個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

90~119年

・97年(漢暦永元9) 70歳となった漢の王充は、本を書くことにした。(『後漢書』王充伝)

・〔参考〕『論衡』「儒増篇」には、周が成立していた時代に、倭人が𣈱草を貢いだという記述がある。

・〔参考〕『論衡』「恢国篇」には、周の成王,姫誦の時代、倭人は鬯草を貢したとある。

※実際に日本列島の人々が周を訪れたかは不明である。ただ、『論衡』が書かれた時代には楽浪郡を通して倭人の情報は伝わっていたとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

※鬯草は香草のことである。鬯草の産地は粤地であり、倭人は南方の種族であるような筆致である(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

・105年(漢暦元興1) 蔡倫は蔡候紙を製造した。(『後漢書』宦官列伝)

前漢代にも紙は製造されているが、文章は書かれたものは発見されていない(冨谷至『概説 中国史』総論)。

※漢代に紙が用いられるようになると、筆と墨によって漢字が書かれるようになった(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・107年(漢暦永初1) 倭国王,帥升らが、後漢に使者を派遣した。生口160人を献上し謁見を願った(『後漢書』「孝安帝紀 」「東夷伝 倭伝」)

〔参考〕『翰苑』や『日本書紀纂疏』の引用する『後漢書』には「倭面上国王師升」とある。

〔参考〕『釈日本紀』は『後漢書』を引用して、使者を派遣した国を「倭面国」とする。

〔参考〕北宋版『通典』には「倭面土国王師升」とある。

〔参考〕『唐類函』には「倭国土地王師升」とある。

※『後漢書』を引用する文献から、『後漢書』には帥升のことを「倭面土王」や「倭国土地王」と表記する写本があったようである。しかし、それらの文献は正確に引用しているか疑問が呈されることや、「倭面土」は「ヤマト(=倭)」の音写とも考えられる(西嶋定生倭国の出現』)。

※「倭囬土」(囬は回の俗字)という表記が正しく、「倭奴国」を「倭の奴国」と読む場合、帥升陳寿『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」に記載のある伊都国の王だったことになる(鈴木靖民「倭国ありさまと王権の成り立ち」『纒向発見と邪馬台国の全貌』)。

※「倭面土国王」や「倭国上国王」といった表記は、「倭国王」を「倭国王国王」と重複して誤記し、さらに「王」を「上」や「土」などと誤った可能性も指摘される(若井敏明『謎の九州王権』)。

※『後漢書』には、「倭国帥升等」と表記する写本もある。そのため、「帥升」という王がいたのではなく、「主帥」という官名を持つ倭国からの使者が、漢を訪れたという説もある(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

※『漢書』『三国志』『後漢書』には、「師」を姓とする人物か見られる。そのため「帥」は「師」の誤写の可能性がある。「升」という名も「中国」名として不自然ではない。当時は「中国」の姓制度を受容した国はなく、新しい姓が創始されることもなかった。そのため帥升には朝鮮半島に移住した渡来人、もしくは漢人を模倣して姓を名乗った朝鮮半島の人の子孫の可能性が指摘される。帥升が古くから日本列島に住んでいた者の子孫であるならば、当時の倭国内において、漢人のような姓を名乗ることに政治的な意味があったとも考えられる(吉田孝『日本の誕生』)。

帥升とは、漢語に翻訳された名前であり、帥升漢人であったわけではないという見解もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※伊都(イト)国の王であった帥升が盟主となり、連合国家としての「倭国」を形成していたとも考えられる(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

〔参考〕『筑前国風土記』には、筑紫国の伊覩県主の祖,五十迹手は、天から「高麗の国の意呂山」に降りた日桙(ヒボコ)の末裔とある。

※『筑前国風土記』の記述から、伊都国王(伊都県主)は朝鮮半島から渡来した者の子孫とも推測される(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。

※伊都国は福岡平野の三雲・井原を中心としており、連合の盟主になっていたと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※米三雲・井原遺跡からは硯片が発見されており、楽浪郡と文書外交を行っていたことが窺える(石野博信「倭人は文字を使っていた」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

〔参考〕『後漢書』「鮮卑条」には、「生口・牛羊・財物」とある。

〔参考〕陳寿魏志』「濊条」には、「生口・牛馬」とある。

※遺跡などから当時の日本列島には階級社会が形成されていたことが窺われ、「生口」とは、牛馬や財産などと同じ扱いを受ける奴隷的身分であったと考えられる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

帥升としては、多くの生口を献上することで、多くの共同体を服属させていることを示そうとしたのだと考えられる。またそれは、戦争に勝利し、捕虜を獲得できるような、軍事的資質が倭国王に必要とされたのだと推測できる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※生口が朝貢の品として用いられたのは、珍しい特産品がなかったため、奴隷の価値が相対的に高かったからだと推測される(吉田孝『日本の誕生』)。

※北部九州の倭国連合は、漢を中心とした政治秩序に参入することと引き換えに、鉄資源のほか鏡や剣などの威信を示す物を下賜され、それを倭国内の「国」に与えることで、国内を支配していたと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※『後漢書』の原文に「帥升等」とあることから、後漢朝貢を行ったのは帥升だけでなく、160という生口の数も倭の諸国から集められて送られたと思われる。また、このことから帥升は倭にある複数の国の君主として上に立っていたとも推測される(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※「中国」との外交を通して、国々が集まって、漢の人々から「倭」として認識されるような政治組織・社会が形成されたと考えられる。(鈴木靖民「倭国ありさまと王権の成り立ち」『纒向発見と邪馬台国の全貌』)。

建武中元2年と永初元年という、2度に渡って朝貢した記述が残されていることから、「東夷」の中でも倭は特別な存在だったと理解されていたことが伺える(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

※井原鑓溝遺跡の甕棺の年代を2世紀第1四半期と推定し、被葬者を帥升に比定する説もある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。