・紀元前499年 Haxāmaniš朝の遠征が失敗し、負債を抱えたAristagorasは、返済を断念してHaxāmaniš朝に反乱を起こした。(Hēródotos『Historiai』)
※Skytai遠征の失敗によるHaxāmaniš朝の威信の低下や、強制移住政策に対する恐怖感も影響していた(橋場弦「ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
・紀元前499年 EretoriaはHaxāmaniš朝に反抗するIonia系Graecia人を支援するために、Eualcidesを指揮官とした軍を派遣した。(Hēródotos『Historiai』)
※EualcidesはOlympia祭の優勝者である。宗教的な祭典において優勝した者は、その後も神々が慮ってくれると考えられていた。Plutarchosの『Moralia』では、Graeciaの各都市は競技大会の優勝者を迎えるに際しては市壁の一部を破壊することに言及している。神々が気にかけてくれる人物が都市のために戦争に参加するとあっては、市壁は不要であることを示したと考えられる(Robin Osborn『ギリシアの古代』)。
・紀元前497年 晋において、正卿の趙氏に対して范氏と中行氏は反乱を起こした。晋の定公,姫午および知氏、韓氏、魏氏といった卿は趙氏を支持したため、趙氏は、自領に逃亡した。(『春秋左氏伝』)
・紀元前497年頃 孔丘は官を辞して、魯を去った。(『史記』孔子世家)
・紀元前497年 魯、斉、衛は、范氏と中行氏を救う計画を立てるために会合を行った。(『春秋左氏伝』)
・紀元前496年 呉は越を攻めた。呉の闔閭王,姫光は負傷し、その傷が原因で薨去した。(『春秋』)
・紀元前496年 姫夫差は父の跡を継いで呉王に即位した。(『春秋』)
〔参考〕『春秋左氏伝』には、夫差は庭に人を立たせ、「越によって父が殺されたのを忘れたか」と言わせ、それに「忘れていない」と答えることを3年間続けたとある。
〔参考〕『十八史略』には、夫差は硬い薪の上に臥して、出入りする人に「越によって父が殺されたのを忘れたか」と言わせたとある。
※『春秋左氏伝』が成立した段階では、夫差の逸話は「臥薪」の形にはなっていなかったことが理解できる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前496年 呉は越を攻めた。(『春秋』)
〔参考〕『春秋左氏伝』によれば、呉王,夫差は罪人によって編成された部隊に自害を命じ、それに気を取られていた呉軍を破ったという。
※当時は罪人を部隊として管理する技術はないため、後世の創作と考えられる。そうした荒唐無稽な逸話が事実として伝えられるほど、呉や越は中原から遠い世界であったことを示す(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前494年 Haxāmaniš朝の遠征軍はMiletosを陥落させた。
・紀元前494年 斉と衛は晋を攻めた。(『春秋左氏伝』)
・紀元前494年 斉と衛は范氏を救うために会合を行った。(『春秋左氏伝』)
・紀元前494年 斉と衛に魯と鮮虞が加勢し、晋の世族である趙氏の領土,棘蒲を占領した。(『春秋左氏伝』)
・紀元前494年 呉は越を攻めた。越王,勾践は会稽山で包囲され降伏、捕らえられた後に解放された。(『春秋』)
〔参考〕『史記』-越王勾践世家には、越王,勾践は会稽山において呉軍に敗れた後、その恥を忘れないように座ったり寝たり、飲食をする度に苦い胆を舐(嘗)めたとある。
※薪の上に臥せる夫差と、胆を舐める勾践の逸話は、目的を遂げるための長時間の苦労を意味する「臥薪嘗胆」という言葉のもとになった。『史記』より先に成立した『春秋左氏伝』にも記述がないことから、両王の逸話は、大業を成すために両王は苦労をしたはずだという観念から生まれた創作と考えられる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前494年 Romaにおいて、平民が国を退去して新たな国を作ろうとした。
※Patriciiと比較して差別的な扱いを受けていたことに対する反発に起因する(宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』)。
・紀元前494年 Romaにおいてtribūnus plēbis(護民官)と平民会が設置された。
※Romaを退去しようとした平民に対してPatricii側は譲歩し、平民の利益を守る政務官と、平民のみが参加可能な民会を置いたのである。こうして、平民の意志が国政に表明されるようになった(宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』)。
・紀元前492年 孔丘は衛の霊公,姫元に失望して去った。(『史記』孔子世家)
・紀元前492年 孔丘は宋にて礼を実習していたが、司馬桓魋という者に殺されそうになった。(『史記』孔子世家) 丘は「天生徳於予。桓魋其如予何(渡邉義浩訳:天は徳をわたしに授けた。桓魋ごときがわたしをいかにできるというのか)」の述べた。(『論語』述而篇 23)
〔参考〕鄭玄『論語注』は、「天生徳於予」を天が丘に聖性を授けて、法度を制作させようとしたのだと解釈する。
※この際の「徳」とは「力」に近い意味であり、丘は「天」より見守られているという自負と、この世に道徳を実現させようという意志を持っていたことを伺わせる(湯浅邦弘「孔子」『アジア人物史 1』)。
・紀元前492年 孔丘は陳に向かう途中の匡を通る際に、魯の陽虎と間違えられて包囲された。(『論語』子罕篇)
※子罕篇には、周の文王が崩御した後にも「文」は滅んでおらず、また自身が「文」に関与できるのは天が「文」を滅ぼす意志がなかったからだと述べ、それならば匡人が自分を如何にできるというのかと主張したとある。「文」とは周の文王,昌が遺した文章のことであり、そこから転じて周の制度・文化全般のことを指す言葉である。丘は周の制度・文化によって天下を教化することを使命と考えたのである(渡邉義浩『論語』)。
・紀元前492年 Haxāmaniš朝はMardonios率いる軍隊をGraeciaに派遣した。しかし艦隊は嵐に遭遇、Mardoniosも現地人に襲撃されて負傷。本国に帰還した。
・紀元前490年 Haxāmaniš朝は、AthēnaiとEretriaへの懲罰として、遠征軍の艦隊をGraeciaに派遣した。MakedoniaはHaxāmaniš朝に味方した。
・紀元前490年 夏 Haxāmaniš朝の遠征軍はNaxos島とEretriaを占領、Graecia本土のMarathṓnに上陸した。
※Haxāmaniš朝の遠征軍の援助を行ったのは、復権を望んでいたかつてのAthēnaiの僭主,Hippiasであった。旧僭主一族の地盤であったMarathṓnの内応を期待したのである(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前490年 Marathṓn平野にて、Athēnai軍の重装歩兵はHaxāmaniš朝の遠征軍を退けた。
※Athēnaiは民会の開戦議決に従って、動員可能人数の限界に相当する約9000人の中産市民が重装歩兵となった(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
※このときの重装歩兵として参加した人々はGraeciaの富裕層であり、下層民は戦争への参加という実感はなかった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
※Haxāmaniš朝に対する勝利はAthēnaiの名声を高めることとなった。その勝利を記念して、Parthenon神殿の建設が開始した(周藤芳幸『古代ギリシア 地中海への展開』)。
※Makedoniaがpolisの1つでありながらもBarbaroiと呼ばれたのは、Haxāmaniš朝に味方したことが理由とも考えられる(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。
・紀元前490年 范氏と中行氏による反乱は鎮圧された。(『春秋左氏伝』)
※范氏と中行氏は斉に亡命しているため、両氏の反乱は斉が計画していた可能性が指摘される。この反乱以後に晋は会盟を主催しなくなったことで、覇者体制は終わりを迎えた(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前490年 斉の景公,姜杵臼は薨去した。
・紀元前490年 斉の世族の国氏・高氏と、鮑氏・田氏の間で内乱が勃発した。
・紀元前489年 Haxāmaniš君主,Dārayavaʰuš Ⅰは死去した。
・紀元前489年 斉において、鮑氏・田氏に擁立された姜陽生が斉公として即位した(悼公)。
・紀元前489年 Athēnaiの貴族,MiltiadesはParos島を無断で侵攻した。
・紀元前489年 Athēnaiの貴族,Miltiadesは帰国後に裁判にかけられ、罰金が払えなかったため投獄された。
※民衆が貴族を裁く時代になったことを示す事例である(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前487年 Athēnaiにおいて、Archonの選出方法が選挙から抽選に変更された。
※選挙で選ばれる将軍が指導者として重視されるようになり、Archonは権限を低下させた(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前486年 呉王,姫夫差は長江と淮水の間に運河を開削した。
※夫差は北方を重視していたことが指摘される(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前486年頃 Śākya国の君主,Gotama 姓のSuddhodanaは、子息Siddhatthaを儲けた。(『大譬喩経』『長部経典』14)
※486年頃の誕生という説は、リチャード ゴンブリッチの説による(リチャード ゴンブリッチ『ブッダが考えたこと』)。
※Gotamaいう姓はPāḷi語で「最も優れた牛」、Siddhattha(梵:Siddhārtha)は「目的を成熟した(するであろう)者」という意味である(今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』)。
※Suddhodanaの妃の名であるMāyāや、子息の名Siddhatthaは後代の文献に現れるものである(馬場紀寿『初期仏教』)。便宜上、Siddhatthaと呼ぶ。
・紀元前485年 斉の悼公,姜陽生は殺害された。
・紀元前484年 姜壬は斉の公に即位した(簡公)。
※政治の実権は世族の国氏が握ることとなった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前484年 呉と魯は斉を攻め、捕虜を獲得した。
※これにより、斉で実権を握っていた国氏は捕虜となった。内紛や侵攻により、斉の覇権構想は潰えた(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
※『論語』-泰伯篇には、「民可由之 不可使知之(民は之に由らしむべし、之に知らしむべからず)」という丘の言葉が遺されている。『後漢書』-方術列伝では、民には過程や理論は教えず結論だけを述べるべきだという意味に解釈されている。しかし商代の甲骨文字では、「可」は「よい」という意味であり、西周代では「できる」という可能の助動詞という意味で読まれていた。そして丘の生きている時代には「すべき」という意味はまだ生まれていなかったため、丘の言葉は、民に教えることはできても、従わせることはできないという意味と考えられる。民衆が徳ある政治を理解してくれないという、丘の不満を述べたものかもしれない(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
※晩年の丘は周公,姫旦に関する夢を見なくなったことを嘆いている(『論語』述而篇)。当時は夢は重要視されており、丘はそれまで、旦の夢をことを、国政に携わるべきたという天の声だと捉えていたとも考えられる。丘は天の声が聞こえなくなったことに絶望していたとも推測される(湯浅邦弘「孔子」『神話世界と古代帝国』)。
・紀元前482年 晋と呉と魯が開明を行った。(『春秋左氏伝』)
※呉王,姫夫差は晋の定公,姫午と盟主の座を巡って争った。夫差は周の武王,姫発の大伯父を始祖とするため、晋の始祖よりも世代が上であることを理由に盟主になるべきだと主張しており、それが実際のものかは別として、互いに祖先伝承を確認しあっていたと考えられる。呉が周王室の血縁として認められたのは、楚の脅威に悩まされていた中原の諸侯たちが、呉に伝わる祖先伝承を承認することで、周王室の庇護者になってもらおうとしたことや、「未開」の地で崇められている支配者に、失われた王族の末裔を重ね合わせたからだと考えられる(佐藤信弥『古代中国王朝史の誕生』)。
※蔡の昭侯,姫甲は娘の大孟姫を呉王(夫差か)に嫁がせている(40蔡侯盤『殷周金文集成』10171)。嫁入りの際に父侯が持たせたと考えられる「40蔡侯盤」の銘文は呉王を「天子」と呼んでおり、秦侯以外にも「天子」と呼ばれた諸侯がいたことが理解できる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前482年 呉と越の戦争が再開した。
・紀元前5世紀前半 Graecia人のMyronは円盤投げ選手の青銅像を製作した。
※後に「Discobolus」と呼ばれる円盤投げ選手の像は、裸体である。Pausaniasの『Hellados Periēgēsis(Graecia案内記)』は褌を身につけない方が走ることに適していたことが、裸体で競技を行うようになったと記している(1巻44章1節)ほか、Mégaraで刻まれた碑文は、裸体Olympiaに参加して優勝した人物を称えている。Thukydidesの『Historia toυ Peroponnesiakoi Polemoi(戦史)』の冒頭においてはGraecia人が裸体で競技する習慣に言明し、非Graecia人よりも優れていることを主張しようとしている。ただ、後の時代には、Marcus Tullius Ciceroが、裸体による体育行為が成人男性と少年が性的関係を結ぶためにあるものだと言及している(『Tusculum荘談議』4巻70節)など、裸体による競技が利便性に由来するという見解には疑問が呈されており、Mégaraの詩人,Theognisが、体育競技に勤しみ、帰宅後には美少年と寝る男性を幸福であると言及していることなどからも(Theognis作品集2巻)、体育競技と性愛が結びついていることが指摘される(Robin Ozborn『ギリシアの古代』)。
・紀元前481年 斉の簡公,姜壬は田氏によって殺害された。
・紀元前480年 Haxāmaniš朝の遠征軍がGraeciaに侵攻した。
・紀元前480年 9.末 Graeciaの艦隊は、Salamis島とGraecia本土の間の海峡においてHaxāmaniš朝の艦隊に勝利した。
※強制的に徴収されたHaxāmaniš朝の軍は士気が低いうえに山の多いGraeciaの地形から大軍を展開させることが困難だった一方、先祖以来の地を守ろうとするGraecia軍は士気が高かった(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
・紀元前480年 斉において田氏は高氏を追放した。
・紀元前479年 Graecia軍はPlataiaiにおいてHaxāmaniš朝の遠征軍に勝利した。
※Graecia本土から、ほとんどの遠征軍は排除された。それまで脅威と感じていたHaxāmaniš朝に勝利したことで、Graecia人たちは自由を重んじる男らしい民族であるという自負を持つようになり、それに対して異民族は奴隷的で女々しいという、自民族中心主義が形成されるようになった(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
※Graeciaの戦艦378隻の内200隻を提供したAthēnaiは威信を高めることとなった(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
※海戦に船の漕ぎ手として参加していたGraeciaの下層民は、国政への関心を持ち始めた(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
※弟子たちは「三年の喪」に服したという。ここでの「三年」とは25ヶ月程度のことであり、実の親に対する最長の礼である。つまり、弟子たちは師に対して最上の礼を尽くしたのである(湯浅邦弘「孔子」『神話世界と古代帝国』)。
※『孟子』-滕文公上には、滕の群臣は滕にも魯にも「三年の喪」に服するという文化は存在しないと述べる箇所がある。そのため、「三年の喪」というのは、儒家によって定められた、それまでは存在しなかった礼制であるとも推測される(佐藤信弥『周』)。
※『論語』-学而篇・里仁篇には、父親が死去してから3年間父親の方針を変えないことは「孝」であるという丘の言葉が遺されている。西周代の金文に見える「孝」は、祭祀の場において祖先の霊や祭祀の参加者を酒や食物において饗応することを意味した(10虢姜簋蓋『殷周金文集成』4435,59殳季良父壺『殷周金文集成』9713)。しかし、儒家の思想においては生死に関わらず父母や直系祖先に対して奉仕することを意味する徳目として考えられる。当時は礼制に対して道徳的な意味付けを行うことが求められており、丘はそうした要請に応えていたのだと考えられる(佐藤信弥『周』)。
※『論語』-衛霊公篇には、丘の言葉を弟子の顓孫師(子張)が「紳」に書き留めたことが述べられている。「紳」とは礼服の帯のことであり、腰に巻いた余りの布に師は言葉を書き留めたのである。「紳士」とは礼服を着ることのできる身分の高い君子のことであり、そのため紳士の服は丈が長いものとなっている。『漢書』-芸文志によれば、弟子たちが丘から聞いたり、人に教えたり互いに語りあった「語」の書き置きを「論じて」選んだことから、丘の言行録は『論語』と呼ばれるようになったという(渡邉義浩『論語』)。
※竹簡は書きたい物事の文量に応じて、竹札の数を調整することが可能であり、また、その軽量さから持ち運びに適していたことから、丘の思想を他国に伝えるうえで大きな役割を果たしたと考えられる(湯浅邦弘「悠久の時を超える古代中国の思想」『神話世界と古代帝国』)。
・紀元前478年 Athēnaiを盟主として、Graecia諸Porisは同盟を結んだ。Delos同盟である。
※Haxāmaniš朝の脅威に対抗するための同盟である。諸Porisからは軍船と貢租金が納められることとなった。貢租金はDelos島の金庫に納められたが、金額の査定はAthēnaiに委ねられており、同盟財務官もAthēnai人から選出されたため、Athēnaiが他のPorisを従属させるような体制となった。貢租金は貨幣の形で徴収されており、Haxāmaniš朝の徴税制度との類似性が指摘される(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
・紀元前475年 楚軍は呉の都を包囲した。
・紀元前473年 呉王,姫夫差は自害した。
※夫差と越王,勾践の「臥薪嘗胆」の逸話は、逆転劇が繰り返された事実から、苦労と努力をしたのだろうという推測され、物語として創作されたと考えられる。実際のところは、呉と越の地域には集権的な権力がいなかったため、その場所の勢力は、その都度有利な側に味方したことが理由と考えられる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
※呉は急速に勢力を拡大したため、侵攻を防ぐための抵抗力を持ち合わせていなかったとも考えられる(宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』)。
※呉が北方で開拓した土地は楚、宋、魯の諸国が分割した。越は淮水水系の水運を獲得して、北方の諸侯への影響力を強めた(宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』)。
・紀元前468年 越と魯は同盟を結んだ。
・紀元前465年 越王,勾践は薨去した。
※勾践が世を去ったことにより、越は衰退していくことになる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前462年 AthēnaiにおいてPeriklesが実権を握った。
※Perikresの政体は、自由人であれば誰もが国政参加できる直接民主制であった。立身出世を望む市民は民衆に対して説得力のある弁論を行う能力を求めた。その結果、弁論術(rhetorike)を習得しようとする機運が高まり、Sophistēsが活躍するようになった。「知恵ある者」というその名の通り、彼らは天文学や幾何学にも明るく、諸国を巡りながら青年に教育を施しては報酬を貰っていた(桑原直己『哲学理論の歴史』第1章)。
・紀元前458年頃 29歳になったGotama Siddhatthaは、善を求めて、妻子を残して出家したという。(『大般涅槃経』『長部経典』16)
※出家というのは世を捨てることではなく、俗世から離れて森で生活する修行者の集団の一員となることである(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
・紀元前458年頃? Gotama Siddhatthaは、行者,Ālāra Kālāmaの下で瞑想修行を行った。(『聖求教』)
※輪廻転生の原因である、karman(行為、業)を引き起こすのは欲望と考えられていた。karmanを引き起こす感情や思考を停止すれば、解脱できると考えたのである。しかしSiddhatthaは師の説いた境地に達したが、満足することは出来なかった(今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』)。
・紀元前457年頃? Gotama Siddhatthaは、Uddaka-Rāmaputtaの下で瞑想を学んだ。しかしそれに満足せず、5人の修行者と共に苦行を行った。
※瞑想を行えば、感情や思考を停止し、欲望が起こることはない。しかし、瞑想を止めれば元の状態に戻ってしまう。そこでSiddhatthaは、体を虐待して心を鍛え、欲望を抑える方法として苦行を選んだのである(今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』)。
・紀元前454年 AthēnaiのPerikresはDelos島にあったDelos同盟の金庫をAthēnaiに移した。
※金庫をHaxāmaniš朝に奪われることを恐れたことが理由である。貢租金の60分の1はAthēnaiの国庫に納められるうになった(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
※Athēnaiはさらなる財力を手に入れ、それを元手にParthenon神殿が建てられている(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
・紀元前451年 Athēnaiでは市民権法が成立し、両親がAthēnai市民でなければAthēnai市民になれないことが規定された。
※これにより、Athēnaiの身分は閉鎖的となった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
・紀元前451年頃? Gotama Siddhatthaは、苦行で悟ることは出来ないと理解し、Magadha国のセーナー村にある、菩提樹の下で瞑想した。その結果、buddha(目覚めた者)になったという。
※buddhaというのは人を指す場合は固有名詞であるが、その他では「覚った」という形容詞として用いられる。budhという「覚る、気づく、知る」ことを意味する語幹に、過去分詞を標示する接辞taが付いた過去分詞形である。Saṃskṛt文法においては、有声有気音(budh)にtが接続されることで、有声無気音(bud)にdh(有声有気音)へと変化する。この規則はbuddhaが代表的であるため、「buddhaの規則」とも称される(赤松明彦『サンスクリット入門』)。
※実際はある時点で突然悟りに至ったのではなく、人々に自分の考えを話している過程で「仏教」的世界観を形成したとも考えられる(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
※「 Māra samyutta」においては、苦行の実行を止めたことを、清浄に達する道を逸脱したと悪魔から揶揄されるが、Siddhatthaは苦行は無益だと反論したと語る。悪魔の主張は苦行を重視するJaina教の批判を代弁するようなものになっている(佐々木閑『ごまかさない仏教』)。
〔参考〕律蔵「Mahā-vagga(大品)」によれば、悟ったSiddhatthaは、全ての存在に原因があることを理解し、煩悩が断たれたた旨を述べたという。
〔参考〕『Dhammapada』153・154偈によれば、Siddhatthaは、輪廻の原因は渇望であると理解し、一切智者となって輪廻する渇望を捨てた旨を述べたという。
※Siddhatthaは、「有る」と「無い」という両極端を離れ、「中」によって法を説いた。無知(無明)を原因として意思的作用(行)が、行を原因として認識(識)が、識を原因として名称と形態(名色)が、名色を原因として認識器官(六処)が、六処を原因として接触(触)が、触を原因として感受(受)が、受を原因として渇愛(愛)が、愛を原因として執著(取)を原因として生存(有)が、有を原因として誕生(生)が、生を原因として老い、死、愁い、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みが生じると説いた(『相応部経典』12章15経)。そうした「縁起」という原因と結果の繰り返しが輪廻を生んで苦しみの原因となると主張し、恒常不変のアートマンが輪廻していることを否定したのである(清水俊史『ブッダという男』)。
※Khuddaka Nikāya(小部)経典「Udāna(漢:自説教)」やSaṃyutta Nikāya(相応部)経典「大釈迦牟尼瞿曇」では「縁起」の支部は 『Dhammapada』が述べるものと同じく12である。他の経では支部の数が異なることもあるが、観想による悟りの過程は確実だと思われる。『Sutta Nipāta』862~877偈は縁起説の一つではあるが、他の縁起説との関連性は不明である。また、十二支縁起は後の時代に整理されたものであって、それ以前は様々な縁起説があったと考えられる(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
〔参考〕『相応部経典』22章59によれば、Siddhatthaによる最初の説法は、「無我」を説くものであったという。
〔参考〕『相応部経典』56章11によれば、Siddhatthaによる最初の説法は、「四諦」についてのものであったという。
・紀元前451年頃 Buddha,Gotama Siddhatthaは SāriputtaとMoggallānaを弟子にした。(『律蔵』「Mahā-vagga (漢:大品)」)
※「Mahā-vagga」は悟りを得たところから始まり、250人が弟子になったところで終わる。この最古の仏伝は仏教の成立までを述べるために書かれたのであり、Siddhatthaの生涯を語るものではなかった(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
※Siddhatthaは悟りを開いた直後は自分が悟ったことで十分であると考えていたが、その後他人に自分の経験を伝えて生の苦しみに苛まれる人々を救おうとしたのである。利己主義者から「慈悲」の人になったと考えられる(佐々木閑『「律」に学ぶ生き方の智慧』)。
・仏教徒を意味するSaṃskṛtのbauddhaは、buddhaの母音がuからauに変化したものである。このような母音交替は、印欧語の特徴である(赤松明彦『サンスクリット入門』)。
・紀元前451年以降? Buddha,Gotama Siddhatthaは出家集団saṃghaを結成した。
※ saṃghaとは4人以上が修行のために集まって集団生活を送る組織のことである。男性出家者Bhikkhu(漢:比丘)と女性出家者 Bhikkhunī(漢:比丘尼)がいたが男女が混ざって生活することは容認されない。saṃghaの漢訳である「僧伽」から、Bhikkhu個人のことを「僧/僧侶」とも呼ぶようになる。 saṃghaにおける規則を規定する法体系がVinaya(律)である。Vinayaは男女どちからか出家者4人以上によって形成が可能となり、特定の領域(sīmā/漢:界)を決定( sīmābandha/結界)し、その範囲内で適用される。 saṃghaから saṃghaへの移動の際には単独行動が可能となるが、単独行動時の規定にも従う必要がある(佐々木閑『「律」に学ぶ生き方の智慧』)。
※ saṃghaにおいて集団生活が規定されるのは、師から弟子へ効率良く教えを伝えることができることや、老化なので弱った構成員を他の者が扶助し、健康を損ねても修行を継続可能にするという利点があったことが理由と考えられる。また、掃除や選択といった雑務を分担することで、修行に専念できるということも利点として挙げられる。心の改良は精神集中によって行われるため、労力を可能な限り排除する必要がある(佐々木閑『「律」に学ぶ生き方の智慧』)。
※「Mūlasarvāstivāda vinaya(根本説一切有部律)」では出家者個人が資産を持つことは禁じられるが、saṃghaが基金を保有することは認めており、在家に貸し付けて利息を取ることが推奨されている。saṃghaは質素倹約を目的とするのではなく、修行に専念するために生活を効率化することを目的としていたことを示すと考えられる(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
※saṃghaにおいては一切の生産活動が禁じられる。そのため生活するにおいては大樹の下や洞窟などに住み、衣服は捨てられた端切れなどを拾い集めて布にして纏うこととなる。また、食事に関しては一般社会に生きる人々から余り物をもらう托鉢という行為を行うこととなる。つまり、一般社会に完全に依存する集団である。そのため、出家者としては一般人から食料を恵んでもらえるような尊敬される姿が求められる。僧侶的な振る舞いの分からない新参者が集団にいても集団全体が一般社会からの不評を買わないためにも、守るべきものとしてVinayaが必要となる。Vinayaには禁止事項を列挙したPātimokkha(漢:波羅提木叉)とその説明を述べたSutta-vibhanga(漢:経分別)があり、集団構成員は先に前者を学ぶこととなる(佐々木閑『「律」に学ぶ生き方の智慧』)。
※仏教出家者から在家への説法は布施を行い戒律を守れば来世は「天」に生まれ変われるということであり、縁起といった教義ではなかった。古層の仏典では布施による果報が説かれている。布施を行う対象が立派であるほうが見返りが大きいという「福田思想」を踏まえて、衆人の欲望を引き受けるように集団を形成したとも考えられる(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
・紀元前451年以降? 〔参考〕Buddha,Gotama Siddhatthaの弟子のSuddinahは、両親から跡継ぎを残すことを求められ、出家前に結婚していた女性と性交渉を行い、子供を儲けたという。Siddhatthaは、出家集団内で同様の事案の発生を防ぐために、性行為の禁止をSaṃghaにおいて規定したという。(『経分別』波羅夷第1条)
※出家者の性行為が禁じられるのは、性に関わることで精神の力が失われるというIndo社会の観念の元に成立したことが理由の一つにある。また、性的に潔白であることが尊敬される一要因である出家集団としては、社会に依存する生活を送る以上は性行為を容認できないのである。また、出家な年齢は15歳以上と決められており、自分の意志によって集団に属することとなる。集団内で生まれる子供は生き方を選べない立場にあり、人に一つの生き方を提示する組織としては、その内部に子供がいるのは不適当となる。そうした背景は、仏教に自分自身の価値観を選びとることを重んじる寛容さを生じさせたとも考えられる(佐々木閑『「律」に学ぶ生き方の智慧』)。
・紀元前450年~426年頃 Pazyrykに古墳が造営された(Pazyryk二号墳)。
※Pazyryk二号墳から出土した人骨にはMongoloidとCaucasoidの人骨が出土しており、人種の違いに関わらず同じSkythaiとして、遊牧民の価値観を共有していたとも考えられる(楊海英『逆転の大中国史』)。
・紀元前449年 Haxāmaniš朝とAthēnaiは和約を結んだ。
・紀元前445年 Yehud総督,Nəḥemyāhの監督下でYehud人はYerushaláyim神殿を再建した。(『Nəḥemyāh記』)
※Haxāmaniš朝のYehud人官僚,Ezraは、神殿完成後「Mōšeの律法の書」を朗読しており(『Nəḥemyāh記』8章)、Haxāmaniš朝がYehud人共同体への強い関与が窺える。Yehud人が他の民族と親しく関わることは禁じられながらも、伝統的生活を整えることを援助している。Haxāmaniš朝はYehud共同体の掟を知り、その拘束力を強めるためにその内容を文書として提出をEzraに求めたとも想像される。そうして、「Torah(掟の意)/Mōše五書」と総称される『Bərēʾšīṯ(創世記)』、『Šəmōṯ(出Aigyptus記)』、『Wayyīqrā(Lēwī記)』、『Bəmīḏbar(民数記)』、『Worte‘(申命記)』が成立したとも考えられる(加藤隆『キリスト教の本質』)。
※『Bərēʾšīṯ(創世記)』には、最初の人間であるʾAdamとḤavaが知恵と善悪を知ったことで、神の怒りを買って楽園Edenを追放されたとある。このような神話は、石器や農耕・牧畜・機織りといった技術を身につけてしまったことで、人間には忙しく働く必要が生じたという、新石器時代における変容が反映されているのとも推測される(樺山紘一『世界史への扉』)。
・紀元前441年 Lakedaimōn軍がAttikaに侵攻した。
・紀元前441年 Lakedaimōn軍はAttikaから撤退し、Athēnaiと和平を結んだ。
※AthēnaiとLakedaimōnは相互の勢力圏を承認し、AthēnaiはLakedaimōnの支配圏域外へと進出を企図するようになった(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
・紀元前440年 周の考王,姫嵬は弟,掲を王城に封じて周公に任じた(桓公)。
※かつての周公,姫旦の地位に相当するものだと考えられる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前431年 Athēnai派とLakedaimōn派のPelopónnisos同盟との間で戦争が始まった(Pelopónnisos戦争)。(Thukydides『Historia ton Peloponnesiakoi Polemoi』)
〔参考〕Thukydidesによれば、Athēnai勢力圏の強大化によってLakedaimōnは脅威を感じ、やむなく戦争を決断させたという。
※AthēnaiのPerikrēsはAkroporisを華美に飾ることを企図し、また新たな神殿の建立を進めていたため、繁栄するAthēnaiを警戒していたLakedaimōnとの間で戦争が勃発することとなった。Graeciaの諸porisはAthēnaiとLakedaimōnのどちらに味方するか選択を迫られることになった。AthēnaiはDēlos同盟に違反したpolisに制裁を加えるなど強権的な支配を行った(周藤芳幸『古代ギリシア 地中海への展開』)。
※Thukydidesは戦争の発端を、紀元前402年に起こったKorkyraとPotidaiaの紛争であるとするが、Athēnaiは紀元前400年に戦争準備を開始していたことがKallias決議の碑文から判明している。また、Lakedaimōnに友好的であったMégaraを商業圏から放逐したことも理由であったと推測される(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
※帝国的な性格を持つAthēnaiに対し、Spártāを中心とするポリス連合は嫌悪感を募らせていたことが根底にあったとも考えられる(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。
・紀元前431年 冬 Athēnaiにおいて、対Pelopónnisos同盟戦の戦没者の国葬儀礼が行われた。(Thukydides『戦史』)
※国葬においてはPeriklēsが追悼演説を行った。彼の演説は民主政(dēmokratía)を称えるものであり、敵国Lakedaimōnのような、情報を開示しない「秘密主義」を批判するものであった。Periklēsの語る民主制は、Athēnai市民にとっての伝統的な生活様式であり、家業においても国事においても市民は役割を果たすべきたという理念であった(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前430年 春 Athēnaiに疫病が蔓延した。
※Perikresも疫病によって死去し、変わってKleonが指導者となった(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
・紀元前422年 3. Aristophanēsの喜劇『雲』が上演された。
※この喜劇にはSōkrátēsが登場する。そこでのSōkrátēs像は、金さえ払えば、その内容に関わらず議論に勝つ方法を教えてくれるという人物である。当時の喜劇は、実在の人物や事件を、誇張して描くことが一般的であったため、SōkrátēsがSophistēsのような生活を送っていたと想定することもできる(木田元『反哲学史』)。
・紀元前422年 Athēnai軍はAmphiporis奪回のためにPelopónnisos同盟軍と交戦するが、指導者のKleonが戦死した。
・紀元前421年 AthēnaiとPelopónnisos同盟は和平を結んだ。
・紀元前420年代以降 Athēnaiの民会は同盟貢租金の査定額を増やし、同盟国に対して自身の貨幣の使用を強制することを決議した。
※民会決議碑文の年代は、それまで紀元前5世紀中葉頃とされ、同盟国に対する専制主義的な姿勢を示すものだと考えられた。しかし、碑文の製作推定年代が紀元前420年代にまで引き下げられたことで、対Pelopónnēsos同盟戦争が激化したことで戦費調達の必要性に迫られたための議決であると考えられる。それまでAthēnaiは、Delos同盟傘下の国に対して度量衡と貨幣の統一により、共通の市場を提供し、経済的利益を齎していたと考えられる(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
・紀元前415年 夏 Alkibiádēsの発案により、AthēnaiではSicilia遠征軍が編成された。(Thukydides『戦史』)
※Alkibiádēsは自身がOlympia祭で優勝した経験があることから、軍に命令するに相応しいと主張したが(Thukydides『戦史』)、それに対してある人物は、競技選手が敵軍と戦うに際してどのように役に立つのか疑問を呈した(Eurīpídēs『Autolykos』)。こうした競技選手への反発は、精神は肉体に優越するという観念が根底にあったからだと考えられる(Robin Osborn『ギリシアの古代』)。
・紀元前413年 AthēnaiのSicilia遠征は失敗した。
・紀元前413年 AthēnaiのPelopónnisos同盟は再び交戦した。
・紀元前411年 夏 Athēnaiの民主政が倒れ、四百人政権が成立した。
※戦費負担に苦しんだ、AthēnaiのPelopónnisos同盟との和平を望む富裕層に支持された寡頭政を望む人々によって成立した政権である。Pelopónnisos同盟との和平とHaxāmanišからの資金援助を期待されていたが、実現しなかった(橋場弦「展望 ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
・紀元前411年 秋 Athēnaiの四百人政権は崩壊した。
・紀元前410年 夏 Athēnaiは再び民主政となった。
※敗戦が確実視されるようになると、同盟国がAthēnaiから離反した。専制的な支配を嫌ったからではなく、味方になることで得られる経済的利益が見込めなくなったことが理由とも考えられる(橋場弦「ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
・紀元前409年 秦において吏は帯剣を許された。(『史記』六国年表)
・紀元前408年 秦において百姓に帯剣が許され、穀物に租税が課されるようになった。(『史記』六国年表)
※こうして秦の官吏と百姓は武装を許され、租税を介して繋がる、支配者集団と統治者集団を形成した(渡辺信一郎『中華の形成』)。
・紀元前407年頃 Gotama Siddhatthaは、鍛冶工,チュンダからの供物を食べた。しかしその後下痢を起こした。クシナーラという村にて、「形成されたものは、滅することを性質とする。怠ることなく成し遂げよ」という言葉を残し、死去した。(『大般涅槃経』『長部経典』16)
※『増支部経典』第3集第38経は、Siddhatthaが死というものが他人のものではなく「この私」の死であることを述べるものである。仏教というのは、老病死を自身の問題として実感する人にとって実際に必要になる宗教とも考えられる(佐々木閑 宮崎哲弥『ごまかさない仏教』)。
・紀元前407年 〔参考〕『晋書』「刑法志」によれば、魏の文侯,魏斯の臣である李克(悝)は『法経』を完成させたという。
※王の権威のみでは国の統治が不可能となったため、法による統治を説く者たちが登用されたと考えられる(佐川英治「秦漢帝国と漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。
※成文法の制定により、魏は富国強兵を成し遂げた(渡邉義浩『「中国」は、いかにして統一されたか』)。
・紀元前405年 秋 AthēnaiのPelopónnisos同盟は Aigos Potamoiにおいて交戦し、Pelopónnisos同盟が勝利した。
・紀元前404年 魏の文侯,魏斯は斉の田氏に勝利した。
・紀元前404年 魏の文侯,魏斯は、魯、宋、鄭を率いて周王に朝見した。(『繋年』)
※斯はかつての晋のような覇者体制を再び築くことを望んでいたと考えられる。しかし当時は独立した中小の諸侯が減少していたことや、楚が中原の文化を受容していたことで、野蛮な楚から諸侯を庇護するというかつての構図が戻ることはなかった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前404年 夏 AthēnaiはPelopónnēsos同盟に降伏した。(Xenophon『Hellēniká』)
※晋の覇権もAthēnaiの覇権も、敵対勢力を排除する見返りに中小国が貢納の義務を負うという形式で成り立っていた。覇権体制は敵が強すぎれば敗北して崩壊し、敵がなくても正当性を失って崩壊するものである(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前404年 Athēnaiに三十人政権が成立した。
・紀元前403年 周の威烈王:姫午は景候,韓虔、文候,魏斯、列侯,趙籍を候として承認した。
※こうして晋を支配していた勢力は解体された(渡辺信一郎『中華の成立』)。
※周王が自ら下克上を承認したことで、その権威は低下した。そのため司馬光の『資治通鑑』は、この時を境に春秋時代から「戦国時代」への転換とする(渡邉義浩『「中国」は、いかにして統一されたか』)。
※「戦国時代」とは、劉向の『戦国策』に因む名称である(佐川英治「中国王朝の誕生」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。
・紀元前403年 秋 Athēnaiの三十人政権は崩壊し、民主政に戻った。
・紀元前5~4世紀頃 日本列島の九州北部では甕棺墓が、近畿では木棺が埋葬に用いられるようになった。
※地域・集団ごとの死生観によって、埋葬方法や棺の種類が確立したと考えられる。葬儀を行うことや、自身が死んだ後に葬送されるといったことは、集団への帰属意識を示すものであったと考えられる(松本武彦『古墳とはなにか』)。