個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

240~269年

・240年(魏暦正始1) ?.?  帯方太守の弓遵の命により、建忠校尉の梯儁らは魏の詔書印綬を伴って倭に至り、卑弥呼親魏倭王に拝仮し、金、絹、錦、毛織物、刀、鏡、菜物を贈った。(『三国志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」)

・240年? 「景初4年」という年号の刻まれた鏡が製作された。(広峯十五号墳出土鏡銘,辰馬考古資料館所蔵鏡銘)

※魏は240年に景初から正始に改元している。そのため景初4年という年号は存在しない。だが、帳天錫のように改元を知らずに「升平」の年号を使い続けた者もいる。そのため、魏の臣下が倭に至り、帰国することなく死去して埋葬されたとも推測される(石野博信「丹・但・摂の紀年銘鏡」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

・243年(魏暦正始4) 倭は使者として伊声耆、掖邪狗ら8人を魏に派遣し、生口、倭錦、玉虫織の絹織物、真綿の服、白絹の織物、赤い木で作った弓、矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を賜った。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

〔参考〕『冊府元亀』巻968「外臣部 朝貢1」には、正始4年12月に倭国の女王,俾弥呼(卑弥呼か)が朝貢を行ったとある。

・245年(魏暦正始6) 魏は難升米に与えるための黄幢(黄色の旗)を帯方郡に預からせた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

※世界を支配する「中国」の皇帝は、朝貢をしてきた「夷狄」を王と認めることで形成した秩序を、守る義務があった。そのため魏は倭を支援しようとしたと考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

※黄色は陰陽五行説に基づく、魏を象徴する色であり、魏の支援を受けていることを誇示することが可能である。しかし、黄幢は中国文化を知っている勢力との戦いでしか効力を示さない(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

※魏が黄幢を贈ろうとしたのは、倭が狗奴国との戦いを有利に進めさせるためでなく、中国文化を十分に知っている高句麗ほか朝鮮半島の国々との戦いに協力させるためという説がある。(武田幸男「三韓社会における辰王と臣智」)。

・246年(魏暦正始7) 5.?頃 辰韓楽浪郡編入するという方針に反対した韓人は、帯方郡の崎離宮を攻撃した。帯方郡太守,弓遵と楽浪郡太守,劉茂は韓人を攻撃した。遵は戦死した。(陳寿魏志』韓伝)

帯方郡太守が戦死したことで、難升米に与えられるはずであった黄幢は倭国に渡らなかったとも考えられる(小林敏男邪馬台国再考』)。

・247年(魏暦正始8) 王頎が新たな楽浪郡太守となった。倭王,卑弥呼は、魏に使いを遣わし、狗奴国の王,卑弥弓呼と争っていることを伝えさせた。魏は卑弥呼を支援するために、張政に詔書と黄幢を持たせて難升米に授けた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

〔参考〕狗奴国は、男王が治め、狗古智卑狗がおり、女王に服属してはいなかったという。(陳寿魏志東夷伝 倭人条)

※『魏志』に立てられた項目が「倭国」ではなく「倭人」なのは、狗奴国が独自に成立していたように、卑弥呼が全ての倭人を支配できていなかったからだと考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

247年頃? このころ、卑弥呼は死去したと推測される。

・2??年 「其の国」(邪馬台国?)は、また男性王が立てられたが、国中が従わず争いが勃発し1000人ほどが亡くなった。そこで卑弥呼の一族である13歳の女性,台与(壱与)が女王となると、再び倭は安定したという。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

※この男性王というのは、卑弥呼の「男弟」であるという仮説も立てられる。ただ、その後国中が従わなかったということから、服属していた諸国の首長は男性王の即位を容認しなかったとも考えられる(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

卑弥呼の死後、「男弟」が残されたと推測されるが、国中が従わなかったとすると、宗教的な背景がなければ到着が不可能であったことが窺える(若井敏明『謎の九州王権』)。

・2??年 倭国において、卑弥呼の親族である13歳の少女,台与/壱与が新たな王となり、争いが収束した。(陳寿『魏書』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

・247年(魏暦正始8) 倭国は魏に対して朝貢のための使者を派遣した。(『冊府元亀』巻968 外臣部 朝貢1)

〔要参考〕台与/壱与は、張政の帰国に随行させる形で魏に使者20人を派遣し、男女の生口30人、白珠5000、青い大勾玉2個、雑錦20匹を献上したとある。(陳寿魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

※このようにして、倭は秩序を回復させたことを魏に伝えたのである(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

箸墓古墳卑弥呼の墓であると考えると、その次に作られた西殿塚古墳が台与/壱与の墓であるとも推測される(白石太一郎「考古学からみた邪馬台国と初期ヤマト王権」『邪馬台国からヤマト王権へ』)。

・250年頃? 〔参考〕『古事記』『日本書紀』によれば、開化天皇崩御後、その子息が即位したという(崇神天皇)。

250年頃 箸墓古墳が造営された。

〔参考〕陳寿『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」には、卑弥呼は直径100余歩(約145m)の墓に埋葬され、100人ほどの奴隷が共に埋葬されたとある。(陳寿魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

※『魏志』には「大いに冢を作る」とある。これは大きな冢を造営したのではなく、壮大な葬送儀礼を行ったとも解釈される(小林敏男邪馬台国再考』)。

※『魏志』によれば卑弥呼が埋葬された墓の直系は約145mである。対して箸墓古墳は前方部124m、後円部156mである。箸墓古墳前方後円墳であるのに対して、『魏志』からは円墳であると考えられる。また、箸墓古墳には殉葬者が発見されていないことから、卑弥呼の墓を箸墓古墳とする見解には疑問も呈される(小林敏男邪馬台国再考』)。

吉野ヶ里遺跡の甕棺墓の周辺には、赤く塗った土器を埋められている。そのことから、拝殿を作って墳丘墓を祀るといった葬送儀礼があったとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

〔参考〕死者を埋葬し終えると、その一家は沐浴を行った。その様は中国の練沐に似ているという。(陳寿魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

※この部分もまた、倭は中国の礼を継承している国であることを主張する記述である(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

※当時の倭国では、女性優位の伝統が強かったとも考えられる(水谷千秋『教養の人類史』)。

崇神天皇の和風諡号は「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)」という。「入彦」は「彦」を更に尊厳的に呼んだものであると考えられる。また、『日本書紀』「継体天皇24年2月条」から崇神天皇の実名はイニエであると伝承されてきたと推測される(小林敏男邪馬台国再考』)。

事代主神の別名として「玉櫛入彦(タマクシイリヒコ)」があることから(『日本書紀神功皇后紀)「イリ」とは、穀霊に由来するとも考えられる(上田正昭『私の日本古代史』)。

※沖縄方言では「イリ」は「西」を表すことから、初期天皇は西から来たとも考えられる。また、纒向遺跡辻地区の王宮が東西に一直線に並んでいることからも、日の復活ふる入口としての西方(イリ)が意識されていたとも考えられる(石野博信「纒向王宮から磯城・磐余の大王宮へ」)。

・258年? 〔参考〕崇神天皇崩御した。(『古事記』『住吉大社神代記』)

※『古事記』と『住吉大社神代記』の崩年干支からの推定である(田中卓邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

箸墓古墳の造作跡から出土した甕(布留0式)に付着した煤や焦げを対象にAMS放射線年代測定を行ったところ、古墳の造営は240~260年頃と想定された。その年代は崇神天皇の崩年と考えられる258年と矛盾しない。そのため、纒向遺跡の建物群を崇神天皇磯城瑞垣宮に比定する見解もある(岡田登「神武天皇とその御代」『神武天皇論』)。

崇神天皇の陵墓は、行燈山古墳であるとも考えられる(白石太一郎「考古学からみた邪馬台国と初期ヤマト王権」『邪馬台国から初期ヤマト王権へ』)。

・266年(晋暦泰始2)11. 乙卯 倭人が晋を訪れて朝貢を行って貢物を献上した。また、それぞれ天地を祀る場所であった圜丘・方丘を、南郊・北郊に変更したことを伝えている。(『晋書』武帝紀)

〔参考〕『日本書紀』「神功皇后紀」分注の引く晋の起居注には、266年の10月に倭国より晋に使者を送ったとある。

※天地を祀る場所を南郊・北郊だと定めたのは、時の晋の皇帝、武帝司馬炎の母方の祖父、王粛である。晋が祭祀を改革したという記述の後に倭からの朝貢を記すのは、祭祀を改めた判断が正しかったという主張を裏付けるためである(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

〔参考〕『日本書紀』の引用する晋の起居注によれば、泰始2年の10月、倭の女王が晋に朝貢をおこなったのだという。

※『魏志』には台与の最初の朝貢の年次が記されていないため、張政が魏に帰国したのは、この年であったとも考えられる。政は、倭国からの使者を引率する立場にあると考えられる。しかし『魏志』の記述は倭国から送られたような筆致である。自身の仕える魏が滅んで晋が建国されたことにより、政は困難な立場となったと推測される。そのような状況下で倭国から亡国,魏への朝貢のために帯方郡を訪れた使者がいたので、政は倭国からの使者に晋への朝貢を行わせ、それまでの立場を維持できたとも推測される(村井康彦『出雲と大和』)。

倭国内において、魏の滅亡を最も早く知ったのは伊都国であると思われる。台与(トヨ)もしくは壱与(イヨ)という倭国王の名前から、実際は台与/壱与は伊都国王であり、「中国」の新王朝に朝貢したという見解もある(村井康彦『出雲と大和』)。

・260~270年頃? 〔参考〕『日本書紀』「垂仁天皇3年条」によれば、天日槍という人物が倭国に至ったという。

※『筑前国風土記』には、日桙(天日槍)は高麗国の意呂山に「天降り」した神とある。また、『古事記』『日本書紀』『新撰姓氏録』には、天日槍は新羅の王子とある。当時はまだ新羅や高麗といった国はなかったため、朝鮮半島からの帰化人を出自とすることを意味すると推測される。『筑前国風土記』では、天日槍は伊都県主の祖先と語られる。邪馬台国が狗奴国に滅ぼされた後に、邪馬台国支配下にあった伊都国の集団が、邪馬台国と祖を同じくするヤマト王権に、同族の誼から亡命を望んだとも推測される(田中卓「日本国家の成立」『日本国家の成立と諸氏族』)。

・260~270年頃?  〔参考〕天日槍が播磨国に至ったとき、ヤマト王権は三輪君の祖,大友主と、倭直の祖,長尾市を派遣したという。(『日本書紀』)

〔参考〕『播磨国風土記』には、天日槍は伊和大神(大国主命)と争ったとある。

※三輪君と倭直は、どちらも大国主命を奉ずる氏族である。そのため、『日本書紀』と『風土記』は同一の出来事を語ったとも考えられる。ヤマト王権としては、畿内を統一した矢先に亡命者一団が来たため、秩序が乱れることを恐れて畿内まで

進入することを防ごうとしたとも考えられる(田中卓「日本国家の成立」『日本国家の成立と諸氏族』)。

・260~270年頃?〔参考〕『日本書紀』によれば、ヤマト王権は天日槍に播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑を居住として与えようとした。しかし天日槍はそれを辞退して、近江国若狭国と移動し、但馬国の出石に留まったという。

※『播磨国風土記』における伊和大神(大国主命)と争ったという記述からして、ヤマト王権が派遣した者たちと争いに及んで畿内への進出に失敗したとも考えられる。ヤマト王権としては、畿外の地を与えることはできても、畿内への進出は容認しなかったとも考えられる(田中卓「日本国家の成立」『日本国家の成立と諸氏族』)。