個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

180~209年

・170~180年頃? 〔參考〕『太平御覧』の引用する『魏志』によれば、光和年間の間(178~183)、倭では各國が爭っており君主がいなかったという。

〔參考〕『後漢書』は、倭國內の戦亂の時期を桓帝,劉志から霊帝,劉宏の時代(146~189)の間とする。

〔参考〕『梁書』は、倭国内の戦乱の時期を霊帝,劉宏の光和年間(168年~184年)とする。

※漢の衰退により、鉄資源や威信を示す下賜品を供給するため交通網が混乱した。そのため政治秩序が崩壊し、倭国王の権威が弱まって戦乱が発生したと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※『後漢書』における「桓霊の間」という言葉は、不徳の皇帝を引き合いに出して暗い時代を表現するための常套句的なものであり、実際の志と宏の統治期間を意味するものではないという説もある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

・177~180年頃? 倭の王が男性であった約70~80年の間は争いが続いていたため、そこで、1人の女性を「共立」し王とした。卑弥呼(ひみこ?/ひめこ?)という。(陳寿魏志東夷伝 倭人条)

※男王である帥升朝貢が108年であることから、それを起点として70年~80年後のことだと推測される(小林敏男邪馬台国再考』)。

卑弥呼が王となるまで、70~80年程は男性首長であったことから、女性首長は一般的に受容されているものではなかったとも考えられる(大平聡「女帝・皇后・近親婚」『日本古代の王権と東アジア』)。

※『三国志』における「名づけて卑弥呼といふ」という記述からして、卑弥呼とは「日の御子」もしくは「ひめみこ(皇女・王女)」のことであり、実名ではなく特定の女性の身分を表す呼称とも考えられる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※「卑弥呼」は当時の魏の洛陽音では「ヒムカ」と読まれたという見解もある(長田夏樹『新稿 邪馬台国の言語』)。

※「卑弥呼」を「ヒムカ」と読む見解から、「日の巫女」という意味を含んでいたという説もある(新谷尚紀『伊勢神宮出雲大社』)。

〔参考〕陳寿魏志』「東夷伝 夫余条」には、王の簡位居の死後、嫡子がいなかったので、馬加・牛加・豬加の官人は庶子の麻余を「共立」したとある。

〔参考〕陳寿魏志』「東夷伝 高句麗条」には、王の伯固の死後、その長子,抜奇は「不肖」であったために小子,伊夷模が「共立」されたとある。

陳寿は『魏志』において、嫡子でない者が王になる場合に「共立」という言葉を用いている。麻余は官人に、伊夷模は国人(王の宗族)に「共立」されている。そのため卑弥呼を「共立」したのは周辺の支配層とも考えられる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

後漢が衰退したことで、それを後ろ盾として政治・外交を牽引してきた伊都国が力を失って倭国内は混乱し、その状況を打開するために卑弥呼は「共立」されたとの見解もある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

倭国を構成する諸国の合意によって王が擁立されていることから、倭国王の地位は安定したものではなかったとも考えられる(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。

儒教世界において、王は自ら即位するものであり、他者から「共立」つまりは奉戴されることは好まれない。倭に好意的な陳寿がこのように記したのは、卑弥呼即位の実態を反映しているからだと考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。

卑弥呼の王都を纒向遺跡とする見解からは、伊都国を中心とする北部九州から、奈良盆地東南部へと本拠地を移転したとも考えられている(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

・180年頃 吉備に墳丘墓が築かれた(楯築遺跡)。(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。

※円丘部の両側に方形突出部があり、円丘部には葬儀用器台(特殊器台)が約30個散在していた。木槨と木棺に収められた遺体は、水銀朱に包まれていた(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。

・184~189年(漢暦中平) 5?.16? 後漢元号、中平(184~189年)が刻まれた鉄刀が制作された。(「東大寺山古墳刀銘」)。

※鉄刀には5月丙午とあることから、中平4年か5年であるとも考えられる。しかし『論衡』は金属の鋳造に適した好日を5月丙午を記すことから、あくまで常套句であり、中平のいつであるかは特定は困難とされる(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※鉄刀に刻まれた文字は、結体や布置、象嵌からして、後漢の官営工房における象嵌技術とは水準と隔たりがあることから、中平年間に後漢政権の中央から離れた場所で制作されたか、もしくは中平年間に作られた鉄刀に、三国時代に文字が刻まれた可能性が指摘されている(鈴木勉『百練鉄刀の使命-東大寺山古墳出土中平銘鉄刀論』)。

・191年(漢暦初平2) 黄巾党30万が、兗州の泰山を攻めた。泰山太守,応劭は迎え撃ち、数千人を討ち取り、捕虜1万を得た。(『後漢書』応劭伝)

〔要参考〕その序文によれば、黄巾の乱によって文化が後世に伝わらないことを恐れ、劭は『風俗通義(風俗通)』を著したという。

※『風俗通義』には、女媧が黄土を捏ねて人間を作っていたが、多忙さゆえに泥につけた縄から落ちる塊を人間にしたという神話が説明されている。手で捏ねられた人間は優秀な金持ちに、垂れた泥から成った人間は愚かな貧乏人になったという。劭はそれを俗説だと言及していることから、人間が誕生した理由について、民間で流布していた話であると理解できる(伊藤道治「伝説の聖王」『古代中国』)。

・193年 6.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、1000人以上の飢えた倭人が食糧を求めて新羅に渡ったという。

・2世紀末 出雲西部に墳丘墓が営まれた(西谷三号墳)。(石野博信「三世紀の三角関係」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

※西谷三号墳には、吉備の古墳に見られるような葬儀用器台(特殊器台)が発見されている。出雲には吉備と共通の葬送儀礼を行う君主がいたと考えられる(石野博信「三世紀の三角関係」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

・推定204年以降 公孫康は、楽浪郡南部に帯方郡を設置した。康は漢人を集めて、韓と濊を征討した。以来、倭と韓は帯方郡に所属したのだという。(陳寿魏志』韓伝)  後漢の皇帝は公孫氏に「海外」に関する事案を委任した。

卑弥呼は、後漢の代理としての公孫氏に対して朝貢していた可能性がある(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※魏と呉と対峙するうえでも、公孫氏は倭との協力関係を欲しており、倭側は列島内の混乱を収束させるためにも公孫氏を頼った可能性もある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

東大寺山古墳出土の、中平年銘の鉄刀は、綾東太守に任じられた公孫氏に下賜され、その後朝貢を行ってきた倭に贈られたという仮説がある(金関恕卑弥呼帯方郡」『弥生人の見た楽浪文化』)。

※中平年銘の鉄刀を、後漢からの下賜品ではなく在地勢力から公孫氏への献上品とすれば、銘文が後漢官営工房の水準と乖離していても問題はないという指摘もある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

元号からして、倭国の混乱が収まった後に、後漢ないしは公孫氏から倭にもたらされたものだと思われる。奉戴されて王になって間もない卑弥呼朝貢を行い、地位の承認の意味を込めて贈られたものとも推測は可能である(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

 

150~179

・150年頃 象鼻山の山頂に方壇が築かれた(象鼻山三号墳)。(石野博信「二世紀の東海の祭祀」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

 

・158年 3.?〔参考〕 『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅の竹嶺が開かれると倭人が訪れたという。

※竹嶺が開かれたことで、倭人が陸路で楽浪郡に至ることが可能になったとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

 

・166年以前? 鄭玄は儒学者,馬融に学問を学んでいた。(『後漢書』鄭玄伝)

・〔参考〕何晏の『論語集解』が引用する馬融の『論語』「子罕篇」の注釈では、「九夷」の1つは倭とされる。

・〔参考〕『論語』「子罕篇」によれば、孔丘(孔子)が乱世となった「中国」を嘆いて「九夷」に移り住むことを願ったという。

・〔参考〕『論語』「公治長篇」には、孔丘が海の向こうに行くことを望み、自分に着いてきてくれるのは仲由(字は子路)だろうかと言い、それに仲由は喜んで応答したとある。

※『漢書』は『論語』の「子罕篇」と「公治長篇」を組み合わせて、「孔丘は道理に合わない政治が行われることを嘆いて、海を越えて「九夷」の地に移ろうとした」と記した。当時の「中国」において、「海」は「晦(暗黒)」に通じ、未知の世界を意味する。つまり、「公治長篇」において、孔丘の言った「海」とは「中華」の外にある未知の領域を差す。つまりは軽い願望の吐露であり、「九夷」とは無関係の文脈であると考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※当初、丘の憧れた理想郷である「夷」の地は朝鮮半島あたりと捉えられてきたが、秦や漢の時代、圧政や戦乱を逃れて「中国」から朝鮮半島に移り住む人が増えると、理想郷は海のむこうの土地に仮託されたのだと考えられる(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・175年頃?  3.? 〔参考〕『日本書紀』「垂仁天皇3年3月条」によれば、新羅の王子,天日槍(日桙)が播磨国に渡来したという。

※『日本書紀』の年代は讖緯説に基づいて編纂されているため、垂仁天皇即位3年という年代は実際のものとは異なると思われる。ただ、『日本書紀』の編纂者は、垂仁天皇の治世の初期にあった出来事だと考えていたようである(田中卓邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

〔参考〕『筑前国風土記』によれば、日桙は「高麗の国」より降ったのだという。

※高麗は当時はないものの、『古事記』『日本書紀』は新羅の王子と説明しているため、朝鮮半島の出身なのは確かと思われる(田中卓邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

倭国の盟主的な地位にいた伊都国王の勢力が、筑後平野の他国の台頭に伴って衰退し、東方に逃れたとも推測される(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。

〔参考〕垂仁天皇は大友主と長尾市を播磨国にいた新羅の王子,天日槍(日桙)のもとに派遣したという。垂仁天皇は、播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑を与えようとしたが、天日槍は自身が欲する土地を貰うことを望み、近江国吾名邑に進んだ後、若狭国に至り、最終的に但馬国に居住したという。(『日本書紀』)

※『三国志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」の記す、「女王国」を中心とした連合が解体するに伴い、伊都国の首長か首長に近しい集団が九州から東に逃れたとも推測される。そしてその東進を危険と考えたヤマト王権は、防衛のために播磨国に大友主と長尾市を派遣したとも考えられる(田中卓邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。

120~149

・121年 4.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人が秦韓の東辺に侵攻したという。

・122年 4.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅に台風が来て、木々を倒して瓦を飛ばしたという。都人は倭の兵が来るのではないかと考えて山谷に逃げたが、新羅王,朴祇摩は諭して止めさせたのだという。

※これは噂が広まったのであり、実際に倭人が来襲したわけではない。しかし、倭人の侵攻が新羅の人々にとって脅威であったことを示すとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

・123年 3.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅倭国と講和したという。

※「倭国」という形で、政治組織が形成されていたこととの関連性が指摘される(若井敏明『謎の九州王権』)。

・127年 クシャーン朝君主,カニシュカⅠは、この年を紀元1年と定めた。(「ラバータク碑文」)

カニシュカⅠの即位年は、紀元の創始年と混合されることがあるが、不明である(宮本亮一「カニシュカ一世」『アジア人物史 1』)。

クシャーン朝アラビア海に面するグジャラート地方にまで進出した。こうして、クシャーナ朝とローマはパルティアを経由せずして海路にて繋がった。インドとローマの間にあるアラビア海を越えなければならないという問題は、季節風航海術により克服された。こうして、ローマからインドへは金貨、ガラス製品、金属細工、ワインなどがもたらされた。そのため、クシャーン朝ではローマを参考にして、君主の肖像が刻まれた金貨が作られるようになる。また、イラン、ギリシア、インドなどの文字や神々が刻まれる場合もあった(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

カニシュカⅠは仏教を保護したこともあり、ギリシア系のバクトリアの影響を受けた仏像が制作されるようになった。(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

クシャーン朝においてはブッダの姿が刻まれた貨幣が発行されたことから、仏教との関わりはあったと思われる。しかし、クシャーン朝君主の崇拝対処は神格化された自然現象であり、ザラシュストラ教とは異なるイラン的な信仰を持っていた。カニシュカⅠについて、仏教的な逸話を伝えるのは、『大唐西域記』のような後世の漢文仏教文献である。クシャーン朝は宗教的に寛容であり、仏教教団にとっても良い時代であったことから、カニシュカⅠと仏教が結びついたとも考えられる(宮本亮一「カニシュカ一世」『アジア人物史 1』)。

※既に北西インドでは神や王の像はつくられており、仏教もその影響を受けた形であった。それ以来、仏像は仏塔と共にブッダの象徴として扱われるようになった(馬場紀寿『初期仏教』)。

※仏像のようなガンダーラ美術は中央アジアさらに東アジアへと伝えられていった(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・137年クシャーン朝君主,カニシュカⅠはインドからトハーリスターンに移動した。(「ラバータク碑文」)

〔参考〕玄奘の『大唐西域記』によれば、カニシュカⅠは周辺諸国から差し出された人質の居場所を季節ごとに移動させたという。

※移動の記録や、貨幣や彫像におけるクシャーン朝君主の風貌から、その出自は遊牧民であり、漢文史料に現れる大月氏とも考えられる。しかし大月氏についての文献は、カニシュカⅠの時代と離れており、不明瞭な部分が多い(宮本亮一「カニシュカ一世」『アジア人物史 1』)。

90~119年

・97年(漢暦永元9) 70歳となった漢の王充は、本を書くことにした。(『後漢書』王充伝)

・〔参考〕『論衡』「儒増篇」には、周が成立していた時代に、倭人が𣈱草を貢いだという記述がある。

・〔参考〕『論衡』「恢国篇」には、周の成王,姫誦の時代、倭人は鬯草を貢したとある。

※実際に日本列島の人々が周を訪れたかは不明である。ただ、『論衡』が書かれた時代には楽浪郡を通して倭人の情報は伝わっていたとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。

※鬯草は香草のことである。鬯草の産地は粤地であり、倭人は南方の種族であるような筆致である(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

・105年(漢暦元興1) 蔡倫は蔡候紙を製造した。(『後漢書』宦官列伝)

前漢代にも紙は製造されているが、文章は書かれたものは発見されていない(冨谷至『概説 中国史』総論)。

※漢代に紙が用いられるようになると、筆と墨によって漢字が書かれるようになった(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・107年(漢暦永初1) 倭国王,帥升らが、後漢に使者を派遣した。生口160人を献上し謁見を願った(『後漢書』「孝安帝紀 」「東夷伝 倭伝」)

〔参考〕『翰苑』や『日本書紀纂疏』の引用する『後漢書』には「倭面上国王師升」とある。

〔参考〕『釈日本紀』は『後漢書』を引用して、使者を派遣した国を「倭面国」とする。

〔参考〕北宋版『通典』には「倭面土国王師升」とある。

〔参考〕『唐類函』には「倭国土地王師升」とある。

※『後漢書』を引用する文献から、『後漢書』には帥升のことを「倭面土王」や「倭国土地王」と表記する写本があったようである。しかし、それらの文献は正確に引用しているか疑問が呈されることや、「倭面土」は「ヤマト(=倭)」の音写とも考えられる(西嶋定生倭国の出現』)。

※「倭囬土」(囬は回の俗字)という表記が正しく、「倭奴国」を「倭の奴国」と読む場合、帥升陳寿『魏書』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」に記載のある伊都国の王だったことになる(鈴木靖民「倭国ありさまと王権の成り立ち」『纒向発見と邪馬台国の全貌』)。

※「倭面土国王」や「倭国上国王」といった表記は、「倭国王」を「倭国王国王」と重複して誤記し、さらに「王」を「上」や「土」などと誤った可能性も指摘される(若井敏明『謎の九州王権』)。

※『後漢書』には、「倭国帥升等」と表記する写本もある。そのため、「帥升」という王がいたのではなく、「主帥」という官名を持つ倭国からの使者が、漢を訪れたという説もある(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

※『漢書』『三国志』『後漢書』には、「師」を姓とする人物か見られる。そのため「帥」は「師」の誤写の可能性がある。「升」という名も「中国」名として不自然ではない。当時は「中国」の姓制度を受容した国はなく、新しい姓が創始されることもなかった。そのため帥升には朝鮮半島に移住した渡来人、もしくは漢人を模倣して姓を名乗った朝鮮半島の人の子孫の可能性が指摘される。帥升が古くから日本列島に住んでいた者の子孫であるならば、当時の倭国内において、漢人のような姓を名乗ることに政治的な意味があったとも考えられる(吉田孝『日本の誕生』)。

帥升とは、漢語に翻訳された名前であり、帥升漢人であったわけではないという見解もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※伊都(イト)国の王であった帥升が盟主となり、連合国家としての「倭国」を形成していたとも考えられる(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※『筑前国風土記』には、筑紫国の伊覩県主の祖,五十迹手は、天から「高麗の国の意呂山」に降りた日桙(ヒボコ)の末裔とある。この記述から、伊都国王(伊都県主)は朝鮮半島から渡来した者の子孫とも推測される(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。

※伊都国は福岡平野の三雲・井原を中心としており、連合の盟主になっていたと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※祭具である広形銅矛と銅戈の鋳型は奴国の領域から出土する。そのため、倭国の盟主が伊都国王であっても伊都国と奴国はほとんど対等であったと推測される。政治・外交を通して台頭した伊都国と、青銅器・鉄器の生産および交易を通して台頭した奴国が結託し、「倭国」を形成したとも考えられる。漢委奴国王印は、2つの部族国家が連合して新たな国家を誕生させた証として、奴国王の墓ではなく志賀島に埋納されたという仮説もある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※米三雲・井原遺跡からは硯片が発見されており、楽浪郡と文書外交を行っていたことが窺える(石野博信「倭人は文字を使っていた」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。

〔参考〕『後漢書』「鮮卑条」には、「生口・牛羊・財物」とある。

〔参考〕陳寿魏志』「濊条」には、「生口・牛馬」とある。

※遺跡などから当時の日本列島には階級社会が形成されていたことが窺われ、「生口」とは、牛馬や財産などと同じ扱いを受ける奴隷的身分であったと考えられる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

帥升としては、多くの生口を献上することで、多くの共同体を服属させていることを示そうとしたのだと考えられる。またそれは、戦争に勝利し、捕虜を獲得できるような、軍事的資質が倭国王に必要とされたのだと推測できる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※生口が朝貢の品として用いられたのは、珍しい特産品がなかったため、奴隷の価値が相対的に高かったからだと推測される(吉田孝『日本の誕生』)。

※北部九州の倭国連合は、漢を中心とした政治秩序に参入することと引き換えに、鉄資源のほか鏡や剣などの威信を示す物を下賜され、それを倭国内の「国」に与えることで、国内を支配していたと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※『後漢書』の原文に「帥升等」とあることから、後漢朝貢を行ったのは帥升だけでなく、160という生口の数も倭の諸国から集められて送られたと思われる。また、このことから帥升は倭にある複数の国の君主として上に立っていたとも推測される(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。

※「中国」との外交を通して、国々が集まって、漢の人々から「倭」として認識されるような政治組織・社会が形成されたと考えられる。(鈴木靖民「倭国ありさまと王権の成り立ち」『纒向発見と邪馬台国の全貌』)。

※『山海経』における「倭」は、東北平原、朝鮮半島南部、日本列島北部九州、淮河・長江下流域のことを指していた。ただ、『後漢書』の用例からして、2世紀以降の「倭」は日本列島を中心とした領域だと認識されたようである(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

建武中元2年と永初元年という、2度に渡って朝貢した記述が残されていることから、「東夷」の中でも倭は特別な存在だったと理解されていたことが伺える(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

※井原鑓溝遺跡の甕棺の年代を2世紀第1四半期と推定し、被葬者を帥升に比定する説もある(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

30~59

・40年(漢暦建武16) 3. 南越の諸領主は、徴税権を漢から南越の領主に戻すことを望んだ。(『後漢書』馬援列伝,南蛮西南夷列伝,『越史略』)

・40年(漢暦建武16) 3. 南越の徴側は女王を称し、徴税を行った。(『後漢書』南蛮西南夷列伝)

※漢は高句麗倭国などの首長に王の地位を与えて、直接支配していない地域との繋がりを保とうとはしたものの、直接の支配地域が独立することは容認しなかったといえる(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・44年 韓の廉斯の首長,蘇馬諟は楽浪郡朝貢を行い、漢より「漢の廉斯の邑君」という称号を授けられた。(『後漢書』韓伝)

・57年(漢暦建武中元2) 春 倭の奴国(もしくは倭奴国)が後漢に朝賀使を送った。倭人の使者は自らを大夫と名乗った。奴国は漢光武帝,劉秀より印綬を賜った。(『後漢書光武帝紀,東夷伝 倭)

〔要参考〕『後漢紀』「光武帝紀」は正月と記す。

※日本列島内での水田耕作の発展によって農耕共同体は拡大したことで、集団内外の利害関係が生じ、それらの調停を行ったのが、奴国の王である大首長と首長集団であったと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※韓の廉斯の朝貢を起点として、倭の首長は朝貢したとも考えられる(鈴木靖民「倭国ありさまと王権の成り立ち」『纒向発見と邪馬台国の全貌』)。

朝貢関係の構築は、「中華」の支配下に入ってその支配を承認されることである。このような関係を築くことで、競合する他国に対して国力を誇示することが可能であった(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※劉秀は漢帝国の継続を喧伝する立場であり、「漢」の字を刻んだ金印を与えることは、その正当性を喧伝するうえで意味があった。「漢の国」と表記された印は、匈奴や倭などに限って贈られた金印は、最上位の官位と爵位の格に相当する者に贈られた(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

※印は皇帝の中央集権の支配秩序の下で、官人や官署が職務を遂行するために必要なものであり、役人は職位相当の印を与えられた。皇帝から授かった印は、封緘の役割を持っていた。封検という木の札の窪みに粘土を敷き詰め、その上から刻印の形で印を押すのである。ただ、当時の倭が、上表文を漢字で書くほどの識字環境が整っていたとは思えず、印文の意味や、正確な用途を理解出来なかったとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

後漢としては、新が滅亡した後の国家再編のために、他国を繋ぎとめる方策として「国王」の地位をばらまいたとも考えられる(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※どの地域から来たか尋ねられた使者が「私は」という意味で「ワ(倭)」と答えたとすれば、日本語の祖先は既に存在していたかもしれない(沖森卓也『日本語全史』)。

〔要参考〕天明7年(1784)3月16日付の口上書によれば、志賀島の百姓,甚兵衛が「漢委奴国王」と刻まれた金印を発見したのだという。

※「漢委奴国王印」は109g、金95%と銀4.5%、その他銅が含まれている。(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

※それこそが奴国王に贈られた金印だと考えられる。偽造説も唱えられたが、「廣陵王璽」と刻まれた金印や「滇王之印」と刻まれた金印などの兄弟印が発見されたことや、金属組成の分析、後漢時代当時の篆刻技術の研究により、偽造説は否定的な見解が強い(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※異民族に与えた印でありながら、蛇を象ったものであることも贋物説の根拠とされたが、「滇王之印」も蛇を象っていることから実際に後漢から与えられたものだと考えられている(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※上奏文や朝貢品の封泥に用いられたとも考えられるが、文字の内容の理解や、上表文を書くほどの識字環境が整っているとは考えられないとの疑問が呈されている。そのため、金印は後漢支配下に組み込まれることを認めるものであり、威信の象徴であるとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※三宅米吉は、「漢委奴国王」の読み方を「かんのわのなのこくおう」という読み方の推測を発表した(『史学雑誌』1892年)。

※「かんのわのなのこくおう」という読み方については、「漢に服属する、倭に属する奴国の王」という回りくどい読みであることや、当時「奴」という国が存在していたのか、また、「国王」という称号があるのかという疑問が呈されている(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※「倭奴国王」の「倭奴」は、『北史』や『旧唐書』および『新唐書』にも見られる表記である。また、『後漢書』では「倭奴国」と「倭国」の両方が使われており、表記揺れと見られる。これらのことから、「倭奴」の「奴」とは「匈奴」のように卑下の接尾辞とも考えられる。また、当時の「中国」の皇帝が民族の首長に与えた称号は「国王」ではなく「王」であることから、「漢委奴国王」は「漢の倭奴国(の)王」と読むのが適切だという説もある(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

陳寿の『魏志』「東夷伝 倭人条」には「奴国」という国名が見えることから、「倭奴国」、つまり倭国全体の王ではなく倭の中の1つの国「奴国」の王が正しいという見解もある(若井敏明『謎の九州王権』)。

※極東の島国を漢が認知したとしても、「奴国」が倭国を構成する1つの国家であるであると、理解できたかは疑わしいとも考えられている(遠山美都男『新版 大化改新』)。

・59年 5.?〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅は倭と通好したという。

紀元後1~29年

・8年 漢の皇太子,劉嬰からの禅譲を受け、王莽は皇帝となり、国号を新とした。その後、「東夷」の王から朝貢があった。

※新に朝貢を行ったのは、伊都国か奴国の王と推測される(寺沢薫『卑弥呼ヤマト王権』)。

※新において発行された貨幣,貨泉は日本列島から出土していることから、倭人は「中国」との交渉を続けていたようである(若井敏明『謎の九州王権』)。

・14年 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」倭人は兵船100以上を派遣して、秦韓の海辺の民戸を略奪したという。新羅は勁兵を派遣して防衛したという。

・28年 〔参考〕ローマのインペラトル/カエサル,ティベリウスの治世15年目(『ルカによる福音書』1.3)、洗礼者ヨハネは荒野にいて、悔い改めの洗礼(バプテスマ)の教えを伝えていた。彼はラクダの毛を着て、皮の帯をしめてイナゴと野蜜を食べていた。(『マルコによる福音書』1.4~6)

※洗礼者ヨハネは、穢れを罪として清める「ユダヤ教沐浴運動」の流れを組む者だと思われる。ただ、ヨハネの洗礼は、1度受ければ罪の赦しを与えるものであった。彼は、本来の禁欲的なユダヤ教の伝統に従って、世俗化したユダヤ教を批判していたのだと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)

※洗礼者ヨハネの身なりの叙述は『列王記』1章8節のエリヤを意識しており、実際そうであったかはわからない(大貫隆『マルコによる福音書』)。

・28年 30歳頃のナザレのイェシュアは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた。(『ルカによる福音書』3.21~23)

ヨハネによる、洗礼により全ての罪が許されるという教えに、イェシュアは家族を捨ててまで馳せ参じ、ヨハネの力になりたかったのだと思われる(佐藤研『最後のイエス』)。

〔参考〕洗礼者ヨハネは、「私の後から私より力ある方がお出でになる。私は、その方の履物の紐をかがんで解くほどの資格もない。わたしはあなた方に聖霊で洗礼をほどこすであろう(田川建三訳)」と、イェシュアについて言及したという。(『マルコによる福音書』1.7~8)

※本来、ヨハネが語った「私より力ある方」とは、神のことであり、洗礼をうけて罪のゆるしをもらわなければ、その怒りを買うと述べていたと考えられる。しかし原始キリスト教会は、イェシュアのことだと解釈した(大貫隆『マルコによる福音書』)。

※イェシュアを救世主と信じる原始キリスト教会は、イェシュアが罪の赦しを得るために洗礼を受けたことに困惑した。そこで、「私は、その方の履物の紐をかがんで解くほどの資格もない」とヨハネに卑下させることで、困惑を解消しようと考えたのだと思われる。つまり、イェシュアは本来、ヨハネの弟子だったと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

※洗礼において水に浸されることを、君主が即位式において油を注がれることに繋げて、イェシュアの弟子として洗礼を受けた事実を、君主として即位するための儀式として改変したとも考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年前後〔参考〕ナザレのイェシュアは40日間荒野にいて、その間に、サタンにより試されたのだという。(『マルコによる福音書』1.13)

※この節は、イェシュアが洗礼者ヨハネのもとに弟子として留まらなかったことを示唆しているとも考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年 洗礼者ヨハネが捕らえられると、ナザレのイェシュアはガラリヤに赴き、「神の福音」を伝えた。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音において信ぜよ(田川建三訳)」(『マルコによる福音書』1.14~15)  

神の国が近づいたというのは、洗礼者ヨハネを処刑した、ヘロデ アンティパスのような悪人による支配の終焉を意味するとも考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年以降? ガラリヤの海(湖)にて、漁師シモン、アンドレアスの兄弟と出会い、弟子とした。(『マルコによる福音書』1.16~18)

※洗礼者ヨハネが荒野に人を呼んだのに対して、イェシュアは自ら人々のもとに赴いた。しかし形態を変えたとしてもヨハネと同様に、当時のユダヤ教の救済から溢れた人々に向けた活動を行ったといえる(佐藤研『最後のイエス』)。

※当時のガラリヤはヘロデ アンティパスとその上にローマがいるという、二重の支配体制の下にあった。また、ユダヤ人の地方はそもそも蔑視されていることに加え、イェルサレムの神殿体制下においてもユダヤ社会からも蔑まれていた。イェシュアがガラリヤで活動を行ったのは、故郷である以上にイスラエルの地で最も負担を蒙り絶望する民衆に、神の国が完成しつつあることを伝え、鼓舞しようとしたのだと考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年以降?ナザレのイェシュアはイェルサレムの神殿に赴き、「私の父の家」を「商売の家」にしてはならないと言い、そこで商売する人々を追い出した。(『ルカによる福音書』19.45~48)

※イェシュアの念頭には『ゼカリヤ書』14章21節があったと思われる。また、祭儀により商人に不当な利益を与える、神殿機構そのものを転覆させようとしたのだと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

※この行為は、ユダヤ教神殿体制への怒りの表明とともに、その体制の終焉を行動として告知したとも考えられる(佐藤研『最後のイエス』)。

・28年前後 新春.15 過越祭の日、NatzratのYeshuaは仔ロバに乗って、Yerushaláyim城内に入った。(『マタイによる福音書』21.6~10)

※ロバに乗って来たのは、『Zəḵaryāh書』9章9節にて示唆される、Yerushaláyimの君主の行為を意識したものと思われる。ユダヤ人の重要な祭典において、『Zəḵaryāh書』の描写を思われる行動をして、自分の説教に注目させようとしたのだと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

※彼はユダヤ民族の選民思想と深く関わるYerushaláyimにて、多くの人に、「神の国」というメッセージを伝えたかったのだと考えられる。彼は、選民を自認するユダヤ人よりも先に異邦人が先に「神の国」に入ると考えたようである(『マタイによる福音書』8.11『ルカによる福音書』13.28~29)。Yeshuaは、神の国の中心がYerushaláyimでないことを示すために、あえてYerushaláyimにて神の国について語ったと考えられる。ただ、『マタイによる福音書』13章34~35節などからして、その後のYerushaláyimの活動は好調ではなかったらしい(大貫隆『イエスという経験』)。

・28年前後 NatzratのYeshuaは恐れを抱き、Abba(=父)たるYHVHに対して祈り、「杯」を自分の前から取り除いてくれるよう訴えた。(『マルコによる福音書』14.33~36)

※Yeshuaの祈りは、自身の思い描く「神の国」の像が不透明となり、神に意志を尋ねる祈りでたったと思われる。彼はこれから「神の国」が到来すると確信していた。しかし、自身に迫る死は、「神の国」の到来を告知する、自身の苦難の人生が無意味であると告げるようにYeshuaには思えたとも推測される(大貫隆『イエスという経験』)。

・28年以降?NatzratのYeshuaは逮捕され、ユダヤ人を裁く最高法院にて、総督のPontius Pilatusにより審問された。しかし、Yeshuaは何も答えなかった。(『マルコによる福音書』14.46~60)

※当時、ユダヤ人の最高法院は、Mōshéの律法に従って死刑判決を下すことができた。ただ、刑を執行する権限はRomaのImperatorの代理人である総督に委ねられた(大貫隆『イエスという経験』)。

※Yeshuaが沈黙したのは、ユダヤ教の支配層と、同じ論理の位置で答えるのを拒否したとの説がある(荒井献『イエスとその時代』)。

・28年以降? ローマ総督ピラトゥスの前に、ナザレのイェシュアは引き渡された。ピラトゥスはイェシュアに対して、彼がユダヤ人の君主であるか否かを尋ねた。しかしイェシュアは回答を拒否した。(『マルコによる福音書』15.1~5)

※イェシュアの沈黙は、神の国の到来という確信していた観念が不透明となり、自分に適用される罰に関心が持てないほど、苦悩していたことを示すとも考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

・28年以降? ローマ総督ピラトゥスが、群衆に対して、イェシュアをどうすべきか問うと、群衆は磔刑にするよう言った。(『マルコによる福音書』15.12~16)

・28年以降? ナザレのイェシュアは磔刑にされた。彼はアラム語で「エロイ エロイ レマ サバクタニ(わが神、わが神、どうして私をお見棄てになったのか)」と言い、最後に大声を発した後に絶命したという。(『マルコによる福音書』)

※「神の国」の到来を見ることなく、残虐に処刑される。自分の思い描いた「神の国」の像が無化し、人生の意味が分からなくなったこと対する絶叫であったと考えられる(大貫隆『イエスという経験』)。

※ここにおいて、彼は生前に語っていた、敵に真心を尽くし、虐待する者らのために祈る(『マタイによる福音書』5.44)という行為を実演してしまった。生前イェシュアに近しかった者たちに対して、その言葉は多大な説得力を持ち、直弟子たちは彼に仮託した言葉を述べるようになったのだろう(佐藤研『最後のイエス』)。