個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

120~149

・121年 4.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人が秦韓の東辺に侵攻したという。

・122年 4.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅に台風が来て、木々を倒して瓦を飛ばしたという。都人は倭の兵が来るのではないかと考えて山谷に逃げたが、新羅王,朴祇摩は諭して止めさせたのだという。

※これは噂が広まったのであり、実際に倭人が来襲したわけではない。しかし、倭人の侵攻が新羅の人々にとって脅威であったことを示すとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

・123年 3.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅倭国と講和したという。

※「倭国」という形で、政治組織が形成されていたこととの関連性が指摘される(若井敏明『謎の九州王権』)。

・127年 クシャーン朝君主,カニシュカⅠは、この年を紀元1年と定めた。(「ラバータク碑文」)

カニシュカⅠの即位年は、紀元の創始年と混合されることがあるが、不明である(宮本亮一「カニシュカ一世」『アジア人物史 1』)。

クシャーン朝アラビア海に面するグジャラート地方にまで進出した。こうして、クシャーナ朝とローマはパルティアを経由せずして海路にて繋がった。インドとローマの間にあるアラビア海を越えなければならないという問題は、季節風航海術により克服された。こうして、ローマからインドへは金貨、ガラス製品、金属細工、ワインなどがもたらされた。そのため、クシャーン朝ではローマを参考にして、君主の肖像が刻まれた金貨が作られるようになる。また、イラン、ギリシア、インドなどの文字や神々が刻まれる場合もあった(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

カニシュカⅠは仏教を保護したこともあり、ギリシア系のバクトリアの影響を受けた仏像が制作されるようになった。(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

クシャーン朝においてはブッダの姿が刻まれた貨幣が発行されたことから、仏教との関わりはあったと思われる。しかし、クシャーン朝君主の崇拝対処は神格化された自然現象であり、ザラシュストラ教とは異なるイラン的な信仰を持っていた。カニシュカⅠについて、仏教的な逸話を伝えるのは、『大唐西域記』のような後世の漢文仏教文献である。クシャーン朝は宗教的に寛容であり、仏教教団にとっても良い時代であったことから、カニシュカⅠと仏教が結びついたとも考えられる(宮本亮一「カニシュカ一世」『アジア人物史 1』)。

※既に北西インドでは神や王の像はつくられており、仏教もその影響を受けた形であった。それ以来、仏像は仏塔と共にブッダの象徴として扱われるようになった(馬場紀寿『初期仏教』)。

※仏像のようなガンダーラ美術は中央アジアさらに東アジアへと伝えられていった(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・137年クシャーン朝君主,カニシュカⅠはインドからトハーリスターンに移動した。(「ラバータク碑文」)

〔参考〕玄奘の『大唐西域記』によれば、カニシュカⅠは周辺諸国から差し出された人質の居場所を季節ごとに移動させたという。

※移動の記録や、貨幣や彫像におけるクシャーン朝君主の風貌から、その出自は遊牧民であり、漢文史料に現れる大月氏とも考えられる。しかし大月氏についての文献は、カニシュカⅠの時代と離れており、不明瞭な部分が多い(宮本亮一「カニシュカ一世」『アジア人物史 1』)。