個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前149~100年

・紀元前149年 殲滅を目的として、ローマはカルタゴを攻めた(第3次ポエニ戦争)。3年後、カルタゴが破壊され、町は火に包まれて戦争は集結した。カルタゴの総人口約50万人の内、生き残った約5万5000人は奴隷として売られた。

・紀元前149年 マケドニア君主の子息を僭称する、アンドリスコスがマケドニアを占領した。ローマはそれを破って、マケドニアを属州とした。

・紀元前147年 アルシャク朝パルティアは、メディア地方を獲得した。

・紀元前146年 ローマは、ギリシアのアカイア連邦を破った。ローマはコリントスを破壊し、ギリシア本土を属州アカエアと定めた。

・紀元前146年 ローマは都市カルタゴを破壊した。

※ローマはカルタゴの支配していた地中海を掌握し、フェニキア人やカルタゴ人が開拓したルートを用いて政治的影響力を拡大させた(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・紀元前141年 この年以降、アルシャク朝パルティアは、メソポタミア支配下に収めた。

※アルシャク朝が西アジアにおいて力を持ち、セレウコス朝の領土はシリアに限られた(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前140年頃 ユダ(マカベア)の後継者たちによる、ハスモン朝が立てられた。

・紀元前139年 月氏からの求めに応じて、漢の武帝,劉徹は月氏と同盟を結び、匈奴を挟撃することにした。そこで張騫を使者として派遣した。騫は匈奴に捉え拘留されたが、匈奴単于から妻を与えられた。

・紀元前135年 匈奴から漢に使者が訪れ、和親を求めた。王恢は、匈奴は和議を結んでも数年もせずに約束を破って攻め込んでくるとして、匈奴を討つべきと主張した。対して韓安国は匈奴は捕らえることが困難であり、戦争で疲弊してしまうとして、和親に応じるべきと述べた。それには多くの群臣が賛同した。結果として、武帝,劉徹は和親を受け入れた。

※恢は辺境の役人として活動しており、匈奴のことを熟知していた。しかし当時の徹は若く、多くの群臣に反対して戦争を決めることが困難であったと考えられる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前134年 馬邑の豪族,聶壱は漢の武帝,劉徹に言上し、和親を結んで安心している匈奴を誘い出し、伏兵で攻撃すれば勝てるだろうと伝えた。

・紀元前133年 ティベリウス グラックスは、中小の農民に対して公有地を分配しようとした。

※これは、農民が窮乏することで、ローマの国防力が弱まるのを防ぐためである。しかし、この改革は元老院の反対により挫折した(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前133年 聶壱は匈奴に至って、馬邑の上層部の者を殺し、城ごと匈奴に降伏すると伝えた。匈奴軍は略奪をしながら馬邑の手前まで来たが、家畜がいるのに牧人が居ないことを怪しんだ。そこで尉史を捕らえて漢の作戦を白状させた。そして匈奴軍は引き返した。

・紀元前133年 ローマはヌマンティアを降伏させた。

・紀元前123年 ティベリウス グラックスの弟、ガイウスは、護民官となった。

※ガイウスは元老院勢力と対立し、その勢力を抑えるために、騎士身分を登用した(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前129年 張騫は部下を連れて匈奴の下から脱出し、大苑に至った。

・紀元前129年 漢の武帝,劉徹は、兵を派遣して匈奴を攻撃したが、破れた。匈奴の数千人は漢の漁陽に侵入した。

・紀元前129年 漢軍と匈奴軍が交戦した。

・紀元前128年 張騫は大苑に月氏に至る道案内をしてもらい、大月氏の君主に会って、同盟を持ちかけたが、それは拒否された。

※このころ大月氏大夏(トハラ)を支配しており(『史記』大宛伝)、新たに手に入れた土地は豊かであった。移り住んだ先の領土は漢からも遠く、既に匈奴に復讐したいという気もなくなっていたのである(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前127年 漢軍は隴西にて匈奴を破った。漢は黄河の南側を獲得し、造陽を匈奴に与えた。

・紀元前127年 張騫は大月氏の土地から帰還することになった。しかし、羌の領内を通過する際に、再び匈奴に捕らえられ、拘留された。

※羌は匈奴と密接に連絡をしていたとも考えられる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前126年 匈奴の軍臣単于は死去した。その弟伊稚斜は、軍臣の子息於単を破り、自ら単于になった。於単は漢に亡命した。

・紀元前126年 匈奴の後継者争いに乗じて、張騫は匈奴の領内から脱出して漢に帰還した。

※同盟はならなかったものの、漢の西方(「中華」にとっての西域)たるオアシス地帯の事情を知ることができた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※張騫がもたらした、大苑にいるという、血のような汗をかく良馬,汗血馬の情報は、匈奴に勝つための馬を欲していた武帝,劉徹に、大苑への遠征を決定させることになる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前125年 匈奴は漢を攻め、代、定襄、上郡にて殺戮を行った。

・紀元前124年 漢は100000の兵を率いて匈奴を攻撃し、多くの捕虜と家畜を得た。

・紀元前121年 漢は匈奴を攻め、祁連山を奪った。

・紀元前121年 漢との戦いで多くの匈奴兵を失ったことで、単于は怒り、それを率いていた渾邪王と休屠王を処刑しようとした。それを恐れた2人は、多くの匈奴人と共に漢に投降した。

※これは匈奴にとって大きな打撃を被った(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前119年 漢は匈奴を攻め、単于を敗走させた。

単于の生死が不明となり、右谷蠡王が単于を称したが、単于が生きていたことが分かったので単于位を返上した。それほどまでに混乱があった。漢も多くの犠牲を出し、それ以上侵攻はしなかったが、黄河の北にまで領土を拡大させた(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前119年 漢は烏孫との同盟のために、張騫を烏孫に派遣した。

※直接匈奴を攻撃するよりも、匈奴に従属している烏孫を離反を画策したのである(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前119年 漢において、塩と鉄は国家の専売制となった。

※これは大規模な匈奴への遠征により、多額の出費があり、財政破綻寸前だったことによる。そのため専売制を導入して、収益を財政に宛てたのである(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前115年 張騫は、烏孫との同盟には良い返事を貰えなかったが、烏孫からの使者とともに漢に帰還した。

※これ以降、オアシスの道を通して、西方よりブドウ、ウマゴヤシ、ナツメなどが入ってくるようになる(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前115年 漢は禁輸法を施行した。

・紀元前111年 漢は匈奴から奪った甘粛地方に、敦煌郡などを置いた。

※甘粛地方に植民を行って税収を増やし、遠征軍や駐屯軍に食糧を供給する起点になることを期待されてのものである(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

匈奴は北方に追いやられたことで、オアシスの道を手放すことになり衰退した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前111年 漢は越南を滅ぼし、広東地方に南海郡、ヴェトナム北部に交趾郡、中部に日南郡などを設置した。

※こうして漢は南海交易の利益の独占を図った。漢の南海交易は東南アジア現地の人々のネットワークに依存していたが、自らの力でインドまで到達する商人もいた。(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前111年 ローマにおいて、土地法が制定された。これにより、有力者が所有する土地の多くは私有地として認められた。

※これにより、土地を再分配して中小農民に与えるというガイウス グラックスの提案は不可能になった(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前110年 漢は平準法を施行した。

※漢は大商人の利潤を抑え、その分を財政に宛てた。増税も行って民の生活は苦しくなったが、再び大規模な遠征を行うことができるようになった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前108年 桜蘭は漢に降伏した。匈奴が桜蘭を攻めると、桜蘭は2人の君主子を、それぞれ匈奴と漢に差し出した。

・紀元前108年 漢の武帝,劉徹は、衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪郡を設置した。その後、倭の内の30国程が漢に使者と通訳を遣わした。倭の首長は各々「王」を名乗り、世襲制であった。(『後漢書東夷伝 倭伝)

〔参考〕『説文解字』によれば、「倭」は柔順という意味を持つ。

※「倭」とは、「中国」から見て朝鮮半島の南の、海を隔てた地域(ないしは国)を差して、従順の意で呼んだと考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

〔参考〕昔、「倭傀」という名の醜女がいたとして、「倭」は醜いという意味だという説もある。しかし、『文選』巻51「漢・王襃「四子講徳論」」の李善の注には、所見が明らかでないとして、疑義を呈する。

〔参考〕『釈日本紀』と『日本書紀纂疏』は、「倭」は「吾」「我」が転じたものと考証する。

〔参考〕『異称日本伝』は、「倭」は人・女性に従うという意味を持っており、女性が統治するという伝聞から用いられたと考証する。

※「吾」「我」が転じたという説や、女性に従うという意味という説は、全くの憶測とされる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

楽浪郡を置いたのは、東部の匈奴を攻撃するための、拠点を確保するためである。楽浪郡朝鮮半島の韓人、日本列島の倭人の窓口にもなった。(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前105年 烏孫の君主は漢の公主を娶った。

※漢より帰還した使者から、漢の裕福さを聞いたことが、同盟のきっかけとなった。こうして次第に、匈奴から服属国は離れていった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前104年 漢は大苑に遠征軍を派遣した。