個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前3000~2500年頃

・紀元前2800年頃 Buranuna(Euphrátēs)川が氾濫した。

イラク南部アル・ブダイルにあるTell Fara遺跡は、紀元前2800年頃にBuranuna(Euphrátēs)川の氾濫による洪水の被害にあった痕跡があり、その後放棄されたようである。この遺跡は、かつてShuruppakと呼ばれた街のそれであったと考えられている(池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。

・紀元前2686年頃 Sanakht/Nebkaはエジプト第3王朝の君主として即位した。

※エジプトではIteru(Nile)川の水量が農耕に際して注視された。そのため、民の豊饒と平安を保障する責務のある君主は、役人にその水量を見張らせていた。豊饒を保障する存在であった君主は、農耕において重視される太陽と結びつけられるようになり、エジプトで崇拝されていた太陽神Re(Ra)の子息と見なされるようになった(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

※第3王朝の時代、エジプトでは強大な君主権と官僚制が確立される。また、絵文字から発展した表記文字として表意文字,hieroglyphiká(神聖文字)も生まれた。hieroglyphikáは知恵の神Thothが発明して人間に与えられたものであると信じられていた。hieroglyphikáは左から右に表記したが、行が変わる際に逆向きに表記することもあった。表意文字として生まれたものの、比較的早い内から表音文字として用いられはじめる(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

※この時代のエジプトでは、永遠の命を得ることができるのは君主等のみであると考えられていた(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※君主等の上級層は、魂が再び帰って来て宿るべき器として遺体を木乃伊にして保存させ、 Mastaba墓などに埋葬させた。そのような多くの墓は後に盗掘者やハイエナなどにより掘り返された。対して庶民たちは砂に埋葬されていた(上田耕造ほか『西洋史の扉をひらく』)。

※エジプトにおいてはその領土の全ては君主に属するものと定められ、太陽神を主軸とした多神教のなかにおいて君主もまた神の化身とされた。また、君主の来世の生活のための、myr(pyramid)や墓が作られている(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

※エジプトのmyr(pyramid)を建設する労働者には麺麭と麦酒が支給されていた。7月から10月までの農閑期に、仕事のない農民に対する救済のための事業であったと考えられる(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※myr(pyramid)が角錐系であることや、君主Menkauraとその妃の立像に見られる特徴から、古王国時代のエジプト美術は、自然を観察してそれを幾何学的秩序に当てはめようとする傾向が見られる(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

※Sindhu(Indus)川流域にはIndus文明が成立した。Moenjodaro(死の丘)やHarappaと名ずけられた都市遺跡は、この文明の遺物である。Indus文字を用いた文字は未だ解読されていない。

Indus文明は、Indus河口とPersia湾にむかう海の道にて、Mesopotamia文明のKiengir人都市国家やUrim(Ur)などと、紅玉髄などの交易を行っていた。KiengirからはIndus文字が刻まれた印章、Indus文明の都市からもMesopotamia型の印章が見つかっている(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

Orient文明とIndus文明の交易を仲介したのは、Zagros山脈沿いにあったElam君主国である。Elam君主国は、Homo sapiensがAfrica大陸から進出する際に用いた道を整備し、Kiengir人などとの交易を行い、石材、木材、貴石のような資源を輸出して栄えたものだと思われる(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・紀元前2600年頃 「Ziusu-draの洪水神話」が創作されたと考えられる。

※作中で、神々は人類を滅ぼすために洪水をおこそうとする。しかしShuruppakの君主Ziusu-draは知恵の神Enkiから巨大な船を造るよう促され、その通りにして助かったと語られる(池上英洋『ヨーロッパ文明の起源』)。

・紀元前2500年頃 エジプトで葡萄を用いて葡萄酒が製造されていたことが記録に残っている(宮田律『イスラムがヨーロッパを創造した』)。

・紀元前2500年頃 気候変動の影響を受けて中原の首長制社会が衰退する中、竜山文化が各地の文化を吸収してゆく(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※周囲の集落を支配した大きな集落は、都市国家へと成長した。戦争があれば、指導者を持つ集落は優位に立つことができる。そのため、戦争への対策を進める集落は社会が階層化し、非生産階級を維持するために余剰生産物が生まれた。集落を支配する指導者の墓には、副葬品が供えられた。副葬品には神や祖先を祀るものがあり、平時の指導者は宗教的指導者でもあったことが窺える。(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。