個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

300~329年

・300年 1.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅倭国は友好関係を結んだという。

※『日本書紀』には該当記事がないことから、この「倭国」はヤマト王権ではなく九州の王権であるとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

・311年? 〔参考〕辛未の年、垂仁天皇崩御した。(『住吉大社神代記』)

※『住吉大社神代記』は、崇神天皇崩御年を「戌寅」、垂仁天皇崩御年を「辛未」と記す。「戌寅」が318年だとすると、垂仁天皇との崩御年が逆転してしまう。そのため、垂仁天皇崩御年は311年、崇神天皇崩御年はそれより前の258年だと推測される。『古事記』は垂仁天皇崩御年を153歳、『日本書紀』は140歳とする。これは古くから垂仁天皇が長寿であると伝承されてきたことを示しており、『住吉大社神代記』から考証される53年という在位もありうるという見解もある(田中卓「八代系譜の信憑性」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

・311年?〔参考〕垂仁天皇崩御後、その子息が即位した(景行天皇)。(『古事記』『住吉大社神代記』)

景行天皇の和風諡号は「大足彦忍代別(オオタラシヒコオシロワケ)」という。「大足彦」は尊称「別」は追号であり、実名は「忍代」とも考えられる。「ワケ」という名号は後代にもあるため、信頼性が置けるという見解もある(小林敏男邪馬台国再考』)。

景行天皇の兄弟には「五十日足彦(イカタラシリコ)」や「胆香足姫(イカタラシヒメ)」がいることや、自身も「オオタラシヒコ」という尊称を持っていることなどから、当時は「タラシヒコ」という呼称が流行していたとも考えられる(田中卓「古代天皇の実在」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

・312年 3.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、「倭国王」が使者を派遣し、自身の子息の婚姻を望んだという。そこで新羅から阿飡,急利の娘が倭国に送られたという。

※『日本書紀』には記述がないため、「倭国王」は九州の君主であったとも推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。

・313年(晋暦永嘉7) 高句麗楽浪郡を陥落させた。(『三国史記高句麗本紀)

・314年(晋暦建興2) 高句麗帯方郡を陥落させた。(『三国史記高句麗本紀)

楽浪郡帯方郡の陥落により、女王国は「中国」に朝貢することが不可能になったと考えられる(小林敏男邪馬台国再考』)。

※その後、邪馬台国の記録は途絶える。魏からの後援を失った後、敵対する狗奴国に滅ぼされたとも推測される(田中卓邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

・317年 司馬睿は江南にて、晋の皇帝として即位した(元帝)。これを東晋という。

※非漢人の支配を嫌った華北漢人は江南に移動した。そのため、「中国」における人口分布が変化した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

東晋は伝統的な「中国」の中心地区を領していなかったが、胡族による北朝は「索虜(髪を縄で結んだ野蛮人)」であると位置づけ、東晋こそが晋の後継たる「中国」であると自称した。対する北朝は、自分たちは伝統的な「中国」の地域を支配しており、東晋はもはや、その地域を失った「島夷(海に浮かぶ島の野蛮人)」であり「中国」を自称する資格を失ったと考えていた(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

東晋により、中原で奏でられていた宮廷音楽は南方によって保存されることになる。(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。