個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前400~350年

・紀元前399年 アニュトス、メレトス、リュコンの3人は、国家の認める神を認めず、ダイモーンの祭りを導入して若者を堕落させているという罪状で、ソクラテスを告発した。(『ソクラテスの弁明』)

・紀元前399年 裁判の結果、ソクラテスは死刑判決を受けた。(『ソクラテスの弁明』)

ペロポネソス戦争において、敗戦の責任を問われたのはアルキビアデスであるが、既に死去していたため、師匠のソクラテスが理由を付けられて裁判にかけられたのだと思われる。また、30人政権を担った人物にはソクラテスのかつての弟子もおり、その政権下での混乱の責任も暗に問われたのである。ソクラテスは表向きの告発理由と、裏向きの告発理由に対して、同時に弁明することになった(木田元『反哲学史』)。

・紀元前399年 ソクラテスは友人のクリトンから脱獄を勧められたが、それを拒否して(『クリトン』)、判決の通りに毒を飲んで死亡した。(『パイドン』)

ソクラテスは最期に友人に対して、雄鶏を供えることを頼んだ(『パイドン』)ことから、思弁的な営みと神々に供物を捧げる敬虔さが両立していたとが分析される(ゲオルク ヘーゲル哲学史講義』1820年自筆原稿)。

ソクラテスの弟子,プラトンは、公共のこと(政治)の実践に熱意を持っていたが、師の刑死に衝撃を受けた。政治の混乱に目眩を覚え(『第七書簡』325E)、実際の政治からは遠ざかった。しかし、政治への関心は持ち続け、人々が共に善く生きられる方法の思索を続けることにした(納富信留プラトンとの哲学』)。

・紀元前388~387年 PlátōnはAkadēmeíāに学園を開設した。

〔参考〕Aristoxenusの『Ἁrmοniιkōn stοixeiōn(harmonia原論)』には、Plátōnが「善について」という講義を行ったという逸話がある。人々は幸福になるための理論が聞けると思って集まったが、Plátōnは数学の話しか行わず、「善は一である」と結論づけ、それを聞いた人は、怒って帰ったという。

〔参考〕Athếnaiosの『Deipnosοphistai(食卓の賢人たち)』は、Akadēmeíāの体育場にて、Plátōnを風刺して、彼が弟子たちと南瓜を定義しようと議論している姿を描いた。

※逸話から分かるように、Plátōnは、ほとんど自らの教説を述べる講義を行わず、学生たちと対話を哲学の基本としていた。1人の人間は、真理よりも尊重してはならない(『Politia』10巻595C)として、権威を退けて自由な思索を行う場所であった(納富信留プラトンとの哲学』)。

〔参考〕Korinthosの農民Νhrinthοsは、Plátōnの対話篇『Gorgias』を読んで、畑を捨ててAkadēmeíāに入門したという。(Themistius『弁論集』23)

※Plátōnの著作である対話篇は、彼の存命中から流布していたのである。一部の対話篇は、Akadēmeíāにおいて議論するためのテクストであったと推測される(納富信留プラトンとの哲学』)。

※対話篇『Gorgias』では、弁論家とSōkrátēs の対話が題材となる。Gorgiasは、弁論術とは正と不正の知識を持たずして人を説得する術であると主張する。説得により人々を支配し、欲望を満たすことができるというのである。Sōkrátēs は、人々が本当に求めているものが「善いこと」である場合、弁論術は「善いと思えること」を実現できるとしても、それが本当に「善いこと」であることを見極める知を持っていないと主張した。SōkrátēsにGorgiasが論駁されると、その弟子,ポロスとSōkrátēsとの対話が開始する。Sōkrátēsが、弁論術には人を善くする力はなく、旦に相手を快くするだけの迎合であると主張し、ポロスを論駁した。すると今度はカリクレスがソクラテスに対し、哲学に必要以上に従事すると、堕落してしまうのだと述べた(484C)。カリクレスは、正しく生きようとするものは、自身の欲望をその都度開放するべきだと述べる(491E~492A)。Sōkrátēsとカリクレスの対話は、生の選択に関する対話であったといえる(納富信留プラトンとの哲学』)。

〔参考〕プレイウスの女性アクシオテアは、男女平等論を説く『Politia』を読んで、アカデメイアに入門したという。(テミスティオス『弁論集』295)

※PlátōnはSōkrátēsが「Xとは何であるか」と提示した問いに対して、「当のX」をXそのものであるところの「イデア」であると答えた。彼はイデアを不変不動永遠の実在だと考えた。人間は地上に産まれる前にイデアを知っているが、産まれた後には忘却してしまうのだという。魂はかつて知っていたイデアに対して憧れを持っている。そうした憧憬(eros)を原動力として、様々な美の根底にある美そのものを認識しようとするのだという。そのため、知の探究とは真の実在であるイデアを思い出そうとする行為だとされる。探求の対象となるイデアに真実性や存在そのものを与えるものとしては「善のイデア」が提示される。全てのイデアの頂点にあり、実在の彼方に超越しているという善のイデアは途方もなく美しいのだという(桑原直己『哲学理論の歴史』第1章)。

※集団で生活する人間は、互いの欠落を補うために生産物を交換し、その営みにより国家が構成されると説明される。国家が成立すると、それを運営するのに優れた「守護者」が必要となる。その「守護者」をどのように選定し、育てるかが重要だと述べられる。守護者は階級や社会的性別を問わず、資質によってのみ選ばれるとする(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

※国家の守護者として最適だとPlátōnが考えたのは、国家の利益になることを全力で行う熱意があり、利益にならないことを一切しない人間である(『Politia』412D)。守護者は欲望と快楽に惑わされない正義の体現者であり、自分と国家のものを区別してはならず、財産や固有の住居、そして家族を持ってはいけないのだという。子供を儲けても構わないが、産まれた子供は国家全体の子として扱われる。人が公共的であるためには、家族を否定すべきというのである(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・紀元前387年 プラトンシラクサを訪れ、そこで僭主,ディオニュシオスⅠの義弟,ディオンと知り合った。

・紀元前379年 秦において蒲・藍田・善明氏が県となった(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前376年 晋公は三晋に滅ぼされた。

・紀元前375年 秦において戸籍制度が施行された。(『史記』秦始皇本紀)

*戸籍は郷・里を単位として、血縁ではなく居住地によって区分された。戸籍を編製する戸は租税・徭役・兵役についての情報を管理し、国家にたいする義務を果たさせることを目的としていた(渡辺信一郎『中華の成立』)。

・紀元前374年 秦の櫟陽城に県が設置された。

*魏との戦争において、その城は前線基地であった。戸籍によって百姓と小農の編成もまた、対魏戦争を見込んでのものだと考えられる(渡辺信一郎『中華の成立』)。

・紀元前367年 シラクサの僭主,ディオニュシオスⅠは死去し、子息のデュオニュシオスⅡが跡を継いだ。

・紀元前367年 このころ、プラトンの学園アカデメイアに、スタゲイラ出身のアリストテレスが入門した。

ギリシア東北部から、遠いアテナイアカデメイアを訪れたのは、コリントスのネリントスのように、プラトンの著作に感銘を受けたのではないかと考えられる(山口義久アリストテレス入門』)。

・紀元前367年 シラクサの僭主,デュオニュシオスⅡはプラトンの哲学に関心を持っており、直接教えを受けることを望んだ。そのためディオンはプラトンシラクサに招くことにした。

プラトンは、シラクサの人々は最善の法律に従った生活を送る、自由人であるべきと考えた(『第七書簡』324B)。シチリア島最大のポリスであるシラクサの君主を哲学により説得すれば、一人ひとりが善き生を送るという政治を実現できると考えたのである(納富信留プラトンとの哲学』)。

ディオニュシオスⅡは、哲学を身につけているという評判が欲しいためにプラトンを招いて教えを受けたのであり、熱意や資質がないことを、プラトンは理解した。ただ、デュオニュシオスⅡはプラトンへの敬意を払っていた(納富信留プラトンとの哲学』)。

・紀元前368年 周において、列王,姫喜の弟である扁が即位した(顕王)。

・紀元前3??年頃 周の顕王,姫扁の時代、『春秋左氏伝』が著されたと推測される(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※「徳は以て中国を柔け、刑は以て四夷を威す」とあり、「中国」以外では徳は通じないため、野蛮人には刑を使うべきだという差別的な思想が見受けられる。外部の敵からの防衛と、外部への侵略という君主の立場により、東西を問わず文明と野蛮という区分が生まれた(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

※紀元前606年(宣公3年)の条には、王朝の徳によって重さが変化する鼎の逸話が記される。そして周の天命は700年であり、天命が改まるまでは鼎の軽重を問うべきではないとある。周の建国から700年後は『春秋左氏伝』が書かれてから遠い時代ではなく、作者は周がもうじき滅びると考えていたことが窺える(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前365年 シチリアシラクサにおいて、ディオンが追放された。

・紀元前361年 プラトンシラクサを訪れた。

・紀元前357年 追放中のディオンは、シラクサを僭主の支配から解放して自由にするとして、シチリアに出航した。彼はプラトンにも参加を呼びかけたが、プラトンは高齢であることや、デュオニュシオスⅡへの恩義を理由に断った。ただ、アカデメイアの者たちには、ディオンへの協力を許可した。

・紀元前357年 ディオンはシラクサを占領した。

シチリアの戦闘で、ディオンの義勇軍に加わっていた、アカデメイアの門人,キュプロスのエウデモスは戦死した。アカデメイアは各々が理想の政治を追求する場所であり、彼のようにシチリアに関与した者もいた(納富信留プラトンとの哲学』)。

・紀元前356年 秦において公孫鞅は体制改革を行い、百姓による家族(世帯)を単位として、耕地・宅地・奴隷などとともに戸籍に記載することが決定した。

※こうした変法を経た戸籍をもとに軍役が課された。軍港を挙げた者は、爵位の授与や田宅地拡大の許可といった恩恵を受けた。それに対して、軍功のない公族は特権を失い、秦の政治構造は血縁による編成から軍事を中心とした編成に変容した(渡辺信一郎『中華の成立』)。

※軍功により得た爵位は、父が戦死した場合は同等のものが、病死などの場合は何等か下の爵位が子息に与えられた(二年律令369-371)。一方、敵から逃亡した場合は何歩逃げたのかによって罰(最も重いもので無期労役)が加えられた。功績があってはじめて報奨が与えられるという制度は、財政負担を減らすことができ、また罰則とともに兵士の士気を保つ工夫を担っていた(宮宅潔「軍事制度からみた帝国の誕生」『中華世界の盛衰』)。

※変法により、1世帯に男子が2人いる場合は、分家しないならば賦は2倍になると定められた。「賦」とは本来、兵役義務そのものを指していたが、兵役免除の代わりとして一般人から徴収する財物のことも指すようになった。鞅は1世帯(戸)に男子は1人という原則のもと、軍事費(戸賦)を各々の世帯に求めたと考えられる。こうした戸賦は大庶長のような高い爵位を持つ者であっても免除されるものではなかった。また、成人の基準は身長であったため、戸籍から漏れて年齢が不明の人間であっても従軍させることが可能であった(宮宅潔「軍事制度からみた帝国の誕生」『中華世界の盛衰』)。

・紀元前353年 魏の恵公,魏罃は趙の邯鄲を攻めていたが、背後から斉に攻められて敗北した。

※この桂陵の戦いの敗北により、魏は衰退していった(渡邉義浩『「中国」は、いかにして統一されたか』)。

・紀元前353年 シラクサにてディオンは暗殺された。

※ディオンを新たな独裁者と見なし、危険視する人々がいたのである。暗殺を主動したのは、かつてアカデメイアにいたカリッポス兄弟であった。プラトンはカリッポス兄弟の行動は無知故のものであり、彼らに友愛がなかったと書簡(『第七書簡』)で述べた(納富信留プラトンとの哲学』)。

・紀元前352年 プラトンはディオン一派に書簡を送った。(『第七書簡』)

プラトンは書簡において、書物として書かれる哲学への不信感を表明している(桑原直己『哲学理論の歴史』)。