個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前6500~5500年頃

・紀元前6500年頃 Çatalhöyükでは土器とともに、粘土による小像や容器が作られていった。

※土器を作るための燃焼技術は治金のために利用され、世界でも早くに銅製の玉、鉛製の首飾りなどの装飾品が作られる。一次産品が加工されていたということは、工人が存在していたことを意味する。農業以外の職業が芽生えたのであろう(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

※繁栄したのÇatalhöyük住居は、出入りには梯子を用いるようになっており、住居は壁のみで隔てられていた。部屋の天井には樫の木で梁を形成し、その上に横木と葦を敷き詰めて粘土で固めていた。一部の室は壁面は漆喰で装飾され、牛、豹、白襟禿鷲などの動物が描かれていた。妊婦や出産の姿をして家畜を従える女神小像もあり、宗教的な空間であったと考えられる。男神はオスの牛の姿で表現された。神殿と推定される壁には鳥が死体を襲う絵があり、鳥葬のような文化があったことを思わせる。埋葬された遺骨の一部には、黒曜石の鏡や短剣、金属製のビーズなどが副葬品としてあった。首長たちが葬られていたのかもしれない(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前6500年頃 Anatoliaの農耕文化はBalkan 半島に伝わった。こうしてBalkan 半島においても小麦、大麦、扁豆、豌豆などが栽培されるようになった。Anatoliaの農耕文化は既に成熟していたため、山羊、羊、豚、牛の牧畜も同時に行う混合農業が、早期から行われた(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・Anatolia由来の農耕は、Balkan半島より現在のDeutschやPolskaにも伝わっていった。これらの地域では温暖化の影響で森林が多かったため、初期の農耕文化でありながら堅牢な木造住居が作られた。肥沃な河川沿いでは、草葺きの屋根と小枝の上から泥で塗り固めた壁を持つ、木造住居,ロングハウスが約50~100m置きに作られていた。その内部には居住区画、家畜収容区画に食料貯蔵区画があり、家族単位で住んでいた(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・Donau流域から、Magyarország、Deutsch、Polska辺りのロングハウスの並ぶ集落では、帯状の装飾がある土器が製造されたことから帯紋土器文化圏と呼ぶ(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前7000年紀末 Balkan半島の農耕文化は、Adriaを越えて南ItaliaとSicìliaに伝わった。こうして洞窟や岩陰を住居として狩猟採集と漁労に勤しんでいた人々は、小麦や大麦の栽培や山羊や羊の飼育をはじめた。とはいえ天然資源も豊富であり、それまでの狩猟採集や漁労も継続して行われた。また、笊貝(Cardiidae)を用いて目のような装飾を施した土器(Cardiidae土器/カーディアル・ウェア)が制作されるようになる(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・Italia半島の農耕文化は、カーディアル・ウェア文化とともに南FranceやIbérica半島そして大西洋に面するLoire地方やMoroccoの地中海沿岸にまで広まった。ただ、天然資源の豊富な東海沿岸域や大西洋以北の沿岸域おより東Europa河川沿いでは、農耕文化伝来後もそれに頼る必要性があまりなく、狩猟採集が続いた。それらの地域では天然資源を求めた人々が集まり、農耕集落以上の大規模集落が形成された(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・Danmarkにおいては、冬から春にかけての主要な食料であった牡蠣が絶滅したことで社会が農耕を導入した(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

紀元前6000年 Kachii平原の住居には、食料貯蔵庫や道具置き場としての部屋が併設されるようになる。集落間では貧富の差が生じたほか、生産性の高い六条ムギの栽培により人口が増えた。工人たちは石器はもちろんのこと、Persia などから渡ってきた瑠璃や土耳古石、凍石を加工して装飾品を拵えた。こうした宝石などの交易品と交換されたのは発火石であり、Gaṅgā(Ganges)流域に限らず中央Asiaにも運ばれ、Mehrgarhを発展させることになる。土壙墓からも骨角器や貝の装飾具が発見されている(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前6000年頃 中原にて新石器文化が興った(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※石器のほかに土器、木器、骨角器が使用されており、人々は獣皮の服を着ていた。また、一部地域では絹を生産していた(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

磨製石器や土器が製作されたほか、黄河流域と長江流域では穀物が栽培され、家畜が飼育されるようになった。穀物栽培によって人々の生活が安定すると、宗教や政治組織が発達するようになった。この時代は新石器時代と呼ばれる(伊藤道治『古代中国』はじめに)。

黄河流域には陜西を中心とする老官台文化が成立した。遺跡のある陜西省華県の「老官台」からその名で呼ばれる。河南省からその北部には磁山文化、河南省南部から湖北省北部には裴李崗文化山東省西南部から江蘇省北部には北辛文化が成立した。老官台文化と磁山文化の圏域では、細かい砂粒を入れて製作した夾砂陶が多く用いられ、裴李崗文化と北辛文化では夾砂陶と同数程度には微細な泥質の土で製作された陶器が用いられた。夾砂陶は加熱調理を行う陶器に用いられ、食物や液体を入れる陶器には泥質陶が用いられた。老官台文化は暗紅色、磁山文化と裴李崗文化では紅褐色、北辛文化では黄褐色や紅色の陶器が主に使用されていた。裴李崗文化では艶出しをした陶器が多く見られ、光沢のある陶器を愛用していたようである(伊藤道治「農耕社会の成立」『古代中国』)。

※老官台文化、磁山文化、北辛文化では打製石器磨製石器が併用されていた。脱穀には長楕円形の磨盤と棒状の磨棒が使用されていた。老官台文化では石臼と石の杵、収穫用の石刀が用いられた。家畜化された犬、豚、鶏の骨もあることから、新石器時代の発達した段階であったことが理解できる(伊藤道治「農耕社会の成立」『古代中国』)。

・紀元前6000年頃 朝鮮半島では土器が作られるようになる。その土器には口縁に隆起があることから、隆起文土器と呼ばれる(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前6000年頃 Bolan川の流水の恵みを受け、農耕牧畜に適した野生種の存在したMehrgarhでは、土器が作られるようになった。中心的な土器製造地になったことで、集落が巨大化し、社会性を持った共同体へと成長する(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前5600年頃 氷河融解の影響で、地中海の水位が上がりはじめる。するとその海水が、90km/hを超える速さで、Marmara海Bosporus海峡を通って、Euxinos湖に流れ込んだ。Eixinos湖の水位は1日に約15cm上昇し、2年の間に海水で満たされて海となった。それが黒海である。塩分濃度の変化により、黒海には軟体動物が出現したとも考えられる(アリ・アクス等説)(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

・紀元前5500年頃 地球の気候は温暖化し、肥沃な三日月地帯の西側の内陸草原地帯は、草原が乾燥化した。それにより農耕を放棄して遊牧生活を送る人々が現れた。家畜を統制する体制が整ったことで、集落に留まる必要の無くなった集団は遊牧民となり、肥沃な三日月地帯から離れて乾燥地に繰り出した。当時の遊牧民はテントを持たず、キャンプ周辺にて材料を調達し、簡易的な住居を営んだようである(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。