・紀元前942年? 周の穆王,姫満は崩御した。(『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)
・紀元前941年? 周の穆王,姫満の崩御後、繄扈が即位した(共王)。(『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)
・紀元前930年頃 Yisrā'el君主国は北のYisrā'el君主国と南のYəhūdā君主国に分裂した。(『Dibhrēy hayYāmīm(歴代誌 下)』)
※北の君主国は、Yisrā'el南の2部族による支配を忌避した者たちが建てた国である(加藤隆『キリスト教の本質』)。
・紀元前928年?(周暦共王15) 5.壬午 周の共王,姫 繄扈は新宮の射盧において射礼を行った。(58十五年趞曹鼎『殷周金文集成』2784,朱鳳瀚修正西周年表)
※共王の時代には、新宮の敷地内にある射盧において、それまでの儀礼であった射礼が行われるようになっていたと考えられる。新宮では冊命儀礼も行われていることから(32虎簋蓋『近出殷周金文集録』491)、射礼のような旧来的な儀礼を保持するために建てられたのが新宮であったとも考えられる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前911年頃 Adad-nirari IIがAššurの君主として即位した。
※新Aššurはそれまでの商業国家Aššurとは異なり軍事国家となった。また、共通語としてはAram語が用いられるようになり、Aram人の勢力が拡大していたことが窺える(前田徹『都市国家の誕生』)。
※先代のAshur dan IIからAdad-nirari IIの治世にかけてはAššurは周辺を征服する活動を活発化させた。征服した土地の人々は、 民族の結束力を弱めるために、支配領域の、中心から離れた地区に強制的に移住させられた。被征服者は新都の建設のために動員させられたほか、建築や工芸、医学や言語に関する技能を持つ人々は重用された(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前907年? 周の共王,姫繄扈の崩御後、姫囏が即位した(懿王)。(『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)
・紀元前907年?(周暦懿王1) 6.? 周の懿王,姫囏は師虎に赤い靴を与えた。(師虎簋『殷周金文集成』4316)
※官職を象徴する物品を与える「柵命儀礼」である。土地や高級品を外部から供給する必要がなくなり、官職は生涯有効であったため、一度物品を贈れば、奉仕の度に与える必要もなくなった。こうして賜与儀礼よりも上下関係の継続性が高まった。官職が世襲されたことで、周には貴族制が成立する(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前906年?(周暦懿王1) 周の懿王の即位1年、夜明けが2度あった。(『竹書紀年』朱鳳瀚修正西周年表)
・紀元前9世紀中頃 世界的気候変動が起こり、半砂漠だった地域は草原となった。
※草原地帯による乗馬のはじまりもこのころからである(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。
・紀元前900年 北Yīśrāʾēlの君主,NāḏāḇはBaʿšāʾによって殺害された。
・紀元前900年 Baʿšāʾは北Yīśrāʾēlの君主になった。
・紀元前899年 日食があった。
※『竹書紀年』には、周の懿王元年に鄭の地で「夜明けが2度あった」とある。夜明けが2度あるという状態を日食と解釈した場合、懿王に近い時代で日食が観測されうるのは紀元前899年であると判明した。そのため、「夏商周断代工程」は懿王,姫囏の即位を紀元前899年とし、周王の在位年数を考証している(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』)。
・紀元前897年?(周暦懿王10) 1.甲寅「㽙簋」銘が刻まれた。(「朱鳳瀚修正西周王年表」)
※「夏商周断代工程」では、懿王の在位は8年の考証されている。しかし、「㽙簋」からは少なくとも在位年数が10年以上あったことが理解できる。また、「夏商周断代工程」は「初吉」という銘文を1日から10日までとするが、在位年数を紀元前890年を即位10年とした場合、「甲寅」は19日となり「初吉」を10日までとする仮定と矛盾する。そのため、懿王の即位を899年とする「夏商周断代工程」の推測には疑問が呈され、年代矛盾を修正するために「朱鳳瀚修正西周王年表」が提示されるなどした(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』)。
・紀元前887年 姫辟方が周王として即位した(孝王)。(『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)
※『史記』-周本紀によれば共王,姫囏の弟であるが、『史記』-三代世表では懿王,姫繄扈の弟とされる。繄扈に子息,燮がいながらも辟方が即位したのは、甥(?)が幼少であったからかもしれない。中継ぎなのか簒奪だったのかも『史記』などは言及をしていないが、「92逨盤」(『近出金文集録二編』939)の金文では歴代の周王に数えられていることから、中継ぎであったかもしれない(佐藤信弥『周』)。
・?年 〔参考〕周の孝王,姫辟方は、周王室に育てた良馬を献上した功績により、非子という人物に、嬴という姓と土地を与えたという。(『史記』秦本紀)
・紀元前886年 周の孝王,姫辟方は崩御した。(『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)
・紀元前885年 姫燮が周王として即位した(夷王)。(『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)
・?年 周の夷王,姫燮は斉の哀公,不辰を処刑し、不辰の弟,静を斉公として即位させた(胡公)。(『史記』斉太公世家)
※「哀公」という周文化的な諡号は、静によるものであるが、それ以前は商(殷)と同様に十干に基づく諡号を贈っていた。斉公室が「姜」姓を名乗るようになったのも、胡公の時代以降のことだと考えられる(落合淳思『殷』)。
・紀元前883年頃 Aššur-nāṣir-apliがAššurの君主として即位した(Aššur-nāṣir-apli Ⅱ)。
※Aššur-nāṣir-apli Ⅱの時代には、東方のZamua、北方のNairi、西方のTyrosやSidonなどに影響力を及ぼして貢納をさせ、南方のHindanuも酸っぱくさせている。また、Kalḫuに新たな都を造営している(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
※Aššur-nāṣir-apli Ⅱは自軍が要塞に攻め込む様を浮彫にして、記念碑を作製させた。Aigyptosの様式に類似しているが。Aigyptosほど形式的なものにはなっていない。Aššur側の戦死者が描かれていないのは、戦勝を過大に喧伝する意図のほかに、絵の有様が現実に影響するという迷信があったからとも考えられる(Ernst Gombridge『美術の物語』)。
・紀元前878年 周の夷王,姫燮が崩御した。 (『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)
〔参考〕『史記』「周本紀」によれば、燮は栄夷公を重用し暴虐であったため、国人は燮を謗ったという。
・紀元前877年 北Yīśrāʾēlの君主,Baʿšāʾが崩御し、Ēlāが跡を継いだ。
・紀元前877年? 姫㝬が周王として即位した(厲王)。(『史記』周本紀,夏商周断代工程)
※「37㝬鐘」と「37㝬簋」の金文にある人名の「㝬」は、『史記』-周本紀の語る厲王の実名「胡」に相当すると考えられる(佐藤信弥『周』)。
※厲王の時代には、「栄伯」という人物が儀礼を行っている。栄伯は佞臣,栄夷公の逸話の原型になったと考えられるが、彼は卯という人物に家産を治めさせるという冊命儀礼を模倣した行為をするなど(卯簋蓋『殷周金文集成』4327)、周王と権力闘争を行っていたようである。卯簋蓋の作成者は家産管理人の卯であることから、栄伯のような大貴族の家臣は、中小貴族と同等の経済力を有していたことが推測される(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
※厲王の時代には金文の刻まれた青銅器の種類が、爵・卣・尊といった酒器を模したものから鼎・簋といった食器、編鐘のような楽器を模したものが主体となっていった。また、青銅器の紋様はそれまでの獣面紋から、それを抽象化させた窃曲紋のような幾何学的なものとなった。ほかにも、青銅器を埋納した穴蔵(窖蔵)が造られるようになっていることから、青銅器を死者の墓に副葬品として埋めるのではなく祭祀の度に繰り返し使用するようになったと考えられる。厲王の時代には礼制の改革が行われたと推測される(佐藤信弥『周』)。
・紀元前877年以降? 周の厲王,姫㝬と晋侯,蘇は𱑁(⿹勹熏)に遠征を行った。(67晋侯蘇鐘『近出殷周金文集録』35~50)
※領域の拡大を停止させたことで、周王の権威が弱まったのであり、それを回復させるために遠征を繰り返していたと考えられる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
※銘文には周王自ら遠征に赴いたことが記されており、㝬は軍事君主としての周王の性格を取り戻そうとしていたと考えられる(佐藤信弥『周』)。
・?年(周暦厲王?) 10. 玁狁が周の京師を攻めた。 周の厲王,姫㝬は武公に玁狁を討つことを命じた。武公は捕虜と戦車を得た。(78多友鼎『殷周金文集成』2835)
※当時、京師とは軍の駐屯地の1つを意味していた。金文からは玁狁が戦車を用いていたことが理解でき、人々の生活は周人と違いは少なかったとも考えられる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前876年 北Yīśrāʾēlの君主,ĒlāはZīmrīに殺害された。Zīmrīは新たな君主に即位した。
・紀元前876年 北Yīśrāʾēlの君主,ZīmrīはOmrīに殺害された。Omrīは新たな君主に即位した。
※北Yīśrāʾēlにおいては実力者が既存の王朝を倒すということが頻繁に起こった。そのため世俗的な理由で君主が変わるという事態は、「神の意図の仲介者」としての君主の正当性が薄らぐということに繋がった。そうした背景から、君主やその一族などでなくとも神に選ばれたという「預言者」が出現しうるという可能性が開かれた(加藤隆『キリスト教の本質』)。
※Shomron(Samaria)を新都とした君主であり、また「Tanakh」以外の文献に名前が見える最初のYīśrāʾēl君主である(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前875年 北Yīśrāʾēlの君主,Omrīは崩御し、 子息ʾAḥʾāḇが跡を継いだ。
※Tyrus君主の娘,ʾĪzeḇelを妻としたため、Ba‘al神崇拝が宮廷に持ち込まれることとなった。そのためYHVHのみを神と認める預言者ʾĒlīyyāhūは身を隠すことを強いられた(加藤隆『キリスト教の本質』)。
・紀元前866年?(周暦厲王13) 周の厲王,姫㝬は晋侯,蘇に褒賞を与えた。(「晋侯蘇鐘」夏商周断代工程)
・紀元前858年頃 Shalmaneser IIIがAššurの君主となった。
※「黒色obelisk」にはShalmaneser IIIがBabilの君主,Marduk-zakir-shumi Iと握手する姿が描かれている。浮彫では両君主がともに宦官を伴っているため、当時のAššurとBabilには宦官がいたことが理解できる(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
※先代,Aššur-nāṣir-apli Ⅱの妻,Mullissu-mukannišat-Nīnuaは宝石で飾られた金製の装飾品と共に埋葬されていた。墓の中の石版に記される碑文には、墓室の封印を解く者が死後の安息をうけられないよう願うものであり、死後の供養がなされないことが不幸なことと思われたことが理解できる。また、冥界の神の1柱として太陽神Shamashに言及されており、沈む太陽は夜には冥界にあると考えられたことが理解できる(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前853年頃 Aššurは反Aššur同盟軍と交戦した。
※Shalmaneser IIIの時代にはAššurの領土が以前よりも拡大したが、Aram人諸国との戦争での苦戦が碑文に述べられている(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
※反Aššur同盟軍にはArabの駱駝兵が参戦しており、これはArabの初見となる。Aššur側は勝利と記録において主張したが、実際は5分の1の兵が戦死しているほかその後も抵抗されていた。碑文によればYīśrāʾēlの君主,Aḥʾāḇは2000両の戦車と100000人の兵士を率いて反Aššur同盟軍に参加したとされるが、『SēferMəlāḵīm(列王記)』には軍功に関する記述はなく、暴君として言及される。参戦のために多額の費用を要したことは確実と思われることから、悪い君主として語られた可能性はあると考えられる(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前841年?(周暦厲王37) 周の厲王,姫㝬は、国人に反乱を起こされて彘に逃亡した。(『史記』周本紀 )
※軍事指導者としての王の権威を強化しようとするも、それを疎まれたのだと考えられる(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。
・紀元前841年(周暦共和1) 〔参考〕 周の厲王,姫㝬が追放されると、代わりに「共伯和」が立ったという。(『繋年』『竹書紀年』)
※「共伯和」の「共」は「和」の領地を意味するとも考えられるが、「共王」のように称号である可能性も指摘される(佐藤信弥『周』)。
※『史記』-周本紀には、周の定公と召の穆公,姫虎が「共に和して」政治を行ったため「共和」と号したとある。しかし、「召公」に相当すると見られる「召伯虎」の名は金文に見られるものの(「39五年琱生尊」「38五年琱生簋」「99六年琱生簋」)、「周公」を称する人物は確認されない(佐藤信弥『周』)。
・紀元前841年?(周暦共和1)「伯龢父」は師〓に対して自身の土地の東西の馭者・工匠・牧場の人員・男女の奴隷を総管することを命じた。(『殷周金文集成』4311)
※ 龢は「和」と意味と音が共通し、「父」は大貴族に対する尊称であることから、『竹書紀年』と『繋年』における「共伯和」と同一人物であると考えられる(落合淳思『古代中国の虚像と実像』)。
※金文の書き出しは「惟れ王の元年」となっているほか、伯龢は臣下に対して「冊命」儀礼を行っているような記述である。そのため、『竹書紀年』が語るように伯龢(共伯和)は王位を簒奪したとも考えられる(落合淳思『古代中国の虚像と実像』)。
※「26逆鐘」の金文には、叔氏が臣下の逆に、自家の人員の管理を命じたとあるように、伯龢はあくまで王を模倣して自身の領地人員の管理を臣下に命じたとも考えられる。そのため、金文からは王位を簒奪したという根拠は見いだせず、幼少の王子,姫静を補佐する立場であったも考えられる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前824年(周暦共和14) 周の前王,姫㝬は崩御した。(『史記』周本紀)
・紀元前824年(周暦共和14) 姫静が周王として即位した(宣王)。(『史記』周本紀)
・紀元前824年(周暦共和14)〔参考〕周の宣王,姫静の即位に伴い、伯龢(共伯和)は自領に帰ったという。(『繋年』)
※『繋年』の表記が誤記でないのなら、伯龢の領地は宋にあったことになる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前823年頃 Shamshi Adad V(Shalmaneser IIIの子息)がAššurの君主として即位した。
※Shamshi Adad Vの時代以降、Aššurの政治は混迷期に入り、地方支配も弱まったことで、属国からの貢納も停滞しがちになった。属州の統治を委任されていた宦官を含む高官も1国の君主のように振る舞うようになった(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前818年(周宣王3) 5.甲戌 周の宣王,姫静は康昭宮において、頌に対して商賈の管理と新造賈の監督を命じた。(62頌鼎『殷周金文集成』2827~2829)
※銘文に「康昭宮」とあるように、冊命儀礼はかつての周の康王,姫釗と昭王,姫瑕の廟号において行われることが多かった。周王ないし貴族の廟号の遺構とされる甲組建築遺構や雲塘建築遺構のような建物が行われていたと考えられる(佐藤信弥『周』)。
※「62頌鼎」には「史虢生」という史官の名が見える。「54史密簋」(『近出殷周金文集録』489)には史密という人物が出征を命じられたことが述べられており、当初は周王の書記官としての役割が定まっていなかったと考えられる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前820年(周暦宣王5) 3.庚寅 周の宣王,姫静は玁狁を伐った。(23兮甲盤『殷周金文集成』10174)
※『詩経』-小雅・六月には吉甫が玁狁を討伐したことが言及されている。「23兮甲盤」の銘文には兮甲が玁狁との戦争で軍功を挙げたことや、「兮伯吉父作盤」という文字が刻まれていることから、金文の作成者である「兮甲」は吉甫と同一人物と考えられる。
※ 「23兮甲盤」には、淮河流域に居住していた外部勢力である「淮夷」は、かつて周に布帛を貢納していたと述べられている。初期の周において淮夷が貢納を行っていたという記録はないものの、当時はそうした歴史認識があったのであり、理想視する時代の有様を取り戻そうと静は考えていたと思われる。『詩経』に収められる詩篇の内、周王朝の創始に関する詩が多く作られたのも、この時期であることが指摘される(佐藤信弥『周』)。
・紀元前814年?(周暦宣王11?) 9.丁亥 周王は、伯龢が死去したことの報告を受けた。(『殷周金文集成』4324~4325)
※銘文には「隹又一年」とあり、共和11年(紀元前831年)とも宣王11年(817年)とも考えられる。共和11年であるとすれば、『繋年』にある共和14年に宣王が即位した時点で伯龢(和)が自領に帰ったという記述は事実ではないことになる。臣下の死が王に報告されたことを示す金文は他にないことから、伯龢は王から尊重されたいたと考えられる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前814年 Tyrusは植民地,Carthāgōを設置した。
・紀元前807年 周の宣王,姫静は、王子,友を鄭に封じた(桓公)。
・紀元前9世紀中頃 Phoiníkē人はKitionへの植民を始めた。
※この植民を契機として、Phoiníkēの諸都市は、海上交易のために必要となる贅沢品を製作するための鉱物資源を求めて西方に向かうこととなった。KitionはCyprus島における交易の中心都市となった(周藤芳幸『古代ギリシア 地中海への展開』)。
・紀元前8世紀 Graecia人はItalia半島にも居住した(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
※半島南部はMagna Graecia(偉大なGraecia)と呼ばれるようになる。Graecia人はタレントゥムやシュリバス、ナポリやキュメーを建設した。シチリア島にはシラクサやアクラガスが作られた。ラティウム地方に隣接するキュメーは、ローマにギリシア文化を伝えることになる(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
・紀元前8世紀頃 Graecia人はEgé海周辺に都市国家「polis」の建設を開始した。
※polisは25~100平方km程度、人口3000人程度の規模が標準的であり、市街地とその周りに農地が置かれる構造をしていた。それは農民を主体とする都市だったことに起因する。polisは当初、神々の子孫を自称する貴族の家柄Eupatridai(「善き父祖を持つ人々」の意)のみが参政権を持つ政体として誕生した(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前786年(周暦宣王42) 周の宣王,姫静は長父を楊の地に封じた。(91四十二年逨鼎『近出殷周金文集録二編』328~329)
※諸侯の封建が多く行われた、初期の周のあり方を意識していたと考えられる。静は父王と同じように、かつての栄えていた時期の周への回帰を望んでいたと考えられる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前776年 〔参考〕第1回Olympia祭が開催されたとされる。
※紀元前776年という年は、慣習的に第1回競技会が開催された年として言及されていた。実際の年代は不明であるが、Olympiaにおいて素焼きの陶器で作られた小像の奉納数が増加することから、紀元前8世紀であると考えられる。Olympiaの領域は各有力polisから離れていたため、各polisから集った人々が奉納の競い合いをすることが可能であったと考えられる。聖域は競い合う場であり、その発展の過程で、Olympiaで行われる体育競技も発展したと考えられる(Robin Osborn『ギリシアの古代』)。
・紀元前774年 周の幽王,姫宮涅は、寵愛する褒姒との間に儲けた伯盤を太子とした。伯盤の異母兄,宜𦥑は太子を廃され、申に亡命した。(『繋年』)
※『春秋正義』の引用する『竹書紀年』には、父王の生前から宜𦥑は王として、申侯、魯侯、許の文公,姜興父によって擁立されたと述べている。ただ、「是に先んじて」という文言は、引用の際に注釈家が独自に書き加えた可能性も指摘される(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』)。
・紀元前774年 周の幽王,姫宮涅は、弟である鄭の桓公,姫友を司徒とした。(『史記』鄭世家)
※鄭の君主は、卿士を世襲することとなる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前771年 周の幽王,宮涅は兵を率いて申を包囲するが、諸侯の繒と西戎によって攻められた。宮涅と伯盤は殺害された。(『繋年』) 鄭の桓公,姫友は戦死し、子息の掘突が跡を継いだ(武公)。(『史記』鄭世家)
・紀元前770年 周の大貴族,虢公翰は、故幽王,姫宮涅の弟である余臣を周王として擁立した(携王)。(『繋年』)
〔異伝〕『竹書紀年』では、姫宜臼は諸侯の申、魯、許に擁立されて王を称しており、並立していたとする。
※周は既得権益が蓄積されたことで、大貴族や諸侯の権力が増大した。各々の勢力が周王を擁立したことで内乱が勃発したのである(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前753年 〔参考〕伝承によれば、RomulusはPalatinusの丘に国Romaを建ててRex(君主)となったという。(Dionysius 『Rōmaikē archaiologia』)
※建国伝承を書き残したDionysius、Plutarchus、Titus Liviusなども、その物語に関しては疑いの言葉を述べている。古い時代からの伝承であるため、建国年を含め正確な内容が判然としないのである。ただ、紀元前8世紀頃にTiberis河左岸の丘の上に集落があったことが調査の結果判明している。そのため、後のRoma市の場所に都市が建設されたことは確かであると考えられる(宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』)。
※伝承においてはRomaとはRomulusの名に由来するが、実際はEtrusci語で川を意味する「rumon」が由来であるとも考えられる(小林標『ラテン語の世界』)。
※Latin語で君主を意味するRexは、Saṃskṛtamで同じく君主を意味するRajaと同根である(小林標『ラテン語の世界』)。
・紀元前750年(周暦携王21) 周の携王,姫余臣は、姫宜臼に味方した晋の文候,姫仇に殺害された。(『繋年』)
※以前は『竹書紀年』によって余臣の殺害は760年と考えられていたが、『繋年』の発見により750年であると判明した(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前750年頃 Graecia人はEgé海域の外に航海を開始した。
※紀元前850~750年頃、地中海全域の気候は高温乾燥から冷涼湿潤へと変化した。そうした気候変化は地中海沿岸地域における夏期腸疾患の死亡率を低下させ、また降水量を安定させて農業生産が増えたことで、人口を増加させたとも考えられる。人口増加によって土地と食糧が足りなくなり、Graecia人たちはEgé海域から地中海と黒海全域まで拡散することとなった(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
※住んでいる土地の貧しさから新天地を求める必要があったほかに、同じ時期に成立した『Ilias』や『Odysseia』に見られるような冒険心や英雄精神に起因する行動とも考えられる。 Egé海域で習熟した造船・航海技術によってなせる業であった。Graecua人は既にPhoiníkē人たちが進出したAfrica沿岸からIbérica半島にかけての地域を奪うようなことはせず、Europa側と黒海へと向かった。地中海域は北のPhoiníkē人と南のGraecia人によって勢力圏が二分されることとなった(手嶋兼輔『ギリシア文明とはなにか』)。
※Graeciaで作られた阿利襪油と葡萄酒は、高価なものとして交易に用いることが可能であったため、Graecia人にとってはAfricaおよび西Asiaとの交渉の道具でもあった(周藤芳幸『古代ギリシア 地中海への展開』)。
※Graeciaの都市における農地は、秋に種まきを行って麦を初夏に収穫した場合、1年以上は農地を休ませる必要があり、毎年の収穫を可能にするには、土地の半分ずつを交互に利用するほかなかった。Athēnaiのような都市は穀物の自給自足が不可能であるため、黒海周辺やAigyptosから輸入をしていた(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
※Graecia人はAššurから圧迫されて地中海に進出したPhoiníkē人の商人と競合し、経済的・文化的な交流を持つようになった(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
※線文字BによるGraecia語の表記は不便であったため廃れ、Phoiníkē人の文字体系を用いて表記するようになった。ただ、Graecia語の文字表現には母音を表す必要があるものの、Phoiníkē文字には母音を表す文字がないという問題があった。そこで、Phoiníkē文字にはあるがGraecia語には不必要な発音をする文字を、母音として用いることとなった。こうして母音と子音を個別に表記するAlphabetが成立した(小林標『ラテン語の世界』)。
・紀元前744年 Tukultī-apil-Ešarra(Tiglath Pileser) ⅢがAššurの君主として即位した。
・紀元前740年 姫宜臼が周王として擁立された(平王)。(『繋年』)
※『繋年』には叔父の携王,姫余臣の崩御から平王の即位まで9年間、周王が空位であったと述べている。かつて幽王,宮涅によって後継者から外され、さらに余臣を殺害した晋の文侯,仇に支持されていた宣臼は、周王として即位することに抵抗感を持たれていたからとも考えられる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前738年(周暦平王3) 周の平王,姫宜臼は遷都した。(『繋年』)
※宜臼は本来は太子であったが、追放された後に即位しているため庶子となる。そのため、幽王,宮涅が滅ぼされたことで本家としての周王家は滅亡し、洛邑にて分家が王権を維持したことになる。平王以前の周は「西周」、以降は「東周」と呼ばれて区別される(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
※『繋年』は成周に遷都したとあるが、実際は成周の中心部から少し離れた位置に遷都したと考えられる。成周の中心からも離れたことで、王の所在地を示す必要が生じ、宮殿の位置を示す「王城」という言葉が生まれ、やがて地名になったと推測される(佐藤信弥『周』)。
※周の遷都が行われて以降の時代は、歴史書『春秋』に因んで「春秋時代」と呼ばれる(佐川英治「中国王朝の誕生」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。
※西周が滅亡して諸侯の力が強まると、地方では特色のある金文が刻まれるようになった。呉や越などで使用された「鳥書」という字体は装飾性が強かった(伊藤道治『古代中国』はじめに)。
※これにより豊と鎬の一帯は「中国」ではなくなった。その後周王は権威を低下させる(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。
・紀元前738年頃? 周の平王,姫宜臼は、遷都するまで自身を護衛をした功績により、嬴非子の子孫, 秦の襄公に、陝西省の岐より西の土地を与えた。(『史記』秦本紀)
※秦が与えられた陝西省は黄河文明の発祥地であり、周の興った土地であった。ただ、嬴一族は辺境の出身であり、他の諸侯からは野蛮視された(渡邉義浩『始皇帝 中華統一の思想』)。
・紀元前735年以前頃 AššurはBiainli(Urartu)を制圧した。
※君主のTukultī-apil-EšarraはSyria・Palestina地方の覇権を、Aigyptosと境を接する領域にまで回復することに成功した(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前732年 AššurはDamascusを属州とした。
※Tukultī-apil-Ešarraの時代にAššurは再び勢力を拡大させ、Byblos、Tyros、Samariaの他にもArabia半島とSinái半島に住むArab人部族からも貢納を受けることになった(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前722年 Aššurは北Yisrā'el君主国を滅ぼした。
※Assyriaの支配下では、北Yisrā'el遺民のIḇr人は反抗しなければ生き残ることとなった。敗戦によって自身の信仰する神が頼りにならないと考えるのうになったIḇr人はYHVH信仰を捨てることになった。また、南Yəhūdā君主国でもYHVHを見捨てる人々もいたと思われる。しかしそれでもYHVH信仰を捨てなかった人々は南Yəhūdā君主国におり、YHVH信仰を保った人々が北Yisrā'elから南Yəhūdā君主国に移住することもあったと思われる。そのため、南Yəhūdā君主国ではYHVHを強く信仰する人々が多くなったと考えられる。そのような信仰の強い人々は、「YHVHは国を見捨てた不出来な神である」という結論を否定しようとしたため、「 人間の側に落ち度、罪がある」という考えが生まれたとも考えられる(加藤隆『キリスト教の本質』)。
・紀元前721年頃 Šarru-kīn ⅡがAššurの君主として即位した。
※自ら作成させた碑文が父親に言及されていないことから君主位簒奪者であったとも考えられ、新たな都,Dur-Sharrukin(Šarru-kīnの砦の意)を建設していることも簒奪に伴い既存の伝統を否定する行為とも推測される。一方、正式な継承者になる予定ではなかったものの先代,Shalmaneser Vの兄弟ではあった可能性も指摘される(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前721年頃 Marduk-apla-iddina IIがBabilの君主となった。
※Marduk-apla-iddina IIはChald人部族長であり、Elamの支援を受けてBabilの権力を握ったことで、君主となりえたのである(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前720年 周の平王,姫宜臼は、鄭の武公,姫掘突・荘公,寤生父子を卿士とした。(『春秋左氏伝』)
※『春秋左氏伝』には周王が虢を重用したため鄭伯は王を怨んだとある。周王は父子2代が卿士になった鄭を警戒し、虢を重用したものと思われる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前720年 周の平王,姫宜臼が崩御すると、孫の林が即位した(桓王)。
※林は鄭から権力を奪取することを望んだ(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前717年 Aššurの君主,Šarru-kīn Ⅱは Karkamišを滅ぼした。