個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

30~59

・40年(漢暦建武16) 3. 南越の諸領主は、徴税権を漢から南越の領主に戻すことを望んだ。(『後漢書』馬援列伝,南蛮西南夷列伝,『越史略』)

・40年(漢暦建武16) 3. 南越の徴側は女王を称し、徴税を行った。漢は軍を派遣し、徴側を滅ぼした。(『後漢書』南蛮西南夷列伝)

※漢は高句麗倭国などの首長に王の地位を与えて、直接支配していない地域との繋がりを保とうとはしたものの、直接の支配地域が独立することは容認しなかったといえる(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・43年 RomaはBritanniaを属州とした。

※Carthāgōの旧領であった北Africaや、GalliaとBritanniaのCelt諸部族がRomaに編入されることとなった。そうしてRomaには多様な民族が混在するようにはなったものの、既にGraecia人やRoma人に知られていた民族が多く、また人種的にも既存のRoma人たちと異なっていたわけではなかった。こうした要素は、かつてのArgeas朝Makedoniaと同じく陸上を中心とする多民族を有する覇権国家の特徴である(Krishan Kumar『帝国』)。

・44年 韓の廉斯の首長,蘇馬諟は楽浪郡朝貢を行い、漢より「漢の廉斯の邑君」という称号を授けられた。(『後漢書』韓伝)

・57年(漢暦建武中元2) 1.? 倭の奴国(もしくは倭奴国)が後漢に朝賀使を送った。倭人の使者は自らを大夫と名乗った。奴国は漢光武帝,劉秀より印綬を賜った。(『後漢書光武帝紀,東夷伝 倭,『後漢紀』光武帝紀)

※日本列島内での水田耕作の発展によって農耕共同体は拡大したことで、集団内外の利害関係が生じ、それらの調停を行ったのが、奴国の王である大首長と首長集団であったと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※奴国の王都は、須玖岡本遺跡であると考えられる。奴国王は君主一族とは隔絶した形式で埋葬されており、周囲に墓が築かれていない。そのため奴国王は卓越した権力を有していたと考えられる(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※韓の廉斯の朝貢を起点として、倭の首長は朝貢したとも考えられる(鈴木靖民「倭国ありさまと王権の成り立ち」『纒向発見と邪馬台国の全貌』)。

朝貢関係の構築は、「中華」の支配下に入ってその支配を承認されることである。このような関係を築くことで、競合する他国に対して国力を誇示することが可能であった(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※劉秀は漢帝国の継続を喧伝する立場であり、「漢」の字を刻んだ金印を与えることは、その正当性を喧伝するうえで意味があった。「漢の国」と表記された印は、匈奴や倭などに限って贈られた金印は、最上位の官位と爵位の格に相当する者に贈られた(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

※印は皇帝の中央集権の支配秩序の下で、官人や官署が職務を遂行するために必要なものであり、役人は職位相当の印を与えられた。皇帝から授かった印は、封緘の役割を持っていた。封検という木の札の窪みに粘土を敷き詰め、その上から刻印の形で印を押すのである。ただ、当時の倭が、上表文を漢字で書くほどの識字環境が整っていたとは思えず、印文の意味や、正確な用途を理解出来なかったとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

後漢としては、新が滅亡した後の国家再編のために、他国を繋ぎとめる方策として「国王」の地位をばらまいたとも考えられる(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※どの地域から来たか尋ねられた使者が「私は」という意味で「ワ(倭)」と答えたとすれば、日本語の祖先は既に存在していたかもしれない(沖森卓也『日本語全史』)。

〔要参考〕天明7年(1784)3月16日付の口上書によれば、志賀島の百姓,甚兵衛が「漢委奴国王」と刻まれた金印を発見したのだという。

※「漢委奴国王印」は109g、金95%と銀4.5%、その他銅が含まれている。(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

※それこそが奴国王に贈られた金印だと考えられる。偽造説も唱えられたが、「廣陵王璽」と刻まれた金印や「滇王之印」と刻まれた金印などの兄弟印が発見されたことや、金属組成の分析、後漢時代当時の篆刻技術の研究により、偽造説は否定的な見解が強い(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※異民族に与えた印でありながら、蛇を象ったものであることも贋物説の根拠とされたが、「滇王之印」も蛇を象っていることから実際に後漢から与えられたものだと考えられている(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※上奏文や朝貢品の封泥に用いられたとも考えられるが、文字の内容の理解や、上表文を書くほどの識字環境が整っているとは考えられないとの疑問が呈されている。そのため、金印は後漢支配下に組み込まれることを認めるものであり、威信の象徴であるとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※三宅米吉は、「漢委奴国王」の読み方を「かんのわのなのこくおう」という読み方の推測を発表した(『史学雑誌』1892年)。

※「かんのわのなのこくおう」という読み方については、「漢に服属する、倭に属する奴国の王」という回りくどい読みであることや、当時「奴」という国が存在していたのか、また、「国王」という称号があるのかという疑問が呈されている(冨谷至『漢倭奴国王から日本国天皇へ』)。

※「倭奴国王」の「倭奴」は、『北史』や『旧唐書』および『新唐書』にも見られる表記である。また、『後漢書』では「倭奴国」と「倭国」の両方が使われており、表記揺れと見られる。これらのことから、「倭奴」の「奴」とは「匈奴」のように卑下の接尾辞とも考えられる。また、当時の「中国」の皇帝が民族の首長に与えた称号は「国王」ではなく「王」であることから、「漢委奴国王」は「漢の倭奴国(の)王」と読むのが適切だという説もある(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

陳寿の『魏志』「東夷伝 倭人条」には「奴国」という国名が見えることから、「倭奴国」、つまり倭国全体の王ではなく倭の中の1つの国「奴国」の王が正しいという見解もある(若井敏明『謎の九州王権』)。

※極東の島国を漢が認知したとしても、「奴国」が倭国を構成する1つの国家であるであると、理解できたかは疑わしいとも考えられている(遠山美都男『新版 大化改新』)。

・59年 5.?〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅は倭と通好したという。