個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前199年~150年

・紀元前2世紀以降 『マヌ法典』が成立した。

※『マヌ法典』はインドにおいて歴史形成の要因の一つとして求められた法典でありながら、インド自体は「どんな歴史ももたない」とも評される(ゲオルク ヘーゲル『世界史の哲学』1830~1831序論)。

・紀元前198年 漢と匈奴は、漢を兄、匈奴を弟とすることで和解した。冒頓単于は漢の公主を妻に迎え、絹製品や酒、米などを漢から送らせることが条件として取り決められた。

※漢側としては、裕福な兄である漢が、気候の厳しい土地にすむ、不憫な弟匈奴に施しを与えるという理屈で和約を結んだ(林俊雄「冒頓単于」『アジア人物史 1』)。

※結局、皇帝の実の娘が嫁ぐことはなく、劉一族の女性を公主ということにして、冒頓に嫁がせた(林俊雄「劉邦」『アジア人物史 1』)。

※漢において政治的混乱があっても、関心を内政に向け続けられたのは、匈奴のよる安全保障があったからとも考えられる(杉山正明遊牧民から見た世界史 増補版』)。

・紀元前195年 燕王,盧綰は匈奴に使者を送った。匈奴側からの提案で、綰は匈奴との連合を構想した。

※漢の皇帝,劉邦は劉一族以外の王(異姓王)を警戒し、失脚させるなどしていたが、疑心暗鬼になった異姓王たちには、匈奴との関係を持つ者が現れたのである(林敏雄「劉邦」『アジア人物史1』)

・紀元前195年 匈奴と内通した疑いで、漢の皇帝,劉邦は燕王,盧綰を召喚しようとした。しかし綰は一族郎党と共に匈奴に亡命した。

匈奴に亡命した多くの「中国」人は、単于に政治顧問として登用され、匈奴の統治制度や軍隊の組織化に寄与した。イェニセイ川上流域の匈奴による漢様式の宮殿は、「中国」人高官が住んでいたかもしれない(護雅夫ほか『北アジア史』)。

・紀元前195年 劉邦は死去し、皇后,呂雉は太后となった。

・紀元前192年 匈奴冒頓単于は漢の皇太后,呂雉に対して書簡を送り、どちらも独り身で楽しみがないからとして、「お互いに持っているもので無いもの」を埋めよう、と述べ求愛した。雉は怒って匈奴を攻めようとしたが、説得されて止めた。雉は自分が髪や歯が抜け、歩行も困難な身であり、冒頓は聞き誤ったのだろうとして、馬と馬車を差し出し、劉一族の女性を公主に仕立て嫁がせた。

※冒頓は本当に妻に先立たれたのか、以前に差し出された「公主」は死んだのか、実際は不明である。雉からの返答は、漢が匈奴の軍事力を恐れていたことを伺わせる(林俊雄「呂后」『アジア人物史 1』)。

・紀元前180年 劉恒は漢の皇帝として即位した。(『漢書』文帝本紀)

*皇帝の諱を避け、月の女神姮娥のことは嫦娥と呼ばれるようになった(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』)。

・紀元前177年 匈奴の右賢王は、漢の長城を守備していた「蛮夷」を攻め、殺戮と略奪を行った。

※この「蛮夷」というのは林胡や義渠であり、当時は漢に服属していたものと思われる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前177年 冒頓単于は漢の文帝,劉恒に書簡を送り、長城付近を攻撃したのは、そこの役人が右賢王を侮辱したためであり、右賢王は冒頓に無断で攻撃したのだと弁明した。匈奴は漢にラクダ1頭、騎乗用の馬2頭、馬車用の馬8頭を献上した。劉恒からは皇帝の衣装、黄金の装飾とベルトの留め金、そして絹織物が匈奴に贈られた。

※遊牧国家からは馬、中国からは絹という贈答関係は、その後の形式となった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前176年 冒頓単于は漢に書簡を送り、月氏勢力を滅ぼし、楼蘭烏孫、呼揭を平定したと伝えた。

月氏の一派はオクサス(媯水)川の北側に到着し、そこに勢力圏を築いて大月氏を名乗った(『史記』大苑伝)。

・紀元前174年 匈奴冒頓単于は死去し、その子息,老上が単于となった。

・紀元前168年 ローマはマケドニア君主国を滅ぼした。

マケドニアは複数に分割された。また、ローマに味方しないギリシアの諸勢力には圧力をかけるようになった(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前168年 ローマ軍はピュナドの戦いにてアンティゴノス朝マケドニアを破った。

※遠征から帰還するローマ人の中には、オリエントやギリシアの信仰が広まっていった。そのような陽気な祝祭的祭儀に対して、古来のローマの厳粛な祭儀を重んじる人々は不快感を覚えた。ギリシア的信仰に対する禁令は度々出されたが、信仰が絶えることはなかった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前167年 指導者ユダに率いられたユダヤ人が、セレウコス朝に対する反乱を起こした。ユダの渾名に因んでマカベア戦争と呼ばれる。ユダは戦死した。

※これはセレウコス朝の支配が弱体化したことの証左であった(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前162年 漢の文帝,劉恒は、匈奴の老上単于に書簡を送り、匈奴の土地は草木を痛める寒さがあるからとして、アワ、キビ、コメ、絹織物、絹糸を送ると伝えた。

・紀元前154年 漢と匈奴は和親し、漢からは、「先の約」の通りに公主を遣わし、関市を通じることとした。

※関市とは、長城線にて交易を行うことである。原則として「中国」の王朝は民間交易を禁じたが、遊牧国家の態度次第で容認することがあった。遊牧国家の匈奴としては、交易は魅力的であった。「先の約」とあることから、以前から交易をしていたのかもしれない(林俊雄「冒頓単于」『アジア人物史 1』)。