個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前5500~4000年頃

・紀元前5500年頃 Mesopotamia南部にひとが定住を始めた。

※遺跡の名前から、Ubaid文化期と呼ぶ。UbaidやEriduといった遺跡からは、彩文土器が出土している(小林登志子『古代メソポタミア全史』)。

〔参考〕『Nam-Lugal "Kingship(Sumerianus Rex List)』には、Eriduに人類最初の王権が成立したとある。

※Eriduでは、人類の創造者に位置づけられる、水と知恵の神Enkiの信仰が盛んであった。そのことから、水を重視していたことが伺える。Eriduでは、Enkiを理念上の君主としてその神殿が建てられ、次第に拡大された(小林登志子『古代メソポタミア全史』)。

・紀元前5000年までに、人類はオリーブの木を栽培植物化した(小林登志子『古代メソポタミア全史』)。

・紀元前5000年頃 長江の中流域と下流域にて、稲の栽培を中心とした農耕文化が出現した。また、猪を家畜化した豚も飼育していた。稲と豚のみで食料を賄ったわけではなく、狩猟採集や漁労も行っていた(小林登志子『古代メソポタミア全史』)。

※Orient文明は、Sogdianaを通って黄河文明を成立させたとされる(宮崎市定『アジア史概説』)。

黄河文明がOrient文明の影響により成立したという見解を疑問視する説もある(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

黄河文明付近は、北方にGobi砂漠、西方に天山・崑崙両山脈とその間のTaklamakan砂漠とTibet・Pamir高原、東方の東南方は東および南シナ海に閉ざされた空間であった。ただ、マンチュリアは比較的になだらかな陸地で繋がれており、indochinoise半島との間にある山地もそこまで険しくはなかった(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

※中原に成立した、米作を主とする長江文明を抑えて、麦作を主体とする黄河文明が主流となる(岡本隆司『世界史序説』)。

・紀元前4800年頃 黄河流域に、陝西省付近を中心とする仰韶半坡類型文化と、河南・河北・山西・山東に広がる後岡文化が成立した。

※仰韶半坡類型文化と後岡文化では紅陶が主に使用されており、その紋様は、鉢や碗の口縁部に黒い帯状で彩色されるような単純なものだった。そうした紋様は、仰韶半坡類型文化は老官台文化、後岡文化は北辛文化から継承されたと考えられる(伊藤道治「農耕社会の成立」『古代中国』)。

※後岡文化において調理に用いられた鼎は、北辛文化の影響を受けている。かつて後岡文化は、仰韶半坡類型文化の後岡系と呼ばれたが、別に成立したものと考えられる。半坡類型文化には鼎はない。ただ、それらの2つの文化には交流があった。また、後岡文化は裴李崗や磁山の文化の影響がみられる(伊藤道治「農耕社会の成立」『古代中国』)。

※仰韶半坡類型文化では、姜寨遺跡や半坡遺跡などに集落を取り囲む環濠がみられる。環濠は他の集落からの攻撃を防ぐためという見解と、野獣の侵入を防ぐためという見解がある(佐藤信弥『戦争の中国古代史』)。

※仰韶半坡類型文化では、魚、鹿、人面を描いた紋様を持つ土器が使用されていた。煮炊きには縄文を付けた罐などが用いられ、食物を入れる鉢や碗の紅陶は表面を艶出ししたものもあった(伊藤道治「農耕社会の成立」『古代中国』)。

・紀元前4000年頃 中原の各地にて集落が拡大し、父系の首長制社会が形成されていった(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』 落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※実際はどうかに関わらず、共通祖先いるという意識を共有した「氏族(クラン)」が集住し、農耕を行っていたとみられる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前4000紀初頭 長江下流域にては2~5㎡ほどの小規模水田がつくられた。次第に集落は拡大し、直径300mもの濠と土塁が作られるようになる。

※こうした集落を維持するために、宗教的ないしは軍事的実力者が首長的地位になり、権力が確立した。有力者が保存食料や交易品を多く持つと貧富の差が生まれた(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)

※大規模になった集落は、周辺集落と利害関係が生じ、戦争が起きる。こうして殺人のための武器の需要が出現した(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

※生命や財産の安全を目的として持っている集団は、都市を維持することを目的にするようになる。そして形成された国家内における利害が生じることで、新たな課題が提示されるとも考えられる(Georg Hegel『世界史の哲学』1830~1831〔冬学期〕序論)。

・紀元前4000年頃 朝鮮半島では櫛歯状の道具で模様を付けた土器(櫛目文土器)が広く普及した(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)。

紀元前4000年までに、人類は馬を家畜化している(ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』)。

・紀元前4000年頃までに、北辺を除くEuropa全域にて農耕文化は定着をみる。農耕の伝播により拡大した集落同士は関係を深め、交易網の拡大により、輸出品の付加価値を高めるために集落の工芸技術は向上した(青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』)

・紀元前4000年頃 中東にて葡萄酒づくりがはじまった(宮田律『イスラムがヨーロッパを創造した』)。