個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前12000年~7000年頃

・紀元前12000年頃 肥沃な三日月地帯の地中海に近い場所にて、人々が定住して集落を形成した。人々は麦を採集し、追い込み猟を行っていた(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前12000年頃 地球温暖化により、America大陸南部の氷は溶け始めた。こうして拓けた道を通って、人々はAmerica大陸全体に分布した(Yuval Noah Harari『サピエンス全史』)。

・紀元前12000年頃 America大陸への人類到達と同時期に、SamoaとTongaにも人類は到達した。そこでも原生生物の絶滅が始まる(Yuval Noah Harari『サピエンス全史』)。

・人類がAmerica大陸にやって来てから2000年の間に、大陸原産の動物の多くが姿を消した。America大陸にいたMammuthus、Mammut、Panthera atrox、Machairodontinae、Megatherium、大陸原産の馬および駱駝などの大型動物に留まらず、小型哺乳類、鳥類、昆虫、大型動物にたかっていた寄生虫なども多くが絶滅した(Yuval Noah Harari『サピエンス全史』)。

※馬は食糧として狩猟対象となり絶滅した(本村凌二『馬の世界史』)。

・紀元前13000年頃、東南Asiaの熱帯雨林にて、タロイモやヤムイモといった根菜の農業がはじまった(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

紀元前1万年頃 寒冷期が終わるとともに、東Asiaでは落葉広葉樹と常緑広葉樹が樹木の多くを占めるようになった。また、マンモス、ナウマンゾウ、オオツノシカなどは絶滅するか北上するかして、東アジアからいなくなる。それらの大型動物に代わって、東Asiaで繁殖したのはイノシシ、イヌ、シカ、ウサギ、タヌキ、キツネ、テンなどの小型動物である。

※大型動物を追って広い範囲を移住するような生活はなくなり、罠を仕掛けたり獣道を歩くことが必要となって、生活圏は狭まった。また、小型動物だけでは食料は賄えず、ドングリや栗などの堅果類を食料とするようになった(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・東アジアにおいては食料としての堅果類や根菜、魚介類への依存度が高くなったことで、煮沸のための土器が必要となった(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前9500年頃 肥沃な三日月地帯にて、集落は拡大した。そこでは小麦や大麦の栽培が始まった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前9500~8500年頃 南東部、Īrān西部、Levant地方丘陵部にて農耕が始まった(Yuval Noah Harari『サピエンス全史』)。

※農耕に従事する人々は、米や麦、ジャガイモなど、利用する食物の種類および栄養が偏りがちになった。また、その作物が旱魃などの災害に見舞われたり、イナゴの襲来や穀物に疫病が流行るなどすれば、狩猟社会よりも飢饉に苦しんだ(Yuval Noah Harari『サピエンス全史』)。

※農耕および工業社会は多くの家畜を飼育していた。また、密集して定住していたことにより、住む場所は不潔にもなったため、家畜に由来する天然痘、麻疹、結核などの感染症が蔓延するリスクを負っていた(Yuval Noah Harari『サピエンス全史』)。

※1日の大半を小麦などの穀物の栽培に費やすようになった人類は、元々そのような作業に向いていない身体であったがために、椎間板ヘルニアやヘルニア、関節炎などの疾患に悩まされる人々も出てくるようになる(Yuval Noah Harari『サピエンス全史』)。

※人類は狩猟や農耕に関する役割分担や分業といった共同作業を行うことで、人類は自己家畜化を進め、人口を増加させながら種の保存への有利な状況を作り出した(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前9000年頃 Tai北部にてエンドウマメの一種やヒシが栽培されていた(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・Mesopotamia地帯を含む「肥沃な三日月地帯」は年間降水量が250mmを超え、気候が温潤で様々な植物が育ちやすかったため、農耕開始以前より人々はムギを採取していた。紀元前9世紀から紀元前7世紀にかけて農耕・牧畜が営まれ、社会システムが形成されていった(上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前9000年紀中頃 有蹄類の家畜化の実験がはじまった。その約500年後にAnatolia南部やZagros地方にてヤギとヒツジが家畜化に成功する。最初期の家畜化されたヒツジやヤギの利用は、食肉よりはむしろ乳や乳製品であったようである(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・確認される中で人類最高の文明であるMesopotamia文明は、「肥沃な三日月地帯」にある、Idigna(希Tígris)とBuranuna(希Euphrátēs)川のほとりに生まれた(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・Buranuna(希:Euphrátēs)川は、銅などの交易に用いられ、Ki-en-ĝir語での別名として「urudu(銅)川」がある(小林登志子『古代メソポタミア全史』)。

・Idigna(希:Tígris)川は度々洪水を起こす暴れ川として知られていた。当時の人々はその洪水は神がもたらすものであると考えており、大洪水伝説が作られるようになる(小林登志子『古代メソポタミア全史』)。

※Mesopotamiaおいては、農業に用いるための暦として太陰暦が発達する。また、季節とのズレを防ぐために閏年も考案された(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・紀元前9000年紀後半 Anatolia高原にて多くの農耕集落が形成される。その中でも、肥沃な土壌を持ち農耕に適した、Konya平原のÇarsamba・Chat 川付近のÇatalhöyükは大規模な集落となる(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前8000年頃 Mesopotamia北部のZaharia 山嶺にて、天水農耕が始まった。この農耕には年間降水量が200mm以上必要であり、降水量が150mmほどだったMesopotamia南部では不可能であった(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

※農耕集落は狩猟採集集団からの収奪の対象となり、農耕集落は防衛の必要性に迫られた。例えばIerichoでは高さ3mもの石造りの周壁を500m以上も巡らせ、周囲には高さ9mもする物見の塔が建てられた。また、幅と深さが約3mの周濠が巡らされた。小麦や大麦、牧畜による余剰生産物がなせる技である(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

※Ierichoでは狩猟採集時代の漠然とした伝承と、農耕による豊かさが一体となり、土地の守護神genius lociと先祖を同一視する信仰が広まった(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・Ierichoの北西150km近くにあったNahal Oren は、農耕に適当な土地がなかったため狩猟採集生活が続けられ、住居も竪穴式であった(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前8000年頃 豌豆と扁豆が栽培植物化された(Yuval Noah Harari『サピエンス全史』)。

・紀元前8000年紀、南Levant地方やMesopotamia地方において、そこには生息していなかった山羊や羊が家畜として広まった(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前7600年頃 肥沃な三日月地帯とその付近にて、山羊と羊の家畜化が始まった。家畜のエサには、刈り取った穀物の、残った茎が用いられた。

※畜産の開始は、その集落が大型化しており、農耕が確立していることが条件である(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前7000年頃 中米では南瓜や糸瓜が栽培されていた。また、東南Anatoliaにおいては豚や牛が家畜化された(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前7000年頃 肥沃な三日月地帯の西北部にて、牛と豚が次第に家畜化していった。豚は人間の集落に近づく傾向があるため、世界の多くの場所で、独自に家畜化は進んだと思われる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前7000年頃 ハル・オレンの集落は消滅した。住民が農耕に適さない貧しい土地を放棄したものと思われる(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

※紀元前7000年頃 このころには既に、イネの栽培種は存在していた。このころは野生種と栽培種の両方のイネが食されていたようである(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前7000年紀初頭 Balochistan丘陵域とSindhu(Indus)川に挟まれたkachchh平原にて初期農耕文化が発展した。「肥沃な三日月地帯」の農耕文化と繋がるĪrān平原から影響を受けたものと推測される。kachchh平原は一年中、流水が絶えることのない地域であり、高地ゆえに夏の放牧にも適していた。こうした西Asiaと類似した自然条件が農耕を可能にしたのである。大麦の栽培は、この地ではじまった可能性もあるともいわれている。また、自生していた小麦や大麦を栽培化し、野生種として生息していた牛、羊、山羊を家畜化した(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

※kachchh平原の集落に作られた住居は、日干し煉瓦を積み上げた壁を持ち、丸太の梁の上に小枝を置き、その上に葦葺きの屋根を設けた(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前7000年を過ぎた頃 Çatalhöyük付近の肥沃な土地に惹かれて、多くの人々が移住する。そこから東方130kmほどにある火山Hasan dağı(dağıとは山を意味する)からは黒曜石が採れたため、農業と黒曜石の交易により栄えることとなる。黒曜石はナイフや鏃、小像として加工され、東地中海沿岸やPersiaまで輸出された。集落外からは木材や火打石など、紅海からは子安貝がもたらされた(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

※Çatalhöyükでは小麦、大麦、豌豆を中心として、扁豆や空豆が栽培され、自生する林檎、ピスタチオ、アーモンド、ドングリが採集された。また、食用の家畜としては牛、羊、山羊が育てられた。オスの牛は精神世界に置いて特別な地位を持っていた(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。