneb-Hetch(希:Menphis)の一帯、Delta地域と上Aigyptosを支配するのに適した場所であった(河合望『古代エジプト全史』)。
・紀元前1964年頃(埃及暦Amenemhat Ⅰ 21)Aigyptosの君主,AmenemhatはSenusretを共治君主に任じた。
※Senusretは対外政策を中心に父を補佐し、土耳古石を採掘するためのSerabit el-Khadimの開発や、Sinái周辺の脅威であった遊牧民の討伐、下NubiaとLībyāへの遠征を行った(屋形禎亮ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1956年頃(埃及暦Amenemhat Ⅰ 30) Aigyptosの君主,Amenemhatは殺害された。
※SenuseretがLībyāに遠征で留守にしていた時の出来事であった。Senuseretは父の暗殺を知ると帰国して首謀者を捕縛し、自身の君主位を保つことに成功している。共同統治政策が君主の暗殺という事態に有効に機能したことを物語る(屋形禎亮ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1947年頃(Senusret Ⅰ 10) Aigyptosの君主,Senusret ⅠはKushに遠征し勝利した。
※勝利を記念してSenusret ⅠがWādī Ḥalfā建てさせた碑文が、Kushという国名を記録した最古のものである。AigyptosはKushの豊富な資源と財源を求め、Sudan一帯にまで統治と経済活動を拡大した(山口昌男『アフリカ史』)。
※Kushに勝利したAigyptosは上Nubiaをはじめて支配領域として吸収した。当時は東部砂漠の金鉱からの金の産出が減少傾向にあったが、下Nubiaの金鉱も獲得することに成功している。AigyptosはNubiaを直接的・軍事的に支配し、西Asia・Lībiyāから侵入する遊牧民に対しては防衛のための小規模な遠征を行ったが、基本的は外交は交易が主体であり、Syriaとの交易が復活したことがUgarituからSenusertの遺物が発見されたことから理解できる(屋形禎亮ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1934年 Lipit IshtarがIsiinの君主として即位した。
※Lipit Ishtarが編纂したSumer語で書かれた法典は、「Ur Nammu法典」の影響を受けている(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前1930年代後半~20年代前半 Ishinの君主Lipit Ishtarは、『Ur Nammu法典』を踏襲して『Lipit Ishtar法典』を制定した。
・紀元前1926年頃 LarsaはUrを占領した。
※Larsaの君主,Gungunumは、それまでIshinの君主が用いていた「Urの君主」の称号を名乗っている。また、Ishinの君主,Ishme Daganの娘はUrの祭司としてGungunumの長寿を祈念している。Ishinの君主がUr王朝の継承を意識していたことが窺える(前川和也ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1911年頃 Aigyptosの君主,Senusret Ⅰは崩御した。
※生前に共治君主を指名していたことで、君主位継承は円滑に行われ、安定した治世を実現した(屋形禎亮ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1894年頃 Bābili第一王朝が成立した。
※Bābiliは、Akkad語で「神の門」を意味するBāb-ilimと表されることがあり、Graecia語形では「Babylon」と呼ぶ(柴田大輔『アジア人物史』第1章 はじめに)。
※Bābili君主国は最高神としてMardukを崇めていた。Bābili君主は、「Mardukは、古来のKienĝirで崇拝されたAnやEnlilといった神から、最高神であると認められた」という形式を採ることで、支配者として認められた。(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
・紀元前1880年頃(埃及暦Amenemhat Ⅱ 42) Aigyptosの君主,AmenemhatはSenusert Ⅱを共治君主に任じた。
・紀元前1877年頃 Aigyptosの君主,Amenemhatは崩御し、Senusert Ⅱは単独君主となった。
※Senusert Ⅱは地方豪族に対抗するために経済的基盤を求め、Faiyumの干拓を行った。既存の土地を豪族から奪うことは困難なため、低湿地なため麦作には適しておらず、かつて農耕文化があったとはいえ長らく農耕がなされていなかったFaiyumを選んだのである(屋形禎亮ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1831年頃 Senusert IIIがAigyptosの君主として即位した。
※交易路を確保するために、南Palestitaに遠征してShchemにまで進軍している。また、Aigyptos全土を上・中・下という行政区に分け、各区に「布告官」を設置し、宰相に総括させた。事項の決定には複数の部署が関与するようにして特定機構の増長を防ぎながら、最終決定を宰相に一任するという構造にすることで、中央集権体制を確立したのである。その結果、次第に地方豪族は「大首長」を名乗ることがなくなり、豪華な墓の造営も行わなくなるなど無力化した(屋形禎亮ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1824年頃(Senusert Ⅲ 8) AigyptosはKushに侵攻した。
・紀元前1822年頃(Senusert Ⅲ 10) AigyptosはKushに侵攻した。
・紀元前1816年頃(Senusert Ⅲ 16) AigyptosはKushに侵攻した。
・紀元前1813年頃(Senusert Ⅲ 19) AigyptosはKushに侵攻した。
※度重なる遠征によって、Semna以北がAigyptosの領土であることをKushに対して示したのである。Semna付近のNail河境には複数の要塞を建造し南方からの防衛を強化した(屋形禎亮ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前1805年頃 Samsi-AdduはAššurを征服した。
※Samsi-AdduはAmurrū人の小国の出身者であり、 Aššurの王権の簒奪を行った人物であった。彼は簒奪を正当化するために、自身をAššurの39代目の君主に位置づけた「Iššiʾak Aššur(Assyria君主名表)」を作成している。Aššurの版図は、その北西からŞingal山の南方にある平原にまで拡大した(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前?年 Aššurの君主,Samsi-AdduはMa-riを占領した。
※'Ma-riはBuranuna(希:Euphrátēs)川中流域の要となりうる場所にあり、Syria砂漠から西方の地中海に進出する場合も抑える必要のある場所であった(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前1800年頃 Urk第一王朝5代目の君主、Bilgamešを主人公の原型として、Akkad地域にて『Gilgameš叙事詩』が纏められた。
※作中にて、Buranuna(Euphrátēs)川沿いのŠuruppagという街は、神々の意思により洪水で滅ぼされる。しかし、ウタ・ナピシュティという人物は神に指示された通りの船を造り、命が助かる。これは、洪水の起こる場所が同じことや神の指示通りに船を造って助かるところが共通しているため、「Ziusu-draの洪水神話」を元に創作されたものであると考えられる(池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。
・紀元前1800年頃 Indus文明は滅亡した。
※Indus文明を担った者たちは、Dravidia人の祖先であると推測されている。Dravidia人の言語は膠着語である(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。
・紀元前1800年頃 中原において金属器が使用されるようになった。
※金属器の登場の同時期、中原には発達した政治組織や、君主が登場していたと推測される(伊藤道治『古代中国』はじめに)。
※二里頭文化の青銅器には、食物の煮炊きに用いる「鼎」と酒を温める「爵」がある。それらは土器を模して製作されたものであり、日用品ではなく祖先や神に対する祭祀に用いられたと考えられる(落合淳思『殷』)。
・紀元前1794年頃 LarsaはIsiinを滅ぼした。
※こうしてLarsaはBabylōnía南部を統一した(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前1792年 Babilの君主,Sin-Muballitより、子息のHammu-rapi(Hammurabi)は君主位を継承した。
・紀元前1786年頃 Aigyptosの君主,Amenemhat IIIは崩御した。
※Amenemhat IIIの崩御後、第十二王朝は衰退していった(近藤二郎「展望 古代西アジア」『古代西アジアとギリシア』)。
・紀元前1786年頃 Amenemhat ⅣがAigyptosの君主として即位した。
・紀元前1783年 Babylōnía君主Hammu-rapiは、Ekallātum君主,Ishme Daganと協力し、Buranun(Euphrátēs)川の中下流域 域の都市、ラピクムを攻めた。しかしEshnunna君主,Dādušaが先に同地域を占領し、ヌフム地方の都市ハナトまでも占領した。そこにIshme Daganの父Aššur君主Shamshi Adadが介入してHammu-rapiらとDādušaは協定を結び、ラピクムとヌフム地方はHammu-rapiのものとなった。
・紀元前1781年 Aššurの君主,Samsi-Adduは崩御した。
※Samsi-Adduの崩御はAššurの衰退を招くこととなる。彼の崩御時点において、Larsa、Eshnunna、Qatna、Yamhad、Babylōníaという勢力が有力と見なされることとなった(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前1779年 Eshnunna君主Dādušaは死去し、Ibal-pi-El IIが新たな君主となった。その後もサムシ アッドゥとの同盟は継続された。
・紀元前1775年夏 Shamshi Adadは死去し、Ishme DaganがAsshur君主となった。
・ma-ri君主国の旧君主族の末裔Zimri limは、Ishme Daganの弟の軍を放逐してma-riを奪還した。
※アシュナックム、イラン、ツラ、アンダリグ、カッタラなどの国がʾāthorに対して反乱を起こし、ʾāthorの勢力圏は減退した(柴田大輔「ハンムラビ」『アジア人物史 1』)
・AššurのIshme Daganは、Eshnunna君主Ibal-pi-El-Ⅱに同盟の継続を要請するが、Ibal-pi-El-Ⅱはそれを拒否して逆に攻め込んだ。Ishme DaganはHammu-rapiのもとに亡命した。