個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前349~300年

・紀元前3世紀半ば このころ、サルマタイという勢力に圧迫され衰退していたスキュタイ勢力は、完全に解体したと思われる。

※文献がないため、解体に至る経緯は不明である。サルマタイは南ラスィーヤ高原を支配した。遺跡や遺物からして、スキュタイに似た国家構造を形成していたと考えられる(杉山正明遊牧民から見た世界史』)。

紀元前347年 プラトンは死去し、彼の甥,スペウシッポスが新たなアカデメイアの学頭になった。

・紀元前347年 アリストテレスアカデメイアを離れてアッソスに赴いた。

※スペウシッポスが学頭になったことと、アリストテレスアテナイを離れたことに関連性があるかは不明である。アリストテレスは当時30代であり、少なくともアカデメイアを継承することは想定されていなかったと思われる。アッソスに滞在中とその後数年、彼は動物の研究を行った。プラトンは人間との比較として動物を考察したが、アリストテレスは動物そのものを研究しており、深い関心が伺える(山口義久アリストテレス入門』)。

・紀元前343年 マケドニア君主,ピリッポスはアリストテレスを招き、自身の子息,アレクサンドロスの家庭教師にした。

・紀元前339年 アルゲアス朝君主,ピリッポスⅡはスキュタイと戦い、その君主,アタイアスを敗死させた。(ストラボン『地理誌』)

・紀元前338年 秦の王として、趙駟が即位した(恵王/恵文王)。

※駟が王の時代、秦は対立していた北方の義渠の、25の城を奪ったという。

・紀元前338年 アルゲアス朝マケドニアは、アテナイとテーバイの連合軍をカイロネイアの戦いにて破った。

・紀元前337年 アルゲアス朝君主,ピリッポスⅡはギリシア諸ポリスの代表者をコリントスに集め、ヘラス同盟を結成しその盟主となった。

※彼はその同盟を率いて、ハカーマニシュ朝ペルシアを攻撃することを考えていた(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前335年 アリストテレスはリュケイオンに学園を開いた。

・紀元前334年 斉と魏は、互いの君主が王を名乗ることを承認した。

華北の諸侯が王号を使用するようになり、周王は諸王の中の1人となってその権勢は衰えた(渡辺信一郎『中華の成立』)。

・紀元前333年 アルゲアス朝君主,アレクサンドロスⅢは、マケドニアギリシアの連合軍4万を率いて小アジアに渡り、ハカーマニシュ朝ペルシアと交戦し、ダレイオスⅢを敗走させた。

・紀元前330年 マケドニアに攻め込まれ、ハカーマニシュ朝は滅んだ。

※ハカーマニシュ朝がかつて築いた、「王の道」を逆に利用される形で攻め込まれたのである(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・紀元前322年 趙において、趙雍が即位した(武霊王)。

〔参考〕雍は配下の兵士に胡服を着させ、騎乗したまま弓を射る技術を習わせたという。蔑んでいた異民族の服装は、政権内に反対する者もいた。しかし雍は改革を断行し、中山国を併合することに成功したとされる(『史記』)。

※趙は「中国」でも強国だったが、それでも遊牧の夷狄に対抗するには、その模倣をするしかなかった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

※騎馬戦術を導入した趙は強国となった。すると趙と敵対する国も騎兵を採用するようになった。中原諸国の戦争は激化し、「中国」の統一を促した(杉山正明遊牧民から見た世界史』)。

・紀元前320年 ChandraguptaはMaurya朝を興した。

※Chandraguptaは明確な出自が不明であり、brāhmaṇa階級からもKṣatriyaとは認められていなかった。しかし、Alexandros Ⅲが侵攻した後のIndusの混乱期において、強大な王権こそが戦乱を平定することを示すこととなった。Maurya朝の勃興以降、Indusの王権は強化された(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・紀元前319年頃 孟軻(孟子)は魏の恵王,姫罃に面会した。

※戦国時代以降、竹簡や帛に文字を書くことが多くなった。それらの文字からは、統一された筆記体が次第に形成されていったことが窺える。共通した文字が用いられたことで、多くの思想家が諸国を遊説しながら自説を伝え、それを他者が記録することが可能になったとも考えられる(伊藤道治『古代中国』はじめに)。

・紀元前317年頃 孟軻(孟子)は斉の宣王,嬀辟彊と面会し、客卿となった。

・紀元前312年 Romaは市民を総動員して、カプアとの間にアッピア街道を建設する。

・紀元前307年 秦にて趙渠梁が王として即位した(昭王/昭襄王)。渠梁は幼く、その母宣太后が摂政として政治を行った。

〔参考〕宣太后は義渠の王と密通して2人の子を儲けたが、後にその王を誘い出して殺害したという。

※義渠の王を殺害するための策謀とすれば、悠長なものである。実際は、成長した渠梁が母の密通に気付き、異父弟という競合者の出現を防ぐために、母の名を騙っておびき出し、殺害したとも推測される(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

西戎の変種とも見なされた秦であったが、義渠の領地を併合したことで版図を拡大し、大国となった(杉山正明遊牧民から見た世界史 増補版』)

・紀元前305年 セレウコスⅠは、アレクサンドロスⅢの東方領土の獲得を目指し、マウリヤ朝君主チャンドラグプタと争うも敗れ、講和した。セレウコス朝は戦象500頭を貰い、マウリヤ朝インダス川西方を獲得した。