個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前2500~2000年頃

・紀元前2500年頃 Ur NansheがLagašの君主となった。

※Ur Nansheは神殿の建立や運河の開削を行い、その功績を碑文に刻んでいる(小林登志子『文明の誕生』)。

紀元前2358年頃 Lugal Zage SiがUnug(Uruk)第3王朝の君主となった。

※Lugal Zage Siの時代には、Ki-en-ĝirの地域は統合されていった。

・起源前2345年 TetiはAigyptosの君主となった(第6王朝)。

※第6王朝の時代にはNubia地方のSudanとの関係が深まり、船舶のための建材がSudanよりAigyptosに送られたほか、Nubia人がBadawī族との戦闘のための軍に編入された(山口昌男『アフリカ史』)。

・紀元前2340年頃 UruinimginaはLagašの君主になった。

※Uruinimginaは牛飼いや羊飼いのほかに城壁の警備を神殿にも割り当てた(小林登志子『文明の誕生』)。

・紀元前2334年頃Akkadの君主Sharru kin(Sargon)はUnug(Uruk)君主Lugal Zage Siを捕虜にした。

※Akkad君主国は、Ki-en-ĝirとAkkadを統一する国家となった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※Sharru kin(Sargon)は全土の君主を意味する称号(Ki-en-ĝir語:Lugal kiš,Akkad語:Sharru kish ati)を用いており、それは碑文にも刻まれた。AkkadではKi-en-ĝirと同様に、君主はEnlil神から王権を授けられたという神話があり、Sharru kin(Sargon)は、Enlil神よりKi-en-ĝirとAkkadの両方の王権を授けられたと主張した(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

※Akkad人はSem語系のAkkad語を話しており、Ki-en-ĝir語の楔形文字による表記を学んだ。Ki-en-ĝir語と起源を同じとしながら、単語自体が変化する屈折語であった(池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※Ki-en-ĝirはAkkad語でŠumerumと呼んだ。Ki-en-ĝir語ではのことをキウリと呼んだ。キウリの由来は不明である(小林登志子『古代メソポタミア全史』)。

・紀元前2254年頃 Naram SinがAkkadの君主として即位した。

※Naram Sinの時代、Akkadの勢力は、東はPersia海、西は地中海にまで拡大した。彼は四方世界の君主を意味する「Lugal kibratim arbaim」という称号を用いて、東西南北の支配者であると主張した。また、、自身をEnlilの下位に位置するAkkadの守護神であるとして、神格化を行った。エジプトと同様にAkkadでも冠は君主の象徴となり、描かれる神々の姿を模倣して、Naram Sinは角のある冠を被ることとなった(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・紀元前2242年頃 Aigyptos第6王朝の中央政府が瓦解した。

中央政府の瓦解により、AigyptosとNubiaの交易は断絶した。しかし、Kushという集団がNubiaに移住し、地方を統合する勢力となった(山口昌男『アフリカ史』)。

・起源前2235年頃 商人のHarkhufはSudan内陸地方から連れてきた「踊る小人」を、Aigyptos第6王朝の君主,Pepii Ⅱに献上した。

・紀元前2115年頃 Ki-en-ĝir君主Ur Nammuによる国家、Ur第三王朝が成立した。

※Ur第3王朝の君主はKi-en-ĝirとAkkadの君主を名乗った(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※第3王朝が形成されるにあたって、「nig-si-sa(正義)」を高揚させ、悪業と悲嘆の屈服という文言が碑文に刻まれた。「nig-si-sa」の使用の初見とされる。社会・人間関係における正しさとしての、正義の維持が責務となったのである。

※第三王朝では、Ur Nammuの建てた E-temen-nigurをはじめとした、ziqquratなどの建築が建てられた。都市の住民日干し煉瓦の建物にすんでいた。その建物には中庭があり、地中海建築の特徴が見られる(本村凌二 中村るい 『古代地中海世界の歴史』池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。

※Ur Nammuは既存の慣習法を整理して、適切な刑量を考えて、『Ur Nammu法典』を制定した(池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。

※Ur第三王朝では、土壌に塩分が蓄積したことで、穀物の生産力が低下して都市が衰退することになる(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前2094年 ShulgiがUr第3王朝の君主として即位した。

※Shulgiの時代、Ur第3王朝は強固な統一国家となった。また、彼は君主の神格化を進めEnlilの下位の守護神であると位置づけた(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・紀元前2055年頃 上AigyptosのWo'se(Thēbai)を本拠とする君主Mentuhotep IIが下Aigyptosを支配した。

統一国家が成立して以降のAigyptosは中王国時代という。中王国時代にはPalestinaやNubiaを支配し、経済発展を遂げて、文学や芸術が発展した(上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』)。

※中王国時代には、Hieroglyphを簡略化したHieratic(大衆文字)が生まれた(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)

※Aigyptosでは、Iteru(Nile)河畔に生える葦の一種カミガヤツリを用いた、papyrus紙が発明され、葦ペンとインクによって文字が書かれた(鈴木薫『文字と組織の世界史』池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。

※中王国時代の※Aigyptosでは、あの世にて善良と判断されれば永遠の命が与えられるといった信仰が広まり、「死者の書」と呼ばれる文書がpapyrus紙に記された(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前2003年 Ur第三王朝は滅んだ。その後下Mesopotamiaの統治はIsin第一王朝が担った。

※この頃より、Amurrū系の諸部族がMesopotamia各地に定住するようになった(柴田大輔『アジア人物史 1』第1章 はじめに)。

・紀元前2000年頃 Indo-Europa語族の人々が、AnatoliaのHatti地方に進出した。

※Hattiに住む人々は「Hattiの人々」と呼ばれた。それらの先住民を支配したIndo-Europa語族は、その領域を「Hatti国」と呼び続けた。Hattiの人々は周辺の言語との共通性のないHatti語を話していたが、支配層はNeša語を話していた。Nešaとは、元はKanešと呼ばれた町の名称に由来する。Indo-Europa語では、時間の経過と共にkが発音されなくなる傾向にある(津本英利『ヒッタイト帝国』)。

・紀元前200年頃 Indo-Europa語族の一部がBalkan半島南部に渡った。

・紀元前2000年代初期 Mesopotamiaには都市国家が割拠し、IsinとLarsaが特に力を持ち、ほかにもEshnunna、Babylon、Aššur、マリなどの都市が勢力圏を築いていた。当初はIsinに勢いがあったが、後にLarsaが勢力を拡大する。

・紀元前2000年紀 中原から朝鮮半島に稲が伝わったものと思われる。

紀元前2000年紀 Mesopotamiaやエジプトの影響を受けて、Egéo Pélagos(海)のKrētēにはEgé文明(Mīnōa文明)が栄え、Knossos宮殿が築かれた。

※Knossos宮殿には、絵文字、線文字A、線文字Bの3種類の文字の記された文書が見つかり、後に線文字BはGraecia語を表記したものであると判明した(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)

※Graecia文字は、Phoiníkē文字を元にしたものである(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・紀元前2000年前後 陶寺遺跡の場所において、宮殿や観像台が破壊され、墓が荒らされたと思われる。

※他勢力との争いか、内部抗争によって都城が破壊され、村落にまで衰退したと考えられる(佐藤信弥『戦争の中国古代史』)。

・紀元前2000年頃 都市国家Aššurを拠点とした、Aššurが台頭する。

※AššurBabyloniaはとAnatoliaを結ぶ遠隔地交易により発展した(上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』)。