個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前700~600年頃

・紀元前700年以降 archaïque期のGraecia美術が成立した。

※Gracia 美術は、エジプトの影響を受けて成立した。しかし壁と一体化した人物像を作ったエジプトとは違って、人間をかたどった青銅像は自分の足で自立しているという特徴がある。また、片足に重心を置くなどの動作を表現した人物像も登場する(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前698年 斉の僖公,姜禄甫が薨去した。

・紀元前697年 斉において姜禄甫の子息,諸児が公となった(襄公)。

・紀元前695年 1. 斉、魯、紀は盟を結んだ。

・紀元前695年 5. 斉、魯、紀の和平は破れ、斉、と魯が交戦した。

・紀元前695年 Kimmeria人はPhrygiaを攻め、その君主Midāsを自害に追い込んだ。

・紀元前694年 1. 魯の桓公,姫允は斉に赴き、斉の襄公,姜諸児と面会した。(『春秋』)

※前年には2つの国の間に戦争があったことから、妻,文姜の兄である諸児との親睦ではなく、和平交渉が目的であったと考えられる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前694年 4. 斉の襄公,姜諸児は子息,彭生に命じて、魯の桓公,姫允を暗殺した。(『春秋』)

〔参考〕『春秋左氏伝』には、諸児が允の妻である文姜と密通していることが発覚し、允に詰問された諸児が、饗応の際の車において允を殺害させたとある。

※正月に赴いて4月に薨去していることから、大国になった斉と、かつての大国であった魯との間には、和平が成立していなかったことを窺わせる。互いに譲歩ができない状況において、魯公の暗殺という手段を採用したと推測される(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前690年 斉は紀を併合した。

・紀元前690年 魯は斉に降伏した。

・紀元前685年 斉の襄公,姜諸児は、従兄弟の公孫,姜無知によって殺害された。無知は公となった。

・紀元前685年 斉の公,姜無知は臣下の雍廩によって殺害された。

・紀元前685年 斉において内乱があり、姜小白と姜子糾が交戦し、小白が勝利して公となった(桓公)。(『春秋』)

〔参考〕子糾に仕えていた管仲は小白に登用されたという。(『春秋左氏伝』)

管仲による小白への提言は『管子』として纏められており、富国強兵を説いている。ただ、「衣食足りれば礼節を知る」(牧民篇)という考えは、当時は農民に礼節が求められていなかった時代のものとしては不自然である。また、『史記』「管仲列伝」には仲はかつて貧しかったと語られているが、管氏は上・中級貴族層であり経歴に疑問が呈される。実在の人物であるという証明はない(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前684年 楚は蔡を攻めた。

・紀元前680年 楚は蔡の国都を占領して属国化した。

・紀元前680年 冬 斉を中心とする会盟が行われ、周王の使者、宋、鄭、衛、陳が参加した。

※文化的に異なり王号を使用していた楚は野蛮視されていた。勢力を拡大する楚は諸侯から共通の敵と認識され、斉の桓公,姜小白は、諸侯を守護する「伯者」となった。伯者とは諸侯の長を意味する。『春秋左氏伝』に見える「覇者」というのは当て字である(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前679~676年頃 ʾāthor君主,Aššur-aḫa-iddina(Esarhaddon)はAnatolia東南のCilicia地方にて、Gimirraiaの首長テウシュパを破った。

・紀元前679~676年頃 ʾāthor君主,Aššur-aḫa-iddina(Esarhaddon)はマンナイ軍を救援するためにマンナイの地に進軍し、アシュグザ(イシュクザーヤ)国の君主イシュパカーを破ったという。

Sem語は語頭に子音を重ねず、子音を重ねる外来語には母音を付けた。そのためイシュクザーヤの本来の名称はシュクザーヤであり、Skythaiのことだという説もある(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前678年 斉と楚は鄭を巡って争った。

※鄭にはかつての王朝の首都だった場所(商城遺跡)が含まれており、経済の発展した交通の要所であった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前673年頃 イシュクザーヤ(Skythai)の君主,イシュパカーはアッシリアの手によって殺害された。

・紀元前672年 魯の荘公,姫同は、斉に自ら赴いて納幣した。(『春秋』)

※納幣したのは斉が諸侯を守る際の必要戦費であったと考えられる。ただ、用途は斉に委ねられるため、事実上の貢納であると思われる。また、斉の地で流行していた鉫や鉶といった青銅器の製造費用に充てられた可能性も指摘される。斉による諸侯を緩やかに支配する体制は、「斉覇」と呼ばれた(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前672年頃 ʾāthor君主,Aššur-aḫa-iddina(Essarhaddon)は、自身の娘をイシュクザーヤ(Skythai?)の君主,バルタトゥアに嫁がせた。

※子音が共通することから、バルタトゥアとは、Hēródotosの『historiai』に登場するプロトテュエスのことだと考えられる。婚姻関係を結んだことかは、ʾāthorと同盟したことは確かであるが、イシュパカーとの関係性は不明である。

・紀元前670~660年代 Cimmeria人はŚfarda(Lȳdíā)の都Sardeisを占領した。

※SkythaiはḪa-at-tu-ša(Hittites)などの諸民族より製鉄技術を吸収したことで、それが東方に伝わることになる(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・紀元前661年 狄が邢と衛の国都を占領した。(『春秋』)

・紀元前659年 斉の桓公,姜小白は邢の国都を黄河の南東岸に移設した。(『春秋』)

・紀元前658年 斉の桓公,姜小白は衛の国都を楚丘に移設した。(『春秋』)

※小白は諸侯の守護者として行動したことで、伯者としての支持を集めることとなった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※小白は周王の利益と諸侯の国々の秩序を維持するとして度々出兵した。こうして周にとって重要な国になったことで、斉は「中国」に列する(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・紀元前655年 斉、宋、宋、鄭、魯、衛、陳は首止において会盟を行った。周の太子,姫鄭のほか、許や曹といった国も参加した。(『春秋』)

・紀元前654年 斉、宋、陳、衛、曹の諸侯は、鄭を攻めた。(『春秋』)

〔参考〕『春秋左氏伝』によれば、鄭は首止の会盟から逃げ帰ったため諸侯に攻められたという。

※一度会盟で条約が結ばれれば、諸侯にはそれを守る義務が生まれた。また、鄭のように条約を結ばなければ、軍事的懲罰の対象にもなった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前653年(推定) 〔参考〕スキュタイはアジアに進出した。パレスティナにて神殿の略奪し、貢税を取り立てるなどして、そこを28年支配したという。(ヘロドトス『歴史』)

※653年というのは、有力な一説である。また、実際にそこを支配したのが28年かは不明である(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前650~645年 リュディア君主,「ググ」はギミッラーヤ(スキュタイ?)に攻められ、殺された。

※ググとは、子音が一致することから、ヘロドトスの『歴史』に登場するギュゲスのことだと考えられる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前643年 斉の桓公,姜小白は薨去した。

※小白は後継者を明確に指名していなかったようで、子息たちによる内乱が勃発した(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前643年 姜昭が斉の公として即位した(孝公)。

※斉の内乱は収束したものの、その後斉を中心とした会盟は開かれることがなかった。それは斉覇という体制の崩壊を示す(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前641年 宋の襄公,子茲甫を中心とした会盟が開かれ、斉、曹、邾の同盟が結ばれた。

・紀元前641年 楚は鄭と陳を服属させた。

※楚は諸侯との間に会盟を通した支配体制を構築した。ただ、王を自称した楚の君主による会盟は、かつての斉が主宰した会盟と異なり、周王を尊重する諸侯によるものではなく、個別の上下関係が結ばれるものであった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前640年 斉は邢および白狄と同盟を結んだ。

・紀元前640年 アッシリアはキンメリアを破った。

・紀元前639年 春 宋の襄公,子茲甫は会盟を催し、楚と斉を招集し、同盟を結んだ(鹿上の会盟)。

・紀元前639年 秋 宋の襄公,子茲甫は会盟を催した。宋と同盟していた曹および許、楚の成王,熊惲、楚に服属していた鄭、陳、蔡が参加した。惲は茲甫を拘束し、宋を攻めた。

※楚の力は強大であり、諸侯は茲甫の解放を求めたが楚に対する懲罰は行われなかった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前639年 冬 宋の襄公,子茲甫は解放された。

・紀元前638年 宋と楚が泓水の付近で交戦した。(『春秋』)

〔参考〕『春秋左氏伝』によれば、宋の襄公,子茲甫は、川を渡る途中の楚軍を攻撃することを提案されたがそれを却下し、それが原因で負傷し敗戦したという。それを咎められた子茲甫は、君子は負傷者への攻撃や老人を捕虜にすることをしないのだと説き、昔の軍隊ほ、狭い場所であることを利用して敵軍を攻撃しないと述べたという。

※『春秋左氏伝』の記述は、無用の情けをかけることを「宋襄の仁」と呼ぶ由来である。ただ、当時の「君子」とは徳のある人物ではく大貴族の美称であった。また、当時は戦力の主体が戦車であることから、狭い場所での行軍は不可能である。実際の宋の敗北の要因は、軍事力の差にあると考えられる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前637年 宋の襄公,子茲甫は薨去した。(『春秋』)

・紀元前634年 夏 斉の孝公,姜昭は魯を攻めた。魯は楚に救援を要請した。

・紀元前634年 冬 楚と魯の同盟軍は、斉軍を破った。

・紀元前633年 斉の孝公,姜昭は薨去した。

・紀元前632年 晋の文公:姫重耳は、襄王:姫鄭より候伯に任じられたのち、周の臣,王子虎は諸侯を集め、周王室を助け、互いに攻撃しないことを誓った。(『春秋左氏伝』僖公28年)

*このような盟誓の儀式は、生贄とする牛の左耳を切り取り、その血を参加者が飲み、穴を掘って牛と盟書を埋めるという形で行われた。それが「牛耳る」という言葉の由来である(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』)。

・紀元前625年(推定) 〔参考〕メディア君主,キャクサレスは、スキュタイを宴会に招き多くを殺害した。生き残りは「故国」に帰ったという。(ヘロドトス『歴史』)

※「故国」とは北カフカス黒海北岸であると考えられる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前612年 メディアと新バビロニアの連合軍はニネヴェを陥落させ、アッシリアを滅ぼした。

・紀元前609年 アッシリアは独立した新バビロニアとメディアに攻められ滅亡する。

・紀元前7世紀末 キンメリアはリュディアに敗れた。

※その後、キンメリア人は姿を消すこととなる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前600年頃 エトルリア人はローマに進出する。

ラティウムとの交易の中継地点として、ローマに目をつけたと推測される。ロエトルリア人君主制を成立させた。当時の道路、広場、神殿、城、排水機構、都市防壁も築いている(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。