個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

210~239

・210年頃 大和に突出部付円丘墓が営まれた(纒向石塚古墳)。(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。

※突出部は1つだけであり、同じく1つの突出部を持つ、立坂古墳や宮山古墳といった吉備の墳丘墓の情報が伝わっていたのかもしれない(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。

・220年 魏王,曹丕は、漢の献帝,劉協からの禅譲を受けて即位し(文帝)、魏を建てた。これにより漢は終焉した。

※なるべく社会を動揺させない形での皇帝即位を望んだため、禅譲という形で即位した(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

226年 アルシャク朝パルティアは、サーサーン朝によって滅ぼされた。

※サーサーン朝ではパフレヴィー語(いわば中世ペルシア語)が話され、アラム文字を元にするパフレヴィー文字で綴られた(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・230年 12. 癸卯 大月氏の王,波調は、魏から親魏大月氏王と認められた。(陳寿『魏書』明帝本紀)

※この波調は、Kushan君主,Vasudevaことだと考えられる。Indoの神格を名前としていることから、このころにはIndoに溶け込んだようである。Vasideva以降、Brāhmī文字が記されるようになった(宮本亮一「カニシュカ一世」『アジア人物史 1』)。

※この時期、実際にKushan朝が滅びていなかったかは明らかでない。もし滅びていなければSāsān朝ērānšahrからの攻撃を防ぐために、魏との同盟を目的として使者を派遣したとも考えられる。また、既にKushan朝は滅びており、商人が魏からの品物を多く獲得することを目的として使者を偽ったとも推測される(榎一雄邪馬台国(改訂増補版)』)。

※魏としては、西域の諸国から河西に侵攻されることを防ぐことを目的として、大月氏王に認めたとも考えられる(榎一雄邪馬台国(改訂増補版)』)。

・230年 呉の皇帝を称する孫権は、不老不死の仙薬を求めて、将軍と10000の兵を夷州と亶州に遣わした。

※呉としては、倭を海上ユートピア的地域と認識していたようである(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

・232年 4.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人新羅に侵攻して金城を包囲したという。新羅王,昔助賁が自ら兵を率いて交戦すると、倭人は逃げたという。

・233年 5.?〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵が新羅の東辺に侵攻したという。

・233年 7.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅の王族,昔于老は沙道において倭人と交戦したという。

・233年(魏暦青龍1) 12.? 公孫淵は、呉の皇帝,孫権からの使者2人の首を跳ね、魏に送った。(陳寿『魏書』明帝本紀)

※権としては宝物を贈って通交を望んでいた。しかし公孫氏の領域から呉は離れており、脅威ではないと感じた淵は贈り物だけを獲得して呉を裏切る形になった(榎一雄邪馬台国』)。

・233年(呉暦黄武2) 呉の皇帝,孫権公孫淵の討伐を望んだが、諌められて中止した。(陳寿『呉書』呉主伝)

・235年(魏暦青龍3) ?.? とある鏡に銘文が刻まれた(西谷大田南五号墳紀年銘鏡,安満宮山古墳紀年銘鏡)。

※青龍は魏の年号である。しかし、公孫氏は倭との外交を行っており、魏の年号を鏡に記して倭との交渉に用いた可能性も指摘される(石野博信「丹・但・摂の紀年銘鏡」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

・236年(呉暦嘉禾5) 7. 高句麗王,位宮は、呉の皇帝,孫権からの使者を処刑し、その首を幽州にさらした。(陳寿『魏書』明帝本紀)

・238年 1.? 魏は公孫氏勢力を攻め、公孫淵を処刑した。

・238年(魏暦景初2) 3.? 公孫氏の勢力は魏に滅ぼされ、その勢力圏には帯方郡とその太守が置かれた。(『三国志』)

・239年(魏暦景初3) 6.? 卑弥呼は魏に使者を遣わし、男性奴隷4人と女性奴隷6人斑織りの布2匹2丈を献上した。倭の使者難升米(なしめ/なとめ)は魏の皇帝に謁見し、朝貢することを望んだ。(陳寿魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」)

〔要参考〕南宋版以降の『三国志』は倭の朝貢を景初2年6月と記す。対して『日本書紀』が引用する倭人条は景初3年とする。

〔要参考〕『三国志集解』は景初2年6月当時には使者を仲介する帯方太守がいなかったため誤りであるとする。

卑弥呼が公孫氏との交流を持っていたのだとすれば、公孫氏に代わる魏という帯方郡の支配者に、一刻も早く庇護を求める必要に迫られていたとも考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※使者の派遣が景初3年であれば、魏の先代の皇帝曹叡(明帝)は崩御しており、時の皇帝は曹芳(少帝)である。そのため、先帝崩御への弔意と新帝即位および改元への祝意を伝える意図があったと考えられる(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※使者の派遣には、航路権を掌握し、鉄資源と先進的な文物を手に入れる意図があったとも推測される(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

〔要参考〕『晋書』「四夷伝 倭人条」は、倭からの使者の派遣の理由を、司馬懿が魏の将として公孫氏を平定したことに求めている。

※『晋書』の原史料である晋代の記録は、倭の朝貢をもたらした功績を、晋の初代皇帝,司馬炎の祖父である司馬懿に求めている(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

〔参考〕倭より「中国」に使節を送る際には、その内の1人を「持衰」として、身なりが汚いようにして肉を食べさせず女性も近づけさせない。その使節が無事であれば、持衰に生口や金品を与え、途中使節間に病気が流行ったり暴風雨に逢えば、その者を殺したという。(陳寿魏志東夷伝 倭人条)

※「持衰」とは、航海が良好に行われることを願う呪術者であったとも考えられる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

〔参考〕陳寿魏志』「東夷伝 倭人条」は、倭からは真珠、青玉が産出し、山には丹砂、赤砂があった。木の種類にはクスノキ、ボケ、クヌギ、スギ、カシ、ヤマグワ、カエデがあり、竹には篠竹、箭竹、桃支竹があったとする。

※倭は特産物が豊富で、朝貢に適した地であるとしているのである(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

〔参考〕倭は気候温暖で、イネやカラムシを植え、カイコを飼育し、麻糸や綿織物も作っていたとされる。また、冬も夏も生野菜を食べていたとある。ただ、ショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガの調理法を知らなかった。(陳寿魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

陳寿は倭の位置を会稽郡東治県の東方だと勘違いしていたため、倭が温暖な気候であると考えた可能性がある(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

卑弥呼倭国の王に擁立されたのは180年頃だとすると、当時の卑弥呼は老齢であったと推測される。そのため、卑弥呼を見る者が少なかったというのは、高齢であることが原因とも考えられる(小林敏男邪馬台国再考』)。

〔参考〕陳寿魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」によれば、倭人の男性は木綿の鉢巻をしており、服は布を結んで繋げていたものだった。針で縫わなかったようである。女性は髪を束ね、服は布の中心に穴を開けてそこから頭を通すものであった。また、皆裸足であったという。

〔参考〕『漢書』「地理志 下 粤地条」には、そこに住む人々の衣服は、布の中央に穴を開けて頭を通すものとしている。

※『魏志』の記す倭人の装束は、実際の倭の風習であったかもしれないが、陳寿は「中国」の「南方」にある粤地の記述を参考にして、「東南」にあると考えた倭の服装を描いたとも推測される(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

〔参考〕陳寿魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」には、倭人の男性は大人も子供も、顔と体に入れ墨をしていたという。入れ墨は位によって違いがあったという。

〔参考〕『礼記』「王制篇」には、東方の「夷」は体に入れ墨をしており、南方の「蛮」は顔に入れ墨をしている、とある。

※『魏略』にも同じような入れ墨に関する記述が見られる。『魏略』を著した魚豢は、倭を「中国」の東南にあると考えていたため、「東南」に住む人々を、東方と南方の習俗を持ち合わせた異民族として描いたと考えられる。『魏略』を参考にして『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」を著した陳寿は、推敲の結果その記述をそのまま採用したと思われる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

※日本列島で出土した土器には入れ墨を表現すると考えられる絵画が描かれていることや、『日本書紀』には顔面に入れ墨を施す刑罰(黥刑)が記されていることから、実際に倭人が入れ墨を行っていた可能性が排除されるわけではない(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

〔参考〕中国での白粉の化粧のように、倭人は赤い顔料を用いていたという。(陳寿魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

・239年?(魏暦景初3?)12.? 魏の皇帝は詔書を下し、卑弥呼に金印と紫綬を授けて正式に倭王(親魏倭王)と認め、黄金、白絹、鏡100枚などを与えるとし、種人(自国民)を綏撫(撫で慈しむ)ように命じた。また、遠方より来訪した難升米と都市牛利を労い、難升米を率善中郎将とし、都市牛利を率善校尉とし、銀印青綬を与えた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

※魏の皇帝から、公や侯でなく「親魏〇王」の称号を与えられたのは、卑弥呼の他には親魏大月氏王となったヴァースデーヴァ(波調)のみである。(西嶋定生邪馬台国倭国』)

※魏は東西の絶域の首長に「親魏〇王」の称号を与えることで、異民族の首長が「中華」としての魏に帰属していることを宣伝し、後漢の後継者であることを宣伝しようとしたとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※倭は中国の遠く東方海上、つまりは呉の背後にあると考えられていたため、魏は呉を牽制するために卑弥呼倭王と認めて厚遇したのだと考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※金印紫綬を与えることは「仮す」と表現されている。これは授ける資格があるか分からない者に仮に与えることだと推測される。卑弥呼が信頼に足るか否か、不安であったことが窺える(吉田孝『日本の誕生』)。

※『魏略』が記す、倭人が太伯の子孫を自称したという記述を採用すれば、太伯の子孫を称する呉人と近しいように思われてしまう。そうすれば、倭が呉にとっての脅威という設定が崩れてしまうため、陳寿は『三国志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」を著すにあたって『魏略』における、倭は太伯の子孫を自称したという記述を省いたとも考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

※鏡が贈られたことから、卑弥呼の行う「鬼道」というものは、鏡を用いた呪術ではないかとも推測される(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※「種人」を「綏撫」するようにとの命令は、倭国王に任じたため、国外の倭人の領域まで勢力を伸ばし、倭人を統一せよとの意味合いが込められていたと考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※黄金や絹などは、当時の倭国にはなかった。鏡などとともに、国内の人々に見せたり分け与えることによって権威を高めたとも推測される(吉田孝『日本の誕生』)。

※呉の元号が刻まれた鏡が日本から出土していることからも、呉は倭人の一部と接触していたと考えられる。呉人と倭人の祖先が共通という説を採用した場合、倭が呉の一部と認めてしまう恐れがあったことも、『魏略』をそのまま採用しなかった理由であると考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

卑弥呼に与えられた銅鏡は、倭のために制作された特別な品とも考えられている(岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』)。

※『魏志』において、魏への朝貢以前の卑弥呼は「女王」、朝貢以後は「倭王」と表記が変化する。邪馬台国を中心とする倭の連合政権の君主であった卑弥呼が、倭国倭人を統べる王として承認されたことを意味する(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※近畿各地から出土する景初3年銘の三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏より与えられたものだという説もあるが、日本列島で作られたものだという説もあり見解は別れる(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

卑弥呼に贈られた銅鏡は帯方郡太守の弓遵が派遣した梯儁からの手渡しであることから、帯方郡で製造されたものだという説もある (宮崎市定『古代大和朝廷』)。

三角縁神獣鏡は中国から出土しておらず、また古墳に副葬された状況からして権威の象徴ではなく儀礼のための呪器と思われることから、三角縁神獣鏡は倭で製造されたものであり、魏から贈られた銅鏡は連弧文鏡、方格規矩鏡、画文帯神獣鏡などに近い形をしているのではないかという説がある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※平原遺跡からは女性が頭部を飾ったと考えられる管玉などが出土している。伊都国の首長は卑弥呼の代役としての役割を持っており、管玉のような当時最新の装飾は、伊都国を起点として他地域に広まったと推測される(村井康彦『出雲と大和』)。

〔参考〕『十鐘山房印挙』には「都市」と刻まれた印鑑がある。

※「都市牛利」という名の「都市」は、市を総括する大官「都市」を意味すると考えられる。倭国内の市を監督するという「大倭」を漢訳したと推測される(吉田孝『日本の誕生』)。

纒向遺跡からは「市」と墨で書かれた土器が出土している。また『和名類聚抄』が大市郷として示す範囲内にある。「大市」に葬られた倭迹迹日百襲媛命の墳墓とされる箸墓古墳は、纒向遺跡の南方にある。内陸部である纒向遺跡からは、海水魚が見つかっており、海に面する地域から献上されたと推測される。纒向遺跡の場所は物流の盛んな地域であったことを窺わせる。その地域が「大市」と呼ばれていたことから、邪馬台国は交易によって経済が支えられており、市の監督者である牛利が外交副使になったとも推測される(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

〔参考〕女王になって以降の卑弥呼は、直接人に会うことが少なかったという。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)

卑弥呼の居館は城柵や楼観で守られ、民衆とは別に住んでいたとも考えられる(都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』)。

卑弥呼が直接会わなかった人というのは魏からの使節に対してであり、自国民に対しては姿を見せていた可能性も指摘されている。後の時代の倭=日本の君主も、長らく外国からの使節に直接姿を見せなかった(義江明子『つくられた卑弥呼』)。