個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前299~200年

・紀元前288年 秦の昭王,嬴稷は2か月間「西帝」を称した。

※これは王号に代わる権威を、帝に求めたものである(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

・紀元前272年 Roma人は、南イタリアのGraecia人都市タレントゥムを陥落させ、イタリア半島を統一した。

・紀元前268年頃 AśokaḥがMauryaの君主として即位した。

・紀元前264年 Sicilia島を巡って、RomaとCarthāgōの間で戦争が勃発した(第一次Punici戦争)。

・紀元前262年 EumenēsはSeleukοs朝から離反し、Attalos朝Pergamonを成立させた。

※Pergamonは鉱産物資源に恵まれたほか、穀物、果樹を栽培、毛織物や羊皮紙などの産業があった。Romaと結託することで存続を狙った(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前260年頃 Maurya朝君主Aśokaḥは、カリンガを征服した。(「磨崖法勅」第13章)

※「磨崖法勅」によれば、10万人が殺害され、15万人が移送されたという。そのことをは後悔し、Aśokaḥは仏教に傾倒するようになったという(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史』)。

・紀元前259年 1. 1 秦の荘襄王,嬴子楚は、子息に正を儲けた。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前258年頃 Maurya君主Aśokahは、Gotama Siddhatthaが悟りを開いたという、saṃbodhi(Mahābōdhi)に巡礼し、菩提樹に詣でた。彼は領内の仏教関連の場所を巡行した後に、「小磨崖法勅」を発布した。(「磨崖法勅」第8章)

※貴賤の人民に努力を促し、父母や師への従順、生類に慈しみを持つこと、真実を語るなどのdharma(巴:dhamma,漢:法)の美徳が求められた(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史』)。

※家族愛から拡大して村、地域社会、国家へと社会倫理が勝たられる点は、『大学』における儒教倫理との共通性が指摘される(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

※法勅の形式には、haxāmaniš朝の法令の影響も指摘される。haxāmaniš朝より伝わった統治の方法が、のMaurya朝による広範囲の領域支配を可能にしたのだと考えられる(馬場紀寿『初期仏教』)。

※基本的に、法勅の碑文はBrāhmī文字で刻まれた。Maurya朝領土の北西部などでは、Aram文字、Graecia文字、Kharoṣṭhī文字にて碑文が刻まれた。Aram文字はhaxāmaniš朝からもたらされ、Graecia文字はAlexandros Ⅲの東征によりもたらされたものである。Richard Salomonは、Brāhmī文字はAram文字を元に作成されたという仮説を提示している。haxāmaniš朝の影響下で、Indoの文字は成立したと考えられる(馬場紀寿『初期仏教』)。

※Gotama Siddhatthaが、その下で悟ったと信じられたことから、菩提樹はbuddhaの象徴となり、信仰を集めた(馬場紀寿『初期仏教』)

・紀元前256年 Maurya朝君主Aśokaḥは法勅を発布し、生類の殺害や生贄、君主の認めた以外の祝祭は禁止され、宮殿での屠殺を制限し、いずれ停止することを宣言した。また、地方の官吏にはdharma(巴:dhamma,漢:法)の宣布のために巡行が命じられた。また、自身と子孫によるdharma(巴:dhamma,漢:法)の実践を約束している。(「磨崖法勅」)

・紀元前255年頃 Maurya朝君主Aśokaḥは、dharma(巴:dhamma,漢:法)の宣布と人々の福利を目的として、ダルママハーマートラ(法大官)を任命した。(「磨崖法勅」第5章) また、奴隷や従者への丁重な扱い、父母への従順、友人、知人、親族、Śramaṇa(巴:Samaṇa,漢:沙門)とbrāhmaṇa(漢:婆羅門)への気前の良さと、不殺生といった徳目を推奨し(「磨崖法勅」第11章)、宗教者に対しては、他宗教を貶めず寛容になり、自派の発展に尽くすよう求めた。(「磨崖法勅」第12章)

※他宗派の調和を求めていることからして、「磨崖法勅」に示されるdharma(巴:dhamma,漢:法)は、仏教とは独立した、普遍的な倫理を意味している。広大な領土を統治するうえで、共通の倫理規範を定着させることを決めたのである。「磨崖法勅」の碑文は領土の周縁に多く立てられ、主に周辺諸民族を対象としていた。ただ、dharma(巴:dhamma,漢:法)に従わない勢力には武力行使もほめのかしており、Aśokaḥの考えるdharma(巴:dhamma,漢:法)に合致しない風習を否定するものであった(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史 1』)。

・紀元前255年 秦は周を滅ぼした。この際、周王の象徴である九鼎は秦の昭王,稷の手に渡ったという。

・紀元前254年Maurya朝君主,Aśokaḥは、仏塔を増築した。(「Nigahri Sāgar法勅」)

※仏塔は、Gotama Siddhatthaの遺骨を埋めた塚であったと考えられる。菩提樹と共に、buddhaの象徴として崇敬を集めた(馬場紀寿『初期仏教』)。

・紀元前251年 秦の昭襄王,嬴稷は薨去した。(『史記』)

・紀元前250年 秦において、安国君,嬴柱が即位し(孝文王)、王子の子楚が太子となった。(『史記』)

・紀元前249年 秦の孝文王,嬴柱が薨去し、太子の子楚が即位した(荘襄王)。

・紀元前249年? 50歳になった荀況(荀子)は斉に遊学した。(『史記』)

〔参考〕『荀子』「明鬼篇 下」には、殷の紂王,受は天下を謗り、鬼神を軽視し、老人や幼児ほか人々を殺し妊婦の腹を裂いたとある。

※『荀子』の記す逸話は根拠のあるものではない。春秋時代以降には教訓説話が求められていたため、天命を失った君主として知られていた受は、あるべきでない君主像として描かれるようになった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※『荀子』には「楚に居り而して楚たり、越に居り而して越たり、夏に居り而して夏たり。これ天性に非ざるなり、積靡して然らしむなり」とあり、華夷の差は先天的なものでなく、文明の習得によるものとされた。況は、全ての人々が文明を受け入れれば天下は一つの家のようになると考えた(佐川英治秦漢帝国漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※斉の中心地である臨淄は繁華街が賑わっていた。周の宣王,姫静は学問を保護する目的から稷門の外には学堂が建てられており、況らそこに招かれた学者は「稷下の学士」と呼ばれた(佐川英治秦漢帝国漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

・紀元前248年頃 Maurya朝君主Aśokaḥは、Gotama Siddhatthaの生誕地とされるLumbinīに巡礼し、そこの租税を減免した。(「石柱法勅」)。

※「石柱法勅」の発布の以前と推定される時期に、Aśokaḥは「破僧伽法勅」を出しており、仏教saṃghaの分断を画策したBhikkhu(梵:Bhikkhu,漢:比丘)やbhikkhunī(梵:bhikṣuṇī,漢:比丘尼)は僧院から追放することを定めている。また、同時期に発布されたと考えられる「kolkata バイラート石碑」においては、Buddha,Gotama Siddhatthaの教えのうち、7つの題目の内容を、仏教出家集団と在家信徒は、繰り返し聴いて記憶するよう説いている。修行者への介入の態度は、彼の仏教理解への自信と、Dharmaに基づく政治の成功の確信が読み取れる(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史 1』)。

※「kolkata バイラート石碑」において仏教徒に求められるのは、Buddhaの教えを聴いて記憶することである。『Mahābhāratam』には、Vedaを書写したものは地獄に落ちるとあり、聖典は記憶するものだという観念がIndoにはあった(馬場紀寿『初期仏教』)。

・紀元前247年 趙正は秦王として即位した。(『史記』秦始皇本紀) 李斯は郎官として謁見した。

※13歳の少年君主が国政を担うことは困難なため、呂不韋が代行した。正は不韋を父に次ぐ者を意味する「仲父」と呼んで敬った(渡邉義浩『「中国」は、いかにして統一されたか』)。

・紀元前242頃 Maurya朝君主Aśokaḥは、石柱に法勅を刻み、死刑囚には助命嘆願や死後の再生のために寄進や断食を行うための3日間の猶予が定められた。また、鸚鵡、蝙蝠、亀などの特定の動物の殺生を禁じ、子連れのメスや生後6ヶ月未満の山羊や牛など、殺生に一定の制限を設けた。

※殺生の禁止については、ある程度の譲歩をせざるを得ない現実があったと考えられる(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史 1』)。

・紀元前241年 Romaは、Carthāgōからの賠償金とSicilia島を獲得した。

・紀元前241年 韓、魏、趙、衛、楚の連合軍は、秦に出兵して寿陵を奪った。趙軍は秦の蕞を奪おうとして失敗した。(『史記』趙世家) 秦軍が出兵すると、連合軍は撤退した。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前239年 秦において、呂不韋は『呂氏春秋』を完成させた。

※古今の人物の成功や失敗、政治論や諸子百家の説などを収録したものである。「不二篇」には、君主が法を一元的に把握することにより国家を支配すべきことが説かれている(渡邉義浩『「中国」は、いかにして統一されたか』)。

※『呂氏春秋』は、太皞、黄帝、少皞、顓頊が「五帝」に位置付けられる。また、五行思想に基づき、太皞が春、炎帝が夏、少皞が秋、顓頊が冬となり、黄帝は夏の終わりとして中央に置かれる。これらの帝王は神のような性格が語られるものの人間的であり、五行の元素(木火土金水)との関係性が述べられるしても天地や人間の存在は当然のこととして置かれている。五帝もまた元素による関係性の内にあるものとして考えられたのである(伊藤道治「伝説の帝王」『古代中国』)。

・紀元前238年 秦の宦官,嫪毐は、秦王趙正の母との間に子息2人を儲けており、趙正に謀反を起こし、秦王に即位させようとしたが、それが告発された。(『史記』秦始皇本紀) 嫪毐とその子息2人は処刑、秦王の母は古都の擁城に幽閉され、嫪毐を支持した舎人は財産を没収された。(『史記』秦始皇本紀) そもそも嫪毐を後宮に送り込んだ呂不韋も罪を問われた。秦王の趙正は死罪にしようとしたが、功績と人望を鑑みて死罪は免じた。(『史記呂不韋列伝)

※嫪毐が秦王の母から寵愛を受けたというのは、この記事における『史記』の原史料が、趙正側の脚色を受けていたのだと考えられる、後宮の情事を利用して、趙正としては嫪毐と呂不韋という国内の巨大勢力からの自立を模索していたのだと考えられる。また、睡虎地秦簡『法律問答』では、父母の告発を禁じていたため、趙正としても恣意的な法解釈を行わず、母を罪に問わない形で事件を処理している(鶴間和幸「始皇帝」『アジア人物史 1』)。

・紀元前238年 呂不韋は家族とともに蜀への流罪を命じられると、自分が許されないことを悟り、その地で服毒自殺した。(『史記呂不韋列伝)

・紀元前238年 遊牧民Parni族は、Parthia地方に進出した。そこで、Arshak(希:Arsakēs)が君主となった。その名からArshak朝Parthiaと呼ばれる。

Parthiaは、Persiaと同語源である(宮崎市定『アジア史概説』)。

※Arshak朝においては、Aram語と古代Persia語を用いられたため、PersiaにおいてはGraecia語語は廃れた。古代Persia語は当初Aram文字で綴られたが、Aram文字を元にしたParthia文字で綴られるようになる(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・紀元前238年 RomaはSardiniaとCorsicaを領土に加えた。

※これはCarthāgō内の混乱に乗じたものである。こうしてRomaは、Italia半島の外に領土を得て、公職者を派遣して属州として統治した(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前236年 趙が燕を攻撃していた隙に、秦は魏を攻めて九城を取った。次に秦は趙の閼与と橑陽を取った。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前234年 秦は趙を攻め、10万人の首を取った。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前233年 韓王,姫安は王族の韓非を使者として送った。

※秦王の趙正は、韓非を登用することもなく、しかし留めおいた。帰国させれば秦が不利になると見込んだからである(鶴間和幸「韓非」『アジア人物史 1』)。

・紀元前233年 〔参考〕李斯は韓非に毒を送り、自殺を促したという。(『史記』)

〔異説〕『戦国策』は秦王の趙正の命で殺害されたとする。

・紀元前230年 秦軍は韓王,姫安を捉えた。ここに韓は滅亡した。

・紀元前229年 秦は趙を攻めた。

・紀元前228年 趙王の趙遷(幽穆王)は秦に降伏した。

・紀元前221年 秦王,趙正は君主号を改めることにした。博士たちは「天皇」「地皇」「泰皇」という候補を挙げ、「泰皇」こそが最も尊いものであると説明した。正は「泰皇」から「皇」を取り除き、「帝」を加えて「皇帝」を名乗ることにした。また、李斯さ「天子」の自称として「朕」を提案した。(『史記』秦始皇本紀)

※「泰」とは天や地の神よりも上位の天帝,泰一を意味する。しかし正は「帝」の字にこだわり、それを修飾する文字として、「王」に通じ、光り輝く様を意味する「皇」を合わせたのである。天の中心の権威である天帝に対して、正は地上の中心としての権威を求めた(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

※正は斯の提案を受け入れているため、「天子」であるという自覚があったと考えられる。「天子」が「上帝」に従属するというのは儒家の思想であって、正がそう考えていたわけではない(佐川英治「皇帝が「天子」を称するとき」『君主号と歴史世界』)。

※秦の時代、皇帝の諱を避け、正月のことは「端月」と言い換えられた(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』)。

・紀元前221年 秦王の趙正は将軍,蒙恬を派遣し、匈奴を攻撃した。匈奴は一時的にOrdosから駆逐された。

※当時は東胡と月氏の勢力が強く、その間に挟まれていた匈奴は秦に対抗できず黄河よりも北にまで放逐されることとなった(佐川英治秦漢帝国漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※『後漢書』は月氏を「月氏胡」と呼んでおり、bod(英:Tibet)系の羌とは区別している。ʾāthorの文献にSkythai民族のことを「Skuja」と呼ぶものがあることから、「月氏」とはSkythai民族の中の一部を漢字で音訳したものであるとも推測される(榎一雄邪馬台国(改訂増補版)』)。

・紀元前221年 12. 秦王の趙正は、子供は母親の再婚相手を、「仮父」と呼んではならず、異父キョウダイは兄弟姉妹と認めてはならないとした。(『史記』秦始皇本紀)

※この法令の背景には、かつて正の母と密通した嫪毐が、「仮父」と噂されていたことがあると考えられる(鶴間和幸「始皇帝」『アジア人物史 1』)。

・紀元前220年 燕は秦から攻められることを恐れ、秦王,趙正を暗殺しようと刺客を送ったが、暗殺に失敗した。正は燕に兵を送った。(『史記』秦始皇本紀)

※戦争には正当な理由が必要とされた。『史記』の記事が主張したかったのは、秦は燕を攻める口実を得たことである(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

・紀元前219年 〔参考〕『史記』「秦始皇本紀」によれば、秦の始皇帝,趙正は徐市(福)に命じて、不老長寿の薬を探させたという。 

〔参考〕『史記』「淮南衡 山王列伝」よれば、徐福は正を欺いて蓬莱山の大神に献上するとして貢物を受け取り、海を渡った先の島で王となって帰ってこなかったという。

※正は生前から陵墓を建設させている。そのため不老不死を求めていたというのは不自然であり、徐福伝説は虚構という説もある(落合淳思『古代中国の虚像と実像』)。

・紀元前218年 Romaにおいて、クラウディウス法が制定された。これにより、元老院議員の生業は、農耕者であると定められた。

※これにより、農耕者である元老院議員と、騎兵として戦う騎士身分は、別々の存在として分かれることとなる(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

紀元前218年 Hannibal Barcaはアフリカゾウの部隊を伴ってAlpesを越えてItaliaに侵攻し、Cannaeの戦いにてRomaに打撃を与えた。

※Hannibalは、諸都市Romaから離反させることに失敗した。また、補給が絶たれたため、イタリアを占領し続けることが出来なくなった(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』)。

・紀元前215年 秦の始皇帝,趙正は、遊牧の異民族,匈奴に遠征軍を派遣した。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前214年 秦は南方の百越に遠征した。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前213年 李斯の提案で、秦では万里の長城が築かれた。

・紀元前213年 秦の始皇帝,趙正は、李斯の提言により、農業・医薬・卜筮を除く、民間にある文学・詩書・百家の書を焼くよう命じた。(『史記』秦始皇本紀)

※いわゆる「焚書」と呼ばれるものである。斯の目的は、人々の文化的な差異を廃して思想を統一し、1人の君主のもとでの統治を実現するとこであったと考えられる。しかし、こうした政策は、正が保護していた文学・方士からも反感を買うこととなった(佐川英治秦漢帝国漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

・紀元前212年 鱸生は秦の始皇帝,趙正を誹謗して逃亡した。それに怒りを覚えた正は、自身を誹謗したと告発された儒家460人を生き埋めにした。(『史記』秦始皇本紀)

※この一件は、『漢書』において「坑儒」と呼ばれるものである。ただ、その言葉は儒教の地位が確立して後に生まれた言葉であり、「焚書坑儒」というように一続きの言葉になったのも『漢書』が最初である。儒家にとっては、儒教の正しさを示す受難の歴史として伝わることとなった(佐川英治秦漢帝国漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)

・紀元前212年 李斯の提案で、秦では軍事道路の直道が整備された。

・紀元前210年 〔参考〕危篤となった始皇帝,趙正は、長男の扶蘇に葬儀を依頼する遺言を残して、崩御したという。その遺言は、李斯によって密かに破棄されたという。(『史記』秦始皇本紀)

〔異説〕『趙正書』には、李斯は後継者に正の子息の胡亥を推薦し、正はそれを裁可したとある。

・紀元前210年 〔参考〕李斯と趙高は始皇帝趙正の遺言を偽作し、扶蘇に死罪を命じた。

・紀元前210年 趙胡亥が秦の皇帝として即位した(二世皇帝)。

・紀元前210年 秦の将,蒙恬は、秦の臣により自害に追い込まれた。

・紀元前209年 匈奴単于,頭曼は子息の冒頓に殺害された。冒頓は父親の複数の妻妾を自分の妻にした。(『史記匈奴列伝)

※この時期は少し後かもしれない。因みに父親の持っていた妻を娶るのは、遊牧民社会に見られる風習であった。このような風習は、テント生活を営む遊牧民社会において、寡婦は居場所がないため、亡夫の血の繋がらない子息に、妻として引き取られたとも考えられる(林俊雄「冒頓単于」『アジア人物史 1』)。

・紀元前209年 この年かその少し後、匈奴月氏を西方に駆逐した。

・紀元前208年 陳勝呉広は、秦に対して反乱を起こした。しかし後に鎮圧された。

※内乱が勃発により、秦の辺境を防衛する防人は内地に戻らざるを得なかった。すると匈奴黄河を越えて、秦に攻められる以前にまで領域を回復した(林俊雄『林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前207年 趙高の策謀で李斯は謀反の罪を問われ、裁判の結果、死罪となり腰斬の刑となった。

・紀元前207年 秦の二世皇帝,胡亥は、趙高に強いられて自殺した。

・紀元前206年 10. 秦王,子嬰は劉邦に降伏した。これにより秦は滅亡した。

※秦が滅亡したのは、始皇帝,趙正が貪りの心を持っており、自身の知力を振るったものの功臣を信じなかったからだとも考えられる(賈誼「過秦論」)。

※滅亡後の秦は批判の対象であったため、誼の語った正の像は歪められているとも考えられる(渡邉義浩『「中国」は、いかにして統一されたか』)。

〔要参考〕邦は、この年に自身が「天子」となったことを述懐している(『漢書』高帝本紀 下)。

・紀元前206年 劉邦は「漢王」を称した。(『漢書』高帝本紀)

・紀元前203年 南海郡の官僚だった趙佗は独立して南越国を建国し、越南北部まで勢力を拡大した。

※これは秦滅亡の混乱に乗じたものであった。南越国には、東南アジア熱帯雨林原産の竜脳や、アフリカの象牙がもたらされており、なんらかのネットワークが形成されていたことが伺える(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前202年 劉邦は皇帝に即位した(高皇帝)。(『漢書』高祖本紀)

※邦は紀元前206年に「天子」および「漢王」となり、そして紀元前202年に「皇帝」になったのである。つまり、「天子」は「王」でも「皇帝」でもありえるのであって、「皇帝」と同質の君主号ではない(佐川英治「皇帝が「天子」を称するとき」『君主号と歴史世界』)。

※漢の時代、「国家」を意味する「邦」は、皇帝の諱を避けて「国」と呼び変えられた(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』)。

・紀元前202年 7. 燕王,臧荼は漢に反乱を起こした。

・紀元前202年 9. 漢の高皇帝,劉邦は自ら出陣し、燕王,臧荼を捕らえた。邦は次の燕王として盧綰を任じた。

・紀元前202年 ローマはカルタゴと交戦した(ザマの戦い)。

・紀元前201年 カルタゴはローマに降伏した。カルタゴは50年払いの賠償金を課せられ、海外領土の放棄と軍備の制限を強いられた。

※賠償金を課せられたカルタゴであったが、商業による富を多く持っていたカルタゴは容易に返済した。このことは、カルタゴは滅ぼすべき脅威であるとローマに認識させるものであった(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・紀元前201年 8. 匈奴冒頓単于は韓王,韓信の治める馬邑を包囲した。韓信匈奴との和平のために動いたが、それが高皇帝,劉邦に疑念を抱かせ、邦より信を責める書簡が届いた。

・紀元前201年 9. 漢からの謀殺を恐れた韓王,韓信は、匈奴に降伏した。

・紀元前200年 10. 漢の高皇帝,劉邦は、自ら兵を率いて韓王,韓信を攻めた。信は敗れて匈奴のもとに逃れた。漢軍はそのまま晋陽に出陣し、匈奴を攻撃した。しかし深追いして北に向かうと、凍傷になり指が使えなくなる兵が出てきた。

・紀元前200年 漢の皇帝,劉邦は自ら出陣し、匈奴を攻撃するが、白登において、匈奴軍の伏兵に包囲された。漢軍は補給を絶たれ、飢えに苦しんだ。漢の臣,陳平は、冒頓単于の妻,閼氏に賄賂を送った。閼氏は夫に対して、漢との戦争に苦言を呈した。冒頓は韓王,韓信の配下の将軍が遅いことから、漢との内通を疑い、妻からの進言も鑑みて、兵を少し引かせた。その隙に漢軍は包囲を抜けた。漢の援軍も到着したため、戦争は中断した。

・紀元前200年 匈奴と和議を結ぶにあたって、漢の臣,劉敬は、皇帝の娘(公主)に持参金を持たせて、冒頓単于に差し出すことを提案した。敬は実の娘を差し出さなければ効果がないと説いたが、皇后,呂雉は、匈奴に娘を差し出すことに反対した。

※邦と雉の間にいる娘は、魯元公主1人である。既に彼女は趙王,張敖に嫁いでいたと考えられ、そうであれば離婚させて嫁がせることを容認したようである。匈奴に嫁いだ娘が子供を産み、将来的に単于になれば、その孫は思い通りに出来ると、邦は考えたと思われる(林俊雄「劉邦」『アジア人物史 1』)。

・紀元前288年 秦の昭王,稷は2か月間「西帝」を称した。

※これは王号に代わる権威を、帝に求めたものである(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

・紀元前272年 ローマ人は、南イタリアギリシア人都市タレントゥムを陥落させ、イタリア半島を統一した。

・紀元前268年頃 アショーカがマウリヤ朝の君主として即位した。

・紀元前264年 シチリア島を巡って、ローマとカルタゴの間で戦争が勃発した(第一次ポエニ戦争)。

・紀元前262年 エウメネス1世はセレウコス朝シリアから離反し、アッタロス朝ペルガモンを成立させた。

※ペルガモンは鉱産物資源に恵まれたほか、穀物、果樹を栽培、毛織物や羊皮紙などの産業があった。ローマと結託することで存続を狙った(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前260年頃 マウリヤ朝君主アショーカは、カリンガを征服した。(「磨崖法勅」第13章)

※「磨崖法勅」によれば、10万人が殺害され、15万人が移送されたという。そのことをアショーカは後悔し、仏教に傾倒するようになったという(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史』)。

・紀元前259年 1. 1 秦王の趙子楚(荘襄王)は、子息に正を儲けた。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前258年頃 マウリヤ朝君主アショーカは、ゴータマ シッダッタが悟りを開いたという、サンボーディ(マハーボーディー)に巡礼し、菩提樹に詣でた。彼は領内の仏教関連の場所を巡行した後に、「小磨崖法勅」を発布した。そこでは貴賤の人民に努力を促し、父母や師への従順、生類に慈しみを持つこと、真実を語るなどのダルマ(法)の美徳が求められた。(「磨崖法勅」第8章)

※法勅の形式には、ハカーマニシュ朝の法令の影響も指摘される。ハカーマニシュ朝より伝わった統治の方法が、のマウリヤ朝による広範囲の領域支配を可能にしたのだと考えられる(馬場紀寿『初期仏教』)。

※基本的に、法勅の碑文はブラーフミー文字で刻まれた。マウリヤ朝領土の北西部などでは、アラム文字、ギリシア文字、カローシュティー文字にて碑文が刻まれた。アラム文字は、ハカーマニシュ朝ペルシアからもたらされ、ギリシア文字はアレクサンドロスⅢの東征によりもたらされたものである。リチャード サロモンは、ブラーフミー文字はアラム文字を元に作成されたという仮説を提示している。ハカーマニシュ朝の影響下で、インドの文字は成立したと考えられる(馬場紀寿『初期仏教』)。

※ゴータマ シッダッタが、その下で悟ったと信じられたことから、菩提樹ブッダの象徴となり、信仰を集めた(馬場紀寿『初期仏教』)

・紀元前256年 マウリヤ朝君主アショーカは法勅を発布し、生類の殺害や生贄、君主の認めた以外の祝祭は禁止され、宮殿での屠殺を制限し、いずれ停止することを宣言した。また、地方の官吏にはダルマの宣布のために巡行が命じられた。また、自身と子孫によるダルマの実践を約束している。(「磨崖法勅」)

・紀元前255年頃 マウリヤ朝君主アショーカは、ダルマの宣布と人々の福利を目的として、ダルママハーマートラ(法大官)を任命した。(「磨崖法勅」第5章) また、奴隷や従者への丁重な扱い、父母への従順、友人、知人、親族、シュラマナとブラーフマナへの気前の良さと、不殺生といった徳目を推奨し(「磨崖法勅」第11章)、宗教者に対しては、他宗教を貶めず寛容になり、自派の発展に尽くすよう求めた。(「磨崖法勅」第12章)

※他宗派の調和を求めていることからして、「磨崖法勅」に示されるダルマは、仏教とは独立した、普遍的な倫理を意味している。広大な領土を統治するうえで、共通の倫理規範を定着させることを決めたのである。「磨崖法勅」の碑文は領土の周縁に多く立てられ、主に周辺諸民族を対象としていた。ただ、ダルマに従わない勢力には武力行使もほめのかしており、アショーカの考えるダルマに合致しない風習を否定するものであった(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史 1』)。

・紀元前255年 秦は周を滅ぼした。この際、周王の象徴である九鼎は秦の昭王,稷の手に渡ったという。

・紀元前254年 マウリヤ朝君主,アショーカは、仏塔を増築した。(「二ガーリー サーガル法勅」)

※仏塔は、ブッダ,ゴータマ シッダッタの遺骨を埋めた塚であったと考えられる。菩提樹と共に、ブッダの象徴として崇敬を集めた(馬場紀寿『初期仏教』)。

・紀元前248年頃 マウリヤ朝君主アショーカは、ゴータマ某の生誕地とされるルンビニーに巡礼し、そこの租税を減免した。(「石柱法勅」)。

※「石柱法勅」の発布の以前と推定される時期に、アショーカは「破僧伽法勅」を出しており、仏教サンガの分断を画策したビクシュ(比丘)やビクシュニー(比丘尼)は僧院から追放することを定めている。また、同時期に発布されたと考えられる「カルカッタ バイラート石碑」においては、ブッダ,ゴータマ シッダッタの教えのうち、7つの題目の内容を、仏教出家集団と在家信徒は、繰り返し聴いて記憶するよう説いている。修行者への介入の態度は、アショーカの仏教理解への自信と、ダルマに基づく政治の成功の確信が読み取れる(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史 1』)。

※「カルカッタ バイラート石碑」において仏教徒に求められるのは、ブッダの教えを聴いて記憶することである。『マハーバーラタ』には、ヴェーダを書写したものは地獄に落ちるとあり、聖典は記憶するものだという観念がインドにはあった(馬場紀寿『初期仏教』)。

・紀元前247年 趙正は秦王として即位した。(『史記』秦始皇本紀) 李斯は郎官として謁見した。

・紀元前242頃 マウリヤ朝君主アショーカは、石柱に法勅を刻み、死刑囚には助命嘆願や死後の再生のために寄進や断食を行うための3日間の猶予が定められた。また、オウム、コウモリ、亀などの特定の動物の殺生を禁じ、子連れのメスや生後6ヶ月未満のヤギやウシなど、殺生に一定の制限を設けた。

※殺生の禁止については、ある程度の譲歩をせざるを得ない現実があったと考えられる(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史 1』)。

・紀元前241年 カルタゴからの賠償金とともに、シチリア島をローマは獲得した。

・紀元前241年 韓、魏、趙、衛、楚の連合軍は、秦に出兵して寿陵を奪った。趙軍は秦の蕞を奪おうとして失敗した。(『史記』趙世家) 秦軍が出兵すると、連合軍は撤退した。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前238年 秦の宦官,嫪毐は、秦王趙正の母との間に子息2人を儲けており、趙正に謀反を起こし、秦王に即位させようとしたが、それが告発された。(『史記』秦始皇本紀) 嫪毐とその子息2人は処刑、秦王の母は古都の擁城に幽閉され、嫪毐を支持した舎人は財産を没収された。(『史記』秦始皇本紀) そもそも嫪毐を後宮に送り込んだ呂不韋も罪を問われた。秦王の趙正は死罪にしようとしたが、功績と人望を鑑みて死罪は免じた。(『史記呂不韋列伝)

※嫪毐が秦王の母から寵愛を受けたというのは、この記事における『史記』の原史料が、趙正側の脚色を受けていたのだと考えられる。後宮の情事を利用して、趙正としては嫪毐と呂不韋という国内の巨大勢力からの自立を模索していたのだと考えられる。また、睡虎地秦簡『法律問答』では、父母の告発を禁じていたため、趙正としても恣意的な法解釈を行わず、母を罪に問わない形で事件を処理している(鶴間和幸「始皇帝」『アジア人物史 1』)。

・紀元前238年 呂不韋は家族とともに蜀に流罪となり、その地で服毒自殺した。(『史記呂不韋列伝)

・紀元前238年 遊牧民パルニ(パルティア)族は、パルティア地方に進出した。そこで、アルシャク(アルサケス)が君主となった。その名からアルシャク朝パルティアと呼ばれる。

※パルティアは、ペルシアと同語源である(宮崎市定『アジア史概説』)。

※アルシャク朝においては、アラム語と古代ペルシア語を用いられたため、ペルシアにおいてはギリシア語は廃れた。古代ペルシア語は当初アラム文字で綴られたが、アラム文字を元にしたパルティア文字で綴られるようになる(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・紀元前238年 ローマはサルディニア島コルシカ島を領土に加えた。

※これは、カルタゴ内の混乱に乗じたものである。こうしてローマは、イタリア半島の外に領土を得て、公職者を派遣して属州として統治した(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前236年 趙が燕を攻撃していた隙に、秦は魏を攻めて九城を取った。次に秦は趙の閼与と橑陽を取った。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前234年 秦は趙を攻め、10万人の首を取った。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前233年 韓王,姫安は王族の韓非を使者として送った。

※秦王の趙正は、韓非を登用することもなく、しかし留めおいた。帰国させれば秦が不利になると見込んだからである(鶴間和幸「韓非」『アジア人物史 1』)。

・紀元前233年 〔参考〕李斯は韓非に毒を送り、自殺を促したという。(『史記』)

〔異説〕『戦国策』は秦王の趙正の命で殺害されたとする。

・紀元前230年 秦軍は韓王の姫安を捉えた。ここに韓は滅亡した。

・紀元前229年 秦は趙を攻めた。

・紀元前228年 趙王の趙遷(幽穆王)は秦に降伏した。

・紀元前221年 秦王,趙正は君主号を改めることにした。博士たちは「天皇」「地皇」「泰皇」という候補を挙げ、「泰皇」こそが最も尊いものであると説明した。正は「泰皇」から「皇」を取り除き、「帝」を加えて「皇帝」を名乗ることにした。(『史記』秦始皇本紀)

※「泰」とは天や地の神よりも上位の天帝,泰一を意味する。しかし正は「帝」の字にこだわり、それを修飾する文字として、「王」に通じ、光り輝く様を意味する「皇」を合わせたのである。天の中心の権威である天帝に対して、正は地上の中心としての権威を求めた(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

※秦の時代、皇帝の諱を避け、正月のことは「端月」と言い換えられた(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』)。

・紀元前221年 秦王の趙正は将軍,蒙恬を派遣し、匈奴を攻撃した。匈奴は一時的にオルドスから駆逐された。

・紀元前221年 12. 秦王の趙正は、子供は母親の再婚相手を、「仮父」と呼んではならず、異父キョウダイは兄弟姉妹と認めてはならないとした。(『史記』秦始皇本紀)

※この法令の背景には、かつて正の母と密通した嫪毐が、「仮父」と噂されていたことがあると考えられる(鶴間和幸「始皇帝」『アジア人物史 1』)。

・紀元前220年 燕は秦から攻められることを恐れ、秦王,趙正を暗殺しようと刺客を送ったが、暗殺に失敗した。正は燕に兵を送った。(『史記』秦始皇本紀)

※戦争には正当な理由が必要とされた。『史記』の記事が主張したかったのは、秦は燕を攻める口実を得たことである(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

・紀元前218年 ローマにおいて、クラウディウス法が制定された。これにより、元老院議員の生業は、農耕者であると定められた。

※これにより、農耕者である元老院議員と、騎兵として戦う騎士身分は、別々の存在として分かれることとなる(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

紀元前218年 ハンニバルアフリカゾウの部隊を伴ってアルプスを越えてイタリアに侵攻し、カンナエの戦いにてローマに打撃を与えた。

ハンニバルは、諸都市をローマから離反させることに失敗した。また、補給が絶たれたため、イタリアを占領し続けることが出来なくなった(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』)。

・紀元前215年 秦の始皇帝,趙正は、遊牧の異民族,匈奴に遠征軍を派遣した。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前214年 秦は南方の百越に遠征した。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前213年 李斯の提案で、秦では万里の長城が築かれた。

・紀元前212年 李斯の提案で、秦では軍事道路の直道が整備されている。

・紀元前210年 〔参考〕危篤となった始皇帝,趙正は、長男の扶蘇に葬儀を依頼する遺言を残して、崩御したという。その遺言は、李斯によって密かに破棄されたという。(『史記』秦始皇本紀)

〔異説〕『趙正書』には、李斯は後継者に正の子息の胡亥を推薦し、正はそれを裁可したとある。

・紀元前210年 〔参考〕李斯と趙高は始皇帝趙正の遺言を偽作し、扶蘇に死罪を命じた。

・紀元前210年 趙胡亥が秦の皇帝として即位した(二世皇帝)。

・紀元前210年 秦の将,蒙恬は、秦の臣により自害に追い込まれた。

・紀元前209年 頭曼単于は子息の冒頓に殺害された。冒頓は父親の複数の妻妾を自分の妻にした。

※この時期は少し後かもしれない。因みに父親の持っていた妻を娶るのは、遊牧民社会に見られる風習であった。このような風習は、テント生活を営む遊牧民社会において、寡婦は居場所がないため、亡夫の血の繋がらない子息に、妻として引き取られたとも考えられる(林俊雄「冒頓単于」『アジア人物史 1』)。

・紀元前209年 この年かその少し後、匈奴月氏を西方に駆逐した。

・紀元前208年 陳勝呉広は、秦に対して反乱を起こした。しかし後に鎮圧された。

※内乱が勃発により、秦の辺境を防衛する防人は内地に戻らざるを得なかった。すると匈奴黄河を越えて、秦に攻められる以前にまで領域を回復した(林俊雄『林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前207年 趙高の策謀で李斯は謀反の罪を問われ、裁判の結果、死罪となり腰斬の刑となった。

・紀元前207年 二世皇帝胡亥は、趙高に強いられて自殺した。

・紀元前203年 南海郡の官僚だった趙佗は独立して南越国を建国し、越南北部まで勢力を拡大した。

※これは秦の混乱に乗じたものであった。南越国には、東南アジア熱帯雨林原産の竜脳や、アフリカの象牙がもたらされており、なんらかのネットワークが形成されていたことが伺える(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前202年 劉邦は皇帝に即位した(高皇帝)。(『漢書』高祖本紀)

※漢の時代、「国家」を意味する「邦」は、皇帝の諱を避けて「国」と呼び変えられた(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』)。

・紀元前202年 7. 燕王,臧荼は漢に反乱を起こした。

・紀元前202年 9. 漢の皇帝,劉邦は自ら出陣し、燕王,臧荼を捕らえた。邦は次の燕王として盧綰を任じた。

・紀元前202年 ローマはカルタゴと交戦した(ザマの戦い)。

・紀元前201年 カルタゴはローマに降伏した。カルタゴは50年払いの賠償金を課せられ、海外領土の放棄と軍備の制限を強いられた。

※賠償金を課せられたカルタゴであったが、商業による富を多く持っていたカルタゴは容易に返済した。このことは、カルタゴは滅ぼすべき脅威であるとローマに認識させるものであった(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・紀元前201年 8. 匈奴冒頓単于は韓王,韓信の治める馬邑を包囲した。韓信匈奴との和平のために動いたが、それが高皇帝,劉邦に疑念を抱かせ、邦より信を責める書簡が届いた。

・紀元前201年 9. 漢からの謀殺を恐れた韓王,韓信は、匈奴に降伏した。

・紀元前200年 10. 漢の高皇帝,劉邦は、自ら兵を率いて韓王,韓信を攻めた。信は敗れて匈奴のもとに逃れた。漢軍はそのまま晋陽に出陣し、匈奴を攻撃した。しかし深追いして北に向かうと、凍傷になり指が使えなくなる兵が出てきた。

・紀元前200年 漢の皇帝,劉邦は自ら出陣し、匈奴を攻撃するが、白登において、匈奴軍の伏兵に包囲された。漢軍は補給を絶たれ、飢えに苦しんだ。漢の臣,陳平は、冒頓単于の妻,閼氏に賄賂を送った。閼氏は夫に対して、漢との戦争に苦言を呈した。冒頓は韓王,韓信の配下の将軍が遅いことから、漢との内通を疑い、妻からの進言も鑑みて、兵を少し引かせた。その隙に漢軍は包囲を抜けた。漢の援軍も到着したため、戦争は中断した。

・紀元前200年 匈奴と和議を結ぶにあたって、漢の臣,劉敬は、皇帝の娘(公主)に持参金を持たせて、冒頓単于に差し出すことを提案した。敬は実の娘を差し出さなければ効果がないと説いたが、皇后,呂雉は、匈奴に娘を差し出すことに反対した。

※邦と雉の間にいる娘は、魯元公主1人である。既に彼女は趙王,張敖に嫁いでいたと考えられ、そうであれば離婚させて嫁がせることを容認したようである。匈奴に嫁いだ娘が子供を産み、将来的に単于になれば、その孫は思い通りに出来ると、邦は考えたと思われる(林俊雄「劉邦」『アジア人物史 1』)。