個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前600~500年

・紀元前597年 新バビロニアの君主,ナブー・クドゥリ・ウツウル(ネブカドネツァル)Ⅱは、ユダ君主国を滅ぼし、ヘブライ人をバビロンに連行した(バビロン捕囚)。

ヘブライ人は「ユダヤ人」となり、バビロンでの苦難のなかで教義を整え聖典を成立させた。聖典は、律法(戒律)を記す『トーラー』預言者(神の言葉を預かった者)の書『ネビィーム』諸書『ケトゥビーム』に分けられ、3つの頭文字を合わせて『タナハ』と呼ばれる(池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。

『トーラー』の最初、『創世記』11章では、「バベルの塔」の話が語られる。作中には、人類が高い塔を立てようとするが、唯一神ヤハウェは人々が話す言葉をバラバラにして、塔建設のために団結できないようにしたとある。そして塔は放置され荒廃した。言葉がバラバラになった混乱ゆえに「バベル」と呼ばれるようになったと語られているが、実際にはバビロンに由来するものであると考えられる。「バベルの塔」のモデルは新バビロニアにそびえ立つジッグラト、エテメンアンキである。つまり、この物語は、世界の人々が別々の言葉を話す理由の説明であるとともに、バベルの塔(エテメンアンキ)に向けた、ユダヤ人の復讐心が込められたものである(池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。

・紀元前585年 5.28〔参考〕ミレトスのタレスは、この年の日食を予言したのだという。(ヘロドトス『歴史』)

〔参考〕ヘロドトス『歴史』によれば、タレスは、ピラミッドの高さを、影をもとに測定する方法を発見したのだという。

※日食の予言とピラミッドの測定の逸話は、彼がバビロニア天文学およびエジプトの幾何学に通じていたことを示すと考えられる(クラウス リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』)。

〔参考〕タレスは、熱や生命は、湿ったものから生じるということを根拠として、全てのものが生じる根源(ロゴス)を水だと考えたという。大地は水の上にあると唱え、また、地震は大地の下の水の振動が原因であると考えた、という。(アリストテレス形而上学』)

※万物の根源を水とする発想は、彼が住んでいたミレトスが海洋都市であったことや、生物の生存に必要であることや、生物の体の大部分を構成していることに由来するとも考えられる(桑原直己『哲学理論の歴史』第1章)。

※このような思想は、オリエントの世界生成神話に由来すると思われる。物事の説明として、理性的な根拠を示したことが、彼が哲学の創始者とされる理由である。そしてその意義は、一つの原理から、自然の統一性を捉えようとしたことにある(クラウス リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』)。

〔参考〕タレスは、全てのものが神々に満ちている、と言ったと伝えられる。(アリストテレス『霊魂論』)

・紀元前585年 メディアとリュディアは和平を結んだ。(ヘロドトス『歴史』)

※リュディアは、メディアと対立して逃れたスキュタイ人を保護していた。メディアはその引き渡しを求め、それが原因で戦争になっていた(ヘロドトス『歴史』)。メディアとリュディアが和解して後、リュディアが匿っていたスキュタイ人がどうなったかは不明である(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前552年 〔参考〕魯の都,曲阜の南東、昌平郷の陬邑にて、叔梁紇と顔徴在との間に次男が産まれた。姓を孔、名を丘と言った。(『史記孔子世家)

孔子こと丘が産まれたという昌平は太平を昌(さか)んにするという意味であり、孔子が天下を太平にする聖人であることを暗示するような土地である。また、当時の諸子で両親が明らかであることは不自然である。最初の伝記である孔子世家からして、伝説に彩られている(浅野裕一儒教』)。

・紀元前550年 キューロスⅡはイーラーン高原北部のメディアを滅ぼし、ペルシア人国家を建国した。ハカーマニシュ(アケメネス)朝である。

※ハカーマニシュ朝の東端はアム川までである。ギリシア語話者からは「オクソク(アム)川を越えた地」を意味する「トランス オクソニア」と呼ばれた。文明の地を自負していたイランの人々からして、アム川以東は「化外の地」と捉えられた(杉山正明遊牧民から見た世界史 増補版』)。

※当初のハカーマニシュ朝では国際共通語としてアッカド語が、国内においてはエラム語と古代ペルシア語が話された。言葉は粘土板に、楔形文字として記された(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・紀元前538年 楚の霊王,熊虔は諸侯を集めて会盟を行うまでになった。晋・宋・魯・衛などは招待を拒否したが、多くの諸侯は楚に応じた。

※それまでの楚の君主は自らを「蛮夷」と考え「中国」と自称することを遠慮していたが、諸侯を招集可能な国力を持ったことで、楚は「中国」の一つとして認められた(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・紀元前533年 〔参考〕孔丘は穀物倉庫の番人となり、その後、犠牲用の家畜を飼育する職に就いたという。家畜の繁殖を盛んにさせるという功績を挙げ、司空に抜擢されたという。(『史記孔子世家)

※司空は国土や農業の管理、民生に携わる行政官である。20代の人間が牧場の管理からすぐに昇格できるものではない。そのため、孔子世家のこの記述には疑問が呈される(浅野裕一儒教』)。

・紀元前530年 〔参考〕ハカーマニシュ朝君主キューロスⅡは、新バビロニアを滅ぼした後、アラクセス(ヴォルガ)河の彼方の大平原に住む、マッサゲタイ人を支配することを望んだが、マッサゲタイ人の君主トミュリスの軍に敗れ戦死したという。(ヘロドトス『歴史』)

〔参考〕ヘロドトス『歴史』は、マッサゲタイ人の習俗について、固定式の家屋には住まず、馬車で移動し、農耕を行わず牧畜すること、騎馬に優れ、夫は妻を独占出来ないことなどを記している。

※この記述は、遊牧民の特徴を思わせるものである(岡田英弘世界史の誕生』)。

・紀元前530年 キューロスⅡの後を継いで、その子息カンビュセスⅡがハカーマニシュ朝の君主となった。

・紀元前530年頃 サモス島出身のピュタゴラスは、南イタリアに移住した。そこで彼は弟子を集め、教団を形成した。

ピュタゴラスの宗教的結社は、デュオニュソス‐オルペウス教の伝統を踏まえたものであり、数学を中心として音楽や天文学を学んだ。音楽は魂の浄化のために学ばれ、そこから音階の調和や天体の動きが数の比(logos)に従っていることを知り、数学的秩序こそが宇宙の究極原理であるという結論に達したとも推測される(桑原直己『哲学理論の歴史』第1章)。

ピュタゴラスは、偶数に象徴される「無限定なもの」(悪)と、奇数に象徴される「限定するもの」(善)が統合した、「限定されたもの」こそが、あらゆる数であると考えたという(クラウス リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』)。

ピュタゴラス自身は、書物を書き残さなかった。そのため、後に発展した教団の教説と、ピュタゴラス自身の教説の区別は困難である(クラウス リーゼンフーバー『西洋古代・中世哲学史』)。

・紀元前525年 ハカーマニシュ朝ペルシアは、エジプトを支配下に収めた。

〔参考〕エジプト側から内通者が出たことで、ハカーマニシュ朝が勝利したのだという。(ヘロドトス『歴史』)

※こうしてハカーマニシュ朝は、エジプト・リディア・メディア・バビロニアをまとめた(岡本隆司『世界史序説』)。

※ペルシアの支配によって、「個々の些細な点に頑固にこだわり」互いに憎しみ、荒らしあい破壊しあうような状態に、一定の安定がもたらされたとも考えられる(ゲオルク ヘーゲル『東洋の歴史について』)。

・〔参考〕カンビュセスⅡには弟がいたが、兄弟は不和であり、カンビュセスⅡは弟を暗殺したという。(ヘロドトス『歴史』)

・紀元前522年 魯の孔丘は、周朝の都に遊学し、「礼」を学んだ。(『史記孔子世家)

・紀元前522年 エジプト遠征での帰りの事故で負った傷が原因で、カンビュセスⅡは死去した。

※カンビュセスⅡが埋葬された石棺には、「両国の統治者」「ラーの息子カンビュセス」といった文言があることから、エジプトの統治者として相応の振る舞いをしていたようである(安部拓児「カンビュセス二世」『アジア人物史 2』)。

・〔参考〕カンビュセスの死後、ハカーマニシュ朝の祭司某は、カンビュセスⅡの死んだ弟になりすまして、君主として政治を行ったという。(ヘロドトス『歴史』)

・紀元前522年 〔参考〕ダレイオスと6人の貴族は、君主を僭称する祭司某を殺害し、ダレイオスが新たな君主に選出されたのだという。(ヘロドトス『歴史』)

※実際は、ダレイオスが殺したのはカンビュセスⅡの実弟であり、簒奪を隠蔽するために架空の祭司を創りだした可能性もある(安部拓児「ダレイオス一世」『アジア人物史 1』)

・ダレイオスⅠは、カンビュセスⅡの死後に反乱を起こした有力者を制圧し、一連の顛末を碑文としてベヒストゥーン山の磨崖壁に刻んだ。

※碑文の中心には、翼の生えた円盤に乗る人物が刻まれ、ダレイオスⅠはそれを見上げている。鎮圧された反乱者は手を縛られているが、堂々とした姿である。ハカーマニシュ朝では、敵対していた者を、あまり屈辱的な姿で表現しなかった(安部拓児「ダレイオス一世」『アジア人物史 1』)

※ベヒストゥーン碑文はハカーマニシュ朝君主の家系を語り、キューロスⅡとダレイオスⅠの共通祖先としてハカーマニシュを置く。しかし、ダレイオスⅠ以前の碑文には、ハカーマニシュの名や、家系的繋がりを示すものはない。別系統の君主系図を繋げるための架空の人物と見られる(安部拓児「ダレイオス一世」『アジア人物史 1』)

・キューロスⅡの娘アトッサと、カンビュセスⅡの弟の娘パルミュスはダレイオスⅠに嫁いだ。また、君主僭称者某を共に倒した貴族からも娘を娶った。(ヘロドトス『歴史』)

※婚姻を通して、前王朝と結びついて、王位の正統性を確保し、貴族の娘を娶って権威を確立したのである(安部拓児「ダレイオス一世」『アジア人物史 1』)

・ダレイオスⅠは、サトラペイアという20の行政区を規定し、総督サトラプを任命、民族別に納税額を定めた。(ヘロドトス『歴史』)

ヘロドトスの表記した「サトラプ」とはギリシア語の「サトラペス」に由来し、サトラペスとはペルシア語の「フシヤシャパーワン(君主権、君主国を保護する者)」である。しかし、「フシヤシャパーワン」はペルシア語碑文における使用例は少なく、知事制度を示す用語として使用された形跡はない。行政区も史料間で違いがあり、時代ごとに変化した形跡がある。全貌は見えない(安部拓児「ダレイオス一世」『アジア人物史 1』)。

・ダレイオスⅠは道路網を整備した。ヘロドトスが言うところの「君主の道」である。(ヘロドトス『歴史』)

※「君主の道」は、エラム商人が用いていた交易ルートを大規模に拡大したものである(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・紀元前519年 ダレイオスⅠはサカ族を征服し、族長スクンカをペルシアに連行したという。(「ベヒストゥーン碑文」)

※サカ族は、反乱者ではなくハカーマニシュ朝の支配の外にいた人々である。「ベヒストゥーン碑文」には、後からスクンカの姿が刻まれており、キューロスⅡが成し遂げられなかったことを誇ったか、仇討ちを実現したことを示したかったとも考えられる(安部拓児「ダレイオス一世」『アジア人物史 1』)。

※「サカ」とは、漢字文献に現れる「塞」と同一の人々と思われ、スキュタイとも同一と考えられる(杉山正明遊牧民から見た世界史』)。

・ダレイオスⅠはインダス川流域の征服を考え、事前に探検隊が派遣された。探検隊の1人として参加したスキュラクスは、ギリシア語で『周航記』を著した。

※これにより、ギリシア世界に対してインドの知識がもたらされた(安部拓児「ダレイオス一世」『アジア人物史 1』)

・ハカーマニシュ朝は遠征軍を派遣し、インダス川流域を支配下編入した。

※ハカーマニシュ朝を介して、ギリシア世界はインドと繋がり、ギリシア人のインドに対する想像力を掻き立てた。そしてクテシアスによる、幻獣などの荒唐無稽な描写を含んだ『インド誌』が著されることになる(安部拓児「ダレイオス一世」『アジア人物史 1』)

・ハカーマニシュ朝は、黒海の北岸にいる「海の向こうのサカ族」と呼ばれる集団を征服しようと遠征軍を派遣した。しかし、成果は挙げられなかった。(ヘロドトス『歴史』)

・ハカーマニシュ朝の遠征軍の将軍メガバゾスは、ヨーロッパに残され、トラキア地方を征服し、マケドニアを服属させた。

・紀元前517年頃 孔丘は斉に赴いて、「韶」の音楽を聴いた。(『史記孔子世家)

〔参考〕丘は、斉にて素晴らしい、韶の演奏を聴いて、3ヶ月の間、肉の味を忘れたのだという。(『論語集解』述而篇14 周生烈注)

〔参考〕鄭玄は、(伝説上の王である)舜の音楽が、斉にも伝わっていたことを驚いたと解釈する。(鄭玄『論語注』述而篇 ぺリオ文書2510号写本)

※丘が重視したのは、芸術としてではなく、人の心を教化する道具としての音楽である(湯浅邦弘「孔子」『アジア人物史 1』)

・紀元前517年 斉に滞在中、孔丘は斉の君主である姜杵臼(景公)に対して「正名」と「節財」の重要性を説いた。(『史記孔子世家)

※「正名」とは実態に即して名と人倫を正すことであり、名分を守らないがために下克上が起こると考えられたことが根底にある。また、「節財」とは財政の節約である(湯浅邦弘「孔子」『アジア人物史1』)

・紀元前514年 韓・趙・中行・魏・范・智の卿は晋の公族である祁氏と羊舌氏を滅ぼし、新たな県大夫を任命した。

・紀元前514年 韓・魏・趙の卿は、中行・范・智を晋から駆逐し、晋を3分割して支配した。

・紀元前507年 アリスタゴラスの反乱は鎮圧された。(ヘロドトス『歴史』)

※反乱に際して、アテナイとエレトリアがアリスタゴラスに派遣した援軍は、サルディスの市街地を放火するなど狼藉を行っており、ダレイオスⅠはアテナイへの報復を考えていたという(ヘロドトス『歴史』)。

・紀元前505年 魯にて陽虎が実権を握って政務を主導した。

※陽虎は孔丘に豚を贈り、国政について丘と会って相談を持ちかけることにした。丘は最初、応じなかった。虎は丘に対して、国政のための策を持ちながら、それを用いようとしないことを問い詰めた。すると丘は承諾した。(『論語』陽貨篇)

※丘としては李孫氏、叔孫氏、孟孫氏が魯の公を蔑ろにする下克上の風潮を批判していた。それを抑えて実権を握った、虎からの誘いに乗った形である(浅野裕一儒教』)。

・紀元前501年頃 〔参考〕孔丘は魯に帰国した後、魯の都,中都を治める宰(長官)に任じられたという。(『史記孔子世家)

※魯に中都という城邑があったという記録は、孔子世家の他にない。

・紀元前500年頃 〔参考〕孔丘は大司寇(司法大臣)となったという。(『史記孔子世家)

※中都の宰から大司空になるまで、不自然に昇格が早いため、孔子世家の記述は疑われる(浅野裕一儒教』)。

・紀元前500年 ミレトスの僭主アリスタゴラスは、ハカーマニシュ朝の提督アルタプレネスに、ギリシア人の住むナクソク島の征服を提案した。しかし遠征は失敗、負債を抱えたアリスタゴラスは、返済を断念してハカーマニシュ朝に反乱を起こした。(ヘロドトス『歴史』)