個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元後1~29年

・8年 漢の皇太子,劉嬰からの禅譲を受け、王莽は皇帝となり、国号を新とした。その後、「東夷」の王から朝貢があった。

※新に朝貢を行ったのは、伊都国か奴国の王と推測される(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※新において発行された貨幣,貨泉は日本列島から出土していることから、倭人は「中国」との交渉を続けていたようである(若井敏明『謎の九州王権』)。

・14年 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」倭人は兵船100以上を派遣して、秦韓の海辺の民戸を略奪したという。新羅は勁兵を派遣して防衛したという。

・28年 〔参考〕ローマのインペラトル/カエサル,ティベリウスの治世15年目(『ルカによる福音書』1.3)、洗礼者ヨハネは荒野にいて、悔い改めの洗礼(バプテスマ)の教えを伝えていた。彼はラクダの毛を着て、皮の帯をしめてイナゴと野蜜を食べていた。(『マルコによる福音書』1.4~6)

※洗礼者ヨハネは、穢れを罪として清める「ユダヤ教沐浴運動」の流れを組む者だと思われる。ただ、ヨハネの洗礼は、1度受ければ罪の赦しを与えるものであった。彼は、本来の禁欲的なユダヤ教の伝統に従って、世俗化したユダヤ教を批判していたのだと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)

※洗礼者ヨハネの身なりの叙述は『列王記』1章8節のエリヤを意識しており、実際そうであったかはわからない(大貫隆『マルコによる福音書』)。

・28年 30歳頃のナザレのイェシュアは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた。(『ルカによる福音書』3.21~23)

ヨハネによる、洗礼により全ての罪が許されるという教えに、イェシュアは家族を捨ててまで馳せ参じ、ヨハネの力になりたかったのだと思われる(佐藤研『最後のイエス』)。

〔参考〕洗礼者ヨハネは、「私の後から私より力ある方がお出でになる。私は、その方の履物の紐をかがんで解くほどの資格もない。わたしはあなた方に聖霊で洗礼をほどこすであろう(田川建三訳)」と、イェシュアについて言及したという。(『マルコによる福音書』1.7~8)

※本来、ヨハネが語った「私より力ある方」とは、神のことであり、洗礼をうけて罪のゆるしをもらわなければ、その怒りを買うと述べていたと考えられる。しかし原始キリスト教会は、イェシュアのことだと解釈した(大貫隆『マルコによる福音書』)。

※イェシュアを救世主と信じる原始キリスト教会は、イェシュアが罪の赦しを得るために洗礼を受けたことに困惑した。そこで、「私は、その方の履物の紐をかがんで解くほどの資格もない」とヨハネに卑下させることで、困惑を解消しようと考えたのだと思われる。つまり、イェシュアは本来、ヨハネの弟子だったと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

※洗礼において水に浸されることを、君主が即位式において油を注がれることに繋げて、イェシュアの弟子として洗礼を受けた事実を、君主として即位するための儀式として改変したとも考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年前後〔参考〕ナザレのイェシュアは40日間荒野にいて、その間に、サタンにより試されたのだという。(『マルコによる福音書』1.13)

※この節は、イェシュアが洗礼者ヨハネのもとに弟子として留まらなかったことを示唆しているとも考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年 洗礼者ヨハネが捕らえられると、ナザレのイェシュアはガラリヤに赴き、「神の福音」を伝えた。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音において信ぜよ(田川建三訳)」(『マルコによる福音書』1.14~15)  

神の国が近づいたというのは、洗礼者ヨハネを処刑した、ヘロデ アンティパスのような悪人による支配の終焉を意味するとも考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年以降? ガラリヤの海(湖)にて、漁師シモン、アンドレアスの兄弟と出会い、弟子とした。(『マルコによる福音書』1.16~18)

※洗礼者ヨハネが荒野に人を呼んだのに対して、イェシュアは自ら人々のもとに赴いた。しかし形態を変えたとしてもヨハネと同様に、当時のユダヤ教の救済から溢れた人々に向けた活動を行ったといえる(佐藤研『最後のイエス』)。

※当時のガラリヤはヘロデ アンティパスとその上にローマがいるという、二重の支配体制の下にあった。また、ユダヤ人の地方はそもそも蔑視されていることに加え、イェルサレムの神殿体制下においてもユダヤ社会からも蔑まれていた。イェシュアがガラリヤで活動を行ったのは、故郷である以上にイスラエルの地で最も負担を蒙り絶望する民衆に、神の国が完成しつつあることを伝え、鼓舞しようとしたのだと考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年以降?ナザレのイェシュアはイェルサレムの神殿に赴き、「私の父の家」を「商売の家」にしてはならないと言い、そこで商売する人々を追い出した。(『ルカによる福音書』19.45~48)

※イェシュアの念頭には『ゼカリヤ書』14章21節があったと思われる。また、祭儀により商人に不当な利益を与える、神殿機構そのものを転覆させようとしたのだと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

※この行為は、ユダヤ教神殿体制への怒りの表明とともに、その体制の終焉を行動として告知したとも考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年前後 新春.15 過越祭の日、NatzratのYeshuaは仔ロバに乗って、Yerushaláyim城内に入った。(『マタイによる福音書』21.6~10)

※ロバに乗って来たのは、『Zəḵaryāh書』9章9節にて示唆される、Yerushaláyimの君主の行為を意識したものと思われる。ユダヤ人の重要な祭典において、『Zəḵaryāh書』の描写を思われる行動をして、自分の説教に注目させようとしたのだと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

※彼はユダヤ民族の選民思想と深く関わるYerushaláyimにて、多くの人に、「神の国」というメッセージを伝えたかったのだと考えられる。彼は、選民を自認するユダヤ人よりも先に異邦人が先に「神の国」に入ると考えたようである(『マタイによる福音書』8.11『ルカによる福音書』13.28~29)。Yeshuaは、神の国の中心がYerushaláyimでないことを示すために、あえてYerushaláyimにて神の国について語ったと考えられる。ただ、『マタイによる福音書』13章34~35節などからして、その後のYerushaláyimの活動は好調ではなかったらしい(大貫隆『イエスという経験』)。

・28年前後 NatzratのYeshuaは恐れを抱き、Abba(=父)たるYHVHに対して祈り、「杯」を自分の前から取り除いてくれるよう訴えた。(『マルコによる福音書』14.33~36)

※Yeshuaの祈りは、自身の思い描く「神の国」の像が不透明となり、神に意志を尋ねる祈りでたったと思われる。彼はこれから「神の国」が到来すると確信していた。しかし、自身に迫る死は、「神の国」の到来を告知する、自身の苦難の人生が無意味であると告げるようにYeshuaには思えたとも推測される(大貫隆『イエスという経験』)。

・28年以降?NatzratのYeshuaは逮捕され、ユダヤ人を裁く最高法院にて、総督のPontius Pilatusにより審問された。しかし、Yeshuaは何も答えなかった。(『マルコによる福音書』14.46~60)

※当時、ユダヤ人の最高法院は、Mōshéの律法に従って死刑判決を下すことができた。ただ、刑を執行する権限はRomaのImperatorの代理人である総督に委ねられた(大貫隆『イエスという経験』)。

※Yeshuaが沈黙したのは、ユダヤ教の支配層と、同じ論理の位置で答えるのを拒否したとの説がある(荒井献『イエスとその時代』)。

・28年以降? ローマ総督ピラトゥスの前に、ナザレのイェシュアは引き渡された。ピラトゥスはイェシュアに対して、彼がユダヤ人の君主であるか否かを尋ねた。しかしイェシュアは回答を拒否した。(『マルコによる福音書』15.1~5)

※イェシュアの沈黙は、神の国の到来という確信していた観念が不透明となり、自分に適用される罰に関心が持てないほど、苦悩していたことを示すとも考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

・28年以降? ローマ総督ピラトゥスが、群衆に対して、イェシュアをどうすべきか問うと、群衆は磔刑にするよう言った。(『マルコによる福音書』15.12~16)

・28年以降? ナザレのイェシュアは磔刑にされた。彼はアラム語で「エロイ エロイ レマ サバクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか)」と言い、最後に大声を発した後に絶命したという。(『マルコによる福音書』)

※「神の国」の到来を見ることなく、残虐に処刑される。自分の思い描いた「神の国」の像が無化し、人生の意味が分からなくなったこと対する絶叫であったと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

※ここにおいて、彼は生前に語っていた、敵に真心を尽くし、虐待する者らのために祈る(『マタイによる福音書』5.44)という行為を実演してしまった。生前イェシュアに近しかった者たちに対して、その言葉は多大な説得力を持ち、直弟子たちは彼に仮託した言葉を述べるようになったのだろう(佐藤研『最後のイエス』)。