・紀元前6世紀頃 『Bṛhadāraṇyaka-upaniṣad』が成立した。
※聖典「upaniṣad」内において、最古層に位置するものである。その中では、人間個々人は最高の真理Brahman(梵)を知ることで、宇宙の最高原理と一体化する(梵我一如)ことが可能であると説いてある。Brahman自身は、世の始まりにおいて唯一存在していたとされるため、他に「知る」ことのできる対象はない。Brahmanは自身がBrahmanであることを知ったことで、一切の存在の根本原理となったとされる(赤松明彦『サンスクリット入門』)。
・紀元前599年 陳の霊公,嬀平国は一族の嬀(夏)徴舒に殺害された。太子の午は晋に亡命した。徴舒は陳侯を称した。
・紀元前598年 楚は陳を攻め、陳侯,嬀(夏)徴舒を捕え処刑した。陳の太子,嬀午は新たな陳侯に即位した(成公)。
※このころより、武力のみで中原を制覇することが不可能なことを悟った楚は、それまでの覇者を模倣して外交を重視した勢力拡大を狙うようになった(宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』)。
・紀元前597年 晋と楚は交戦し、楚が勝利した。
※楚の勢力は鄭、陳、蔡、宋、魯にまで広がった。しかし諸侯からしては侵略者であり、諸侯の守護者たりえなかったため覇者にはならなかった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前597年 Babilの君主, Nabû-kudurri-uṣur ⅡはYəhūdā君主国に侵攻した。Babil軍はIḇr人を都市Babilに連行した(Babylon捕囚)。(『SēferMəlāḵīm(列王記)』24章14~16節)
・紀元前597年頃 Babilの君主, Nabû-kudurri-uṣur ⅡはTsidkiyyahuを新たなYəhūdā君主国の君主として擁立した。
・紀元前594年 晋は東方の赤狄を攻めた。
※晋は楚に敗れたあとも、水運の拠点を確保することにより、東方進出の機会を狙い続けたのである(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前594年 SolōnはAthēnaiのArchonに就任した。
※ Solōnは改革を行い、市民の過去の負債全てを帳消しとし、また借財の担保として身体を取ることを禁じた(Aristotelēs『Athēnaiōn Politeia』)。当時のAthēnaiは、領土を拡大して富裕する貴族と借金を返済できずに自身の身体を売り債務奴隷となる貧困者がいるという貧富の差が拡大した状況にあった。また、有力になった平民が参政権を要求して門閥貴族と対立しているという状況にあり、Solōnは国家の戦力維持と党争の調停を担うこととなったのである(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
※Solōnは市民を農業生産量に応じて、所有地において500単位(1単位=穀物約52L,央莉舞油・葡萄酒約39L)以上生産可能な者を「500石級」、300単位以上生産可能な「騎士級」、200単位以上生産可能な「重装歩兵級」、それ未満を生産可能な「労務者級」に分け、役人は各々の階級から選挙で選ぶことを定めた。これにより、支配者層は、門閥貴族のように生まれた身分によるのではなく、富裕の度合いによって決まるとされた。労務者級の人々も民会への出席が認められて影響力を高めた(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
市民を農業収入に応じて、1単位(約29L)「500石級」、「騎士級」、(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
※Solōnの改革は、政治の主体を平民にすることではなく、重装歩兵を担う自由農民の数を保持し、貴族政治を維持することを目的としたものであった(君塚直隆『貴族とは何か』)。
※Plutarchosの『Solōn伝』23章3節によれば、SolōnはOlympia祭における優勝者のAthēnai人に、当時において羊1頭分の価値を持つ500dracmaiを支給すべきことを定めたという。Olympia祭において勝利した際に与えられる賞品は央莉舞の葉で作られた冠であったが、諸都市は各々が賞金を支給したのである。Athēnaiにおいては、Panathēnaia祭の個人部門での優勝選手に壷入りの央莉舞油を、団体部門での優勝者たちに牡牛が与えられたことから、競技選手は何十年も競技に参加して優勝を続ければ大きな財産を築くことができたと考えられる(Robin Osborn『ギリシアの古代』)。
・593年? Solōnは商用と見物のためとして、AthēnaiからAigyptosに渡った。(Aristotelēs『Athēnaiōn Politeia』)
※Solōnの改革はAthēnai市民間の秩序を回復させることを目的としていた。しかし、既得権益や債権を奪われた貴族から反発され、土地の再分配を期待していた下層市民からも失望されることとなったのである(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前593年 晋は赤狄を併合した。
・紀元前593年以降 Kushの君主,AspeltaはMedewi(英:Meroë)に遷都した。
※以降、Kushの文化は地中海文化とAfricaの基層文化の要素が強まった(山口昌男『アフリカ史』)。
・紀元前592年 晋は衛や魯などと同盟を結んだ。
・紀元前591年 晋と衛は斉を攻めた。
・紀元前591年 楚の荘王,熊侶は薨去した。
・紀元前590年 AthēnaiのArchonは不在となった。
※Solōnの改革の結果、新興貴族が加わったものの、要職の数は既存のままであったことや、隷属農民を従える貴族も支配力を弱めたことから、貴族層はより権力の維持しようとするようになった。こうして、貴族間における争いは激しくなった。そしてArchonを選出できない状態(Anarchia)となった。英語のanarchyの語源である(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前589年 晋は袁婁の会盟を主催した。
・紀元前589年 楚は蜀の会盟を主催した。
※この年の晋と楚の会盟は大規模なものであり、どちらにも参加した諸侯もあった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前586年 晋は会盟を主催した。
※それまで晋と楚は互角の実力であったが、斉、宋、衛、鄭、魯を支配下に置き、晋は勢力を拡大させた(落合淳思『古代中国 説話と真相』)
・紀元前586年 Babilの君主, Nabû-kudurri-uṣur ⅡはYəhūdā君主国のYerushaláyimを占拠し、Tsidkiyyahuを捉えて連行した。
※TsidkiyyahuがBabilに敵対したことによる。 Yəhūdā君主国は属州となり、Iḇr人は二度目の連行となった。「第二回Babylon捕囚」である(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
※Babyloniaは捕囚とした人々を国ごとに管理しており、社会的・宗教的な問題に関しては一定の自治が認められていた。そのためYəhūdā君主国の遺民のIḇr人たちは民族意識を保つこととなった(小林登志子『古代オリエント全史』)。
※『創世記』11章では、「Babelの塔」の話が語られる。作中には、人類が高い塔を立てようとするが、YHVHは人々が話す言葉をバラバラにして、塔建設のために団結できないようにしたとある。そして塔は放置され荒廃した。言葉がバラバラになった混乱ゆえに「Babel」と呼ばれるようになったと語られているが、実際にはBabylonに由来するものであると考えられる。「Babelの塔」のモデルはBabyloniaにそびえ立つziqqurat,Etemenankiである。つまり、この物語は、世界の人々が別々の言葉を話す理由の説明であるとともに、Iḇrî人の復讐心が込められたものである(池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。
※『Sefer Yəhōšūa(Yəhōšūa記)』『Sefer Shoftim( 士師記)』『Sefer Shmuel(Shmuel記)』『SēferMəlāḵīm(列君主記)』は、捕囚されていた時代のIḇr人によって書かれたとも考えられる。それらの書物は Yisrā'el・Yəhūdāの歴代君主やIḇr人について神に対する行いの善悪が述べられている。人間の側から神に対する行いの善悪を判断可能であるという考えがあったことを示すとも考えられる(加藤隆『キリスト教の本質』)。
・紀元前585年 5.28〔参考〕MilētosのThalēsは、この年の日食を予言したのだという。(Herodotos『Historiai』)
※Herodotosの『Historiai』には、Pyramidの高さを、影をもとに測定する方法を発見したのだという。日食の予言とPyramidの測定の逸話は、彼がBabyloniaの天文学およびAigyptosの幾何学に通じていたことを示すと考えられる(Klaus Riesenhuber『西洋古代・中世哲学史』)。
※Aristotelēsの『形而上学』によれば、Thalēsは万物の根源を水だと考えたとされる。万物の根源を水とする発想は、彼が住んでいたミレトスが海洋都市であったことや、生物の生存に必要であることや、生物の体の大部分を構成していることに由来するとも考えられる(桑原直己『哲学理論の歴史』第1章)。
※Thalēsの思想は、Orientの世界生成神話に由来すると思われる。物事の説明として、理性的な根拠を示したことが、彼が哲学の創始者とされる理由である。そしてその意義は、一つの原理から、自然の統一性を捉えようとしたことにある(Klaus Riesenhuber『西洋古代・中世哲学史』)。
・紀元前585年 MādaとLȳdíāは和平を結んだ。(Herodotos『Historiai』)
※Lȳdíāは、Mādaと対立して逃れたSkyth人を保護していた。 Mādaはその引き渡しを求め、それが原因で戦争になっていた(Herodotos『Historiai』)。 MādaとLȳdíāが和解して後、 Lȳdíāが匿っていたSkyth人がどうなったかは不明である(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。
※和平は新Bbyloniaの君主,Nabû-kudurri-uṣurの斡旋によるものである。新Bylonia・ Māda・Lȳdíāは互いに婚姻関係を結んで、勢力が均衡することを望んだ(小林登志子『古代オリエント全史』)。
・紀元前584年 春 呉は郯を攻めて降伏させた。(『春秋左氏伝』)
※『春秋左氏伝』には、魯の大臣,季文子が「中国」に威信と兵力がないから「蛮夷(=呉)」が攻めてきたと述べたとあり、蛮夷(ここでは呉)に対抗する勢力としての同盟諸国である「中国」という自認があったことを窺わせる(檀上寛『天下と天朝の中国史』)。
・紀元前582年 斉の頃公,姜無野は薨去し、子息の環が即位した(霊公)。
※環に仕えたと考えられる叔夷という人物が作成した「叔夷鐘」の銘文(『殷周金文集成』272~284)は、彼の祖先が殷(商)の湯(唐)王であったと主張している。銘文には湯(唐)王が夏王朝の軍を破り、「禹の開いた九州を治めた」ことが述べられている。そのため、文脈上、当時は夏王朝の初代君主とされる「禹」の伝承が、「夏」王朝の伝承とは別に存在していた可能性が指摘される。また、商の時代には「天命」という概念は存在していなかったはずであるが、成湯は天命を受けたと述べられている。叔夷は同時代の歴史認識に基づいて、始祖の由緒として伝承を利用したとも考えられる(佐藤信弥『中国古代王朝史の誕生』)。
・紀元前577年 冬 嬴石が秦侯に即位した(景公)。
※「66秦公及王姫鐘」(『殷周金文集成』262~266)には、秦侯の祖先が天命を受けたことが述べられ、秦侯のが長生きし四方を治めることができるよう願われている。秦の君主が周王と同等の存在として扱われているのである。また、景公の時代と思われる「64秦景公石磐」(『商周青銅器銘文暨図像集成』19781~19806)は秦侯のことを「天子」と呼んでいる。東遷前の周の土地を領有したことで周文化の影響が強まり、秦侯は自身を周王に準えるようになったと考えられる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前575年 晋と楚は交戦し、晋が勝利した。
※晋と呉という対立する国から、北と東から圧力を受けていたことが影響したとも考えられる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前574年 晋の厲公,姫寿曼は郤氏を追放した。
・紀元前573年 晋の厲公,姫寿曼は欒氏と范氏に殺害された。欒氏と范氏は姫周を新たな晋公に擁立した(悼公)。
※臣による霊公,夷皋や寿曼の殺害は、晋公の君主権が増大することを阻むこととなった。さらに趙氏、知氏、范氏、中行氏、韓氏、魏氏などの世族は力を伸長させ「六卿」と呼ばれた(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前573年 BabyloniaはTyrusを服属させた。
※TyrusがPhoiníkē諸国家の中心の地位を失うと、それまでTyrusの植民地の1つであったCarthāgōが諸Phoiníkē人植民地の首領となった(Krishan Kummar『帝国』)。
・紀元前561年 Peisistratosは僭主となった。
・紀元前560年 呉は楚を攻めた。
※呉は中原との中継貿易を行っていた。それに対して楚は南海の物産を中原に転販しており、利益の関係で対立することとなった(宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』)。
・紀元前555年頃(Nabonidus)がBabilの君主となった。
※Nabû-nā'idは政治を顧みない君主であったため、Babilの内政は以前に増して混乱することとなった(渡辺和子ほか『人類の起源と古代オリエント』)。
・紀元前552年 晋において范氏は欒氏を追放した。
・紀元前552年 〔参考〕魯の都,曲阜の南東、昌平郷の陬邑にて、叔梁紇と顔徴在との間に次男が産まれた。姓を孔、名を丘と言った。(『史記』孔子世家)
※孔子こと丘が産まれたという昌平は太平を昌(さか)んにするという意味であり、孔子が天下を太平にする聖人であることを暗示するような土地である。また、当時の諸子で両親が明らかであることは不自然である。最初の伝記である孔子世家からして、伝説に彩られている(浅野裕一『儒教』)。
・紀元前552年頃 Babilの君主,Nabû-nā'idは子息のBēl-šar-uṣur(Belshazzar)に政務を委任した。
・紀元前550年 Pârsâ人,Kuruš ⅡはMāda(Mēdía)の実権を掌握した。
・紀元前549年 晋と同盟している諸侯による、晋への納幣の負担が重かったため、鄭の人々は苦しんだ。(『春秋左氏伝』)
※晋と楚が和解したことにより、諸侯は楚への朝見義務を課されることとなった。また、楚の脅威から諸侯を守るという状況もなくなったため、諸侯は晋からの恩恵が少なくなり、奉仕の見返りが少ないことから不満が高まることとなった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前546年 晋と楚は和平を結んだ。
※「甲兵(軍事)を弭(や)める」ことから「弭兵の会」と呼ばれる。以後、晋と楚の間の戦争は行われなくなり、晋の覇権は安定した(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前546年 鄭の簡公,姫嘉は趙武を饗応した。(『春秋左氏伝』)
※『春秋左氏伝』によれば、饗応の場において、子展が「草虫」、伯有は「鶉之賁賁」、子西は「黍苗」第四章を朗詠したという。物語的要素の強い部分であるため、朗読した詩の内容まで実際のものかは疑問であるものの、貴族たちが饗応の場において詩を朗詠することは習慣としてあり、状況に応じて適切な詩を引用できることは貴族に必要な能力とみなされていた。武の饗応の場で朗詠されたとされる詩は『詩経』に収録されている(佐藤信弥『周』)。
・紀元前546年 Kuruš ⅡはLȳdíāを滅ぼし、Haxāmaniš(希:Akhaimenes)朝を建てた。
※ Haxāmaniš朝の東端はĀmū川までである。Graecia語話者からは「Ōxos( Āmū)川を越えた地」を意味する「Trance Oxonia」と呼ばれた。文明の地を自負していたĪrānの人々からして、 Āmū川以東は「化外の地」と捉えられた(杉山正明『遊牧民から見た世界史 増補版』)。
※当初の Haxāmaniš朝では国際共通語としてAkkad語が、国内においてはElam語と古代Persia語が話された。言葉は粘土板に、楔形文字として記された(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。
・紀元前546年 Peisistratosは独裁政権を確立した。
※Peisistratosは「親衛隊」という実力組織によって自身に対する反対派を抑圧したものの、支持を受けていた中小農民を保護し、平穏な統治を実現したとされる。この僭主政治もまた自身と一族の権力維持が前提となっており、貴族層の有様も大きく変化することはなかった。その点において、貴族政を改良したものと言える(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前538年 Haxāmaniš朝は新Babyloniaを滅ぼした。
※PalestinaはHaxāmaniš朝が支配するようになり、Babylonに捕囚されていたIḇr人はPalestinaへの帰還が許された(『sper yeshe'eihu(Ysha'yah書)』45章)。Iḇr人の居住区が「Yehud州」になって以降、「Yehud」という名称が登場する(加藤隆『キリスト教の本質』)。以降、Iḇr人のことはYehud人と呼ぶ。
・紀元前538年 楚は鄭や蔡などの諸侯とともに呉を攻めた(朱方の戦い)。
・紀元前538年 楚の霊王,熊虔は諸侯を集めて会盟を行うまでになった。晋・宋・魯・衛などは招待を拒否したが、多くの諸侯は楚に応じた。
※それまでの楚の君主は自らを「蛮夷」と考え「中国」と自称することを遠慮していたが、諸侯を招集可能な国力を持ったことで、楚は「中国」の一つとして認められた(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。
・紀元前534年 Dionȳsia祭においてThespisが優勝した。
※Graecia語では詩を含む競技はagonと言い、競争相手、好敵手のことはagonistesと呼んだ(小林標『ラテン語の世界』)。
・紀元前533年 〔参考〕孔丘は穀物倉庫の番人となり、その後、犠牲用の家畜を飼育する職に就いたという。家畜の繁殖を盛んにさせるという功績を挙げ、司空に抜擢されたという。(『史記』孔子世家)
※司空は国土や農業の管理、民生に携わる行政官である。20代の人間が牧場の管理からすぐに昇格できるものではない。そのため、孔子世家のこの記述には疑問が呈される(浅野裕一『儒教』)。
・紀元前530年 〔参考〕Haxāmaniš朝君主, KurušⅡは、Araxes河の彼方の大平原に住むMassagetai人を支配することを望み、遠征を行った。しかし、Massagetai人の君主Tomyrisの軍に敗れ戦死したという。(Hēródotos『Historiai』)
※Hēródotos『Historiai』は、Massagetai人の習俗について、固定式の家屋には住まず、馬車で移動し、農耕を行わず牧畜すること、騎馬に優れ、夫は妻を独占出来ないことなどを記している。この記述は、遊牧民の特徴を思わせるものである(岡田英弘『世界史の誕生』)。
・紀元前530年 KurušⅡの子息 KɑmboujieⅡが Haxāmaniš朝の君主となった。
・紀元前530年頃 Samos島出身のPȳthagórāsは、南Italiaに移住した。そこで彼は弟子を集め、教団を形成した。
※Pȳthagórāsの宗教的結社は、Dionȳsos‐Orpheus教の伝統を踏まえたものであり、数学を中心として音楽や天文学を学んだ。音楽は魂の浄化のために学ばれ、そこから音階の調和や天体の動きが数の比(logos)に従っていることを知り、数学的秩序こそが宇宙の究極原理であるという結論に達したとも推測される(桑原直己『哲学理論の歴史』第1章)。
※Pȳthagórāsは、偶数に象徴される「無限定なもの」(悪)と、奇数に象徴される「限定するもの」(善)が統合した、「限定されたもの」こそが、あらゆる数であると考えたという(Klaus Riesenhuber『西洋古代・中世哲学史』)。
※Pȳthagórās自身は、書物を書き残さなかった。そのため、後に発展した教団の教説と、Pȳthagórās自身の教説の区別は困難である(Klaus Riesenhuber『西洋古代・中世哲学史』)。
・紀元前527年 呉王,夷末は死去し、弟の僚が跡を継いだ。
・紀元前527年 Peisistratosは死去し、Hippiasが跡を継いだ。
・紀元前525年 Haxāmaniš朝は、Aigyptos第二十六王朝を滅ぼした。 ( Hēródotos『Historiai』)
〔参考〕Aigyptos側から内通者が出たことで、 Haxāmaniš朝が勝利したのだという。(Hēródotos『Historiai』)
※こうしてHaxāmaniš朝は、Aigyptos・Śfarda(希: Lȳdíā)・Māda・Babyloniaを有する広大な領土を持った国家となった(近藤二郎「展望 古代西アジア」『古代西アジアとギリシア』)。
※Persiaの支配によって、これまでの「個々の些細な点に頑固にこだわり」互いに憎しみ、荒らしあい破壊しあうような状態に、一定の安定がもたらされたとも考えられる(Georg Hegel『東洋の歴史について』)。
・紀元前522年 魯の孔丘は、周朝の都に遊学し、「礼」を学んだ。(『史記』孔子世家)
・紀元前522年 Aigyptos遠征での帰りの事故で負った傷が原因で、KɑmboujieⅡは死去した。
※ KɑmboujieⅡが埋葬された石棺には、「両国の統治者」「Raの息子 Kɑmboujie」といった文言があることからAigyptosの統治者として相応の振る舞いをしていたようである(安部拓児「カンビュセス二世」『アジア人物史 2』)。
・紀元前522年〔参考〕 Kɑmboujieの死後、 Haxāmaniš朝の祭司GaumātaはKɑmboujieⅡの死んだ弟,Bardiyā(希:Smerdis)になりすまして、君主として政治を行ったという。(Hēródotos『Historiai』)
・紀元前522年 〔参考〕Dārayavauと6人の貴族は、君主を僭称する祭司Bardiyāを殺害し、Dārayavauが新たな君主に選出されたのだという。(Herodotus『Historiai』)
※実際はDārayavauが殺したのはKɑmboujieⅡの実弟であり、簒奪を隠蔽するために架空の祭司を創りだした可能性もある(安部拓児「ダレイオス一世」『アジア人物史 1』)。
・紀元前522年 Dārayavau Ⅰは反乱を起こした有力者を制圧し、一連の顛末を碑文としてBehistun山の磨崖壁に刻んだ。
※碑文の中心には、翼の生えた円盤に乗る人物が刻まれ、DārayavauⅠはそれを見上げている。鎮圧された反乱者は手を縛られているが、堂々とした姿である。Haxāmaniš朝では、敵対していた者を、あまり屈辱的な姿で表現しなかった(安部拓児「ダレイオス一世」『神話世界と古代帝国』)。
※Behistun碑文は Haxāmaniš朝君主の家系を語り、KurušⅡとDārayavauⅠの共通祖先として Haxāmanišを置く。しかし、DārayavauⅠ在世以前の碑文には、Haxāmanišの名や、家系的繋がりを示すものはない。別系統の君主系図を繋げるための架空の人物と見られる(安部拓児「ダレイオス一世」『神話世界と古代帝国』)
※ KurušⅡの娘Atossaと、KɑmboujieⅡの弟の娘ParmysはDārayavauⅠに嫁いだ。また、君主僭称者Bardiyā(?)を共に倒した貴族からも娘を娶った(Herodotus『Historiai』)。婚姻を通して、前王朝と結びついて、王位の正統性を確保し、貴族の娘を娶って権威を確立したのである(安部拓児「ダレイオス一世」『神話世界と古代帝国』)。
※DārayavauⅠは、サトラペイアという20の行政区を規定し、総督サトラプを任命、民族別に納税額を定めた(Herodotus『Historiai』)。Herodotusの表記した「サトラプ」とはGraecia語の「サトラペス」に由来し、サトラペスとはペルシア語の「フシヤシャパーワン(君主権、君主国を保護する者)」である。しかし、「フシヤシャパーワン」はペルシア語碑文における使用例は少なく、知事制度を示す用語として使用された形跡はない。行政区も史料間で違いがあり、時代ごとに変化した形跡がある。全貌は見えない(安部拓児「ダレイオス一世」『神話世界と古代帝国』)。
※Dārayavau Ⅰは道路網を整備した。Hēródotosの『Historiai』が語るところの「君主の道」である。「君主の道」は、Eram商人が用いていた交易通路を大規模に拡大したものである(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。
・紀元前520年頃 30歳頃になった孔丘は周の都に遊学し礼を学んだ。(『史記』孔子世家)
※丘は子息,鯉に対して「詩」と「礼」を学ぶよう訓戒したとされている。詩は言葉の、礼は秩序の厳選とされていた。丘の生涯は礼と深い関係のもとにあった(湯浅邦弘「孔子」『神話世界と古代帝国』)。
・紀元前520年 姫猛が周王として即位した(悼王)。
・紀元前520年 6. 周の悼王,姫猛は庶兄,朝に反乱を起こされた。
・紀元前520年 11. 周の悼王,姫猛は庶兄,朝によって殺害された。
・紀元前520年 11. 周の先王,姫猛の弟である姫匄が即位した(敬王)。
※『春秋左氏伝』は敬王を「東王」、対立する兄の朝を「西王」と呼んでいる。両王の戦闘は50~60km程度の範囲に留まっている。勢力を二分する争いを行ったにも関わらず大規模な戦争を行えないほどに周は衰えていたとも考えられる(佐藤信弥『周』)。
・紀元前519年 呉は蔡の国都,州来を攻め、楚・陳・蔡などによる連合軍に勝利した。
・紀元前519年 Dārayavau ⅠはSakā族を征服し、族長,SkuⁿxaをPersiaに連行したという。(「Bīsotūn碑文」)
※Saka族は、反乱者ではなくHaxāmaniš朝の支配の外にいた人々である。「Bīsotūn碑文」には、後からSkuⁿxaの姿が刻まれており、Kuruš Ⅱが成し遂げられなかったことを誇ったか、仇討ちを実現したことを示したかったとも考えられる(安部拓児「ダレイオス一世」『アジア人物史 1』)。
※「Sakā」とは、漢字文献に現れる「塞」と同一の人々と思われ、Skytaiとも同一と考えられる(杉山正明『遊牧民から見た世界史』)。
※ Dārayavau ⅠはIndus川流域の征服を考え、事前に探検隊が派遣された。
※探検隊の1人として参加したSkylaxはGraecia語で『周航記』を著した。これにより、Graecia世界に対してIndoの知識がもたらされた(安部拓児「ダレイオス一世」『アジア人物史 1』)
※ Haxāmaniš朝にはSindと呼ばれた属州があることも異文化圏であるIndoと領域を接するようになったことを示しており、Mesopotamiaに勃興した文明が拡大の末にOrient全域が世界として1つになったことを意味すると考えられる(前田徹『都市国家の誕生』)。
・Haxāmaniš朝は、黒海の北岸にいる「海の向こうのSaka族」と呼ばれる集団を征服しようと遠征軍を派遣した。しかし、成果は挙げられなかった。(ヘロドトス『歴史』)
・ Haxāmaniš朝の遠征軍の将軍メガバゾスは、Europaに残され、トラキア地方を征服し、Makedoniaを服属させた。
・紀元前517年頃 孔丘は斉に赴いて、「韶」の音楽を聴いた。(『史記』孔子世家)
〔参考〕丘は、斉にて素晴らしい、韶の演奏を聴いて、3ヶ月の間、肉の味を忘れたのだという。(『論語集解』述而篇14 周生烈注)
〔参考〕鄭玄は、(伝説上の王である)舜の音楽が、斉にも伝わっていたことを驚いたと解釈する。(鄭玄『論語注』述而篇 ぺリオ文書2510号写本)
※丘が重視したのは、芸術としてではなく、人の心を教化する道具としての音楽である(湯浅邦弘「孔子」『アジア人物史 1』)
・紀元前517年 斉に滞在中、孔丘は斉の 景公,姜杵臼に対して「正名」と「節財」の重要性を説いた。(『史記』孔子世家)
※「正名」とは実態に即して名と人倫を正すことであり、名分を守らないがために下克上が起こると考えられたことが根底にある。また、「節財」とは財政の節約である(湯浅邦弘「孔子」『アジア人物史1』)
・紀元前517年 魯の昭公,姫稠は世族の三桓氏と対立して斉に亡命した。
※孔丘は魯公一族の祖である周公,姫旦と、西周の政治を理想視しており(『論語』八佾篇)、徳のある君主による安定した統治を目指していた。そのため彼は魯の君主に近しく、稠に同行した(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・ 紀元前516年以降 Haxāmaniš朝は遠征軍を派遣し、Indus川流域を支配下に編入した。
※ Haxāmaniš朝を介して、Graecia世界はIndoと繋がり、Graecia人のIndoに対する想像力を掻き立てた。そしてCtesiasによる、幻獣などの荒唐無稽な描写を含んだ『Indica(Indo誌)』が著されることになる(安部拓児「ダレイオス一世」『アジア人物史 1』)。
・紀元前516年 魯の昭公,姫稠は魯に帰還するが、三桓氏のいる国都,曲阜には入れなかった。
・紀元前515年 呉王,姫詨(僚)は甥の光に殺害された。(『史記』伍子胥列伝)
・紀元前514年 Athēnaiの僭主,Hippiasの弟,Hípparkhosが殺害された。
※以降、Hippiasは猜疑心が強くなり、彼の僭主政治は暴政となった(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前514年 姫光は呉王に即位した(闔閭)。
※『史記』-伍子胥列伝には、光は楚人の伍子胥を行人(外交担当者)に任じたとある。ただ、当時は外国人を要職に任じるという例が少ないため、疑わしい逸話と考えられる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前514年 韓・趙・中行・魏・范・智の卿は晋の公族である祁氏と羊舌氏を滅ぼし、新たな県大夫を任命した。
・紀元前514年 韓・魏・趙の卿は、中行・范・智を晋から駆逐し、晋を3分割して支配した。
・紀元前512年 呉は徐を滅ぼした。
※呉で作成された剣には「呉王光」という銘が刻まれたものがある。呉の闔閭王,光が儀礼用に使用したものと考えられる。湿地帯の多い長江下流域では戦車が主力になりえず、君主自身の名が刻まれた剣は、歩兵が発達していたことを示している。歩兵を主力とすることは、呉の勢力拡大に寄与したとも考えられる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前510年 呉と越は戦争を開始した。
・紀元前510年 越と楚は同盟を結んだ。
・紀元前510年 Alkmaiōn家はLakedaimōn君主の援助を受けて、HippiasをAthēnaiから追放した。
※ Lakedaimōnは、Athēnaiに新たな僭主を擁立することで傀儡政権が誕生することを望んで行動したのである。Athēnai国内はAlkmaiōn家のKleisthénēsと、Hippias一族と親しかったIsagorasとほ間で対立が生じ、混乱することとなった(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前509年 Romaの民衆は、Rex,LuciusTarquinius Superbusを追放し、res publica(共和政)を樹立させた。
※resとは「実体」に近い表現であり、publicaは民衆(populus)のものを意味する言葉である。以来、Romaはrexを「悪」的なものとして忌避し、populus(民衆)が支配する政体を強く支持するようになる(小林標『ラテン語の世界』)。
※共和政Romaにおいては、全ての市民の自由と平等と、そうした市民による国政運営が理想と捉えられた。しかし、君主政時代と同様に、共和政下においてもPatriciiと呼ばれる貴族が存続していた。Patricii層は元老院議席と政務官を独占しており、民会には平民も参加できたものの、方針に影響したのは貴族層であった(宮嵜麻子『ローマ帝国の誕生』)。
・紀元前508年 IsagorasはArchonに選出された。
・紀元前508年 Kleisthénēsは、Dēmos(民衆)に対して政権の委譲する案を民会に提出した。
※Isahorasとの権力闘争で不利となったKleisthénēsは、中下層市民からの支持を得ようとしたのである(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前508年 IsagorasはLakedaimōnに対して軍事介入を要求した。
※KleisthénēsがDēmos(民衆)からの支持を得たことで、危機感を抱いたIsagosasはLakedaimōnの助力を望んだのである(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前508年 LakedaimōnはAlkmaiōn家とKleisthénēsにAthēnaiからの退去を要求した。
・紀元前508年 Kleisthénēsは亡命した。
・紀元前508年 Lakedaimōnの君主,Cleomenesは軍を率いてAthēnaiに入った。
・紀元前508年 IsagorasはAthēnaiの支配者となった。
・紀元前508年 AthēnaiのDēmosは市内に集結した。
※かつて僭主,Hippiasの独裁的な恐怖政治を経験していた民衆は、Lakedaimōn主導のIsagorasによる独裁政権の誕生に反発したのである(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前508年 Lakedaimōnの君主,Cleomenesは AthēnaiのAkroparisに立て篭った。AthēnaiのDēmosはClemenesを攻撃した。
※これはDēmosが自ら政治のために蜂起した契機であった(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前508年 Lakedaimōnの君主,Cleomenesは AthēnaiのDēmosと停戦し、IsagorasとともにAthēnaiから退去した。
※Clemenesの率いていた軍は少数であり、籠城を続けることが困難であった(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前507年 AthēnaiのDēmosはKleisthénēsを帰国させた。
※どの程度主導的に動いたかは疑問が呈されるものの、Athēnaiにおいて政治の主体が貴族から民衆へと移行した契機であったと考えられる(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前507年 AthēnaiのKleisthénēsは部族制の改革を行った。
※Kleisthénēsは従来の部族を、部族・Trittyes・Demos(区)という3層構造の10部族へと再編成した。Attikḗ地方の各地に形成された集落を含め、139のAthēnaiのDemosとして編成され、そこに居住していた自由人はAthēnai市民とされ、その男系子孫も市民権を得るとされた。Demosに所属することが国家の一員の前提となり、地方の各々の貴族に服従することは国政参与の条件ではなくなった。Demosは沿岸部・内陸部・市域という3つのTrittyesに区分され、貴族のPeisistratos家の影響力が強かったMarathṓn・Oinoē・Trikórynthos・Probalintsの四都市の内、Probalintsは別のTrittyesに編成され、政治的な繋がりと貴族の弱体化が図られた。そして3つのTrittyesからなる部族は10に分けられ、役人の選出の単位となった(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前507年頃? KleisthénēsはOstrakismos(陶片追放)の制度を定めた。
※市民が僭主になる恐れのある人物の名を刻んで投票し、一定数に達した場合はその人物を国外に追放し、10年間帰国を禁じるという制度である。このような改革は、市民団の存続を望む貴族出身者が、平民の発言力を利用して行ったものである(君塚直隆『貴族とは何か』)。
※僭主が出現することを事前に防ぐことが目的ではなく、対立する党派の片方を追放することで、党争が大規模な内乱にまで発展することを防ぐために定められたとも考えられる(橋場弦「ギリシアとヘレニズム」『古代西アジアとギリシア』)。
・紀元前507年 Aristagorasの反乱は鎮圧された。(Herodotus『Historiai』)
※反乱に際して、AthēnaiとEretoriaがAristagorasに派遣した援軍は、Sardeisの市街地を放火するなど狼藉を行っており、Haxāmaniš朝の君主,DārayavauⅠは Athēnaiへの報復を考えていたという(Herodotus『Historiai』)。
・紀元前506年 蔡の昭侯,姫甲は晋に対して、楚を攻めることを要請した。
・紀元前506年 晋は斉・宋・鄭・衛・魯とともに楚を攻めた。
※蔡は楚から離反し晋に味方している(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前506年 呉と蔡の連合軍は、楚に勝利し、楚の国都,郢を占領した。
※呉と楚は距離が遠かったため、楚より圧迫されていた中原の諸侯は蔡の地を呉に貸し、戦車による戦法を教えて陸軍を編成させていた(宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』)。
※楚は覇者を模倣して「中国」の文明を吸収し中原の支配に注力したため、北方に兵力が集中してしまい、呉に勢力を拡大させてしまほどに脆弱化したとも考えられる(宮崎市定『東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会』)。
・紀元前506年 Lakedaimōnを中心としたPeloponnesos同盟はAthēnaiに侵攻した。(Hēródotos『Historiai』)
※北方からはThēbaiが、東方からはChalkisが攻め込み、国境付近の村や町の掠奪を行った(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前506年 Lakedaimōnを中心としたPeloponnesos同盟からKorinthosが離脱した。(Hēródotos『Historiai』)
※Korinthosが撤退したのは戦争に正義がないことを理由としてのものである。Lakedaimōnの君主,Cleomenesの個人的復讐という動機は大義名分を欠いていたため、遠征軍は分解することとなる(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前506年 Athēnai軍はThēbai軍に勝利し、Chalkisを攻めて植民地とした。(Hēródotos『Historiai』)
※Athēnaiが強国となったのは、独裁者のためではなく市民一人一人が自分や家族のために戦功を立てようと働いたためであるとHēródotosは分析している。自己決定の尊さをAthēnai市民は自覚するようになったと考えられる(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前505年 越は呉の土地を攻めた。
・紀元前505年 魯にて陽虎が実権を握って政務を主導した。
※陽虎は孔丘に豚を贈り、国政について丘と会って相談を持ちかけることにした。丘は最初、応じなかった。虎は丘に対して、国政のための策を持ちながら、それを用いようとしないことを問い詰めた。すると丘は承諾した。(『論語』陽貨篇)
※丘としては李孫氏、叔孫氏、孟孫氏が魯の公を蔑ろにする下克上の風潮を批判していた。それを抑えて実権を握った、虎からの誘いに乗った形である(浅野裕一『儒教』)。
・紀元前505年 秦の支援を受けた楚は呉軍を攻め、国都,郢から撤退させた。
※楚は戦争の被害から、軍事力の回復に時間を要した(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
※ 「曾侯䑂鐘」の銘文(『商周青銅器銘文暨図像集成続編』1029~1030)には、 領土が呉などによって奪われていった楚を曾侯が補佐して、楚王を復位させたことが述べられてる。また、その銘文からは、天命が周から楚に移っており、そこから更に呉へと移りかけていたが、曾は楚を見捨てなかったいう観念があったことが理解できる(佐藤信弥『中国古代王朝史の誕生』)。
・紀元前503年 斉と鄭は衛を攻めて、同盟を結ばせた。(『春秋左氏伝』)
・紀元前503年 斉は魯を攻めた。(『春秋左氏伝』)
※晋内における世族間の対立が深まったことを見越しての行動と考えられる。晋を盟主とする覇者体制はそうして崩壊することとなる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。
・紀元前502年 晋は鄭と衛を攻め、再び服属させようとした。しかし鄭と衛は斉との同盟を続けた。(『春秋左氏伝』)
・紀元前501年 Athēnaiにおいて、10人のStratēgoi(将軍)が任命された。
※Athēnaiにおける10部族から、有能の見なされた者が民会で選挙によって選ばれた。民衆は貴族に対して全面的に服従するのではなく、政治的判断を承認・否認する立場となった(橋場弦『古代ギリシアの民主政』)。
・紀元前501年頃 〔参考〕孔丘は魯に帰国した後、魯の都,中都を治める宰(長官)に任じられたという。(『史記』孔子世家)
※魯に中都という城邑があったという記録は、孔子世家の他にない。
・紀元前500年頃 〔参考〕孔丘は大司寇(司法大臣)となったという。(『史記』孔子世家)
※中都の宰から大司空になるまで、不自然に昇格が早いため、孔子世家の記述は疑われる(浅野裕一『儒教』)。
・紀元前500年 Miletosの僭主,Aristagorasは、Haxāmaniš朝の提督に、Graecia人の住むNaxos島の征服を提案した。(Herodotus『Historiai』)
・紀元前500年頃 Mexico盆地では、丘の上に基壇が多く築かれるようになった。
※指導者層が頑丈な建造物を築くようになったと考えられる。また、装飾の多い土器も作られるようになった。次第に円形祭壇を築いたCuicuilcoと、Teōtīhuacānに人口が集中していくこととなった(大貫良夫『人類の起源と古代オリエント』)。