・紀元前249年 秦の孝文王,嬴柱が薨去し、太子の子楚が即位した(荘襄王)。
・紀元前249年 秦は東周を滅ぼした。
※東周公の系譜は不明瞭である。『呂氏春秋』に見られる「昭文公」、『周馴』に見られるという人物が最後の東周公と考えられる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前249年? 50歳になった荀況(荀子)は斉に遊学した。(『史記』)
※況の著した『荀子』は「非十二子」という12人の思想家を批判する篇と、それにより各思想家の欠点を解消するという「解蔽」の篇があり、「諸子百家」を総括する意図が見える。彼の思想は「性悪説」とされ、人間は自然のままにすれば堕落してしまうが、学問と礼による修養を通して善人になれると主張した。既存の儒家の教説では道徳の1つであった「礼」を統治の原理として考えたのは、戦乱の続く時代背景が影響しているものと考えられる(湯浅邦弘「荀子」『神話世界と古代帝国』)。
※『荀子』「明鬼篇 下」には、殷の紂王,受は天下を謗り、鬼神を軽視し、老人や幼児ほか人々を殺し妊婦の腹を裂いたとある。『荀子』の記す逸話は根拠のあるものではない。春秋時代以降には教訓説話が求められていたため、天命を失った君主として知られていた受は、あるべきでない君主像として描かれるようになった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
※『荀子』や『尚書』には、天子の徳が及ぶ範囲を示す「五服図」について言及されている。天子の直轄地である方千里(直径4000m)の「甸服」、その外部に諸侯の土地「侯服」さらに先に「綏服」、そしてその外部に西戎と北狄の住む「荒服」があるとされる。甸服から離れるほど天子の徳が薄れ「化外」に至ると消滅するという。『荀子』『尚書』などが語るそのような観念は、中華の周辺に夷狄がいるという設定のもとに、周の初期の封建制をあるべき姿だと考えた儒家の天下観であった(檀上寛『天下と天朝の中国史』)。
※『荀子』には「楚に居り而して楚たり、越に居り而して越たり、夏に居り而して夏たり。これ天性に非ざるなり、積靡して然らしむなり」とあり、華夷の差は先天的なものでなく、文明の習得によるものとされた。況は、全ての人々が文明を受け入れれば天下は一つの家のようになると考えた(佐川英治「秦漢帝国と漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。
※斉の中心地である臨淄は繁華街が賑わっていた。斉の宣王,田辟彊は学問を保護する目的から稷門の外には学堂が建てられており、況らそこに招かれた学者は「稷下の学士」と呼ばれた(佐川英治「秦漢帝国と漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。
・紀元前248年頃 Maurya朝君主Aśokaḥは、Gotama Siddhatthaの生誕地とされるLumbinīに巡礼し、そこの租税を減免した。(「石柱法勅」)。
※「石柱法勅」の発布の以前と推定される時期に、Aśokaḥは「破僧伽法勅」を出しており、仏教saṃghaの分断を画策したBhikkhu(梵:Bhikkhu,漢:比丘)やbhikkhunī(梵:bhikṣuṇī,漢:比丘尼)は僧院から追放することを定めている。また、同時期に発布されたと考えられる「kolkata バイラート石碑」においては、Buddha,Gotama Siddhatthaの教えのうち、7つの題目の内容を、仏教出家集団と在家信徒は、繰り返し聴いて記憶するよう説いている。修行者への介入の態度は、彼の仏教理解への自信と、Dharmaに基づく政治の成功の確信が読み取れる(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史 1』)。
※「kolkata バイラート石碑」において仏教徒に求められるのは、Buddhaの教えを聴いて記憶することである。『Mahābhāratam』には、Vedaを書写したものは地獄に落ちるとあり、聖典は記憶するものだという観念がIndoにはあった(馬場紀寿『初期仏教』)。