個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

150~179

・150年頃 象鼻山の山頂に方壇が築かれた(象鼻山三号墳)。(石野博信「二世紀の東海の祭祀」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

 

・158年 3.?〔参考〕 『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅の竹嶺が開かれると倭人が訪れたという。

※竹嶺が開かれたことで、倭人が陸路で楽浪郡に至ることが可能になったとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

 

・166年以前? 鄭玄は儒学者,馬融に学問を学んでいた。(『後漢書』鄭玄伝)

・〔参考〕何晏の『論語集解』が引用する馬融の『論語』「子罕篇」の注釈では、「九夷」の1つは倭とされる。

・〔参考〕『論語』「子罕篇」によれば、孔丘(孔子)が乱世となった「中国」を嘆いて「九夷」に移り住むことを願ったという。

・〔参考〕『論語』「公治長篇」には、孔丘が海の向こうに行くことを望み、自分に着いてきてくれるのは仲由(字は子路)だろうかと言い、それに仲由は喜んで応答したとある。

※『漢書』は『論語』の「子罕篇」と「公治長篇」を組み合わせて、「孔丘は道理に合わない政治が行われることを嘆いて、海を越えて「九夷」の地に移ろうとした」と記した。当時の「中国」において、「海」は「晦(暗黒)」に通じ、未知の世界を意味する。つまり、「公治長篇」において、孔丘の言った「海」とは「中華」の外にある未知の領域を差す。つまりは軽い願望の吐露であり、「九夷」とは無関係の文脈であると考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※当初、丘の憧れた理想郷である「夷」の地は朝鮮半島あたりと捉えられてきたが、秦や漢の時代、圧政や戦乱を逃れて「中国」から朝鮮半島に移り住む人が増えると、理想郷は海のむこうの土地に仮託されたのだと考えられる(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・175年頃?  3.? 〔参考〕『日本書紀』「垂仁天皇3年3月条」によれば、新羅の王子,天日槍(日桙)が播磨国に渡来したという。

※『日本書紀』の年代は讖緯説に基づいて編纂されているため、垂仁天皇即位3年という年代は実際のものとは異なると思われる。ただ、『日本書紀』の編纂者は、垂仁天皇の治世の初期にあった出来事だと考えていたようである(田中卓邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

〔参考〕『筑前国風土記』によれば、日桙は「高麗の国」より降ったのだという。

※高麗は当時はないものの、『古事記』『日本書紀』は新羅の王子と説明しているため、朝鮮半島の出身なのは確かと思われる(田中卓邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

倭国の盟主的な地位にいた伊都国王の勢力が、筑後平野の他国の台頭に伴って衰退し、東方に逃れたとも推測される(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

〔参考〕垂仁天皇は大友主と長尾市を播磨国にいた新羅の王子,天日槍(日桙)のもとに派遣したという。垂仁天皇は、播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑を与えようとしたが、天日槍は自身が欲する土地を貰うことを望み、近江国吾名邑に進んだ後、若狭国に至り、最終的に但馬国に居住したという。(『日本書紀』)

※『三国志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」の記す、「女王国」を中心とした連合が解体するに伴い、伊都国の首長か首長に近しい集団が九州から東に逃れたとも推測される。そしてその東進を危険と考えたヤマト王権は、防衛のために播磨国に大友主と長尾市を派遣したとも考えられる(田中卓邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。