個人的偏見の世界史

個人的に世界の歴史をまとめる試みです。

紀元前49~1年

・紀元前47年 Antípatrosはユダヤ総督となった。その子息הורדוסはガラリヤ知事に任じられた。

・紀元前45年 1.1 RomaにおいてIulius暦が成立した。

・紀元前44年 2. Gaius Iulius CaesarはRomaの終身独裁官に就任した。

※Gaiusがそれまで対立したのは、Roma属州の支配権を持つ者たちであった。それらの勢力に勝利したことで、国家体制はそのままにローマの独裁者になれたとも考えられる。自身の地位や名誉を守るという私的な目的による闘争が、ローマにおける、専制支配の確立という必然的な帰結を成就させたとも評される(Georg Hegel『世界史の哲学』1830~1831〔冬学期〕)。

・紀元前44年 Marcus Tullius Ciceroは、『De Officiis (義務について)』を著した。

※最高権力者になろうとする将軍たちがあらわれる時勢において、Marcusは指導者の「virtūs/希:Arete(徳)」の重要性を説いた。彼は「徳」の構成要素を、深慮、正義、勇気、節制であるとし、徳を備えた人物が指導者になるべきだと主張した。また、指導者は国民の利益を念頭に置き、一派閥の利益のために他の国民を蔑ろにしてはならないと説いた(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・紀元前44年 Gaius Iulius Caesarは新貨幣を発行した。

※それまでの地中海で流通していた貨幣にはGraeciaの神々の姿が描かれていたが、Gaiusは自身の横顔の彫られた貨幣を発行した。その貨幣の流通する領域がRomaであり、貨幣の真性を保障する者が自分であることを示す意図があったとも考えられる(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・紀元前40年 ガラリヤ知事ヘロデは、Romaからユダヤの君主と認められた。

・紀元前30年 エジプトはRomaの属州となった。

※Romaの支配下となったエジプトでは、次第にヒエログリフが用いられなくなり、書き手も読み手もいなくなった(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・紀元前30年春 ユダヤ君主ヘロデは、Gaius(Octavius)に忠誠を誓った。(Titus Flavius Josephus『Antiquitates Judaicae』)

※当初はヘロデはMarcus  Antoniusの部下であったが、GaiusはヘロデをPalestina支配に有用と考え、その地位を保証した(佐藤研『聖書時代史』)。

・紀元前30年秋 ユダヤ君主ヘロデは、Gaius(Octavius)よりガダラやサマリアを与えられた。(Titus Flavius Josephus『Antiquitates Judaicae(ユダヤ古代誌)』)

・紀元前29年 Gaius(Octavius)は、元老院より「Princeps(第一人者,元首)」の称号を与えられた。

・紀元前27年 Gaius(Octavius)は、元老院より「Augustus(尊厳ある者)」の称号を与えられた。

・紀元前27年 Gaius(Octavius)が「Augustus」の称号を与えられたことを記念して、ユダヤ君主ヘロデは、Samariaを、AugustusのGraecia語読み(sebastos)に因むSebasteに改名し、Augustus神殿を建立した。また、Sebasteを要塞化して、少数のユダヤ人を含む退役軍人など約6000人を入植させた。(Titus Flavius Josephus『Antiquitates Judaicae』)

・紀元前27年 Augustus,Gaiusは、元老院よりRomaの属州の内半分の管轄を任され、総督としての「Proconsul命令権」を得た。

・紀元前25年 パレスティナで大飢饉が起きると、ユダヤ君主ヘロデは自費で食料を購入し、エジプトから運ばせた。(Titus Flavius Josephus『Antiquitates Judaicae(ユダヤ古代誌)』)

・紀元前25年 ユダヤ君主ヘロデを暗殺する計画があったが、事前に防がれた。(Titus Flavius Josephus『Antiquitates Judaicae(ユダヤ古代誌)』)

※ヘロデはユダヤ人の中でもイドマヤ人であり、ユダヤ人からは「半ユダヤ人」と見なされた。秘密警察を使って反対派を封じ込めるヘロデは、ユダヤ人からは抑圧者と見なされたのである(佐藤研『聖書時代史 新約篇』)。

・紀元前24年 ユダヤ君主ヘロデは、イェルサレムに宮殿を建て、1つを「カイサレイオン」もう1つを「アグリッペイオン」と名付けた。(ティトス ヨセフス『ユダヤ古代誌』)

※ヘロデが建設したローマ的な都市では、非ユダヤ的生活が行われるため、敬虔なユダヤ教徒から反感を買うことになった(佐藤研『聖書時代史 新約篇』)。

・紀元前23年 Marcus Vipsanius Agrippaは、シリア総督となった。

・紀元前23年 ユダヤ君主ヘロデは、Augustus,Gaiusより北トランスヨルダンのトラコニティス、バタネア、アウラニティスを与えられた。(ティトス ヨセフス『ユダヤ戦記』)

※Augustusの威光を背景に、ヘロデは領土を拡大したのである(佐藤研『聖書時代史 新訳篇』)。

・紀元前21年 Augustus,Gaiusの娘,Juliaは、Marcus Vipsanius Agrippaと結婚した。

・紀元前19年 アウグストゥス,ガイウスは、「consul命令権」を得た。

※これによりガイウスは全Italiaを掌握し、名目上は共和制ながら実質的な君主となった(佐藤研『聖書時代史 新約篇』)。

・紀元前15年 ユダヤ君主ヘロデの勧めに応えて、Marcus Vipsanius Agrippaはイェルサレムを訪問した。

・紀元前14年 Marcus Vipsanius Agrippaはユダヤ君主ヘロデを伴って、小アジアを訪問した。(ティトス ヨセフス『ユダヤ古代誌』)

・紀元前12年 Augustus,Gaiusは、「最高司祭長(Pontifex Maximus)」となった。

・紀元前12年 Marcus Vipsanius Agrippaは死去した。

・紀元前11年 アウグストゥス,ガイウスは、妻リウィアの連れ子ティベリウスに命じて妻と離婚させ、娘のユリアと結婚させた。

・紀元前6年(漢暦建平1) 4.丙戌 劉歆は自身が校訂した『山海経』を漢の哀帝,劉欣に献上した。(『山海経』款識)

・〔参考〕『山海経』「海内北経」には、倭は蓋国の南にあり、燕に属するという記述がある。

※「海内北経」の部分は、劉歆が校訂した際に加えられた記述と考えられ、『山海経』が「中国」における倭(=日本)の最も古い記述だという説には疑問符が付く。『山海経』は神話集であり、実際の地域名を記したわけではないが、朝鮮半島の南にあるという認識を示している(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※「蓋国」は朝鮮半島南部の「濊」であり、「海内北経」の「倭」は燕の東北にあるという見解など、様々な解釈がある(上田正昭『私の日本古代史』)。

※燕に属するというのは天空の区画のことであり、倭が燕の支配下にあったというわけではない(若井敏明『謎の九州王権』)。

・紀元前5年前後 ユダヤ人の家庭に、1人の男子が産まれた。(『共観福音書』)

※古代Graecia語では「Iēsoûs」、Aram語で「Yēšúa」。Hebraiの人名「Yĕhōšúa」が訛ったものである(田川建三『イエスという男』)。以下、彼の母語であろうアラム語に従い「イェシュア」と呼ぶ。

〔参考〕『マタイによる福音書』2章1節と『ルカによる福音書』2章4節~7節は、出生地をユダヤベツレヘムとする。

※出生地をベツレヘムとする記述は、Davidの子孫である救世主は、Davidゆかりの土地に生まれるはずだという、原始キリスト教会における観念から生じたものであり、史実ではないと考えられる。『マルコによる福音書』1章24節などによる「ナザレの」という言及から、イェシュアはガラリヤのナザレで生まれたものと思われる(大貫隆『イエスという経験』)。

・紀元前4年 ユダヤ君主ヘロデは死去した。(ティトス ヨセフス『ユダヤ戦記』)

・ヘロデの領地は、3人の子息に分割された。RomaのAugustus,Gaiusは、ヘロデ アンティパスとフィリッポスには君主(エッサイ)としての地位を認めたが、残る1人のアルケラオスは「民族統治者(ethnarches)」としてユダヤサマリアを支配させた。(ティトス ヨセフス『ユダヤ戦記』)

・紀元前2年 Augustus,Gaiusは「祖国の父(Pater Patriae)」の名誉称号を贈られた。

・起源前後 大月氏に仕えていた翕侯のうち、貴霜翕侯が勢力を拡大した(榎一雄邪馬台国(改訂増補版)』)。

※「貴霜」とは「Kushan」の漢字による音写である。総卒者である翕侯は、大月氏と同一の部族か否かは不明である。「中国」からは引き続き大月氏と呼ばれている(榎一雄邪馬台国(改訂増補版)』)。

紀元前99~50年

・紀元前97年 漢の定遠侯,班超は、漢とRomaの同盟を画策し、部下の甘英を派遣した。しかしRomaに至る途中で通るはずだったArshak朝Parthiaは、Romaと対立していたため、甘英はRomaにたどり着けず、Sūrīyahと思われる地域で引き返した。

※同盟は実現しなかったが、オアシスの道の西半の情報を漢にもたらすことができた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※Arshak朝は、建国者Arshakの名から、漢においては「安息」と音写された(宮崎市定『アジア史概説』)。

・紀元前90年頃 司馬遷は『史記』を完成させた。

※遷は荒唐無稽な出来事を排除した。そのため「三皇五帝」の「三皇」には本紀が立てられていない。しかし当時の歴史研究の資料分析は未発達であったため、説話を完全に排除はできなかった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※顓頊や、夏王朝の祖,禹、殷王の祖先,契、周王の祖先,稷、秦王の祖先,費といった人物は、黄帝の子孫として記された。「中国」が中国たりえるのは、徳の体現者である黄帝の子孫による統治が行われるからだと遷は考えていた。そのため、本紀の最初は黄帝から始まる(伊藤道治「伝説の帝王」『古代中国』)。

※殷の紂王,受が肉の林と酒で満たした池を作ったという「酒池肉林」の逸話は、『韓非子』「喩老篇」を脚色したものである。受が妲己を、周の幽王,宮涅が褒姒を寵愛して国を衰退させたという逸話は、女性の参政を歓迎しない当時の男尊女卑思想の反映である(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前60年 匈奴の日逐王は単于と対立し、漢に降った。漢は西域都護を設置して、日逐に統治させた。

※漢はこうして、タリム盆地における支配を確立した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前60年 匈奴にて屠耆堂が新たな単于となった(握衍朐鞮単于)。

※屠耆堂は漢との関係修復を望んだが、その残忍さから匈奴の内部の離反者が多く出た(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前58年 匈奴の先代単于の子息,稽侯狦が単于として擁立された。稽侯狦は握衍朐鞮単于,屠耆堂を攻め、自害に追い込んだ。

※その後、稽侯狦は一族と匈奴の地位を争うこととなった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前57年頃 日本列島でクスの木が伐採され、環濠集落の建物の柱に使用された。(都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』)

※池上曽根遺跡の柱の年代は、年輪から紀元前57年のものと判明した。弥生時代中期より集落の人口が増えたことで、巨大な環濠集落が形成されたと考えられる。畿内では周辺には2~3ha程の集落が約5km間隔で分布しており、池上曽根遺跡のような更に巨大な集落が総括していたと推測される。建物の軸線は南北に設定されており、「中国」の建築思想に基づく建築がなされていたと推測される。渡来人が城郭都市の知識を伝えたのかもしれない(都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』)。

・紀元前54年 呼韓邪単于,稽侯狦は、兄の郅支単于,呼屠吾斯に破れ、漢の臣下になることを決めた。

・紀元前53年 匈奴の呼韓邪単于,稽侯狦は、子息の右賢王を漢に仕えさせた。

・紀元前50年 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人が兵を率いて秦韓に侵攻したが、赫居世の徳に感化されたのだという。

※この時期に関する『三国史記』の倭人の記述が、どれだけ事実を反映しているかは不明である(若井敏明『謎の九州王権』)。

〔参考〕『三国遺事』「塔事 皇竜寺条」には、新羅は北方で靺鞨に繋がり、南方で「倭人」に繋がるとある。

〔参考〕『後漢書』「鮮卑条」は、濊国の1つに「倭人国」があるとする。

※『三国史記』に登場する「倭人」の全てが、日本列島内にいる人々とは限らない(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

紀元前149~100年

・紀元前149年 殲滅を目的として、ローマはカルタゴを攻めた(第3次ポエニ戦争)。3年後、カルタゴが破壊され、町は火に包まれて戦争は集結した。カルタゴの総人口約50万人の内、生き残った約5万5000人は奴隷として売られた。

・紀元前149年 マケドニア君主の子息を僭称する、アンドリスコスがマケドニアを占領した。ローマはそれを破って、マケドニアを属州とした。

・紀元前147年 アルシャク朝パルティアは、メディア地方を獲得した。

・紀元前146年 ローマは、ギリシアのアカイア連邦を破った。ローマはコリントスを破壊し、ギリシア本土を属州アカエアと定めた。

・紀元前146年 ローマは都市カルタゴを破壊した。

※ローマはカルタゴの支配していた地中海を掌握し、フェニキア人やカルタゴ人が開拓したルートを用いて政治的影響力を拡大させた(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・紀元前141年 この年以降、アルシャク朝パルティアは、メソポタミア支配下に収めた。

※アルシャク朝が西アジアにおいて力を持ち、セレウコス朝の領土はシリアに限られた(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前140年頃 ユダ(マカベア)の後継者たちによる、ハスモン朝が立てられた。

・紀元前139年 月氏からの求めに応じて、漢の武帝,劉徹は月氏と同盟を結び、匈奴を挟撃することにした。そこで張騫を使者として派遣した。騫は匈奴に捉え拘留されたが、匈奴単于から妻を与えられた。

・紀元前135年 匈奴から漢に使者が訪れ、和親を求めた。王恢は、匈奴は和議を結んでも数年もせずに約束を破って攻め込んでくるとして、匈奴を討つべきと主張した。対して韓安国は匈奴は捕らえることが困難であり、戦争で疲弊してしまうとして、和親に応じるべきと述べた。それには多くの群臣が賛同した。結果として、武帝,劉徹は和親を受け入れた。

※恢は辺境の役人として活動しており、匈奴のことを熟知していた。しかし当時の徹は若く、多くの群臣に反対して戦争を決めることが困難であったと考えられる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前134年 馬邑の豪族,聶壱は漢の武帝,劉徹に言上し、和親を結んで安心している匈奴を誘い出し、伏兵で攻撃すれば勝てるだろうと伝えた。

・紀元前133年 ティベリウス グラックスは、中小の農民に対して公有地を分配しようとした。

※これは、農民が窮乏することで、ローマの国防力が弱まるのを防ぐためである。しかし、この改革は元老院の反対により挫折した(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前133年 聶壱は匈奴に至って、馬邑の上層部の者を殺し、城ごと匈奴に降伏すると伝えた。匈奴軍は略奪をしながら馬邑の手前まで来たが、家畜がいるのに牧人が居ないことを怪しんだ。そこで尉史を捕らえて漢の作戦を白状させた。そして匈奴軍は引き返した。

・紀元前133年 ローマはヌマンティアを降伏させた。

・紀元前123年 ティベリウス グラックスの弟、ガイウスは、護民官となった。

※ガイウスは元老院勢力と対立し、その勢力を抑えるために、騎士身分を登用した(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前129年 張騫は部下を連れて匈奴の下から脱出し、大苑に至った。

・紀元前129年 漢の武帝,劉徹は、兵を派遣して匈奴を攻撃したが、破れた。匈奴の数千人は漢の漁陽に侵入した。

・紀元前129年 漢軍と匈奴軍が交戦した。

・紀元前128年 張騫は大苑に月氏に至る道案内をしてもらい、大月氏の君主に会って、同盟を持ちかけたが、それは拒否された。

※このころ大月氏大夏(トハラ)を支配しており(『史記』大宛伝)、新たに手に入れた土地は豊かであった。移り住んだ先の領土は漢からも遠く、既に匈奴に復讐したいという気もなくなっていたのである(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前127年 漢軍は隴西にて匈奴を破った。漢は黄河の南側を獲得し、造陽を匈奴に与えた。

・紀元前127年 張騫は大月氏の土地から帰還することになった。しかし、羌の領内を通過する際に、再び匈奴に捕らえられ、拘留された。

※羌は匈奴と密接に連絡をしていたとも考えられる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前126年 匈奴の軍臣単于は死去した。その弟伊稚斜は、軍臣の子息於単を破り、自ら単于になった。於単は漢に亡命した。

・紀元前126年 匈奴の後継者争いに乗じて、張騫は匈奴の領内から脱出して漢に帰還した。

※同盟はならなかったものの、漢の西方(「中華」にとっての西域)たるオアシス地帯の事情を知ることができた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※張騫がもたらした、大苑にいるという、血のような汗をかく良馬,汗血馬の情報は、匈奴に勝つための馬を欲していた武帝,劉徹に、大苑への遠征を決定させることになる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前125年 匈奴は漢を攻め、代、定襄、上郡にて殺戮を行った。

・紀元前124年 漢は100000の兵を率いて匈奴を攻撃し、多くの捕虜と家畜を得た。

・紀元前121年 漢は匈奴を攻め、祁連山を奪った。

・紀元前121年 漢との戦いで多くの匈奴兵を失ったことで、単于は怒り、それを率いていた渾邪王と休屠王を処刑しようとした。それを恐れた2人は、多くの匈奴人と共に漢に投降した。

※これは匈奴にとって大きな打撃を被った(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前119年 漢は匈奴を攻め、単于を敗走させた。

単于の生死が不明となり、右谷蠡王が単于を称したが、単于が生きていたことが分かったので単于位を返上した。それほどまでに混乱があった。漢も多くの犠牲を出し、それ以上侵攻はしなかったが、黄河の北にまで領土を拡大させた(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前119年 漢は烏孫との同盟のために、張騫を烏孫に派遣した。

※直接匈奴を攻撃するよりも、匈奴に従属している烏孫を離反を画策したのである(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前119年 漢において、塩と鉄は国家の専売制となった。

※これは大規模な匈奴への遠征により、多額の出費があり、財政破綻寸前だったことによる。そのため専売制を導入して、収益を財政に宛てたのである(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前115年 張騫は、烏孫との同盟には良い返事を貰えなかったが、烏孫からの使者とともに漢に帰還した。

※これ以降、オアシスの道を通して、西方よりブドウ、ウマゴヤシ、ナツメなどが入ってくるようになる(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前115年 漢は禁輸法を施行した。

・紀元前111年 漢は匈奴から奪った甘粛地方に、敦煌郡などを置いた。

※甘粛地方に植民を行って税収を増やし、遠征軍や駐屯軍に食糧を供給する起点になることを期待されてのものである(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

匈奴は北方に追いやられたことで、オアシスの道を手放すことになり衰退した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前111年 漢は越南を滅ぼし、広東地方に南海郡、ヴェトナム北部に交趾郡、中部に日南郡などを設置した。

※こうして漢は南海交易の利益の独占を図った。漢の南海交易は東南アジア現地の人々のネットワークに依存していたが、自らの力でインドまで到達する商人もいた。(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前111年 ローマにおいて、土地法が制定された。これにより、有力者が所有する土地の多くは私有地として認められた。

※これにより、土地を再分配して中小農民に与えるというガイウス グラックスの提案は不可能になった(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前110年 漢は平準法を施行した。

※漢は大商人の利潤を抑え、その分を財政に宛てた。増税も行って民の生活は苦しくなったが、再び大規模な遠征を行うことができるようになった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前108年 桜蘭は漢に降伏した。匈奴が桜蘭を攻めると、桜蘭は2人の君主子を、それぞれ匈奴と漢に差し出した。

・紀元前108年 漢の武帝,劉徹は、衛氏朝鮮を滅ぼして、楽浪郡を設置した。その後、倭の内の30国程が漢に使者と通訳を遣わした。倭の首長は各々「王」を名乗り、世襲制であった。(『後漢書東夷伝 倭伝)

〔参考〕『説文解字』によれば、「倭」は柔順という意味を持つ。

※「倭」とは、「中国」から見て朝鮮半島の南の、海を隔てた地域(ないしは国)を差して、従順の意で呼んだと考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

〔参考〕昔、「倭傀」という名の醜女がいたとして、「倭」は醜いという意味だという説もある。しかし、『文選』巻51「漢・王襃「四子講徳論」」の李善の注には、所見が明らかでないとして、疑義を呈する。

〔参考〕『釈日本紀』と『日本書紀纂疏』は、「倭」は「吾」「我」が転じたものと考証する。

〔参考〕『異称日本伝』は、「倭」は人・女性に従うという意味を持っており、女性が統治するという伝聞から用いられたと考証する。

※「吾」「我」が転じたという説や、女性に従うという意味という説は、全くの憶測とされる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。

楽浪郡を置いたのは、東部の匈奴を攻撃するための、拠点を確保するためである。楽浪郡朝鮮半島の韓人、日本列島の倭人の窓口にもなった。(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前105年 烏孫の君主は漢の公主を娶った。

※漢より帰還した使者から、漢の裕福さを聞いたことが、同盟のきっかけとなった。こうして次第に、匈奴から服属国は離れていった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前104年 漢は大苑に遠征軍を派遣した。

紀元前199年~150年

・紀元前2世紀以降 『マヌ法典』が成立した。

※『マヌ法典』はインドにおいて歴史形成の要因の一つとして求められた法典でありながら、インド自体は「どんな歴史ももたない」とも評される(Georg Hegel『世界史の哲学』1830~1831序論)。

・紀元前198年 漢と匈奴は、漢を兄、匈奴を弟とすることで和解した。冒頓単于は漢の公主を妻に迎え、絹製品や酒、米などを漢から送らせることが条件として取り決められた。

※漢側としては、裕福な兄である漢が、気候の厳しい土地にすむ、不憫な弟匈奴に施しを与えるという理屈で和約を結んだ(林俊雄「冒頓単于」『アジア人物史 1』)。

※結局、皇帝の実の娘が嫁ぐことはなく、劉一族の女性を公主ということにして、冒頓に嫁がせた(林俊雄「劉邦」『アジア人物史 1』)。

※「中国」が含まれる「第二地域」と呼ばれる地区は、外敵の脅威を除くことで繁栄したと考えられる。ただ、それでも新たな外敵への備えに労力を用いる必要があったことで、生産力を浪費してしまい、体制の内部矛盾をrevolutionによって変革できうるまで成熟できなかったという見解もある(梅棹忠夫「文明の生態史観」)。

※漢において政治的混乱があっても、関心を内政に向け続けられたのは、匈奴のよる安全保障があったからとも考えられる(杉山正明遊牧民から見た世界史 増補版』)。

・紀元前195年 燕王,盧綰は匈奴に使者を送った。匈奴側からの提案で、綰は匈奴との連合を構想した。

※漢の皇帝,劉邦は劉一族以外の王(異姓王)を警戒し、失脚させるなどしていたが、疑心暗鬼になった異姓王たちには、匈奴との関係を持つ者が現れたのである(林敏雄「劉邦」『アジア人物史1』)

・紀元前195年 匈奴と内通した疑いで、漢の皇帝,劉邦は燕王,盧綰を召喚しようとした。しかし綰は一族郎党と共に匈奴に亡命した。

匈奴に亡命した多くの「中国」人は、単于に政治顧問として登用され、匈奴の統治制度や軍隊の組織化に寄与した。イェニセイ川上流域の匈奴による漢様式の宮殿は、「中国」人高官が住んでいたかもしれない(護雅夫ほか『北アジア史』)。

・紀元前195年 劉邦は死去し、皇后,呂雉は太后となった。

・紀元前192年 匈奴冒頓単于は漢の皇太后,呂雉に対して書簡を送り、どちらも独り身で楽しみがないからとして、「お互いに持っているもので無いもの」を埋めよう、と述べ求愛した。雉は怒って匈奴を攻めようとしたが、説得されて止めた。雉は自分が髪や歯が抜け、歩行も困難な身であり、冒頓は聞き誤ったのだろうとして、馬と馬車を差し出し、劉一族の女性を公主に仕立て嫁がせた。

※冒頓は本当に妻に先立たれたのか、以前に差し出された「公主」は死んだのか、実際は不明である。雉からの返答は、漢が匈奴の軍事力を恐れていたことを伺わせる(林俊雄「呂后」『アジア人物史 1』)。

・紀元前180年 劉恒は漢の皇帝として即位した。(『漢書』文帝本紀)

*皇帝の諱を避け、月の女神姮娥のことは嫦娥と呼ばれるようになった(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』)。

・紀元前177年 匈奴の右賢王は、漢の長城を守備していた「蛮夷」を攻め、殺戮と略奪を行った。

※この「蛮夷」というのは林胡や義渠であり、当時は漢に服属していたものと思われる(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前177年 冒頓単于は漢の文帝,劉恒に書簡を送り、長城付近を攻撃したのは、そこの役人が右賢王を侮辱したためであり、右賢王は冒頓に無断で攻撃したのだと弁明した。匈奴は漢にラクダ1頭、騎乗用の馬2頭、馬車用の馬8頭を献上した。劉恒からは皇帝の衣装、黄金の装飾とベルトの留め金、そして絹織物が匈奴に贈られた。

※遊牧国家からは馬、中国からは絹という贈答関係は、その後の形式となった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前176年 冒頓単于は漢に書簡を送り、月氏勢力を滅ぼし、楼蘭烏孫、呼揭を平定したと伝えた。

月氏の一派はオクサス(媯水)川の北側に到着し、そこに勢力圏を築いて大月氏を名乗った(『史記』大苑伝)。

・紀元前174年 匈奴冒頓単于は死去し、その子息,老上が単于となった。

・紀元前168年 ローマはマケドニア君主国を滅ぼした。

マケドニアは複数に分割された。また、ローマに味方しないギリシアの諸勢力には圧力をかけるようになった(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前168年 ローマ軍はピュナドの戦いにてアンティゴノス朝マケドニアを破った。

※遠征から帰還するローマ人の中には、オリエントやギリシアの信仰が広まっていった。そのような陽気な祝祭的祭儀に対して、古来のローマの厳粛な祭儀を重んじる人々は不快感を覚えた。ギリシア的信仰に対する禁令は度々出されたが、信仰が絶えることはなかった(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前167年 指導者ユダに率いられたユダヤ人が、セレウコス朝に対する反乱を起こした。ユダの渾名に因んでマカベア戦争と呼ばれる。ユダは戦死した。

※これはセレウコス朝の支配が弱体化したことの証左であった(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前162年 漢の文帝,劉恒は、匈奴の老上単于に書簡を送り、匈奴の土地は草木を痛める寒さがあるからとして、アワ、キビ、コメ、絹織物、絹糸を送ると伝えた。

・紀元前154年 漢と匈奴は和親し、漢からは、「先の約」の通りに公主を遣わし、関市を通じることとした。

※関市とは、長城線にて交易を行うことである。原則として「中国」の王朝は民間交易を禁じたが、遊牧国家の態度次第で容認することがあった。遊牧国家の匈奴としては、交易は魅力的であった。「先の約」とあることから、以前から交易をしていたのかもしれない(林俊雄「冒頓単于」『アジア人物史 1』)。

紀元前299~200年

・紀元前288年 秦の昭王,嬴稷は2か月間「西帝」を称した。

※これは王号に代わる権威を、帝に求めたものである(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

・紀元前272年 Roma人は、南ItaliaのGraecia人都市タレントゥムを陥落させ、Italia半島を統一した。

・紀元前268年頃 AśokaḥがMauryaの君主として即位した。

・紀元前264年 Sicilia島を巡って、RomaとCarthāgōの間で戦争が勃発した(第一次Punici戦争)。

・紀元前262年 EumenēsはSeleukοs朝から離反し、Attalos朝Pergamonを成立させた。

※Pergamonは鉱産物資源に恵まれたほか、穀物、果樹を栽培、毛織物や羊皮紙などの産業があった。Romaと結託することで存続を狙った(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前260年頃 Maurya朝君主Aśokaḥは、カリンガを征服した。(「磨崖法勅」第13章)

※「磨崖法勅」によれば、10万人が殺害され、15万人が移送されたという。そのことをは後悔し、Aśokaḥは仏教に傾倒するようになったという(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史』)。

・紀元前259年 1.1 秦の荘襄王,嬴子楚は、子息に正を儲けた。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前258年頃 Maurya君主Aśokahは、Gotama Siddhatthaが悟りを開いたという、saṃbodhi(Mahābōdhi)に巡礼し、菩提樹に詣でた。彼は領内の仏教関連の場所を巡行した後に、「小磨崖法勅」を発布した。(「磨崖法勅」第8章)

※貴賤の人民に努力を促し、父母や師への従順、生類に慈しみを持つこと、真実を語るなどのdharma(巴:dhamma,漢:法)の美徳が求められた(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史』)。

※家族愛から拡大して村、地域社会、国家へと社会倫理が勝たられる点は、『大学』における儒教倫理との共通性が指摘される(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

※法勅の形式には、haxāmaniš朝の法令の影響も指摘される。haxāmaniš朝より伝わった統治の方法が、のMaurya朝による広範囲の領域支配を可能にしたのだと考えられる(馬場紀寿『初期仏教』)。

※基本的に、法勅の碑文はBrāhmī文字で刻まれた。Maurya朝領土の北西部などでは、Aram文字、Graecia文字、Kharoṣṭhī文字にて碑文が刻まれた。Aram文字はhaxāmaniš朝からもたらされ、Graecia文字はAlexandros Ⅲの東征によりもたらされたものである。Richard Salomonは、Brāhmī文字はAram文字を元に作成されたという仮説を提示している。haxāmaniš朝の影響下で、Indoの文字は成立したと考えられる(馬場紀寿『初期仏教』)。

※Gotama Siddhatthaが、その下で悟ったと信じられたことから、菩提樹はbuddhaの象徴となり、信仰を集めた(馬場紀寿『初期仏教』)。

・紀元前256年 Maurya朝君主Aśokaḥは法勅を発布し、生類の殺害や生贄、君主の認めた以外の祝祭は禁止され、宮殿での屠殺を制限し、いずれ停止することを宣言した。また、地方の官吏にはdharma(巴:dhamma,漢:法)の宣布のために巡行が命じられた。また、自身と子孫によるdharma(巴:dhamma,漢:法)の実践を約束している。(「磨崖法勅」)

・紀元前255年頃 Maurya朝君主Aśokaḥは、dharma(巴:dhamma,漢:法)の宣布と人々の福利を目的として、ダルママハーマートラ(法大官)を任命した。(「磨崖法勅」第5章) また、奴隷や従者への丁重な扱い、父母への従順、友人、知人、親族、Śramaṇa(巴:Samaṇa,漢:沙門)とbrāhmaṇa(漢:婆羅門)への気前の良さと、不殺生といった徳目を推奨し(「磨崖法勅」第11章)、宗教者に対しては、他宗教を貶めず寛容になり、自派の発展に尽くすよう求めた。(「磨崖法勅」第12章)

※他宗派の調和を求めていることからして、「磨崖法勅」に示されるdharma(巴:dhamma,漢:法)は、仏教とは独立した、普遍的な倫理を意味している。広大な領土を統治するうえで、共通の倫理規範を定着させることを決めたのである。「磨崖法勅」の碑文は領土の周縁に多く立てられ、主に周辺諸民族を対象としていた。ただ、dharma(巴:dhamma,漢:法)に従わない勢力には武力行使もほめのかしており、Aśokaḥの考えるdharma(巴:dhamma,漢:法)に合致しない風習を否定するものであった(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史 1』)。

・紀元前255年楚の春申君は、荀況を蘭陵の令に任じた。(『史記孟子荀卿列伝,春申君伝)

※楚がそれまで中原から野蛮視されていたのは、王号を使用していたことが理由の一つにある。しかしこの時代には中原の有力な諸侯も王号を使用するようになっていた。況が楚で高官になったのは、社会での南方への意識が変わったことを示すとも考えられる(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前255年 秦は周を滅ぼした。この際、周王の象徴である九鼎は秦の昭王,稷の手に渡ったという。

・紀元前254年Maurya朝君主,Aśokaḥは、仏塔を増築した。(「Nigahri Sāgar法勅」)

※仏塔は、Gotama Siddhatthaの遺骨を埋めた塚であったと考えられる。菩提樹と共に、buddhaの象徴として崇敬を集めた(馬場紀寿『初期仏教』)。

・紀元前251年 秦の昭襄王,嬴稷は薨去した。(『史記』)

・紀元前250年 秦において、安国君,嬴柱が即位し(孝文王)、王子の子楚が太子となった。(『史記』)

・紀元前249年 秦の孝文王,嬴柱が薨去し、太子の子楚が即位した(荘襄王)。

・紀元前249年? 50歳になった荀況(荀子)は斉に遊学した。(『史記』)

〔参考〕『荀子』「明鬼篇 下」には、殷の紂王,受は天下を謗り、鬼神を軽視し、老人や幼児ほか人々を殺し妊婦の腹を裂いたとある。

※『荀子』の記す逸話は根拠のあるものではない。春秋時代以降には教訓説話が求められていたため、天命を失った君主として知られていた受は、あるべきでない君主像として描かれるようになった(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※『荀子』には「楚に居り而して楚たり、越に居り而して越たり、夏に居り而して夏たり。これ天性に非ざるなり、積靡して然らしむなり」とあり、華夷の差は先天的なものでなく、文明の習得によるものとされた。況は、全ての人々が文明を受け入れれば天下は一つの家のようになると考えた(佐川英治秦漢帝国漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※斉の中心地である臨淄は繁華街が賑わっていた。周の宣王,姫静は学問を保護する目的から稷門の外には学堂が建てられており、況らそこに招かれた学者は「稷下の学士」と呼ばれた(佐川英治秦漢帝国漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

・紀元前248年頃 Maurya朝君主Aśokaḥは、Gotama Siddhatthaの生誕地とされるLumbinīに巡礼し、そこの租税を減免した。(「石柱法勅」)。

※「石柱法勅」の発布の以前と推定される時期に、Aśokaḥは「破僧伽法勅」を出しており、仏教saṃghaの分断を画策したBhikkhu(梵:Bhikkhu,漢:比丘)やbhikkhunī(梵:bhikṣuṇī,漢:比丘尼)は僧院から追放することを定めている。また、同時期に発布されたと考えられる「kolkata バイラート石碑」においては、Buddha,Gotama Siddhatthaの教えのうち、7つの題目の内容を、仏教出家集団と在家信徒は、繰り返し聴いて記憶するよう説いている。修行者への介入の態度は、彼の仏教理解への自信と、Dharmaに基づく政治の成功の確信が読み取れる(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史 1』)。

※「kolkata バイラート石碑」において仏教徒に求められるのは、Buddhaの教えを聴いて記憶することである。『Mahābhāratam』には、Vedaを書写したものは地獄に落ちるとあり、聖典は記憶するものだという観念がIndoにはあった(馬場紀寿『初期仏教』)。

・紀元前247年 趙正は秦王として即位した。(『史記』秦始皇本紀) 李斯は郎官として謁見した。

※13歳の少年君主が国政を担うことは困難なため、呂不韋が代行した。正は不韋を父に次ぐ者を意味する「仲父」と呼んで敬った(渡邉義浩『「中国」は、いかにして統一されたか』)。

・紀元前242頃 Maurya朝君主Aśokaḥは、石柱に法勅を刻み、死刑囚には助命嘆願や死後の再生のために寄進や断食を行うための3日間の猶予が定められた。また、鸚鵡、蝙蝠、亀などの特定の動物の殺生を禁じ、子連れのメスや生後6ヶ月未満の山羊や牛など、殺生に一定の制限を設けた。

※殺生の禁止については、ある程度の譲歩をせざるを得ない現実があったと考えられる(古井龍介「アショーカ」『アジア人物史 1』)。

・紀元前241年 Romaは、Carthāgōからの賠償金とSicilia島を獲得した。

・紀元前241年 韓、魏、趙、衛、楚の連合軍は、秦に出兵して寿陵を奪った。趙軍は秦の蕞を奪おうとして失敗した。(『史記』趙世家) 秦軍が出兵すると、連合軍は撤退した。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前239年 秦において、呂不韋は『呂氏春秋』を完成させた。

※古今の人物の成功や失敗、政治論や諸子百家の説などを収録したものである。「不二篇」には、君主が法を一元的に把握することにより国家を支配すべきことが説かれている(渡邉義浩『「中国」は、いかにして統一されたか』)。

※『呂氏春秋』は、太皞、黄帝、少皞、顓頊が「五帝」に位置付けられる。また、五行思想に基づき、太皞が春、炎帝が夏、少皞が秋、顓頊が冬となり、黄帝は夏の終わりとして中央に置かれる。これらの帝王は神のような性格が語られるものの人間的であり、五行の元素(木火土金水)との関係性が述べられるしても天地や人間の存在は当然のこととして置かれている。五帝もまた元素による関係性の内にあるものとして考えられたのである(伊藤道治「伝説の帝王」『古代中国』)。

・紀元前238年 秦の宦官,嫪毐は、秦王趙正の母との間に子息2人を儲けており、趙正に謀反を起こし、秦王に即位させようとしたが、それが告発された。(『史記』秦始皇本紀) 嫪毐とその子息2人は処刑、秦王の母は古都の擁城に幽閉され、嫪毐を支持した舎人は財産を没収された。(『史記』秦始皇本紀) そもそも嫪毐を後宮に送り込んだ呂不韋も罪を問われた。秦王の趙正は死罪にしようとしたが、功績と人望を鑑みて死罪は免じた。(『史記呂不韋列伝)

※嫪毐が秦王の母から寵愛を受けたというのは、この記事における『史記』の原史料が、趙正側の脚色を受けていたのだと考えられる、後宮の情事を利用して、趙正としては嫪毐と呂不韋という国内の巨大勢力からの自立を模索していたのだと考えられる。また、睡虎地秦簡『法律問答』では、父母の告発を禁じていたため、趙正としても恣意的な法解釈を行わず、母を罪に問わない形で事件を処理している(鶴間和幸「始皇帝」『アジア人物史 1』)。

・紀元前238年 呂不韋は家族とともに蜀への流罪を命じられると、自分が許されないことを悟り、その地で服毒自殺した。(『史記呂不韋列伝)

・紀元前238年 遊牧民Parni族は、Parthia地方に進出した。そこで、Arshak(希:Arsakēs)が君主となった。その名からArshak朝Parthiaと呼ばれる。

Parthiaは、Persiaと同語源である(宮崎市定『アジア史概説』)。

※Arshak朝においては、Aram語と古代Persia語を用いられたため、PersiaにおいてはGraecia語語は廃れた。古代Persia語は当初Aram文字で綴られたが、Aram文字を元にしたParthia文字で綴られるようになる(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・紀元前238年 RomaはSardiniaとCorsicaを領土に加えた。

※これはCarthāgō内の混乱に乗じたものである。こうしてRomaは、Italia半島の外に領土を得て、公職者を派遣して属州として統治した(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

・紀元前236年 趙が燕を攻撃していた隙に、秦は魏を攻めて九城を取った。次に秦は趙の閼与と橑陽を取った。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前234年 秦は趙を攻め、10万人の首を取った。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前233年 韓王,姫安は王族の韓非を使者として送った。

※秦王の趙正は、韓非を登用することもなく、しかし留めおいた。帰国させれば秦が不利になると見込んだからである(鶴間和幸「韓非」『アジア人物史 1』)。

・紀元前233年 〔参考〕李斯は韓非に毒を送り、自殺を促したという。(『史記』)

〔異説〕『戦国策』は秦王の趙正の命で殺害されたとする。

・紀元前232年 秦は趙を攻めるも、李牧率いる趙軍に敗れた。(『史記』趙世家)

・紀元前231年 秦は国内の全ての男子に年齢を申告させた。

※戦争への動員可能な人数を把握するためである。秦において成人の基準が身長から年齢に変化した契機であると推測される(宮宅潔「軍事制度からみた帝国の誕生」『中華世界の盛衰』)。

・紀元前230年 秦軍は韓王,姫安を捉えた。ここに韓は滅亡した。

・紀元前229年 秦は趙を攻めた。

・紀元前228年 趙王の趙遷(幽穆王)は秦に降伏した。

・紀元前221年 秦王,趙正は君主号を改めることにした。博士たちは「天皇」「地皇」「泰皇」という候補を挙げ、「泰皇」こそが最も尊いものであると説明した。正は「泰皇」から「皇」を取り除き、「帝」を加えて「皇帝」を名乗ることにした。また、李斯さ「天子」の自称として「朕」を提案した。(『史記』秦始皇本紀)

※「泰」とは天や地の神よりも上位の天帝,泰一を意味する。しかし正は「帝」の字にこだわり、それを修飾する文字として、「王」に通じ、光り輝く様を意味する「皇」を合わせたのである。天の中心の権威である天帝に対して、正は地上の中心としての権威を求めた(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

※正は斯の提案を受け入れているため、「天子」であるという自覚があったと考えられる。「天子」が「上帝」に従属するというのは儒家の思想であって、正がそう考えていたわけではない(佐川英治「皇帝が「天子」を称するとき」『君主号と歴史世界』)。

※秦の時代、皇帝の諱を避け、正月のことは「端月」と言い換えられた(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』)。

・紀元前221年 秦王の趙正は将軍,蒙恬を派遣し、匈奴を攻撃した。匈奴は一時的にOrdosから駆逐された。

※当時は東胡と月氏の勢力が強く、その間に挟まれていた匈奴は秦に対抗できず黄河よりも北にまで放逐されることとなった(佐川英治秦漢帝国漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※『後漢書』は月氏を「月氏胡」と呼んでおり、bod(英:Tibet)系の羌とは区別している。ʾāthorの文献にSkythai民族のことを「Skuja」と呼ぶものがあることから、「月氏」とはSkythai民族の中の一部を漢字で音訳したものであるとも推測される(榎一雄邪馬台国(改訂増補版)』)。

・紀元前221年 12. 秦王の趙正は、子供は母親の再婚相手を、「仮父」と呼んではならず、異父キョウダイは兄弟姉妹と認めてはならないとした。(『史記』秦始皇本紀)

※この法令の背景には、かつて正の母と密通した嫪毐が、「仮父」と噂されていたことがあると考えられる(鶴間和幸「始皇帝」『アジア人物史 1』)。

・紀元前220年 燕は秦から攻められることを恐れ、秦王,趙正を暗殺しようと刺客を送ったが、暗殺に失敗した。正は燕に兵を送った。(『史記』秦始皇本紀)

※戦争には正当な理由が必要とされた。『史記』の記事が主張したかったのは、秦は燕を攻める口実を得たことである(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。

・紀元前219年 〔参考〕『史記』「秦始皇本紀」によれば、秦の始皇帝,趙正は徐市(福)に命じて、不老長寿の薬を探させたという。 

〔参考〕『史記』「淮南衡 山王列伝」よれば、徐福は正を欺いて蓬莱山の大神に献上するとして貢物を受け取り、海を渡った先の島で王となって帰ってこなかったという。

※正は生前から陵墓を建設させている。そのため不老不死を求めていたというのは不自然であり、徐福伝説は虚構という説もある(落合淳思『古代中国の虚像と実像』)。

・紀元前218年 Romaにおいて、クラウディウス法が制定された。これにより、元老院議員の生業は、農耕者であると定められた。

※これにより、農耕者である元老院議員と、騎兵として戦う騎士身分は、別々の存在として分かれることとなる(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』展望)。

紀元前218年 Hannibal Barcaはアフリカゾウの部隊を伴ってAlpesを越えてItaliaに侵攻し、Cannaeの戦いにてRomaに打撃を与えた。

※Hannibalは、諸都市Romaから離反させることに失敗した。また、補給が絶たれたため、イタリアを占領し続けることが出来なくなった(岩波講座 世界歴史03『ローマ帝国西アジア』)。

・紀元前215年 秦の始皇帝,趙正は、遊牧の異民族,匈奴に遠征軍を派遣した。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前214年 秦は南方の百越に遠征した。(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前213年 李斯の提案で、秦では万里の長城が築かれた。

・紀元前213年 秦の始皇帝,趙正は、李斯の提言により、農業・医薬・卜筮を除く、民間にある文学・詩書・百家の書を焼くよう命じた。(『史記』秦始皇本紀)

※いわゆる「焚書」と呼ばれるものである。斯の目的は、人々の文化的な差異を廃して思想を統一し、1人の君主のもとでの統治を実現するとこであったと考えられる。しかし、こうした政策は、正が保護していた文学・方士からも反感を買うこととなった(佐川英治秦漢帝国漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

・紀元前212年 鱸生は秦の始皇帝,趙正を誹謗して逃亡した。それに怒りを覚えた正は、自身を誹謗したと告発された儒家460人を生き埋めにした。(『史記』秦始皇本紀)

※この一件は、『漢書』において「坑儒」と呼ばれるものである。ただ、その言葉は儒教の地位が確立して後に生まれた言葉であり、「焚書坑儒」というように一続きの言葉になったのも『漢書』が最初である。儒家にとっては、儒教の正しさを示す受難の歴史として伝わることとなった(佐川英治秦漢帝国漢人の形成」『中国と東部ユーラシアの歴史』)

・紀元前212年 李斯の提案で、秦では軍事道路の直道が整備された。

・紀元前210年 〔参考〕危篤となった始皇帝,趙正は、長男の扶蘇に葬儀を依頼する遺言を残して、崩御したという。その遺言は、李斯によって密かに破棄されたという。(『史記』秦始皇本紀)

〔異説〕『趙正書』には、李斯は後継者に正の子息の胡亥を推薦し、正はそれを裁可したとある。

・紀元前210年 〔参考〕李斯と趙高は始皇帝趙正の遺言を偽作し、扶蘇に死罪を命じた。

・紀元前210年 趙胡亥が秦の皇帝として即位した(二世皇帝)。

・紀元前210年 秦の将,蒙恬は、秦の臣により自害に追い込まれた。

・紀元前209年 匈奴単于,頭曼は子息の冒頓に殺害された。冒頓は父親の複数の妻妾を自分の妻にした。(『史記匈奴列伝)

※この時期は少し後かもしれない。因みに父親の持っていた妻を娶るのは、遊牧民社会に見られる風習であった。このような風習は、テント生活を営む遊牧民社会において、寡婦は居場所がないため、亡夫の血の繋がらない子息に、妻として引き取られたとも考えられる(林俊雄「冒頓単于」『アジア人物史 1』)。

・紀元前209年 この年かその少し後、匈奴月氏を西方に駆逐した。

・紀元前208年 陳勝呉広は、秦に対して反乱を起こした。しかし後に鎮圧された。

※内乱が勃発により、秦の辺境を防衛する防人は内地に戻らざるを得なかった。すると匈奴黄河を越えて、秦に攻められる以前にまで領域を回復した(林俊雄『林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・紀元前207年 趙高の策謀で李斯は謀反の罪を問われ、裁判の結果、死罪となり腰斬の刑となった。

・紀元前207年 秦の二世皇帝,胡亥は、趙高に強いられて自殺した。

・紀元前206年 10. 秦王,子嬰は劉邦に降伏した。これにより秦は滅亡した。

※秦が滅亡したのは、始皇帝,趙正が貪りの心を持っており、自身の知力を振るったものの功臣を信じなかったからだとも考えられる(賈誼「過秦論」)。

※滅亡後の秦は批判の対象であったため、誼の語った正の像は歪められているとも考えられる(渡邉義浩『「中国」は、いかにして統一されたか』)。

〔要参考〕邦は、この年に自身が「天子」となったことを述懐している(『漢書』高帝本紀 下)。

・紀元前206年 劉邦は「漢王」を称した。(『漢書』高帝本紀)

・紀元前203年 南海郡の官僚だった趙佗は独立して南越国を建国し、越南北部まで勢力を拡大した。

※これは秦滅亡の混乱に乗じたものであった。南越国には、東南アジア熱帯雨林原産の竜脳や、アフリカの象牙がもたらされており、なんらかのネットワークが形成されていたことが伺える(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・紀元前202年 劉邦は皇帝に即位した(高皇帝)。(『漢書』高祖本紀)

※邦は紀元前206年に「天子」および「漢王」となり、そして紀元前202年に「皇帝」になったのである。つまり、「天子」は「王」でも「皇帝」でもありえるのであって、「皇帝」と同質の君主号ではない(佐川英治「皇帝が「天子」を称するとき」『君主号と歴史世界』)。

※漢の時代、「国家」を意味する「邦」は、皇帝の諱を避けて「国」と呼び変えられた(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』)。

・紀元前202年 7. 燕王,臧荼は漢に反乱を起こした。

・紀元前202年 9. 漢の高皇帝,劉邦は自ら出陣し、燕王,臧荼を捕らえた。邦は次の燕王として盧綰を任じた。

・紀元前202年 ローマはカルタゴと交戦した(ザマの戦い)。

・紀元前201年 カルタゴはローマに降伏した。カルタゴは50年払いの賠償金を課せられ、海外領土の放棄と軍備の制限を強いられた。

※賠償金を課せられたカルタゴであったが、商業による富を多く持っていたカルタゴは容易に返済した。このことは、カルタゴは滅ぼすべき脅威であるとローマに認識させるものであった(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・紀元前201年 8. 匈奴冒頓単于は韓王,韓信の治める馬邑を包囲した。韓信匈奴との和平のために動いたが、それが高皇帝,劉邦に疑念を抱かせ、邦より信を責める書簡が届いた。

・紀元前201年 9. 漢からの謀殺を恐れた韓王,韓信は、匈奴に降伏した。

・紀元前200年 10. 漢の高皇帝,劉邦は、自ら兵を率いて韓王,韓信を攻めた。信は敗れて匈奴のもとに逃れた。漢軍はそのまま晋陽に出陣し、匈奴を攻撃した。しかし深追いして北に向かうと、凍傷になり指が使えなくなる兵が出てきた。

・紀元前200年 漢の皇帝,劉邦は自ら出陣し、匈奴を攻撃するが、白登において、匈奴軍の伏兵に包囲された。漢軍は補給を絶たれ、飢えに苦しんだ。漢の臣,陳平は、冒頓単于の妻,閼氏に賄賂を送った。閼氏は夫に対して、漢との戦争に苦言を呈した。冒頓は韓王,韓信の配下の将軍が遅いことから、漢との内通を疑い、妻からの進言も鑑みて、兵を少し引かせた。その隙に漢軍は包囲を抜けた。漢の援軍も到着したため、戦争は中断した。

・紀元前200年 匈奴と和議を結ぶにあたって、漢の臣,劉敬は、皇帝の娘(公主)に持参金を持たせて、冒頓単于に差し出すことを提案した。敬は実の娘を差し出さなければ効果がないと説いたが、皇后,呂雉は、匈奴に娘を差し出すことに反対した。

※邦と雉の間にいる娘は、魯元公主1人である。既に彼女は趙王,張敖に嫁いでいたと考えられ、そうであれば離婚させて嫁がせることを容認したようである。匈奴に嫁いだ娘が子供を産み、将来的に単于になれば、その孫は思い通りに出来ると、邦は考えたと思われる(林俊雄「劉邦」『アジア人物史)。

紀元前349~300年

・紀元前3世紀半ば このころ、サルマタイという勢力に圧迫され衰退していたスキュタイ勢力は、完全に解体したと思われる。

※文献がないため、解体に至る経緯は不明である。サルマタイは南ラスィーヤ高原を支配した。遺跡や遺物からして、スキュタイに似た国家構造を形成していたと考えられる(杉山正明遊牧民から見た世界史』)。

紀元前347年 プラトンは死去し、彼の甥,スペウシッポスが新たなアカデメイアの学頭になった。

・紀元前347年 アリストテレスアカデメイアを離れてアッソスに赴いた。

※スペウシッポスが学頭になったことと、アリストテレスアテナイを離れたことに関連性があるかは不明である。アリストテレスは当時30代であり、少なくともアカデメイアを継承することは想定されていなかったと思われる。アッソスに滞在中とその後数年、彼は動物の研究を行った。プラトンは人間との比較として動物を考察したが、アリストテレスは動物そのものを研究しており、深い関心が伺える(山口義久アリストテレス入門』)。

・紀元前343年 マケドニア君主,ピリッポスはアリストテレスを招き、自身の子息,アレクサンドロスの家庭教師にした。

・紀元前339年 アルゲアス朝君主,ピリッポスⅡはスキュタイと戦い、その君主,アタイアスを敗死させた。(ストラボン『地理誌』)

・紀元前338年 秦の王として、趙駟が即位した(恵王/恵文王)。

※駟が王の時代、秦は対立していた北方の義渠の、25の城を奪ったという。

・紀元前338年 アルゲアス朝マケドニアは、アテナイとテーバイの連合軍をカイロネイアの戦いにて破った。

・紀元前337年 アルゲアス朝君主,ピリッポスⅡはギリシア諸ポリスの代表者をコリントスに集め、ヘラス同盟を結成しその盟主となった。

※彼はその同盟を率いて、ハカーマニシュ朝ペルシアを攻撃することを考えていた(本村凌二 中村るい『古代地中海世界の歴史』)。

・紀元前335年 アリストテレスはリュケイオンに学園を開いた。

・紀元前334年 斉と魏は、互いの君主が王を名乗ることを承認した。

華北の諸侯が王号を使用するようになり、周王は諸王の中の1人となってその権勢は衰えた(渡辺信一郎『中華の成立』)。

・紀元前333年 アルゲアス朝君主,アレクサンドロスⅢは、マケドニアギリシアの連合軍4万を率いて小アジアに渡り、ハカーマニシュ朝ペルシアと交戦し、ダレイオスⅢを敗走させた。

・紀元前330年 マケドニアに攻め込まれ、ハカーマニシュ朝は滅んだ。

※ハカーマニシュ朝がかつて築いた、「王の道」を逆に利用される形で攻め込まれたのである(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・紀元前322年 趙において、趙雍が即位した(武霊王)。

〔参考〕雍は配下の兵士に胡服を着させ、騎乗したまま弓を射る技術を習わせたという。蔑んでいた異民族の服装は、政権内に反対する者もいた。しかし雍は改革を断行し、中山国を併合することに成功したとされる(『史記』)。

※趙は「中国」でも強国だったが、それでも遊牧の夷狄に対抗するには、その模倣をするしかなかった(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

※騎馬戦術を導入した趙は強国となった。すると趙と敵対する国も騎兵を採用するようになった。中原諸国の戦争は激化し、「中国」の統一を促した(杉山正明遊牧民から見た世界史』)。

・紀元前320年 ChandraguptaはMaurya朝を興した。

※Chandraguptaは明確な出自が不明であり、brāhmaṇa階級からもKṣatriyaとは認められていなかった。しかし、Alexandros Ⅲが侵攻した後のIndusの混乱期において、強大な王権こそが戦乱を平定することを示すこととなった。Maurya朝の勃興以降、Indusの王権は強化された(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・紀元前319年頃 孟軻(孟子)は魏の恵王,姫罃に面会した。

※戦国時代以降、竹簡や帛に文字を書くことが多くなった。それらの文字からは、統一された筆記体が次第に形成されていったことが窺える。共通した文字が用いられたことで、多くの思想家が諸国を遊説しながら自説を伝え、それを他者が記録することが可能になったとも考えられる(伊藤道治『古代中国』はじめに)。

・紀元前317年頃 孟軻(孟子)は斉の宣王,嬀辟彊と面会し、客卿となった。

・紀元前312年 Romaは市民を総動員して、カプアとの間にアッピア街道を建設する。

・紀元前307年 秦にて趙渠梁が王として即位した(昭王/昭襄王)。渠梁は幼く、その母宣太后が摂政として政治を行った。

〔参考〕宣太后は義渠の王と密通して2人の子を儲けたが、後にその王を誘い出して殺害したという。

※義渠の王を殺害するための策謀とすれば、悠長なものである。実際は、成長した渠梁が母の密通に気付き、異父弟という競合者の出現を防ぐために、母の名を騙っておびき出し、殺害したとも推測される(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

西戎の変種とも見なされた秦であったが、義渠の領地を併合したことで版図を拡大し、大国となった(杉山正明遊牧民から見た世界史 増補版』)

・紀元前305年 セレウコスⅠは、アレクサンドロスⅢの東方領土の獲得を目指し、マウリヤ朝君主チャンドラグプタと争うも敗れ、講和した。セレウコス朝は戦象500頭を貰い、マウリヤ朝インダス川西方を獲得した。

紀元前400~350年

・紀元前399年 アニュトス、メレトス、リュコンの3人は、国家の認める神を認めず、ダイモーンの祭りを導入して若者を堕落させているという罪状で、ソクラテスを告発した。(『ソクラテスの弁明』)

・紀元前399年 裁判の結果、ソクラテスは死刑判決を受けた。(『ソクラテスの弁明』)

ペロポネソス戦争において、敗戦の責任を問われたのはアルキビアデスであるが、既に死去していたため、師匠のソクラテスが理由を付けられて裁判にかけられたのだと思われる。また、30人政権を担った人物にはソクラテスのかつての弟子もおり、その政権下での混乱の責任も暗に問われたのである。ソクラテスは表向きの告発理由と、裏向きの告発理由に対して、同時に弁明することになった(木田元『反哲学史』)。

・紀元前399年 ソクラテスは友人のクリトンから脱獄を勧められたが、それを拒否して(『クリトン』)、判決の通りに毒を飲んで死亡した。(『パイドン』)

ソクラテスは最期に友人に対して、雄鶏を供えることを頼んだ(『パイドン』)ことから、思弁的な営みと神々に供物を捧げる敬虔さが両立していたとが分析される(ゲオルク ヘーゲル哲学史講義』1820年自筆原稿)。

ソクラテスの弟子,プラトンは、公共のこと(政治)の実践に熱意を持っていたが、師の刑死に衝撃を受けた。政治の混乱に目眩を覚え(『第七書簡』325E)、実際の政治からは遠ざかった。しかし、政治への関心は持ち続け、人々が共に善く生きられる方法の思索を続けることにした(納富信留プラトンとの哲学』)。

・紀元前388~387年 PlátōnはAkadēmeíāに学園を開設した。

〔参考〕Aristoxenusの『Ἁrmοniιkōn stοixeiōn(harmonia原論)』には、Plátōnが「善について」という講義を行ったという逸話がある。人々は幸福になるための理論が聞けると思って集まったが、Plátōnは数学の話しか行わず、「善は一である」と結論づけ、それを聞いた人は、怒って帰ったという。

〔参考〕Athếnaiosの『Deipnosοphistai(食卓の賢人たち)』は、Akadēmeíāの体育場にて、Plátōnを風刺して、彼が弟子たちと南瓜を定義しようと議論している姿を描いた。

※逸話から分かるように、Plátōnは、ほとんど自らの教説を述べる講義を行わず、学生たちと対話を哲学の基本としていた。1人の人間は、真理よりも尊重してはならない(『Politia』10巻595C)として、権威を退けて自由な思索を行う場所であった(納富信留プラトンとの哲学』)。

〔参考〕Korinthosの農民Νhrinthοsは、Plátōnの対話篇『Gorgias』を読んで、畑を捨ててAkadēmeíāに入門したという。(Themistius『弁論集』23)

※Plátōnの著作である対話篇は、彼の存命中から流布していたのである。一部の対話篇は、Akadēmeíāにおいて議論するためのテクストであったと推測される(納富信留プラトンとの哲学』)。

※対話篇『Gorgias』では、弁論家とSōkrátēs の対話が題材となる。Gorgiasは、弁論術とは正と不正の知識を持たずして人を説得する術であると主張する。説得により人々を支配し、欲望を満たすことができるというのである。Sōkrátēs は、人々が本当に求めているものが「善いこと」である場合、弁論術は「善いと思えること」を実現できるとしても、それが本当に「善いこと」であることを見極める知を持っていないと主張した。SōkrátēsにGorgiasが論駁されると、その弟子,ポロスとSōkrátēsとの対話が開始する。Sōkrátēsが、弁論術には人を善くする力はなく、旦に相手を快くするだけの迎合であると主張し、ポロスを論駁した。すると今度はカリクレスがソクラテスに対し、哲学に必要以上に従事すると、堕落してしまうのだと述べた(484C)。カリクレスは、正しく生きようとするものは、自身の欲望をその都度開放するべきだと述べる(491E~492A)。Sōkrátēsとカリクレスの対話は、生の選択に関する対話であったといえる(納富信留プラトンとの哲学』)。

〔参考〕プレイウスの女性アクシオテアは、男女平等論を説く『Politia』を読んで、アカデメイアに入門したという。(テミスティオス『弁論集』295)

※PlátōnはSōkrátēsが「Xとは何であるか」と提示した問いに対して、「当のX」をXそのものであるところの「イデア」であると答えた。彼はイデアを不変不動永遠の実在だと考えた。人間は地上に産まれる前にイデアを知っているが、産まれた後には忘却してしまうのだという。魂はかつて知っていたイデアに対して憧れを持っている。そうした憧憬(eros)を原動力として、様々な美の根底にある美そのものを認識しようとするのだという。そのため、知の探究とは真の実在であるイデアを思い出そうとする行為だとされる。探求の対象となるイデアに真実性や存在そのものを与えるものとしては「善のイデア」が提示される。全てのイデアの頂点にあり、実在の彼方に超越しているという善のイデアは途方もなく美しいのだという(桑原直己『哲学理論の歴史』第1章)。

※集団で生活する人間は、互いの欠落を補うために生産物を交換し、その営みにより国家が構成されると説明される。国家が成立すると、それを運営するのに優れた「守護者」が必要となる。その「守護者」をどのように選定し、育てるかが重要だと述べられる。守護者は階級や社会的性別を問わず、資質によってのみ選ばれるとする(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

※国家の守護者として最適だとPlátōnが考えたのは、国家の利益になることを全力で行う熱意があり、利益にならないことを一切しない人間である(『Politia』412D)。守護者は欲望と快楽に惑わされない正義の体現者であり、自分と国家のものを区別してはならず、財産や固有の住居、そして家族を持ってはいけないのだという。子供を儲けても構わないが、産まれた子供は国家全体の子として扱われる。人が公共的であるためには、家族を否定すべきというのである(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・紀元前387年 プラトンシラクサを訪れ、そこで僭主,ディオニュシオスⅠの義弟,ディオンと知り合った。

・紀元前379年 秦において蒲・藍田・善明氏が県となった(『史記』秦始皇本紀)

・紀元前376年 晋公は三晋に滅ぼされた。

・紀元前375年 秦において戸籍制度が施行された。(『史記』秦始皇本紀)

*戸籍は郷・里を単位として、血縁ではなく居住地によって区分された。戸籍を編製する戸は租税・徭役・兵役についての情報を管理し、国家にたいする義務を果たさせることを目的としていた(渡辺信一郎『中華の成立』)。

・紀元前374年 秦の櫟陽城に県が設置された。

*魏との戦争において、その城は前線基地であった。戸籍によって百姓と小農の編成もまた、対魏戦争を見込んでのものだと考えられる(渡辺信一郎『中華の成立』)。

・紀元前367年 シラクサの僭主,ディオニュシオスⅠは死去し、子息のデュオニュシオスⅡが跡を継いだ。

・紀元前367年 このころ、プラトンの学園アカデメイアに、スタゲイラ出身のアリストテレスが入門した。

ギリシア東北部から、遠いアテナイアカデメイアを訪れたのは、コリントスのネリントスのように、プラトンの著作に感銘を受けたのではないかと考えられる(山口義久アリストテレス入門』)。

・紀元前367年 シラクサの僭主,デュオニュシオスⅡはプラトンの哲学に関心を持っており、直接教えを受けることを望んだ。そのためディオンはプラトンシラクサに招くことにした。

プラトンは、シラクサの人々は最善の法律に従った生活を送る、自由人であるべきと考えた(『第七書簡』324B)。シチリア島最大のポリスであるシラクサの君主を哲学により説得すれば、一人ひとりが善き生を送るという政治を実現できると考えたのである(納富信留プラトンとの哲学』)。

ディオニュシオスⅡは、哲学を身につけているという評判が欲しいためにプラトンを招いて教えを受けたのであり、熱意や資質がないことを、プラトンは理解した。ただ、デュオニュシオスⅡはプラトンへの敬意を払っていた(納富信留プラトンとの哲学』)。

・紀元前368年 周において、列王,姫喜の弟である扁が即位した(顕王)。

・紀元前3??年頃 周の顕王,姫扁の時代、『春秋左氏伝』が著されたと推測される(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

※「徳は以て中国を柔け、刑は以て四夷を威す」とあり、「中国」以外では徳は通じないため、野蛮人には刑を使うべきだという差別的な思想が見受けられる。外部の敵からの防衛と、外部への侵略という君主の立場により、東西を問わず文明と野蛮という区分が生まれた(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

※紀元前606年(宣公3年)の条には、王朝の徳によって重さが変化する鼎の逸話が記される。そして周の天命は700年であり、天命が改まるまでは鼎の軽重を問うべきではないとある。周の建国から700年後は『春秋左氏伝』が書かれてから遠い時代ではなく、作者は周がもうじき滅びると考えていたことが窺える(落合淳思『古代中国 説話と真相』)。

・紀元前365年 シチリアシラクサにおいて、ディオンが追放された。

・紀元前361年 プラトンシラクサを訪れた。

・紀元前357年 追放中のディオンは、シラクサを僭主の支配から解放して自由にするとして、シチリアに出航した。彼はプラトンにも参加を呼びかけたが、プラトンは高齢であることや、デュオニュシオスⅡへの恩義を理由に断った。ただ、アカデメイアの者たちには、ディオンへの協力を許可した。

・紀元前357年 ディオンはシラクサを占領した。

シチリアの戦闘で、ディオンの義勇軍に加わっていた、アカデメイアの門人,キュプロスのエウデモスは戦死した。アカデメイアは各々が理想の政治を追求する場所であり、彼のようにシチリアに関与した者もいた(納富信留プラトンとの哲学』)。

・紀元前356年 秦において公孫鞅は体制改革を行い、百姓による家族(世帯)を単位として、耕地・宅地・奴隷などとともに戸籍に記載することが決定した。

※こうした変法を経た戸籍をもとに軍役が課された。軍港を挙げた者は、爵位の授与や田宅地拡大の許可といった恩恵を受けた。それに対して、軍功のない公族は特権を失い、秦の政治構造は血縁による編成から軍事を中心とした編成に変容した(渡辺信一郎『中華の成立』)。

※軍功により得た爵位は、父が戦死した場合は同等のものが、病死などの場合は何等か下の爵位が子息に与えられた(二年律令369-371)。一方、敵から逃亡した場合は何歩逃げたのかによって罰(最も重いもので無期労役)が加えられた。功績があってはじめて報奨が与えられるという制度は、財政負担を減らすことができ、また罰則とともに兵士の士気を保つ工夫を担っていた(宮宅潔「軍事制度からみた帝国の誕生」『中華世界の盛衰』)。

※変法により、1世帯に男子が2人いる場合は、分家しないならば賦は2倍になると定められた。「賦」とは本来、兵役義務そのものを指していたが、兵役免除の代わりとして一般人から徴収する財物のことも指すようになった。鞅は1世帯(戸)に男子は1人という原則のもと、軍事費(戸賦)を各々の世帯に求めたと考えられる。こうした戸賦は大庶長のような高い爵位を持つ者であっても免除されるものではなかった。また、成人の基準は身長であったため、戸籍から漏れて年齢が不明の人間であっても従軍させることが可能であった(宮宅潔「軍事制度からみた帝国の誕生」『中華世界の盛衰』)。

・紀元前353年 魏の恵公,魏罃は趙の邯鄲を攻めていたが、背後から斉に攻められて敗北した。

※この桂陵の戦いの敗北により、魏は衰退していった(渡邉義浩『「中国」は、いかにして統一されたか』)。

・紀元前353年 シラクサにてディオンは暗殺された。

※ディオンを新たな独裁者と見なし、危険視する人々がいたのである。暗殺を主動したのは、かつてアカデメイアにいたカリッポス兄弟であった。プラトンはカリッポス兄弟の行動は無知故のものであり、彼らに友愛がなかったと書簡(『第七書簡』)で述べた(納富信留プラトンとの哲学』)。

・紀元前352年 プラトンはディオン一派に書簡を送った。(『第七書簡』)

プラトンは書簡において、書物として書かれる哲学への不信感を表明している(桑原直己『哲学理論の歴史』)。