・394年以降? 〔参考〕応神天皇の崩御後、その王子,大鷦鷯命が即位したという(仁徳天皇)。(『古事記』)
・396年 〔参考〕倭は、高句麗の属国であった百済と新羅を攻撃して、「臣民」として服属させたのだという。その後高句麗の永楽太王,高談徳(国罡上広開土境平安好太王)は百済を攻めて再び高句麗に服属させたのだという。(『好太王碑文』)
※『好太王碑文』は永楽太王高談徳の子息である長寿王,高巨連が建てたものであり、父の功績を讃えるために百済を高句麗の属民と書いて誇張していると見られるほか、倭国を実態よりも強大にしていると考えられるものの、倭が朝鮮半島に出兵したことは事実であると思われる(倉本一宏『戦争の日本古代史』)。
※碑文の中の「百残(済)○○新羅」の文字を欠く場所が加耶であると考えれば、倭国はそれらを服属させたというのが事実でないとしても、軍事顧問的な立場として、時には指導者的立場として百済や加耶と協力し、高句麗に対抗していたとも推測される(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。
※『好太王碑文』は、新羅と百済を従属させることを正当化するために、2国は高句麗の属国であったという、実際とは違う歴史を述べる。倭国が百済と高句麗を服属させたということも、実際とは異なる(河内春人『倭の五王』)。
・397年 5.? 百済は太子の腆支を人質として倭に派遣した。(『三国史記』「百済本紀 阿莘王」)
〔参考〕『日本書紀』「応神紀8年3月条 分注」が引用する『百済記』には、百済王の阿花王(阿莘王か)は王子の直支(腆支か)を派遣したことが記されている。
※応神天皇8年は修正紀年において397年となり、『三国史記』と一致する(森公章『倭の五王』)。
・399年 晋の僧侶,法顕は、インドを目指して旅立った。
・400年 永楽太王,高談徳は、歩兵と騎兵50000を派遣して新羅を救援し、「倭賊」を撃退した。(『好太王碑文』)
※支配体制も未確立なまま倭国が軍を派遣したのは、百済からの要請で無謀ながらも戦争を行ったとも推測される。倭国内の外交担当者に百済出身者がいたのかもしれない(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。
※安岳3号墳の壁画から、高句麗の歩兵は長距離の射程を持つ弓を装備していたことが推測される。対して倭国軍は短甲と大刀という重装備であり、接近戦を得意としていた。矛を装備した騎兵によって、高句麗軍は倭国軍を破ったと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。
※馬を駆使する高句麗軍に敗れたことが、倭国が馬を導入する契機になったのだと考えられる(河内春人『倭の五王』)。
※倭国の軍隊が撤退する際に朝鮮半島から倭国に渡る者もおり、漢字漢文を本格的に倭国に伝えたとも考えられる(沖森卓也『日本語全史』)。
・404年 倭人が帯方方面に侵入し、永楽太王,高談徳によって斬殺された。(『好太王碑文』)
※倭国側は騎兵を恐れたために、船による戦闘を選んだのだと考えられる(河内春人『倭の五王』)。
・405年 法顕はグプタ朝に到着した。彼はパータリプトラにて仏典や戒律について学んだ。
※これはベンガル湾を渡ることのできる季節風航海術が実現できたことを意味している(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。
・413年 〔参考〕倭、高句麗、銅頭太師は晋に対して朝貢を行ったという。(『晋書』安帝本紀)
〔参考〕『太平御覧』巻981香部1麝条に引用される『義𤋮起居注』には、倭は貂皮と人参を献上し、晋からは細笙と麝香を下賜されたとある。
※倭が献上したとする貂皮と人参は朝鮮半島の特産品であることから、高句麗の誤りであるとも考えられる。また、倭と高句麗が共同で入貢したか否かについては見解が分かれる。高句麗が捕虜にした倭人とともに入貢したという説もある(森公章『倭の五王』)。
※高句麗はかつて、前秦への使者を新羅人を伴って派遣することで、外交を有利に進めたことがある。413年の入貢も、同様の理由で倭人を同伴したとも考えられる(河内春人『倭の五王』)。
※『梁書』は、編者の姚思廉が原史料の文章を書き改めている場合が多く、413年の倭国の君主を讃だと決めつけている可能性がある(河内春人『倭の五王』)。