個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前500~400年

・紀元前497年頃 孔丘は官を辭して、魯を去った。(『史記孔子世家)

・紀元前495年 孔丘は衛に招かれた。(『史記孔子世家)

・紀元前492年 孔丘は衛の霊公,姫元に失望して去った。(『史記孔子世家)

・紀元前492年 孔丘は宋にて禮を実習していたが、司馬桓魋という者に殺されそうになった。(『史記孔子世家) 丘は「天生徳於予。桓魋其如予何(渡邉義浩訳:天は徳をわたしに授けた。桓魋ごときがわたしをいかにできるというのか)」の述べた。(『論語』述而篇 23)

〔参考〕鄭玄『論語注』は、「天生徳於予」を天が丘に聖性を授けて、法度を制作させようとしたのだと解釈する。

※この際の「徳」とは「力」に近い意味であり、丘は「天」より見守られているという自負と、この世に道徳を実現させようという意志を持っていたことを伺わせる(湯浅邦弘「孔子」『アジア人物史 1』)。

・紀元前492年 Haxāmaniš朝はMardonios率いる軍隊をGraeciaに派遣した。しかし艦隊は嵐に遭遇、Mardoniosも現地人に襲撃されて負傷。本国に帰還した。

・紀元前490年 Haxāmaniš朝の遠征軍の艦隊がGraeciaに派遣された。MakedoniaはHaxāmaniš朝に味方した。遠征軍はNaxos島とEretriaを占領、Graecia本土に上陸した。Marathṓn平野にて、Athēnai軍の重装歩兵は密集戦術(phalanx)を用いて遠征軍を退けた。

※このときの重装歩兵として参加した人々はGraeciaの富裕層であり、下層民は戦争への参加という実感はなかった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※Makedoniaがポリスの1つでありながらもBarbaroiと呼ばれたのは、Haxāmaniš朝に味方したことが理由とも考えられる(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・紀元前489年 Haxāmaniš君主,Dārayavaʰuš Ⅰは死去した。

・紀元前486年頃 Śākya国の君主,Gotama 姓のSuddhodanaは、子息Siddhatthaを儲けた。(『大譬喩経』『長部経典』14)

※485年頃の誕生という説は、リチャード ゴンブリッチの説による(リチャード ゴンブリッチブッダが考えたこと』)。

※とGotamaいう姓はPāḷi語で「最も優れた牛」、Siddhattha(saṃskṛt語で)Siddhārthaは「目的を成熟した(するであろう)者」という意味である(今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』)。

※Suddhodanaの妃の名であるMāyāや、子息の名Siddhatthaは後代の文献に現れるものである(馬場紀寿『初期仏教』)。便宜上、Siddhatthaと呼ぶ。

・紀元前480年 第2回Percia戦争が勃発した。Athēnai軍を中心としたGraecia軍は、Salamísの海戦にて勝利する。

※Salamísの海戦においては、船の漕ぎ手として参加していたGraeciaの下層民は、国政への関心を持ち始めた(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前478年 Haxāmaniš朝の脅威に対抗するため、Athēnaiを盟主として、Graecia諸ポリスは同盟を結んだ。Delos同盟である。

※盟主となったAthēnaiは力を伸ばした本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前462年 AthēnaiにおいてPeriklesが実権を握った。

※Perikresの政体は、自由人であれば誰もが国政参加できる直接民主制であった。立身出世を望む市民は民衆に対して説得力のある弁論を行う能力を求めた。その結果、弁論術(rhetorike)を習得しようとする機運が高まり、Sophistēsが活躍するようになった。「知恵ある者」というその名の通り、彼らは天文学幾何学にも明るく、諸国を巡りながら青年に教育を施しては報酬を貰っていた(桑原直己『哲学理論の歴史』第1章)。

・紀元前458年頃 29歳になったGotama Siddhatthaは、善を求めて、妻子を残して出家したという。(『大般涅槃経』『長部経典』16)

・紀元前458年頃 Gotama Siddhatthaは、行者,Ālāra Kālāmaの下で瞑想修行を行った。(『聖求教』)

※輪廻転生の原因である、karman(行為、業)を引き起こすのは欲望と考えられていた。karmanを引き起こす感情や思考を停止すれば、解脱できると考えたのである。しかしSiddhatthaは師の説いた境地に達したが、満足することは出来なかった(今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』)。

・紀元前457年 Gotama Siddhatthaは、Uddaka-Rāmaputtaの下で瞑想を学んだ。しかしそれに満足せず、5人の修行者と共に苦行を行った。 

※瞑想を行えば、感情や思考を停止し、欲望が起こることはない。しかし、瞑想を止めれば元の状態に戻ってしまう。そこでSiddhatthaは、体を虐待して心を鍛え、欲望を抑える方法として苦行を選んだのである(今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』)。

・紀元前454年 DelosにあったDelos同盟の金庫がAthēnaiに移った。

※そのためAthēnaiはさらなる財力を手に入れ、それを元手にパルテノン神殿が建てられている(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前451年 Athēnaiでは市民権法が成立し、両親がAthēnai市民でなければAthēnai市民になれないことが規定された。

※これにより、Athēnaiの身分は閉鎖的となった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前451年頃 Gotama Siddhatthaは、苦行で悟ることは出来ないと理解し、Magadha国のセーナー村にある、菩提樹の下で瞑想した。その結果、buddha(目覚めた者)になったという。

〔参考〕律蔵「大品」によれば、悟ったSiddhatthaは、全ての存在に原因があることを理解し、煩悩が断たれたた旨を述べたという。

〔参考〕『Dhammapada』153・154偈によれば、Siddhatthaは、輪廻の原因は渇望であると理解し、一切智者となって輪廻する渇望を捨てた旨を述べたという。

※Siddhatthaは、「有る」と「無い」という両極端を離れ、「中」によって法を説いた。無知(無明)を原因として意思的作用(行)が、行を原因として認識(識)が、識を原因として名称と形態(名色)が、名色を原因として認識器官(六処)が、六処を原因として接触(触)が、触を原因として感受(受)が、受を原因として渇愛(愛)が、愛を原因として執著(取)を原因として生存(有)が、有を原因として誕生(生)が、生を原因として老い、死、愁い、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みが生じると説いた(『相応部経典』12章15経)。そうした「縁起」という原因と結果の繰り返しが輪廻を生んで苦しみの原因となると主張し、恒常不変のアートマンが輪廻していることを否定したのである(清水俊史『ブッダという男』)。

〔参考〕『相応部経典』22章59によれば、Siddhatthaによる最初の説法は、「無我」を説くものであったという。

〔参考〕『相応部経典』56章11によれば、Siddhatthaによる最初の説法は、「四諦」についてのものであったという。

紀元前431年 Athēnai派とSpártā派の諸ポリスの間で戦争が始まった(Pelopónnisos戦争)。

※帝国的な性格を持つAthēnaiに対し、Spártāを中心とするポリス連合は嫌悪感を募らせていたことが根底にあった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前422年 3. Aristophanēsの喜劇『雲』が上演された。

※この喜劇にはSōkrátēsが登場する。そこでのSōkrátēs像は、金さえ払えば、その内容に関わらず議論に勝つ方法を教えてくれるという人物である。当時の喜劇は、実在の人物や事件を、誇張して描くことが一般的であったため、SōkrátēsがSophistēsのような生活を送っていたと想定することもできる(木田元『反哲学史』)。

・紀元前415年 Alkibiádēsの発案により、AthēnaiではSicilia遠征軍が編成された。(Thukydides『戦史』)

・紀元前409年 秦において吏は帯剣を許された。(『史記』六国年表)

・紀元前408年 秦において百姓に帯剣が許され、穀物に租税が課されるようになった。(『史記』六国年表)

※こうして秦の官吏と百姓は武装を許され、租税を介して繋がる、支配者集団と統治者集団を形成した(渡辺信一郎『中華の形成』)。

・紀元前407年頃 Gotama Siddhatthaは、鍛冶工,チュンダからの供物を食べた。しかしその後下痢を起こした。クシナーラという村にて、「形成されたものは、滅することを性質とする。怠ることなく成し遂げよ」という言葉を残し、死去した。(『大般涅槃経』『長部経典』16)

・紀元前407年 〔参考〕『晋書』「刑法志」によれば、魏の文侯,魏斯の臣である李克(悝)は『法経』を完成させたという。

※王の権威のみでは国の統治が不可能となったため、法による統治を説く者たちが登用されたと考えられる(佐川英治秦漢帝国漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※成文法の制定により、魏は富国強兵を成し遂げた(渡邉義浩『「中国」は、いかにして統一されたか』)。

・紀元前403年 周の威烈王:姫午は景候,韓虔、文候,魏斯、列侯,趙籍を候として承認した。

※こうして晋を支配していた勢力は解体された(渡辺信一郎『中華の成立』)。

※周王が自ら下克上を承認したことで、その権威は低下した。そのため司馬光の『資治通鑑』は、この時を境に春秋時代から「戦国時代」への転換とする(渡邉義浩『「中国」は、いかにして統一されたか』)。

※「戦国時代」とは、劉向の『戦国策』に因む名称である(佐川英治「中国王朝の誕生」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。