個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前99~50年

・紀元前97年 漢の定遠侯,班超は、漢とRomaの同盟を画策し、部下の甘英を派遣した。しかしRomaに至る途中で通るはずだったArshak朝Parthiaは、Romaと対立していたため、甘英はRomaにたどり着けず、Sūrīyahと思われる地域で引き返した。

※同盟は実現しなかったが、オアシスの道の西半の情報を漢にもたらすことができた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※Arshak朝は、建国者Arshakの名から、漢においては「安息」と音写された(宮崎市定『アジア史概説』)。

・紀元前90年頃 司馬遷は『史記』を完成させた。

※遷は荒唐無稽な出来事を排除した。そのため「三皇五帝」の「三皇」には本紀が立てられていない。しかし当時の歴史研究の資料分析は未発達であったため、説話を完全に排除はできなかった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※顓頊や、夏王朝の祖,禹、殷王の祖先,契、周王の祖先,稷、秦王の祖先,費といった人物は、黄帝の子孫として記された。「中国」が中国たりえるのは、徳の体現者である黄帝の子孫による統治が行われるからだと遷は考えていた。そのため、本紀の最初は黄帝から始まる(伊藤道治「伝説の帝王」『古代中国』)。

※殷の紂王,受が肉の林と酒で満たした池を作ったという「酒池肉林」の逸話は、『韓非子』「喩老篇」を脚色したものである。受が妲己を、周の幽王,宮涅が褒姒を寵愛して国を衰退させたという逸話は、女性の参政を歓迎しない当時の男尊女卑思想の反映である(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前60年 匈奴の日逐王は単于と対立し、漢に降った。漢は西域都護を設置して、日逐に統治させた。

※漢はこうして、タリム盆地における支配を確立した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前60年 匈奴にて屠耆堂が新たな単于となった(握衍朐鞮単于)。

※屠耆堂は漢との関係修復を望んだが、その残忍さから匈奴の内部の離反者が多く出た(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前58年 匈奴の先代単于の子息,稽侯狦が単于として擁立された。稽侯狦は握衍朐鞮単于,屠耆堂を攻め、自害に追い込んだ。

※その後、稽侯狦は一族と匈奴の地位を争うこととなった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前57年頃 日本列島でクスの木が伐採され、環濠集落の建物の柱に使用された。(都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』)

※池上曽根遺跡の柱の年代は、年輪から紀元前57年のものと判明した。弥生時代中期より集落の人口が増えたことで、巨大な環濠集落が形成されたと考えられる。畿内では周辺には2~3ha程の集落が約5km間隔で分布しており、池上曽根遺跡のような更に巨大な集落が総括していたと推測される。建物の軸線は南北に設定されており、「中国」の建築思想に基づく建築がなされていたと推測される。渡来人が城郭都市の知識を伝えたのかもしれない(都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』)。

・紀元前54年 呼韓邪単于,稽侯狦は、兄の郅支単于,呼屠吾斯に破れ、漢の臣下になることを決めた。

・紀元前53年 匈奴の呼韓邪単于,稽侯狦は、子息の右賢王を漢に仕えさせた。

・紀元前50年 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人が兵を率いて秦韓に侵攻したが、赫居世の徳に感化されたのだという。

※この時期に関する『三国史記』の倭人の記述が、どれだけ事実を反映しているかは不明である(若井敏明『謎の九州王権』)。

〔参考〕『三国遺事』「塔事 皇竜寺条」には、新羅は北方で靺鞨に繋がり、南方で「倭人」に繋がるとある。

〔参考〕『後漢書』「鮮卑条」は、濊国の1つに「倭人国」があるとする。

※『三国史記』に登場する「倭人」の全てが、日本列島内にいる人々とは限らない(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。