個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

360~389

・364年 百済からの使者が卓淳国に至った。(『日本書紀』)

・365年 1.壬午 ヤマト王権軍は筑紫国に侵攻した。岡県主の祖,熊鰐はヤマト王権に恭順した。(『日本書紀』修正紀年)

※熊鰐の勢力は、不弥国の末裔であり、宗像三女神を信仰していたとも推測される。また、九州王権の統一が乱れていたことが窺える(若井敏明『謎の九州王権』)。

・365年 〔参考〕筑紫国の伊覩県主の祖,五十迹手はヤマト王権に恭順したという。(『日本書紀』修正紀年)

※五十迹手は伊都国王の末裔とも考えられる。邪馬台国が九州にあると考える立場から、狗奴国は邪馬台国を滅ぼした後に伊都国を支配下に置いていたという見解もある(田中卓「日本国家の成立」『日本国家の成立と諸氏族』)。

・365年 1. 己亥 ヤマト王権軍は筑紫国の儺県に至った。(『日本書紀』修正紀年)

※ 伊覩県主の恭順によって、かつての奴国の地に入ることができたことになる。そのため、奴国の地は既に伊都国が支配していたとも推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。

※『古事記』によれば、神功皇后の母方の祖先は天日槍(日桙)である。伊都国の首長の末裔であったことから、伊都国を中心とした北九州の勢力の協力を得ることができたとも推測される(田中卓邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)

・365年 9.己卯 仲哀天皇は九州に出兵し、熊襲と交戦した。ヤマト王権軍は勝つことができず、撤退した。(『日本書紀』修正紀年)

・366年 3.乙亥 ヤマト王権は卓淳国に斯摩宿禰を派遣した。(『日本書紀』修正紀年)

神功皇后の称制46年は西暦246年だとしている。ただ実際は干支を2回繰り下げた120年後の366年とも考えられる(若井敏明『「神話」から読み解く古代天皇史』)。

・366年 2.丁未〔参考〕『日本書紀』「一云」によれば、仲哀天皇は敵軍の矢が命中して崩御したという。

仲哀天皇は、戦死したか戦争の直後に崩御したとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

・366年 〔参考〕『日本書紀』によれば、仲哀天皇崩御後、キサキの気長足姫が政務を執り行ったという。

※気長足姫は開化天皇の玄孫であるのに対して、仲哀天皇のキサキの1人,大中姫は景行天皇の孫である。大中姫のほうが有力であり、彼女の産んだ香坂王・忍熊王仲哀天皇の後継者と考えられていたと推測される。気長足姫は仲哀天皇に同行した先の九州において、自身の産んだ誉田別王を擁立する形でヤマト王権の掌握を図ったとも考えられる(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

・366年 百済王はヤマト王権に五色の絹、弓箭、鉄鋌を送った。(『日本書紀』修正紀年)

・367年 百済からの使者が倭国を訪れた。(『日本書紀』修正紀年)

百済からの使者は「先王の望し国の人」と表現されていることから、仲哀天皇の時代から百済との接触が行われていたと推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。

・367年 〔参考〕ヤマト王権軍は山門県に至り、田油津媛を滅ぼした。田油津媛の兄,夏羽は援軍を率いたが、妹が滅ぼされたと知ると逃げたという。(『日本書紀』修正紀年)

※卓淳国への使者の派遣を通して百済との外交関係を構築し、鉄資源や軍事物資の援助を得たことで勝利できたとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

※田油津媛は卑弥呼の王権の後継であったとも考えられる(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

※夏羽は狗奴国に庇護を求めて逃亡したとも推測される(岡田登「神武天皇とその御代」『神武天皇論』)。

・369年 〔参考〕ヤマト王権軍は朝鮮半島南部に出兵した。卓淳国に駐屯し、新羅を攻撃した。獲得した枕弥多礼の地は百済に与えたという。(『日本書紀』修正紀年)

※最初に卓淳国に集結していることや、百済に土地を与えていることから、卓淳国と百済の要請だったとも推測される(若井敏明『「神話」から読み解く古代天皇史』)。

神功皇后は祖先に天日槍がいたことで(『古事記』)、伊都国の勢力の協力を得ることができ、玄界灘朝鮮海峡を渡ることが可能であったとも推測される(田中卓「古代天皇の系譜と年代」『日本国家の成立と諸氏族』)。

朝鮮半島との軍事的な関わりは、軍事指導者の地位を高めることになり、上流・中流階級は男性化が進んだと考えられる(清家章『卑弥呼と女性首長』)。

・372年 百済ヤマト王権に七支刀を贈った。(『日本書紀』修正紀年)

〔参考〕『日本書紀』には、百済朝貢して来たときに献上したものとある。

※七支刀に関する『日本書紀』の記述は、『百済記』に依拠すると考えられる。『日本書紀』の編纂過程で、日本に亡命した百済人が作製・提出したものと考えられ、内容は日本に迎合するものに改変されている可能性が指摘される(熊谷公男『大王から天皇へ』)。

石上神宮の七支刀には泰○4年5○(月)16日、丙午(太和4年(369)か)に倭王のために制作されたと記されている。

※七支刀の銘文の解釈としては、晋が百済を仲介として倭国に授けたという説(栗原朋信説)、百済倭国に献上した説(福山敏男、榧本杜人説)、百済倭国に下賜した説(金錫亨説)、対等な立場から百済から倭国に贈った説(吉田晶、鈴木靖民説)がある(河内春人『倭の五王』)。

※晋は倭国に七支刀を下賜する必要性はない。高句麗からの侵攻に対して百済倭国から援助を受けた形跡はないため、百済からの献上説には批判がある。また、倭国の鉄資源依存は加耶地域に対してであり、百済に臣従する必要はない(河内春人『倭の五王』)。

百済は、領土拡大のために南下する高句麗に対抗するために倭国と同盟することを求め、その証として七支刀を送ったと考えられる(倉本一宏『戦争の日本古代史』)。

・389年? 〔参考〕『古事記』『日本書紀』によれば、気長足姫の崩御後、誉田別尊が即位したという。

応神天皇の即位は、389年とも考えられる(橋本増吉『日本上古史研究』)。

・394年? 〔参考〕甲午の年、応神天皇崩御した。(『古事記』)

※『古事記』の記す最後の干支「戊子」から遡った最初の「甲午」の年は394年となる(末松保和「古事記崩年干支考」『日本上代管見』)。

※誉田御廟山古墳は、応神天皇が葬られた陵墓であるとされている。同じ古市古墳群の中でも他の古墳よりも大きく、他の豪族とは隔絶した権威を主張する意図が見て取れる(佐藤信 編『古代史講義』)。

応神天皇の時代の記述は、神功皇后の物語の神話的要素を引き継ぐものであり、応神天皇神功皇后の分身的な存在として叙述されており、実在性が薄いとも考えられる(新谷尚樹『伊勢神宮出雲大社』)。