個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前1000~800年頃

・紀元前980年? 〔参考〕周の昭王,姫瑕は、即位16年に楚を攻めたという。(『竹書紀年』)

〔要参考〕「24京師畯尊」「29胡応姫鼎」「50史墻盤」には瑕が漢を渡って楚を征伐したとある。従軍した過伯は銅を手に入れた。(24過伯簋)

※「24過伯簋」から、遠征の目的は銅資源の確保、もしくは銅資源を中央に運搬するための道の確保であったと考えられる。ただ、この「楚」が候国の楚であるのか楚(候国)を含む地域全体かは不明である(佐藤信弥『周』)。

・紀元前996年? 周の昭王,瑕は長江流域の巡狩(視察)から戻らず崩御した。(『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)

・紀元前996年? 姫満が周王として即位した(穆王)。(『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)

※満が王になって以降、周の拡大は停止した。先代,昭王が崩御した際の状況の記録はないものの、拡大を断念するほどの損害を被ったとも推測される(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・937年 姫囏が即位した(懿王)。(『史記』周本紀)

・937年 6.? 周の懿王は、即位1年の日、師虎に赤い靴を与えた。(師虎簋『殷周金文集成』4316)

※官職を象徴する物品を与える「柵命儀礼」である。土地や高級品を外部から供給する必要がなくなり、官職は生涯有効であったため、一度物品を贈れば、奉仕の度に与える必要もなくなった。こうして賜与儀礼よりも上下関係の継続性が高まった。官職が世襲されたことで、周には貴族制が成立する(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前9世紀中頃 世界的気候変動が起こり、半砂漠だった地域は草原となった。草原地帯による乗馬のはじまりもこのころからである(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・紀元前約930年 イスラエル君主国は北イスラエル君主国と南ユダ君主国に分裂した。(『ネイビーム』「歴代誌 下」)

・紀元前887年 姫辟方が周王として即位した(孝王)。(『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)

・紀元前885年 周の孝王,姫辟方は崩御した。(『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)

・紀元前884年 姫燮が周王として即位した。(『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)

・紀元前878年 周の夷王,姫燮が崩御し、胡が即位した(厲王)。(『史記』周本紀,朱鳳瀚修正西周年表)

〔参考〕『史記』「周本紀」によれば、燮は栄夷公を重用し暴虐であったため、国人は燮を謗ったという。

※厲王の時代には、「栄伯」という人物が儀礼を行っている。栄伯は佞臣,栄夷公の逸話の原型になったと考えられるが、彼は卯という人物に家産を治めさせるという冊命儀礼を模倣した行為をするなど(卯簋蓋『殷周金文集成』4327)、周王と権力闘争を行っていたようである。卯簋蓋の作成者は家産管理人の卯であることから、栄伯のような大貴族の家臣は、中小貴族と同等の経済力を有していたことが推測される(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前842年 周の厲王,姫胡は、諸侯に追放された。(『史記』周本紀 )

※領域の拡大を停止させたことで、周王の権威が弱まったのであり、それを回復させるために遠征を繰り返していた(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※軍事指導者としての王の権威を強化しようとするも、それを疎まれたのだと考えられる(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※『史記』は周の定公と召の穆公,姫虎が「共に和して」政治を行ったため「共和」の時代が始まったとする。しかし『竹書紀年』は共和伯(師龢父)が王の政務を代行したとある(吉本道雅『概説 中国史』)。

・紀元前807年 周の宣王,姫静は、王子,友を鄭に封じた(桓公)。

・紀元前8世紀 ギリシア人はイタリア半島にも居住した(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※半島南部はマグナ・グラエキア(偉大なギリシア)と呼ばれるようになる。ギリシア人はタレントゥムやシュリバス、ナポリやキュメーを建設した。シチリア島にはシラクサやアクラガスが作られた。ラティウム地方に隣接するキュメーは、ローマにギリシア文化を伝えることになる(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。