個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

180~209年

・170~180年頃? 〔參考〕『太平御覧』の引用する『魏志』によれば、光和年間の間(178~183)、倭では各國が爭っており君主がいなかったという。

〔參考〕『後漢書』は、倭國內の戦亂の時期を桓帝,劉志から霊帝,劉宏の時代(146~189)の間とする。

〔参考〕『梁書』は、倭国内の戦乱の時期を霊帝,劉宏の光和年間(168年~184年)とする。

※漢の衰退により、鉄資源や威信を示す下賜品を供給するため交通網が混乱した。そのため政治秩序が崩壊し、倭国王の権威が弱まって戦乱が発生したと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※『後漢書』における「桓霊の間」という言葉は、不徳の皇帝を引き合いに出して暗い時代を表現するための常套句的なものであり、実際の志と宏の統治期間を意味するものではないという説もある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

・177~180年頃? 倭の王が男性であった約70~80年の間は争いが続いていたため、そこで、1人の女性を「共立」し王とした。卑弥呼(ひみこ?/ひめこ?)という。(陳寿魏志東夷伝 倭人条)

※男王である帥升朝貢が108年であることから、それを起点として70年~80年後のことだと推測される(小林敏男邪馬台国再考』)。

卑弥呼が王となるまで、70~80年程は男性首長であったことから、女性首長は一般的に受容されているものではなかったとも考えられる(大平聡「女帝・皇后・近親婚」『日本古代の王権と東アジア』)。

※『三国志』における「名づけて卑弥呼といふ」という記述からして、卑弥呼とは「日の御子」もしくは「ひめみこ(皇女・王女)」のことであり、実名ではなく特定の女性の身分を表す呼称とも考えられる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※「卑弥呼」は当時の魏の洛陽音では「ヒムカ」と読まれたという見解もある(長田夏樹『新稿 邪馬台国の言語』)。

※「卑弥呼」を「ヒムカ」と読む見解から、「日の巫女」という意味を含んでいたという説もある(新谷尚紀『伊勢神宮出雲大社』)。

〔参考〕陳寿魏志』「東夷伝 夫余条」には、王の簡位居の死後、嫡子がいなかったので、馬加・牛加・豬加の官人は庶子の麻余を「共立」したとある。

〔参考〕陳寿魏志』「東夷伝 高句麗条」には、王の伯固の死後、その長子,抜奇は「不肖」であったために小子,伊夷模が「共立」されたとある。

陳寿は『魏志』において、嫡子でない者が王になる場合に「共立」という言葉を用いている。麻余は官人に、伊夷模は国人(王の宗族)に「共立」されている。そのため卑弥呼を「共立」したのは周辺の支配層とも考えられる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

後漢が衰退したことで、それを後ろ盾として政治・外交を牽引してきた伊都国が力を失って倭国内は混乱し、その状況を打開するために卑弥呼は「共立」されたとの見解もある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

倭国を構成する諸国の合意によって王が擁立されていることから、倭国王の地位は安定したものではなかったとも考えられる(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。

儒教世界において、王は自ら即位するものであり、他者から「共立」つまりは奉戴されることは好まれない。倭に好意的な陳寿がこのように記したのは、卑弥呼即位の実態を反映しているからだと考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

卑弥呼の王都を纒向遺跡とする見解からは、伊都国を中心とする北部九州から、奈良盆地東南部へと本拠地を移転したとも考えられている(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

・180年頃 吉備に墳丘墓が築かれた(楯築遺跡)。(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。

※円丘部の両側に方形突出部があり、円丘部には葬儀用器台(特殊器台)が約30個散在していた。木槨と木棺に収められた遺体は、水銀朱に包まれていた(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。

・184~189年(漢暦中平) 5?.16? 後漢元号、中平(184~189年)が刻まれた鉄刀が制作された。(「東大寺山古墳刀銘」)。

※鉄刀には5月丙午とあることから、中平4年か5年であるとも考えられる。しかし『論衡』は金属の鋳造に適した好日を5月丙午を記すことから、あくまで常套句であり、中平のいつであるかは特定は困難とされる(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※鉄刀に刻まれた文字は、結体や布置、象嵌からして、後漢の官営工房における象嵌技術とは水準と隔たりがあることから、中平年間に後漢政権の中央から離れた場所で制作されたか、もしくは中平年間に作られた鉄刀に、三国時代に文字が刻まれた可能性が指摘されている(鈴木勉『百練鉄刀の使命-東大寺山古墳出土中平銘鉄刀論』)。

・191年(漢暦初平2) 黄巾党30万が、兗州の泰山を攻めた。泰山太守,応劭は迎え撃ち、数千人を討ち取り、捕虜1万を得た。(『後漢書』応劭伝)

〔要参考〕その序文によれば、黄巾の乱によって文化が後世に伝わらないことを恐れ、劭は『風俗通義(風俗通)』を著したという。

※『風俗通義』には、女媧が黄土を捏ねて人間を作っていたが、多忙さゆえに泥につけた縄から落ちる塊を人間にしたという神話が説明されている。手で捏ねられた人間は優秀な金持ちに、垂れた泥から成った人間は愚かな貧乏人になったという。劭はそれを俗説だと言及していることから、人間が誕生した理由について、民間で流布していた話であると理解できる(伊藤道治「伝説の聖王」『古代中国』)。

・193年 6.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、1000人以上の飢えた倭人が食糧を求めて新羅に渡ったという。

・2世紀末 出雲西部に墳丘墓が営まれた(西谷三号墳)。(石野博信「三世紀の三角関係」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

※西谷三号墳には、吉備の古墳に見られるような葬儀用器台(特殊器台)が発見されている。出雲には吉備と共通の葬送儀礼を行う君主がいたと考えられる(石野博信「三世紀の三角関係」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

・推定204年以降 公孫康は、楽浪郡南部に帯方郡を設置した。康は漢人を集めて、韓と濊を征討した。以来、倭と韓は帯方郡に所属したのだという。(陳寿魏志』韓伝)  後漢の皇帝は公孫氏に「海外」に関する事案を委任した。

卑弥呼は、後漢の代理としての公孫氏に対して朝貢していた可能性がある(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※魏と呉と対峙するうえでも、公孫氏は倭との協力関係を欲しており、倭側は列島内の混乱を収束させるためにも公孫氏を頼った可能性もある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

東大寺山古墳出土の、中平年銘の鉄刀は、綾東太守に任じられた公孫氏に下賜され、その後朝貢を行ってきた倭に贈られたという仮説がある(金関恕卑弥呼帯方郡」『弥生人の見た楽浪文化』)。

※中平年銘の鉄刀を、後漢からの下賜品ではなく在地勢力から公孫氏への献上品とすれば、銘文が後漢官営工房の水準と乖離していても問題はないという指摘もある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

元号からして、倭国の混乱が収まった後に、後漢ないしは公孫氏から倭にもたらされたものだと思われる。奉戴されて王になって間もない卑弥呼朝貢を行い、地位の承認の意味を込めて贈られたものとも推測は可能である(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。